多くの人は
まだまだ能力があるのに
能力の引き出し方を知らないで、
病気になるとか、
充分に
生きることの喜びを見出せないみたいである。
そもそも
健康の源泉も
喜びの源泉も
全部自分の内にあるということだ。
超越内在の神が
自分の「本当の自分」であって、
それを探り出して
それと一体になれば良いだけの話である。
問題はその本当の自分とどのようにして
一体化できるかである。
イエス・キリストは
「わが名を信ぜよ」と
ヨハネ伝の中で
何か所も言っているのである。
我が名とは
イエスの人格のことであり、
イエスが「神の言」(ロゴス)であるということだ。
またイエスは「我が肉を食らうべし」と言い、
キリスト教会は聖餐式と言って
パン一切れを食べ、ぶどう酒を一口飲む儀式をする。
キリストの肉と血に見立てているのである。
だが本当をいえばキリストが「我が肉を食らえ」と云うのは、
神の国・神の子であるロゴスそのものがキリストであるのだから、
キリストを食らうということは
人間が神の言(ロゴス)という事実を
呑み込んでしまえ、
そのことを「信」ぜよということなのである。
「その名を信ぜし者には神の子となる権を与え給えり」と
キリストが言っているように
ロゴスキリストを食らう者は、
神の子を実現することが可能となるのである。
つまり「信」が決め手となる。
まだまだ能力があるのに
能力の引き出し方を知らないで、
病気になるとか、
充分に
生きることの喜びを見出せないみたいである。
そもそも
健康の源泉も
喜びの源泉も
全部自分の内にあるということだ。
超越内在の神が
自分の「本当の自分」であって、
それを探り出して
それと一体になれば良いだけの話である。
問題はその本当の自分とどのようにして
一体化できるかである。
イエス・キリストは
「わが名を信ぜよ」と
ヨハネ伝の中で
何か所も言っているのである。
我が名とは
イエスの人格のことであり、
イエスが「神の言」(ロゴス)であるということだ。
またイエスは「我が肉を食らうべし」と言い、
キリスト教会は聖餐式と言って
パン一切れを食べ、ぶどう酒を一口飲む儀式をする。
キリストの肉と血に見立てているのである。
だが本当をいえばキリストが「我が肉を食らえ」と云うのは、
神の国・神の子であるロゴスそのものがキリストであるのだから、
キリストを食らうということは
人間が神の言(ロゴス)という事実を
呑み込んでしまえ、
そのことを「信」ぜよということなのである。
「その名を信ぜし者には神の子となる権を与え給えり」と
キリストが言っているように
ロゴスキリストを食らう者は、
神の子を実現することが可能となるのである。
つまり「信」が決め手となる。