日本記念日協会に登録されている4月14日の記念日に「柔道整復の日」がある。
「柔道整復」が東洋医学に基づく医療として広く認識してもらうことを目的に、NPO法人・全国柔整鍼灸協会(※1)が制定したもの。日付は1970(昭和45)年4月14日に「柔道整復師法」(通称「柔整法」)が公布されたことからだそうだ。
この「柔道整復師法」(昭和45年4月14日法律第19号。条文はここ参照)は、柔道整復師全般の職務・資格などに関して規定した法律であり、1970(昭和45)年7月10日に施行された。1964(昭和39)年には「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」という名称で交付されていたものが、1970(昭和45)年に単独法として成立したものである。
ところで、皆さんはこの「柔道整復師」という名称を知っていましたか?
“私の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立寄って、どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。・・・”
上掲の文は太宰治の小説『花吹雪』(※2:青空文庫参照)からの引用である。この作品にはさらに、
“男子の一生は戦場です。諸君が、どのような仕事をなさるにしても、腕に覚えがなくては かなわぬ。何がおかしい。私は、真面目に言っているのです。腕力の弱い男子は、永遠 に世の敗北者です。”
“男はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。”
“明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも<ahref= http://dictionary.goo.ne.jp/jn/233205/meaning/m0u/ >凜乎(りんこ)たる気韻(きいん)がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。(まさか、という声あり。)いや、記録にちゃんと残っています。くんづほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・とある。
男の腕力の重要性、そして体を鍛えることの必要性等が語られているが、太宰は、生涯疎外意識に悩まされ、多くの作品の中で疎外者、弱者を描き出している。
この文中の「産業戦士」とは、戦時下、労働者を戦争を支える存在として使った言葉だが、太宰は、ここで「産業戦士」を戦時下の時代が求めていた“健康で力持ちの象徴”として描写している。戦時下は強制的に国民の同質化が行われ、戦時体制に適合するにふさわしい人的資源だけが優遇されるが、その反面、多くの疎外者を生み出した時期でもあった。
因みに、戦時下に、うたわれていた「産業戦士の歌」(作詞:大日本産業報告会、作曲:林伊佐緒)の歌詞は→ここで、また、少々雑音が入っているがレコードは以下で聞ける。
産業戦士の歌 小野巡 服部富子 鬼俊英 中村柾子 – YouTube
少々、回り道をしてしまったが,太宰の『花吹雪』じゃないが、私の家の近所にも接骨院があって、私も子供のころはやんちゃ坊主だったもので、足の捻挫や骨折などで整骨院にはよく通ったものだが、そこの先生も柔道をやっていた人だったが、当時整骨院の先生といえば柔道をやっていた人が多かったような気がする。
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開き、「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれている嘉納治五郎)も、まさに、太宰の『花吹雪』にある“いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・に該当する人物だと思うのだが、この嘉納が柔道を始めたきっかけが柔道整復師(接骨院)にあったというから面白い。
治五郎は1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国莵原郡御影村(わが地元、現:兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれた。
その前年には安政の大獄がおこり、続いて桜田門外の変が勃発。300年続いた武家政治が倒幕運動により終焉を迎え新しい時代(明治)が始まろうとする激動の時代であった。
治五郎が生まれた摂津御影は日本有数の清酒業地(現在でいう「灘五郷」の一つ)で、実家の嘉納家 も代々酒造業を営んでいた(「菊正宗」も「白鶴」も嘉納本家や分家白嘉納家から誕生したもの)。
祖父の次作は当時酒造・廻船にて各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されていた(婿入りした)のが父次郎作であった。
初め祖父の治作は治朗作に家を継がせようとしていたが、治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行い、大阪に出て幕府の廻船方御用達を勤め, 同時に, 1862年(文久2年)勝海舟のもとで和田岬砲台や西宮の砲台などの築造工事を請け負っており、また ,1867年(慶応3年)10月には,出願によって幕府所有の汽船長鯨丸,奇捷丸,太平丸などを託され、江戸―神戸―大坂間の定期航路を開き、これがわが国の洋式船による定期航路の端緒となるなど、大いに活躍をしている。
幼少の頃から英才教育を受けていた治五郎は、1870年(明治3年)、明治政府に招聘(しょうへい)された父に付いて上京し14歳の時芝の烏森町(現:新橋2丁目)にあったという育英義塾(のちの育英高校)に入塾後オランダ人やドイツ人の教師から英語、ドイツ語などを学んだ後、1875年(明治8年)16歳の時官立東京開成学校)に進学。開成学校は1877年(明治10年)に東京大学となり、同大学文学部1年に編入された嘉納は政治学、理財学および哲学を専攻。1881年(明治14年)、政治学、理財学は卒業して残り、1年を道義学と審美学を学ぶ為に哲学選科に入り、1882年(明治15年)7月東大文学部を卒業したという(※3)。
この嘉納治五郎が、柔術をやろうと思い立ったのは、育英義塾・開成学校時代のことだそうで、その動機について、後年彼は次のように書いているそうだ。
「(自分は)学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈(ばっこ)して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた」。
そのため、他の塾生から軽んじられたことを悔しく思っていた治五郎は、
「日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)。・・・といっているそうだ。
したがって、治五郎が、柔術を始めたのは、決して日本の伝統的な武道が廃れていくのを嘆き、その復興を図ってなどという高邁な理想から出発したわけではなく、あくまで、「強くなりたい」という、当時の男子なら誰もが一度は抱く素朴な願望が、柔術を習おうという動機であったようだ(※4、※5:「柔道チャンネル」の柔道お役立ち情報>柔道整復師情報を参照)。
しかし、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり, 在来の剣術や柔術は衰退し、全く省みられなくなっており、師匠を探すのにも苦労したが, 当時柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、あるとき、日本橋の人形町通りの整骨師で、昔天神真楊流の柔術を修めた八木貞之助(磯 正足の弟子)を介して、同門の幕府講武所師範をもしていた福田八之助道場を紹介してもらい念願の柔術入門を果たしたという。
熱心に道場に通って稽古をしていた治五郎は、福田が52歳で死んだ後は、天神真楊流の家元(三代目)磯正智(本名:松永清左衛門)道場に学ぶ。
上達に伴い関心も広がり幕府講武所教授起倒流飯久保恒年師に師事した。柔術を通して強さを身に付けた治五郎は、やがて、柔術二流派の技術を取捨選択し、「崩し」の理論などを確立して独自の「柔道」へとさらに発展させていったのである。柔道の基本「崩し」、興味のある人は以下参照。
崩し解説 日本視覚障害者柔道連盟 選手強化合宿
そして、治五郎が、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)に、「柔道を講ずる館」として講道館を設立したのは、翌・1882年(明治15年)のことであった。福田八之助のもとで天神真楊流柔術を習い始めたのが、18歳のころ(1877年明治10年)だというから、柔術を始めてたった5年で、柔術を改良した柔道場「講道館」を設立したのだから、治五郎は文武両道の天才少年だったのだろう。そして、「柔道」という武術を高い精神性をもったスポーツにまで高めたのだから立派である。
私もあまり耳にしなかった言葉「柔道整復師」は、その名の通り「柔道」から派生したものである。
“戦国時代の武道の書物には「殺法」、「活法」に関する記述があるが…として、”殺法は武技そのもので、柔術でいうところの、当身技、投技、絞技、関節技、固技はすべて殺法に属する。活法は、傷ついた者の治療法、手当てであり、骨折、脱臼、打撲、捻挫などの外傷を治すもので、出血、仮死者に対する蘇生法なども含まれている“・・などと書かれている(例:※6の柔道整復師の今昔のところ参照)が、古い武道の書物には「殺法」、「活法」などは出てこず、このような記述が書物に出てくるのは明治以降のことでありこれは誤記であるという説がある(※7参照)。
詳しいことは参考の※7を見てもらうとして、1894年(明治27年)東京神田区の弘文堂から守永兵治が出版した『日本柔術活法詳解』では、
日本の伝統武術である柔術に伝わる仮死者に対する蘇生法として「活法」を詳解しておるつもりであるが、第九章「結論」に至りて「生理解剖の学理実際に通熟したる者に非ずんば之を悟了(すっかり悟ること)する難しとす」とある。またこの活法を習得するにあたっては比較解剖学(コンペラティブアナトミー)を勉強しなければならないと説く。最早柔術ではない。また、第八章「殺法」に於いては「殺法又曰く當身之法」とある。・・・そうだ。
活法とは水難での溺者や、高所からの落下者が仮死状態に陥った際に施される蘇生法で、傷ついた者に対する治療や手当は医法が施され、活法は仮死者に対してのみ施された。すなわち、活法を治療法とすることには医学の範囲的に無理がある。仮死者を復活させた方法だから、復活法という意味で活法と称したとも考えられるという。また、武道書の中で「殺法」が出てくるのは、この当身術だけである。
1893年(明治26年)出版『天神眞楊流柔術極意教授図解』(吉田千春, 磯又右衛門 著※8)を見ると、
「背活法 死者の後に図の如くかまえ、両手にて肩を持ち我が膝節にて死者の背中を二三度うち、水を与えて大声にて呼ぶと同時に中をたたくと蘇生す不思議なり。」・・・とあり、これを読むと「活を入れる」というのは「喝を入れる」という言葉の方が本来である。
同時に「殺法」に対しての「活法」なのではなく、仮死者を復活させるための法である意味で「活法」と命名されたのがわかるという。
そもそも「活法」「殺法」という言葉は、古来日本には見受けられない言葉であり、武に対しての医という相関図ではなく、これを伝承した者の誤解であったと推察される。
明治以降の柔術書籍には、ほぼ「活法」に対して、当て身技の急所図解としての「殺法」 が記載され、二極的発想から生み出された現代語である事もわかった。「殺」という語は我が国民性が敬遠する語であり、古典では、殺す法をあえて「兵法」と呼んでいた。・・と結論付けている。
1882年(明治15年)、嘉納治五郎が講道館を設立すると、多くの柔術道場は講道館を目の敵にし、自分の道場の有効性や有能性を宣伝しなければならなくなった。ここに、柔術界の医学的伝承論における講道館設立以前と以降に違いが出ている。設立以前には「殺法」「活法」など無かったはずなのに、設立以降には出現するようになる。・・といっているが、それまでの、武芸者が柔術、柔道の道場を構えるようになって以降、道場生の怪我を治せる技術があることが道場主に必要な要素となっていたのだろう。
明治維新後の西洋万能の風潮の中、1881年(明治14年)の漢方医学廃止によってそれまでの接骨術が顧みられなくなった。これに対して1912年(明治45年)、柔道家・柔術家の職業として認められるよう柔術家(嘉納 治五郎と繋がりの深い天神真楊流の門人が中心)を中心に運動が起こり、1920年(大正9年)の内務省令によって「あんま術営業取締規則」を準用するという形ではあるが「柔道整復術」として公認された(※9参照)。その際の資格では、「柔道の教授をなす者」が打撲、捻挫、脱臼、骨折に対して柔道整復術を行えるとなっていた。つまり、この技術をもつ者は柔道整復師として認定され柔道家、柔術家の収入源となったのである。
1970年(昭和45年)「あんま、はり灸柔道整復師法」(法217号)から「柔道整復師法」として単独法となった。しかし、内容的には、一部罰則等に変更はあったものの、法217号から単純に柔道整復師を分離したのみであった。業務内容の法的規制は、1920年(大正9年)当時のものがそのままとなっているが、柔道家のための柔道整復術という面はだいぶ後退し、従来、学校に入学しようとする者に求められていた「柔道の相当の実力」は、「柔道の素養」となったようだ。
以降法改正により、現在「柔道整復」は、厚生労働省の業務独占資格となる国家資格のひとつとなっており、厚生労働省ではこれを、医業類似行為として扱っており、医療法に基づく医療行為ではないことには留意を要する。
今、「柔道整復術」は、骨・関節・筋・腱・靭帯などの原因によって発生する骨折・脱臼・捻挫・挫傷・打撲などの損傷に対し手術をしない「非観血的療法」という独特の手技によって整復や固定を行い人間の持つ自然治癒能力を最大限に発揮させる治療術。日本独自の治療技術とされているが、WHO(世界保健機構)の『伝統医療と相補・代替医療に関する報告』では、日本の伝統医療、民間療法として柔道セラピーという名称のみ紹介されているが具体的な内容の記述はないようだ。
「柔道セラピー」を行う施設といえば今どんなところがあるのだろうか。
「犬も歩けば棒に当たる」ではないが、今、町を歩けば、接骨院、整骨院、整体、整形外科などの施術所や診療所、医院,などにぶち当たると言っていいほで乱立している。
昔からある あん摩マッサージ指圧師、はり師、灸(きゅう)師などの鍼灸院なども含めて、いったい正式には、どのような違いがあるのかよくわからない人も多いのではないだろうか。
少子・高齢化時代の今の日本の社会では、私の住んでいる町にも高齢者が溢れかえっているが、高齢者は、いろんな病を持っている。中でも、足腰の悪い人が非常に多く、家人なども週に何日かはリハビリに通っているが、どこも大盛況のようだ。
結論から言えば、接骨院も整骨院も同じで「柔道整復師」に基づく国家資格で按摩、マッサージ、指圧などの施術を行っているそうだ。
いわゆる骨を接ぐと書いて 「ほねつぎ」 の接骨院。柔道整復師の 「整」の字をとって整骨院を名乗っているようだ。厚生労働大臣認可の専門学校や大学で専門知識を身につけ、卒業時に財団法人 柔道整復研修試験財団(※10)が行う国家試験の受験資格が与えられ合格することによって、厚生省から「柔道整復師」の資格が与えられている。
では、整体院というのはどうなのだろう?
整体とは日本語では主に手技を用いた民間療法、代替医療を指し、日本語としては、大正時代に用いられるようになった用語で、アメリカで誕生したカイロプラクティック・オステオパシー・スポンディロセラピー(スポンディロ、英:Spondylo=「脊髄」と、 セラピー英:therapy=「療術=療法=治療」※11 、※12 ;日本武道医学会のここ参照)などを日本古来の武術柔術>の「活法」(広義には、殺法に対して存在する法すべてを指す。狭義においては、柔術[古武術]の裏技として継承されてきた医術のことを指す(※13参照)や骨法などの流派に伝わる手技療法と組み合わせ、「整体」や「指圧」と名付けたのが始まりのようであり、現在の日本で俗に用いられる整体という用語は、手や足の力を用いてカイロプラクティック(脊椎指圧療法)に似た骨格の矯正(主に脊椎)を目的とした手技療法をさしているようだが、骨格を矯正し、筋肉や内臓など各部のバランスを整えて、本来の状態に戻すことを目的とした手技療法をさして使われることも多いようだ。これを、「整体術」・「整体法」・「整体療法」 とも呼ばれている。
ただ、各団体の独自の理論や思想などを加えた整体などが存在するともいわれており、整体に定まったやり方はなく、人によって理解・解釈は異なるようだ。
「柔道整復師法」や、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」に定められるものではないため、国家資格も不要であり、そのため、医療制度から見れば補完代替医療の一種であっても、保険適用外であるため、通常医療(一般的な病院で受けられる、いわゆる西洋医学を用いた医療)と共に病院で補助療法として用いられることはなく、法制度からは医業類似行為の一種とされているようだ。その代り、治療内容に制限はないようだ。それが、整体の他との違い(特徴)でもあり、短所でもあるようだ(詳しくは整体を参照)。
整体が、このように「整骨院」と同じように、日本古来の武術である柔術などを基本に発展してきたにもかかわらず、法的資格制度のある「柔道整復師」の柔道整復(接骨・整骨)とは区別されているのは統一基準のなさや組織力の弱さというべきか・・・。
それに対して、昔からある、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師などは、彼らの資質を向上し、もって医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする法律「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」(昭和22年12月20日法律第217号、通称:あはき法)に基づく国家資格をもって行っている。
また整形外科」は肢体の機能障害をおもな対象として,その病理,診断,予防,治療法を研究する外科学の一分科、つまり、正式な「医師」である。
臨床医学としては,骨,関節,筋肉,靭帯,腱,粘液包,筋膜,神経,血管,皮膚などの組織の疾患,たとえば,骨や関節の炎症,腫瘍,先天性の奇形、後天性の変形などの予防や治療,リハビリテーションなどを行っている。
医師と柔道整復師は全く違う。整形外科はレントゲン検査、手術、投薬を行うことができるが、柔道整復師にはこれらは出来ない。薬には使用の仕方によっては副作用があるし、レントゲンは放射線なので、生物にとって有害であり、浴びた放射線の線量に応じて何らかの放射線障害内科もあるので、患者を総合的に管理してくれているので、町では一番人気があり、家人もずっと、ここで診てもらっている。
その代り、ここは、毎日のように来ているお年寄りのサロン的存在になっており、朝早くから出かけても家に帰ってくるのは昼すぎてからである。15分ほどのリハビリは後期高齢者なら100円なので、年中休日の高齢者には気持ちもいいし暇つぶしにもなる良いサロンには違いないだろう。私もパソコンのやりすぎなどで首が吊ってしようがないのでしてもらったことがあるが、ウオーターベッドや首の牽引器など本当に気持ちが良い。100円でしてくれるのだから今でも毎日でも行きたいのだが、私はりサロン的雰囲気が嫌いなので行っていない。もし、空いているところがあれば行きたいものだ。しかし、こんな気持ちがいいというだけで行かれると健康保険料はパンクしてしまうだろうね~。腰が痛いとか、首がこるとか背中が痛いとかいうことは、本人がそう申告すれば、そうじゃない、痛いはずがない・・などという人はほとんどいないだろうから、だれでも、やってもらえることになる。
戦後、わが国の平均寿命は著しく伸長し、2001年には世界第1位の水準にる(台湾を独立国とすれば台湾に次いで2位となるが・・・※14、※15参照)。それに伴い超高齢化社会の到来により、今後増え続ける高齢者の中で介護が必要な人を社会全体で支えるため、2000年4月より介護保険制度が実施されている。その中で高齢者が日常生活を営むのに必要な機能の低下を防止するための訓練を指導する機能訓練指導員や介護サービス計画の作成や介護支援サービスを担当する介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得し、地域医療の中核を担う柔道整復師も増えていると聞く。
柔道整復を業とする職業は、、最も今の時代のニーズに合った職業と言えるかもしれないが・・・。私の知人の息子も最近、独立して、このような診療院を開業したと聞いている。
それでは、今、どれくらい、これらの業種があるのだろうか・・・?
厚生労働省の「平成22年衛生行政報告例(就業医療関係者)結果の概況」(平成 23 年7月12 日)(ここ参照)を見ると、
(1)就業あん摩マッサージ指圧師等数[()内は平成12年の人員]は、
就業あん摩マッサージ指圧師(以下「あん摩マッサージ指圧師」という。)は104,663 人(96 788)となっている(108,14%増)。
就業はり師(以下「はり師」という。)は92,421人(71 551)となっている(129,17%増)。
就業きゅう師(以下「きゅう師」という。)は90,664 人(70 146)となっている(129,25%増)。
就業柔道整復師(以下「柔道整復師」という。)は50,428 人(30 830)となっている(163,57%増)。
(2) あん摩、マッサージ及び指圧等を行う施術所数は、
「あん摩、マッサージ及び指圧を行う施術所」は19,983 か所となっている。
「はり及びきゅうを行う施術所」は21,065 か所となっている。
「あん摩、マッサージ及び指圧、はり並びにきゅうを行う施術所」は36,251 か所となっている。
「その他の施術所」は2,693 か所となっている。
「柔道整復の施術所」は37,997 か所となっている。
上記のように、いずれも120%以上の像であるが、中でも、「柔道整復師」は163,57%増と激増している。「柔整法」は昭和45 年、「あはき法」に至っては昭和22 年の制定だから、これだけ治療院が乱立してしまうことを予測していただろうか。今でも、「柔整法」受験希望者は非常に多いようだが、過当競争から、いろいろな問題も起こってきそうな感じがするのだが・・・(※16、17など参照)。
冒頭画像は、こどもや赤ちゃんのイラストわんパグより借用。
参考:
※1:NPO法人 全国柔整鍼灸協会
http://www.jusei.gr.jp/znpo/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.35(作家名: 太宰 治)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
※3:名著・快言紹介:嘉納治五郎 私の障害と柔道
http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser09_p01.html
※4:嘉納治五郎の柔術修行(1) ─ 強さへの抑え難き願望
http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/14b8704ec7c15e047941e95399d1c33b
※5:柔道チャンネル
http://www.judo-ch.jp/
※6:解説!柔道整復師―柔道整復師クラブ(JPC)
http://www.kojimachi-shiraishi.com/jpc/jusei/jusei.html
※7:活法殺法(柔道整復術の源)の歴史と医術武術の歴史
http://www.teikyo-jc.ac.jp/jyoho/periodical_pdf/journal2014/journal2014_141-147.pdf#search='%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3+%E6%AD%A6%E9%81%93%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%89%A9+%E3%80%8C%E6%AE%BA%E6%B3%95%E3%80%8D%E3%80%81%E3%80%8C%E6%B4%BB%E6%B3%95'
※8:近代デジタルライブラリー - 天神真楊流柔術極意教授図解
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860406/1
※9:柔道整復年 表
http://kaigo-net.com/htm/sinkyu/nenpyo.htm
※10:財団法人 柔道整復研修試験財団
http://www.zaijusei.com/
※11:現代語訳『脊髄反射的療法』(スポンディロセラピー)について
http://www.nihaku.com/contents/2016/11/post-30.php
※12 ;日本武道医学会
http://www.budoigaku.org/index.html
※13 :活法とは»活法とその歴史 - 活法研究会
http://kappolabo.jp/modules/content02/index.php?content_id=2
※14:世界の平均寿命ランキング(過去: 2001年) - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/ranking/old/wb_le00in_2001.html
※15:拡がる「平均寿命」と「健康寿命」の差を考える - GE Reports Japan
http://gereports.jp/post/129273309414/healthy-life
※16:無資格者によるあん摩マッサージ指圧業等の防止についてー厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/061115-1.html
※17:悪質な不正請求 詐欺事件 柔道整復師
http://blogs.yahoo.co.jp/motorboy39/32390863.html
公益社団法人日本柔道整復師会
http://www.shadan-nissei.or.jp/
「柔道整復」が東洋医学に基づく医療として広く認識してもらうことを目的に、NPO法人・全国柔整鍼灸協会(※1)が制定したもの。日付は1970(昭和45)年4月14日に「柔道整復師法」(通称「柔整法」)が公布されたことからだそうだ。
この「柔道整復師法」(昭和45年4月14日法律第19号。条文はここ参照)は、柔道整復師全般の職務・資格などに関して規定した法律であり、1970(昭和45)年7月10日に施行された。1964(昭和39)年には「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」という名称で交付されていたものが、1970(昭和45)年に単独法として成立したものである。
ところで、皆さんはこの「柔道整復師」という名称を知っていましたか?
“私の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立寄って、どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。・・・”
上掲の文は太宰治の小説『花吹雪』(※2:青空文庫参照)からの引用である。この作品にはさらに、
“男子の一生は戦場です。諸君が、どのような仕事をなさるにしても、腕に覚えがなくては かなわぬ。何がおかしい。私は、真面目に言っているのです。腕力の弱い男子は、永遠 に世の敗北者です。”
“男はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。”
“明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも<ahref= http://dictionary.goo.ne.jp/jn/233205/meaning/m0u/ >凜乎(りんこ)たる気韻(きいん)がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。(まさか、という声あり。)いや、記録にちゃんと残っています。くんづほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・とある。
男の腕力の重要性、そして体を鍛えることの必要性等が語られているが、太宰は、生涯疎外意識に悩まされ、多くの作品の中で疎外者、弱者を描き出している。
この文中の「産業戦士」とは、戦時下、労働者を戦争を支える存在として使った言葉だが、太宰は、ここで「産業戦士」を戦時下の時代が求めていた“健康で力持ちの象徴”として描写している。戦時下は強制的に国民の同質化が行われ、戦時体制に適合するにふさわしい人的資源だけが優遇されるが、その反面、多くの疎外者を生み出した時期でもあった。
因みに、戦時下に、うたわれていた「産業戦士の歌」(作詞:大日本産業報告会、作曲:林伊佐緒)の歌詞は→ここで、また、少々雑音が入っているがレコードは以下で聞ける。
産業戦士の歌 小野巡 服部富子 鬼俊英 中村柾子 – YouTube
少々、回り道をしてしまったが,太宰の『花吹雪』じゃないが、私の家の近所にも接骨院があって、私も子供のころはやんちゃ坊主だったもので、足の捻挫や骨折などで整骨院にはよく通ったものだが、そこの先生も柔道をやっていた人だったが、当時整骨院の先生といえば柔道をやっていた人が多かったような気がする。
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開き、「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれている嘉納治五郎)も、まさに、太宰の『花吹雪』にある“いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・に該当する人物だと思うのだが、この嘉納が柔道を始めたきっかけが柔道整復師(接骨院)にあったというから面白い。
治五郎は1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国莵原郡御影村(わが地元、現:兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれた。
その前年には安政の大獄がおこり、続いて桜田門外の変が勃発。300年続いた武家政治が倒幕運動により終焉を迎え新しい時代(明治)が始まろうとする激動の時代であった。
治五郎が生まれた摂津御影は日本有数の清酒業地(現在でいう「灘五郷」の一つ)で、実家の嘉納家 も代々酒造業を営んでいた(「菊正宗」も「白鶴」も嘉納本家や分家白嘉納家から誕生したもの)。
祖父の次作は当時酒造・廻船にて各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されていた(婿入りした)のが父次郎作であった。
初め祖父の治作は治朗作に家を継がせようとしていたが、治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行い、大阪に出て幕府の廻船方御用達を勤め, 同時に, 1862年(文久2年)勝海舟のもとで和田岬砲台や西宮の砲台などの築造工事を請け負っており、また ,1867年(慶応3年)10月には,出願によって幕府所有の汽船長鯨丸,奇捷丸,太平丸などを託され、江戸―神戸―大坂間の定期航路を開き、これがわが国の洋式船による定期航路の端緒となるなど、大いに活躍をしている。
幼少の頃から英才教育を受けていた治五郎は、1870年(明治3年)、明治政府に招聘(しょうへい)された父に付いて上京し14歳の時芝の烏森町(現:新橋2丁目)にあったという育英義塾(のちの育英高校)に入塾後オランダ人やドイツ人の教師から英語、ドイツ語などを学んだ後、1875年(明治8年)16歳の時官立東京開成学校)に進学。開成学校は1877年(明治10年)に東京大学となり、同大学文学部1年に編入された嘉納は政治学、理財学および哲学を専攻。1881年(明治14年)、政治学、理財学は卒業して残り、1年を道義学と審美学を学ぶ為に哲学選科に入り、1882年(明治15年)7月東大文学部を卒業したという(※3)。
この嘉納治五郎が、柔術をやろうと思い立ったのは、育英義塾・開成学校時代のことだそうで、その動機について、後年彼は次のように書いているそうだ。
「(自分は)学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈(ばっこ)して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた」。
そのため、他の塾生から軽んじられたことを悔しく思っていた治五郎は、
「日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)。・・・といっているそうだ。
したがって、治五郎が、柔術を始めたのは、決して日本の伝統的な武道が廃れていくのを嘆き、その復興を図ってなどという高邁な理想から出発したわけではなく、あくまで、「強くなりたい」という、当時の男子なら誰もが一度は抱く素朴な願望が、柔術を習おうという動機であったようだ(※4、※5:「柔道チャンネル」の柔道お役立ち情報>柔道整復師情報を参照)。
しかし、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり, 在来の剣術や柔術は衰退し、全く省みられなくなっており、師匠を探すのにも苦労したが, 当時柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、あるとき、日本橋の人形町通りの整骨師で、昔天神真楊流の柔術を修めた八木貞之助(磯 正足の弟子)を介して、同門の幕府講武所師範をもしていた福田八之助道場を紹介してもらい念願の柔術入門を果たしたという。
熱心に道場に通って稽古をしていた治五郎は、福田が52歳で死んだ後は、天神真楊流の家元(三代目)磯正智(本名:松永清左衛門)道場に学ぶ。
上達に伴い関心も広がり幕府講武所教授起倒流飯久保恒年師に師事した。柔術を通して強さを身に付けた治五郎は、やがて、柔術二流派の技術を取捨選択し、「崩し」の理論などを確立して独自の「柔道」へとさらに発展させていったのである。柔道の基本「崩し」、興味のある人は以下参照。
崩し解説 日本視覚障害者柔道連盟 選手強化合宿
そして、治五郎が、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)に、「柔道を講ずる館」として講道館を設立したのは、翌・1882年(明治15年)のことであった。福田八之助のもとで天神真楊流柔術を習い始めたのが、18歳のころ(1877年明治10年)だというから、柔術を始めてたった5年で、柔術を改良した柔道場「講道館」を設立したのだから、治五郎は文武両道の天才少年だったのだろう。そして、「柔道」という武術を高い精神性をもったスポーツにまで高めたのだから立派である。
私もあまり耳にしなかった言葉「柔道整復師」は、その名の通り「柔道」から派生したものである。
“戦国時代の武道の書物には「殺法」、「活法」に関する記述があるが…として、”殺法は武技そのもので、柔術でいうところの、当身技、投技、絞技、関節技、固技はすべて殺法に属する。活法は、傷ついた者の治療法、手当てであり、骨折、脱臼、打撲、捻挫などの外傷を治すもので、出血、仮死者に対する蘇生法なども含まれている“・・などと書かれている(例:※6の柔道整復師の今昔のところ参照)が、古い武道の書物には「殺法」、「活法」などは出てこず、このような記述が書物に出てくるのは明治以降のことでありこれは誤記であるという説がある(※7参照)。
詳しいことは参考の※7を見てもらうとして、1894年(明治27年)東京神田区の弘文堂から守永兵治が出版した『日本柔術活法詳解』では、
日本の伝統武術である柔術に伝わる仮死者に対する蘇生法として「活法」を詳解しておるつもりであるが、第九章「結論」に至りて「生理解剖の学理実際に通熟したる者に非ずんば之を悟了(すっかり悟ること)する難しとす」とある。またこの活法を習得するにあたっては比較解剖学(コンペラティブアナトミー)を勉強しなければならないと説く。最早柔術ではない。また、第八章「殺法」に於いては「殺法又曰く當身之法」とある。・・・そうだ。
活法とは水難での溺者や、高所からの落下者が仮死状態に陥った際に施される蘇生法で、傷ついた者に対する治療や手当は医法が施され、活法は仮死者に対してのみ施された。すなわち、活法を治療法とすることには医学の範囲的に無理がある。仮死者を復活させた方法だから、復活法という意味で活法と称したとも考えられるという。また、武道書の中で「殺法」が出てくるのは、この当身術だけである。
1893年(明治26年)出版『天神眞楊流柔術極意教授図解』(吉田千春, 磯又右衛門 著※8)を見ると、
「背活法 死者の後に図の如くかまえ、両手にて肩を持ち我が膝節にて死者の背中を二三度うち、水を与えて大声にて呼ぶと同時に中をたたくと蘇生す不思議なり。」・・・とあり、これを読むと「活を入れる」というのは「喝を入れる」という言葉の方が本来である。
同時に「殺法」に対しての「活法」なのではなく、仮死者を復活させるための法である意味で「活法」と命名されたのがわかるという。
そもそも「活法」「殺法」という言葉は、古来日本には見受けられない言葉であり、武に対しての医という相関図ではなく、これを伝承した者の誤解であったと推察される。
明治以降の柔術書籍には、ほぼ「活法」に対して、当て身技の急所図解としての「殺法」 が記載され、二極的発想から生み出された現代語である事もわかった。「殺」という語は我が国民性が敬遠する語であり、古典では、殺す法をあえて「兵法」と呼んでいた。・・と結論付けている。
1882年(明治15年)、嘉納治五郎が講道館を設立すると、多くの柔術道場は講道館を目の敵にし、自分の道場の有効性や有能性を宣伝しなければならなくなった。ここに、柔術界の医学的伝承論における講道館設立以前と以降に違いが出ている。設立以前には「殺法」「活法」など無かったはずなのに、設立以降には出現するようになる。・・といっているが、それまでの、武芸者が柔術、柔道の道場を構えるようになって以降、道場生の怪我を治せる技術があることが道場主に必要な要素となっていたのだろう。
明治維新後の西洋万能の風潮の中、1881年(明治14年)の漢方医学廃止によってそれまでの接骨術が顧みられなくなった。これに対して1912年(明治45年)、柔道家・柔術家の職業として認められるよう柔術家(嘉納 治五郎と繋がりの深い天神真楊流の門人が中心)を中心に運動が起こり、1920年(大正9年)の内務省令によって「あんま術営業取締規則」を準用するという形ではあるが「柔道整復術」として公認された(※9参照)。その際の資格では、「柔道の教授をなす者」が打撲、捻挫、脱臼、骨折に対して柔道整復術を行えるとなっていた。つまり、この技術をもつ者は柔道整復師として認定され柔道家、柔術家の収入源となったのである。
1970年(昭和45年)「あんま、はり灸柔道整復師法」(法217号)から「柔道整復師法」として単独法となった。しかし、内容的には、一部罰則等に変更はあったものの、法217号から単純に柔道整復師を分離したのみであった。業務内容の法的規制は、1920年(大正9年)当時のものがそのままとなっているが、柔道家のための柔道整復術という面はだいぶ後退し、従来、学校に入学しようとする者に求められていた「柔道の相当の実力」は、「柔道の素養」となったようだ。
以降法改正により、現在「柔道整復」は、厚生労働省の業務独占資格となる国家資格のひとつとなっており、厚生労働省ではこれを、医業類似行為として扱っており、医療法に基づく医療行為ではないことには留意を要する。
今、「柔道整復術」は、骨・関節・筋・腱・靭帯などの原因によって発生する骨折・脱臼・捻挫・挫傷・打撲などの損傷に対し手術をしない「非観血的療法」という独特の手技によって整復や固定を行い人間の持つ自然治癒能力を最大限に発揮させる治療術。日本独自の治療技術とされているが、WHO(世界保健機構)の『伝統医療と相補・代替医療に関する報告』では、日本の伝統医療、民間療法として柔道セラピーという名称のみ紹介されているが具体的な内容の記述はないようだ。
「柔道セラピー」を行う施設といえば今どんなところがあるのだろうか。
「犬も歩けば棒に当たる」ではないが、今、町を歩けば、接骨院、整骨院、整体、整形外科などの施術所や診療所、医院,などにぶち当たると言っていいほで乱立している。
昔からある あん摩マッサージ指圧師、はり師、灸(きゅう)師などの鍼灸院なども含めて、いったい正式には、どのような違いがあるのかよくわからない人も多いのではないだろうか。
少子・高齢化時代の今の日本の社会では、私の住んでいる町にも高齢者が溢れかえっているが、高齢者は、いろんな病を持っている。中でも、足腰の悪い人が非常に多く、家人なども週に何日かはリハビリに通っているが、どこも大盛況のようだ。
結論から言えば、接骨院も整骨院も同じで「柔道整復師」に基づく国家資格で按摩、マッサージ、指圧などの施術を行っているそうだ。
いわゆる骨を接ぐと書いて 「ほねつぎ」 の接骨院。柔道整復師の 「整」の字をとって整骨院を名乗っているようだ。厚生労働大臣認可の専門学校や大学で専門知識を身につけ、卒業時に財団法人 柔道整復研修試験財団(※10)が行う国家試験の受験資格が与えられ合格することによって、厚生省から「柔道整復師」の資格が与えられている。
では、整体院というのはどうなのだろう?
整体とは日本語では主に手技を用いた民間療法、代替医療を指し、日本語としては、大正時代に用いられるようになった用語で、アメリカで誕生したカイロプラクティック・オステオパシー・スポンディロセラピー(スポンディロ、英:Spondylo=「脊髄」と、 セラピー英:therapy=「療術=療法=治療」※11 、※12 ;日本武道医学会のここ参照)などを日本古来の武術柔術>の「活法」(広義には、殺法に対して存在する法すべてを指す。狭義においては、柔術[古武術]の裏技として継承されてきた医術のことを指す(※13参照)や骨法などの流派に伝わる手技療法と組み合わせ、「整体」や「指圧」と名付けたのが始まりのようであり、現在の日本で俗に用いられる整体という用語は、手や足の力を用いてカイロプラクティック(脊椎指圧療法)に似た骨格の矯正(主に脊椎)を目的とした手技療法をさしているようだが、骨格を矯正し、筋肉や内臓など各部のバランスを整えて、本来の状態に戻すことを目的とした手技療法をさして使われることも多いようだ。これを、「整体術」・「整体法」・「整体療法」 とも呼ばれている。
ただ、各団体の独自の理論や思想などを加えた整体などが存在するともいわれており、整体に定まったやり方はなく、人によって理解・解釈は異なるようだ。
「柔道整復師法」や、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」に定められるものではないため、国家資格も不要であり、そのため、医療制度から見れば補完代替医療の一種であっても、保険適用外であるため、通常医療(一般的な病院で受けられる、いわゆる西洋医学を用いた医療)と共に病院で補助療法として用いられることはなく、法制度からは医業類似行為の一種とされているようだ。その代り、治療内容に制限はないようだ。それが、整体の他との違い(特徴)でもあり、短所でもあるようだ(詳しくは整体を参照)。
整体が、このように「整骨院」と同じように、日本古来の武術である柔術などを基本に発展してきたにもかかわらず、法的資格制度のある「柔道整復師」の柔道整復(接骨・整骨)とは区別されているのは統一基準のなさや組織力の弱さというべきか・・・。
それに対して、昔からある、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師などは、彼らの資質を向上し、もって医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする法律「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」(昭和22年12月20日法律第217号、通称:あはき法)に基づく国家資格をもって行っている。
また整形外科」は肢体の機能障害をおもな対象として,その病理,診断,予防,治療法を研究する外科学の一分科、つまり、正式な「医師」である。
臨床医学としては,骨,関節,筋肉,靭帯,腱,粘液包,筋膜,神経,血管,皮膚などの組織の疾患,たとえば,骨や関節の炎症,腫瘍,先天性の奇形、後天性の変形などの予防や治療,リハビリテーションなどを行っている。
医師と柔道整復師は全く違う。整形外科はレントゲン検査、手術、投薬を行うことができるが、柔道整復師にはこれらは出来ない。薬には使用の仕方によっては副作用があるし、レントゲンは放射線なので、生物にとって有害であり、浴びた放射線の線量に応じて何らかの放射線障害内科もあるので、患者を総合的に管理してくれているので、町では一番人気があり、家人もずっと、ここで診てもらっている。
その代り、ここは、毎日のように来ているお年寄りのサロン的存在になっており、朝早くから出かけても家に帰ってくるのは昼すぎてからである。15分ほどのリハビリは後期高齢者なら100円なので、年中休日の高齢者には気持ちもいいし暇つぶしにもなる良いサロンには違いないだろう。私もパソコンのやりすぎなどで首が吊ってしようがないのでしてもらったことがあるが、ウオーターベッドや首の牽引器など本当に気持ちが良い。100円でしてくれるのだから今でも毎日でも行きたいのだが、私はりサロン的雰囲気が嫌いなので行っていない。もし、空いているところがあれば行きたいものだ。しかし、こんな気持ちがいいというだけで行かれると健康保険料はパンクしてしまうだろうね~。腰が痛いとか、首がこるとか背中が痛いとかいうことは、本人がそう申告すれば、そうじゃない、痛いはずがない・・などという人はほとんどいないだろうから、だれでも、やってもらえることになる。
戦後、わが国の平均寿命は著しく伸長し、2001年には世界第1位の水準にる(台湾を独立国とすれば台湾に次いで2位となるが・・・※14、※15参照)。それに伴い超高齢化社会の到来により、今後増え続ける高齢者の中で介護が必要な人を社会全体で支えるため、2000年4月より介護保険制度が実施されている。その中で高齢者が日常生活を営むのに必要な機能の低下を防止するための訓練を指導する機能訓練指導員や介護サービス計画の作成や介護支援サービスを担当する介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得し、地域医療の中核を担う柔道整復師も増えていると聞く。
柔道整復を業とする職業は、、最も今の時代のニーズに合った職業と言えるかもしれないが・・・。私の知人の息子も最近、独立して、このような診療院を開業したと聞いている。
それでは、今、どれくらい、これらの業種があるのだろうか・・・?
厚生労働省の「平成22年衛生行政報告例(就業医療関係者)結果の概況」(平成 23 年7月12 日)(ここ参照)を見ると、
(1)就業あん摩マッサージ指圧師等数[()内は平成12年の人員]は、
就業あん摩マッサージ指圧師(以下「あん摩マッサージ指圧師」という。)は104,663 人(96 788)となっている(108,14%増)。
就業はり師(以下「はり師」という。)は92,421人(71 551)となっている(129,17%増)。
就業きゅう師(以下「きゅう師」という。)は90,664 人(70 146)となっている(129,25%増)。
就業柔道整復師(以下「柔道整復師」という。)は50,428 人(30 830)となっている(163,57%増)。
(2) あん摩、マッサージ及び指圧等を行う施術所数は、
「あん摩、マッサージ及び指圧を行う施術所」は19,983 か所となっている。
「はり及びきゅうを行う施術所」は21,065 か所となっている。
「あん摩、マッサージ及び指圧、はり並びにきゅうを行う施術所」は36,251 か所となっている。
「その他の施術所」は2,693 か所となっている。
「柔道整復の施術所」は37,997 か所となっている。
上記のように、いずれも120%以上の像であるが、中でも、「柔道整復師」は163,57%増と激増している。「柔整法」は昭和45 年、「あはき法」に至っては昭和22 年の制定だから、これだけ治療院が乱立してしまうことを予測していただろうか。今でも、「柔整法」受験希望者は非常に多いようだが、過当競争から、いろいろな問題も起こってきそうな感じがするのだが・・・(※16、17など参照)。
冒頭画像は、こどもや赤ちゃんのイラストわんパグより借用。
参考:
※1:NPO法人 全国柔整鍼灸協会
http://www.jusei.gr.jp/znpo/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.35(作家名: 太宰 治)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
※3:名著・快言紹介:嘉納治五郎 私の障害と柔道
http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser09_p01.html
※4:嘉納治五郎の柔術修行(1) ─ 強さへの抑え難き願望
http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/14b8704ec7c15e047941e95399d1c33b
※5:柔道チャンネル
http://www.judo-ch.jp/
※6:解説!柔道整復師―柔道整復師クラブ(JPC)
http://www.kojimachi-shiraishi.com/jpc/jusei/jusei.html
※7:活法殺法(柔道整復術の源)の歴史と医術武術の歴史
http://www.teikyo-jc.ac.jp/jyoho/periodical_pdf/journal2014/journal2014_141-147.pdf#search='%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3+%E6%AD%A6%E9%81%93%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%89%A9+%E3%80%8C%E6%AE%BA%E6%B3%95%E3%80%8D%E3%80%81%E3%80%8C%E6%B4%BB%E6%B3%95'
※8:近代デジタルライブラリー - 天神真楊流柔術極意教授図解
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860406/1
※9:柔道整復年 表
http://kaigo-net.com/htm/sinkyu/nenpyo.htm
※10:財団法人 柔道整復研修試験財団
http://www.zaijusei.com/
※11:現代語訳『脊髄反射的療法』(スポンディロセラピー)について
http://www.nihaku.com/contents/2016/11/post-30.php
※12 ;日本武道医学会
http://www.budoigaku.org/index.html
※13 :活法とは»活法とその歴史 - 活法研究会
http://kappolabo.jp/modules/content02/index.php?content_id=2
※14:世界の平均寿命ランキング(過去: 2001年) - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/ranking/old/wb_le00in_2001.html
※15:拡がる「平均寿命」と「健康寿命」の差を考える - GE Reports Japan
http://gereports.jp/post/129273309414/healthy-life
※16:無資格者によるあん摩マッサージ指圧業等の防止についてー厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/061115-1.html
※17:悪質な不正請求 詐欺事件 柔道整復師
http://blogs.yahoo.co.jp/motorboy39/32390863.html
公益社団法人日本柔道整復師会
http://www.shadan-nissei.or.jp/