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山の下(解説含む)

2016-06-26 20:34:49 | 日記
<マタイによる福音書第17章>
(17・14―21)山の下
(14)さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、
(15)「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。
(16)それで、その子をお弟子さんたちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。
(17)イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢できようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい。
(18)イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出ていった。そして子はその時いやされた。
(19)それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
(20)するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
(21)〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・高山の上でイエスの姿が変わっていたと同じ時刻に、山の下で弟子たちは、てんかんの子供の親からいやしを求められ、困っていた。ちょうどそこへおりて来られたイエスは、弟子たちと群衆の中にただよう不信仰の空気にふれて嘆息された。
・15 《主よ》イエスに対する信仰告白的な意味でなく、「先生」というくらいの意味である。《てんかん》はユダヤに多い地方病の一つであった。悪霊のしわざであると考えられていた(18節)。
・16 弟子たちは無能であったから、イエスの来ることを切望していた。マルコによる福音書では父親はイエスに「できますれば」(9・22)と言い、弟子たちの失敗で、イエスの能力を疑っている。
・17 《不信仰な、曲った時代であろう》弟子の無能力、父親の疑い、群衆の冷淡、どちらをこの場の局面を打開する明るい希望は見いだせない。その時《その子をここに、わたしのところに連れてきなさい》とイエスは言われた。この言葉の中に最後の、しかも最初の希望が展開する。
・18 《おしかりになる》病の根源と考えられていた悪霊に対して、19、20節は、信仰は病のいやしによって欠くことのできない人間の条件であることを教えられた。信仰の力のみが山を移すとは限らないが、原子力や機械力は人間の問題を解決する最後の力と権利をもっていない。《からし種》13・31参照。
・21 この節は元の本文にはなかったが、マルコから取り入れたものであろう(9・29)。マルコは祈りだけしか記してないが、マタイは「断食」を加えた。山を移す信仰は、常に上より受け取らなければならないのである。

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