1935年総選挙後、イギリスはこの時の議会構成(国民政府内閣=保守党と労働党・自由党の国民政府派による連立政権)のまま第二次世界大戦に突入。以来、イギリスでは選挙が行われていなかった。ノルウェー作戦の失敗の責任が当時の首相チェンバレンに向けられ辞任した後、その後任の首相に就任していたウィンストン・チャーチルは1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた。
翌1945年5月ドイツが降伏したことで労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。
チャーチルは日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきであると主張したが、労働党はそれを拒否。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった。
そして、第二次世界大戦が終わった(欧州戦線における終戦)1945年7月総選挙が行われたが、労働党に不本意な大敗を喫したためチャーチルの地位は戦勝に導いた栄光あるイギリス首相から野党党首へと転落した。
この選挙、慢性的な保守党の人気凋落が原因と考えられるが、労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していなかったようだ。下野したチャーチルはこの時、70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった。
労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また「ゆりかごから墓場まで」という福祉社会制度の充実を目指し、国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった。
これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判。
老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは、1946年3月5日、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で同月5日に講演を行った。
「バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。」・・・と。.この時「鉄のカーテン」という言葉を使ったことから「鉄のカーテン」演説と呼ばれている。
冒頭の画像は訪米中のチャーチル前イギリス首相が3月5日ミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で「鉄のカーテン」の演説をしているところ。その時の演説(動画)及び演説文(英文)は以下参考の※1を参照されるとよい。又、演説の骨子(和訳)などは参考※2 :「世界史の窓」のここを参照されるとよい。
第二次世界大戦中、米国・英国はソ連(ソ連邦)と、連合を組み(連合国)、欧州でドイツやイタリアの枢軸陣営(枢軸国)と戦った。
ドイツが占領していた広範な欧州地域は、西側を米軍が、東側をソ連軍が占領した。ソ連軍が占領した地域では、ソ連寄りの共産党政権が次々に樹立され、ソ連(ソ連邦)がこれら東ヨーロッパ諸国(東欧諸国)の共産主義政権を統制し、その結果、これらの国々は、ソ連の指導に従い西側の資本主義陣営(西側諸国)とは秘密主義・閉鎖的態度で交渉を絶ち、まるで鎖国のような状態になっていった。つまり、鉄製のカーテンだから覗いてもその向こうは見ることもできないという比喩である。
歴史のある、かつては自分たちの仲間だった中欧・東欧が鉄のカーテンの陰に隠れ、その向こうでどのようなひどいことが行われているかわからなくなったという嘆きであると同時に、そのようなソ連の動向に注意を喚起するように米国に呼びかけたものである。この後、ソ連(=共産圏)の排他的な姿勢を非難する言葉として多用されるようになり、又、冷たい戦争(東西冷戦)の幕開けを示唆する出来事として捉えられている。
戦後野党時代のチャーチルには、この「鉄のカーテン」演説と共に二大演説の一つとされている1946年9月19日スイスのチューリッヒ大学で行なった「欧州合衆国」演説と呼ばれているものがある。
チャーチルは、この演説で「われわれは、ある種のヨーロッパ合衆国(United States of Europe、USE)を樹立しなければならない」と訴えている(※3)。
ヨーロッパをアメリカ合衆国のように、一つの国民国家、一つの連邦国家にしようというシナリオは、過去にも色々と多くの人から提唱されていたことであったが、チャーチルのこの演説にはオーストリアのリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの協力があったという(※4)。
第二次世界大戦は、ヨーロッパに甚大な人的、経済的損失を残した。またホロコーストや日本への原子爆弾投下などから、人びとは戦争、そして過激思想の恐怖を思い知らされた。このような恐怖、とくに戦争が世界に核兵器をもたらすようなことが2度とあってはならないと願っていた。しかしながら西ヨーロッパ諸国はイデオロギー的に相反する2つの超大国(米・ソ)が敵対するなかで列強としての地位を維持できなかった。
鉄のカーテンの向こうにはソビエトを中心とする巨大な社会主義陣営があり、大西洋の向こうには超大国に成長したアメリカが君臨している。ソ連の軍事的脅威やアメリカの経済力に対抗し、ヨーロッパに平和をもたらすには西ヨーロッパ諸国は統合し、一体化する必要がある・・・と考えていたのである。彼のヨーロッパ合衆国構想は反響を呼んだ。
スイスから帰国したチャーチルは 1946年末から自らの提案を実現するための組織作り活動を開始した。そして、1947年1月には欧州統合委員会を発足し、チャーチルが委員長に就任している。そして1949には「欧州評議会」が設立される。欧州評議会は、初めての汎ヨーロッパ機関ということになる。チャーチルは、「欧州合衆国」の演説で、自身はイギリスをヨーロッパ合衆国に含めていない考えを示していた(※3)ようだが、結局、イギリスは1973年に欧州連合(EU)に加盟し、欧州統合の流れの中に入っている。
「冷たい戦争Cold War(冷戦)」という語は、アメリカのジャーナリスト・政治評論家でもあるウォルター=リップマンが1947年に出版した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』(The Cold War: A Study in U. S. Foreign Policy)に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
アメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造(「二つの世界」)は第二次大戦後の1945年から1989年までの44年間続き、米・ソが軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力で直接戦う「熱い戦争(Hot War)」「熱戦」に対して、「冷たい戦争(Cold War)」「冷戦」と呼ばれたものである。
この米・ソ両陣営の対立は共にドイツ・日本の枢軸陣営(枢軸国)と戦っていた第二次大戦中に始まり、1945年のソ連のヤルタでの米・英・ソ首脳会談(ヤルタ会談)での米・ソの戦後世界のいわば分割協定(ヤルタ体制)から始まった。
ポーランド問題など大戦終結前から米・ソ両者の対立は抜き差しならぬものがあったが、戦後はヨーロッパでのドイツ問題(ここも参照)と、アジアにおける朝鮮問題で深刻さの度合いを増していった(朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとしていたが、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている)。因みに、現在も続く日本の北方領土問題の端緒となったのもこの時のヤルタ秘密協定(極東密約、単にヤルタ協定とも)によっている。
本格的な東西冷戦は、ソ連・東欧圏の共産主義勢力がギリシア、トルコ方面に伸張することを恐れたアメリカのトルーマン大統領が、1947年3月12日、トルーマン=ドクトリンを発表(内容は、※2のここ参照)し、共産主義封じ込め政策(Containment)を採ったあたりから始まる。
アメリカは、第二次大戦中の陸軍参謀総長としてアメリカを勝利に導いたジョージ・マーシャルが、国務長官に就任した1947年の6月5日、ハーバード大学の卒業式で講演し、後に「マーシャルプラン(正式名称:欧州復興計画、European Recovery Program, ERP)」といわれるものによって、欧州の反共諸国に対する超巨額の軍事・経済的援助を行い、西洋諸国の囲い込みを始めた。
その受入をめぐり、ヨーロッパ諸国は対応が二分され、西側諸国は受け入れ、東欧諸国は拒否した。また、チェコスロヴァキアはいったん受入を表明したが、ソ連の圧力で撤回し、それをきっかけに共産党政権が成立した。
このような状況のままでは、欧州各国はアメリカかソ連に二分割されかねない。このような状況に危機感を持っていたのがイギリスやフランスなど西側の首脳である。彼らは"米・ソのどちらにも属さない第三陣営"としての欧州の生き残りをかけた外交活動を模索していた。この流れで進められたのが欧州統合構想である(欧州連合の歴史参照)。
アメリカのマーシャルプランを受け入れた西側16カ国は、1948年に、受入機関として欧州経済協力機構(OEEC)を組織した。
同機構はマーシャル・プランに連動する形でアメリカの要求による為替と貿易の自由化とヨーロッパ域内諸国間と欧米間の関税を引き下げることをその目的としている。現在の欧州統合に先立つ概念をもった機関である。
このOEECは、後(1961年)の経済協力開発機構(OECD)に発展する(※5)。この援助資金を得て、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリアなどが大戦での経済基盤の破壊を克服して、復興を成し遂げることができた。
一方マーシャルプランの受入で動揺した東側諸国を引き締めるため、ソ連も1947年9月にはコミンフォルム(共産党情報局)が組織され、1949年にはコメコン(COMECON- Council for Mutual Economic Assistance の略.。経済相互援助会議の西側での通称)による各種の援助を始動、東ヨーロッパ諸国の囲い込みを始めた。こうして冷戦構造が本格化していった。
このマーシャルプランで提供された資金の多くは使途を指定され、生産に必要な機械類や生活に必要な農作物に限定されており、それらはアメリカ産のものを買うことになるので、結果として資金はアメリカに環流する仕組みになっていた。ヨーロッパ経済が復興しなければ、ヨーロッパ各国がドル(外貨)準備ができず、アメリカの輸出もできなくなることになる。ヨーロッパを復興させることはアメリカ経済にとっても不可欠だったのである(米ドルは第二次世界大戦後しばらくは主要通貨で唯一の金本位制を維持していた通貨であり、各国の通貨は米ドルとの固定レートにより間接的に金との兌換性を維持していた[ブレトン・ウッズ体制]。その当時に形成された米ドルを基軸通貨とする体制は、金本位制停止および変動相場制導入の後も継続されている。)。
戦後から1960年代までの時代を「パクス・アメリカーナ(アメリカの平和)」といい、アメリカは長らく資本主義世界の主導権を握っていた。
イギリスも19世紀半ばごろから20世紀初頭までは世界の覇権を握る国家(パクス・ブリタニカ)であった。しかし第二次大戦後は、充実した社会保障制度(所謂「大きな政府」)にあぐらをかき、国家レベルで堕落していき「英国病」と言われるほどの経済停滞を招いていた。そして1973年のオイルショックによる高インフレが追い打ちを掛け、経済成長率が低下、税収入が減少していき、財政赤字は増加.。1976年には、遂に財政破綻し、IMF(国際通貨基金)から融資を受ける羽目に陥った。。
この屈辱を経て、その後イギリス政治史上初の女性首相となったマーガレット・サッチャーは、「イギリス病」退治に取り組み、イギリス経済は活力を取り戻し、政治経済的威信を回復し、17世紀後半以降の歴代内閣で記録的な長期政権を築いた。「ゆりかごから墓場まで」の語に示された「大きな政府」による福祉国家を市場原理に基づく「小さな政府」に切り替える一連の政策は、「サッチャリズム」とよばれ、同時期の米国大統領ロナルド・レーガン政権によるレーガノミクスとともに新自由主義の代名詞となった。
彼女についた有名なあだ名「鉄の女」は、1975(昭和50)年2月の保守党党首選挙でエドワード・ヒースを破り党首に就任した。
上掲の画像は1975年2月11日の2度目の党首選で快勝し、夫のデニス、息子のマークとともに支援者の歓呼にこたえるサッチャー夫人。(「朝日クロニカル週刊20世紀』1975年号より)
党首に就任した同年、サッチャーは、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言(1975年7〜8月、フィンランドのヘルシンキにおいて開催された「全欧安全保障協力会議」で採択された最終の合意文書)を痛烈に批判した。ヘルシンキ宣言 とは、ヨーロッパの現状をそのまま固定しようというような内容で、ソ連主導の宣言 だったようだ。
これに対し、ソ連の赤軍機関紙『赤い星』が記事の中で、侮蔑的な意図をもってサッチャーを「鉄の女」と呼び、非難したものだった。しかし、党首選の翌日、『デーリー・エクスプレス』紙は「はっきり言えることは彼女が筋金入りの闘士だということだ」と褒めたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1975年号)。
チャーチルが「鉄のカーテンが存在する」という有名な演説をした。若い時これを聞いたというマーガレットはそれから30年「鉄の女」へと成長したのであった。
参考:
※1:チャーチルのミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学での演説(動画)及び演説文(英文)
http://www.americanrhetoric.com/speeches/winstonchurchillsinewsofpeace.htm
※2:世界史の窓
http://www.y-history.net/index.html
※3:Winston Churchill, speech delivered at the University of Zurich, 19 September 1946 :欧州評議会
http://www.coe.int/t/dgal/dit/ilcd/Archives/selection/Churchill/ZurichSpeech_en.asp
※4:“Рихард Николас фон Куденхове-Калерги”. 汎ヨーロッパ連合 (PANEUROPA.ru).
http://www.paneuropa.ru/home.php?id=3&lang=
※5:欧州統合の歩み -金融用語辞典(金融大学)
http://www.findai.com/yogo001/0031y01.html
欧州統合運動とハーグ会議(469KB) - 東京経済大学(Adobe PDF)
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/262/262_kojima.pdf#search='1947%E5%B9%B4+%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+%E7%99%BA%E8%B6%B3'
ヤルタ協定 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j04.html
ヨーロッパの東西分断(鉄のカーテン、東西ドイツの成立など)
http://manapedia.jp/text/3577
池上彰の教養講座 .■「鉄のカーテン」が下ろされた
http://syukai.com/nikkei231.html
「チャーチルの欧州合衆国構想」(EJ第3310号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/272174239.html
翌1945年5月ドイツが降伏したことで労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。
チャーチルは日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきであると主張したが、労働党はそれを拒否。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった。
そして、第二次世界大戦が終わった(欧州戦線における終戦)1945年7月総選挙が行われたが、労働党に不本意な大敗を喫したためチャーチルの地位は戦勝に導いた栄光あるイギリス首相から野党党首へと転落した。
この選挙、慢性的な保守党の人気凋落が原因と考えられるが、労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していなかったようだ。下野したチャーチルはこの時、70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった。
労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また「ゆりかごから墓場まで」という福祉社会制度の充実を目指し、国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった。
これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判。
老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは、1946年3月5日、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で同月5日に講演を行った。
「バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。」・・・と。.この時「鉄のカーテン」という言葉を使ったことから「鉄のカーテン」演説と呼ばれている。
冒頭の画像は訪米中のチャーチル前イギリス首相が3月5日ミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で「鉄のカーテン」の演説をしているところ。その時の演説(動画)及び演説文(英文)は以下参考の※1を参照されるとよい。又、演説の骨子(和訳)などは参考※2 :「世界史の窓」のここを参照されるとよい。
第二次世界大戦中、米国・英国はソ連(ソ連邦)と、連合を組み(連合国)、欧州でドイツやイタリアの枢軸陣営(枢軸国)と戦った。
ドイツが占領していた広範な欧州地域は、西側を米軍が、東側をソ連軍が占領した。ソ連軍が占領した地域では、ソ連寄りの共産党政権が次々に樹立され、ソ連(ソ連邦)がこれら東ヨーロッパ諸国(東欧諸国)の共産主義政権を統制し、その結果、これらの国々は、ソ連の指導に従い西側の資本主義陣営(西側諸国)とは秘密主義・閉鎖的態度で交渉を絶ち、まるで鎖国のような状態になっていった。つまり、鉄製のカーテンだから覗いてもその向こうは見ることもできないという比喩である。
歴史のある、かつては自分たちの仲間だった中欧・東欧が鉄のカーテンの陰に隠れ、その向こうでどのようなひどいことが行われているかわからなくなったという嘆きであると同時に、そのようなソ連の動向に注意を喚起するように米国に呼びかけたものである。この後、ソ連(=共産圏)の排他的な姿勢を非難する言葉として多用されるようになり、又、冷たい戦争(東西冷戦)の幕開けを示唆する出来事として捉えられている。
戦後野党時代のチャーチルには、この「鉄のカーテン」演説と共に二大演説の一つとされている1946年9月19日スイスのチューリッヒ大学で行なった「欧州合衆国」演説と呼ばれているものがある。
チャーチルは、この演説で「われわれは、ある種のヨーロッパ合衆国(United States of Europe、USE)を樹立しなければならない」と訴えている(※3)。
ヨーロッパをアメリカ合衆国のように、一つの国民国家、一つの連邦国家にしようというシナリオは、過去にも色々と多くの人から提唱されていたことであったが、チャーチルのこの演説にはオーストリアのリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの協力があったという(※4)。
第二次世界大戦は、ヨーロッパに甚大な人的、経済的損失を残した。またホロコーストや日本への原子爆弾投下などから、人びとは戦争、そして過激思想の恐怖を思い知らされた。このような恐怖、とくに戦争が世界に核兵器をもたらすようなことが2度とあってはならないと願っていた。しかしながら西ヨーロッパ諸国はイデオロギー的に相反する2つの超大国(米・ソ)が敵対するなかで列強としての地位を維持できなかった。
鉄のカーテンの向こうにはソビエトを中心とする巨大な社会主義陣営があり、大西洋の向こうには超大国に成長したアメリカが君臨している。ソ連の軍事的脅威やアメリカの経済力に対抗し、ヨーロッパに平和をもたらすには西ヨーロッパ諸国は統合し、一体化する必要がある・・・と考えていたのである。彼のヨーロッパ合衆国構想は反響を呼んだ。
スイスから帰国したチャーチルは 1946年末から自らの提案を実現するための組織作り活動を開始した。そして、1947年1月には欧州統合委員会を発足し、チャーチルが委員長に就任している。そして1949には「欧州評議会」が設立される。欧州評議会は、初めての汎ヨーロッパ機関ということになる。チャーチルは、「欧州合衆国」の演説で、自身はイギリスをヨーロッパ合衆国に含めていない考えを示していた(※3)ようだが、結局、イギリスは1973年に欧州連合(EU)に加盟し、欧州統合の流れの中に入っている。
「冷たい戦争Cold War(冷戦)」という語は、アメリカのジャーナリスト・政治評論家でもあるウォルター=リップマンが1947年に出版した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』(The Cold War: A Study in U. S. Foreign Policy)に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
アメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造(「二つの世界」)は第二次大戦後の1945年から1989年までの44年間続き、米・ソが軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力で直接戦う「熱い戦争(Hot War)」「熱戦」に対して、「冷たい戦争(Cold War)」「冷戦」と呼ばれたものである。
この米・ソ両陣営の対立は共にドイツ・日本の枢軸陣営(枢軸国)と戦っていた第二次大戦中に始まり、1945年のソ連のヤルタでの米・英・ソ首脳会談(ヤルタ会談)での米・ソの戦後世界のいわば分割協定(ヤルタ体制)から始まった。
ポーランド問題など大戦終結前から米・ソ両者の対立は抜き差しならぬものがあったが、戦後はヨーロッパでのドイツ問題(ここも参照)と、アジアにおける朝鮮問題で深刻さの度合いを増していった(朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとしていたが、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている)。因みに、現在も続く日本の北方領土問題の端緒となったのもこの時のヤルタ秘密協定(極東密約、単にヤルタ協定とも)によっている。
本格的な東西冷戦は、ソ連・東欧圏の共産主義勢力がギリシア、トルコ方面に伸張することを恐れたアメリカのトルーマン大統領が、1947年3月12日、トルーマン=ドクトリンを発表(内容は、※2のここ参照)し、共産主義封じ込め政策(Containment)を採ったあたりから始まる。
アメリカは、第二次大戦中の陸軍参謀総長としてアメリカを勝利に導いたジョージ・マーシャルが、国務長官に就任した1947年の6月5日、ハーバード大学の卒業式で講演し、後に「マーシャルプラン(正式名称:欧州復興計画、European Recovery Program, ERP)」といわれるものによって、欧州の反共諸国に対する超巨額の軍事・経済的援助を行い、西洋諸国の囲い込みを始めた。
その受入をめぐり、ヨーロッパ諸国は対応が二分され、西側諸国は受け入れ、東欧諸国は拒否した。また、チェコスロヴァキアはいったん受入を表明したが、ソ連の圧力で撤回し、それをきっかけに共産党政権が成立した。
このような状況のままでは、欧州各国はアメリカかソ連に二分割されかねない。このような状況に危機感を持っていたのがイギリスやフランスなど西側の首脳である。彼らは"米・ソのどちらにも属さない第三陣営"としての欧州の生き残りをかけた外交活動を模索していた。この流れで進められたのが欧州統合構想である(欧州連合の歴史参照)。
アメリカのマーシャルプランを受け入れた西側16カ国は、1948年に、受入機関として欧州経済協力機構(OEEC)を組織した。
同機構はマーシャル・プランに連動する形でアメリカの要求による為替と貿易の自由化とヨーロッパ域内諸国間と欧米間の関税を引き下げることをその目的としている。現在の欧州統合に先立つ概念をもった機関である。
このOEECは、後(1961年)の経済協力開発機構(OECD)に発展する(※5)。この援助資金を得て、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリアなどが大戦での経済基盤の破壊を克服して、復興を成し遂げることができた。
一方マーシャルプランの受入で動揺した東側諸国を引き締めるため、ソ連も1947年9月にはコミンフォルム(共産党情報局)が組織され、1949年にはコメコン(COMECON- Council for Mutual Economic Assistance の略.。経済相互援助会議の西側での通称)による各種の援助を始動、東ヨーロッパ諸国の囲い込みを始めた。こうして冷戦構造が本格化していった。
このマーシャルプランで提供された資金の多くは使途を指定され、生産に必要な機械類や生活に必要な農作物に限定されており、それらはアメリカ産のものを買うことになるので、結果として資金はアメリカに環流する仕組みになっていた。ヨーロッパ経済が復興しなければ、ヨーロッパ各国がドル(外貨)準備ができず、アメリカの輸出もできなくなることになる。ヨーロッパを復興させることはアメリカ経済にとっても不可欠だったのである(米ドルは第二次世界大戦後しばらくは主要通貨で唯一の金本位制を維持していた通貨であり、各国の通貨は米ドルとの固定レートにより間接的に金との兌換性を維持していた[ブレトン・ウッズ体制]。その当時に形成された米ドルを基軸通貨とする体制は、金本位制停止および変動相場制導入の後も継続されている。)。
戦後から1960年代までの時代を「パクス・アメリカーナ(アメリカの平和)」といい、アメリカは長らく資本主義世界の主導権を握っていた。
イギリスも19世紀半ばごろから20世紀初頭までは世界の覇権を握る国家(パクス・ブリタニカ)であった。しかし第二次大戦後は、充実した社会保障制度(所謂「大きな政府」)にあぐらをかき、国家レベルで堕落していき「英国病」と言われるほどの経済停滞を招いていた。そして1973年のオイルショックによる高インフレが追い打ちを掛け、経済成長率が低下、税収入が減少していき、財政赤字は増加.。1976年には、遂に財政破綻し、IMF(国際通貨基金)から融資を受ける羽目に陥った。。
この屈辱を経て、その後イギリス政治史上初の女性首相となったマーガレット・サッチャーは、「イギリス病」退治に取り組み、イギリス経済は活力を取り戻し、政治経済的威信を回復し、17世紀後半以降の歴代内閣で記録的な長期政権を築いた。「ゆりかごから墓場まで」の語に示された「大きな政府」による福祉国家を市場原理に基づく「小さな政府」に切り替える一連の政策は、「サッチャリズム」とよばれ、同時期の米国大統領ロナルド・レーガン政権によるレーガノミクスとともに新自由主義の代名詞となった。
彼女についた有名なあだ名「鉄の女」は、1975(昭和50)年2月の保守党党首選挙でエドワード・ヒースを破り党首に就任した。
上掲の画像は1975年2月11日の2度目の党首選で快勝し、夫のデニス、息子のマークとともに支援者の歓呼にこたえるサッチャー夫人。(「朝日クロニカル週刊20世紀』1975年号より)
党首に就任した同年、サッチャーは、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言(1975年7〜8月、フィンランドのヘルシンキにおいて開催された「全欧安全保障協力会議」で採択された最終の合意文書)を痛烈に批判した。ヘルシンキ宣言 とは、ヨーロッパの現状をそのまま固定しようというような内容で、ソ連主導の宣言 だったようだ。
これに対し、ソ連の赤軍機関紙『赤い星』が記事の中で、侮蔑的な意図をもってサッチャーを「鉄の女」と呼び、非難したものだった。しかし、党首選の翌日、『デーリー・エクスプレス』紙は「はっきり言えることは彼女が筋金入りの闘士だということだ」と褒めたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1975年号)。
チャーチルが「鉄のカーテンが存在する」という有名な演説をした。若い時これを聞いたというマーガレットはそれから30年「鉄の女」へと成長したのであった。
参考:
※1:チャーチルのミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学での演説(動画)及び演説文(英文)
http://www.americanrhetoric.com/speeches/winstonchurchillsinewsofpeace.htm
※2:世界史の窓
http://www.y-history.net/index.html
※3:Winston Churchill, speech delivered at the University of Zurich, 19 September 1946 :欧州評議会
http://www.coe.int/t/dgal/dit/ilcd/Archives/selection/Churchill/ZurichSpeech_en.asp
※4:“Рихард Николас фон Куденхове-Калерги”. 汎ヨーロッパ連合 (PANEUROPA.ru).
http://www.paneuropa.ru/home.php?id=3&lang=
※5:欧州統合の歩み -金融用語辞典(金融大学)
http://www.findai.com/yogo001/0031y01.html
欧州統合運動とハーグ会議(469KB) - 東京経済大学(Adobe PDF)
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/262/262_kojima.pdf#search='1947%E5%B9%B4+%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+%E7%99%BA%E8%B6%B3'
ヤルタ協定 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j04.html
ヨーロッパの東西分断(鉄のカーテン、東西ドイツの成立など)
http://manapedia.jp/text/3577
池上彰の教養講座 .■「鉄のカーテン」が下ろされた
http://syukai.com/nikkei231.html
「チャーチルの欧州合衆国構想」(EJ第3310号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/272174239.html