今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

さつまいもの日( Part 2)

2010-10-13 | 記念日
日本記念日協会の今日・10月13日の記念日を見ると「さつまいもの日」があった。
記念日の由来によると埼玉県川越市のさつまいもの愛好家のグループが制定した日だそうで、秋はさつまいもの季節で、「九里四里うまい十三里」の異名がさつまいもにあったことから10月13日を記念日にしたという。
いや!これから先に進める前にお断りしておこう。このブログも書き出して8年になる。又、この頃年のせいか、以前に一度書いたものでも忘れてしまって又、二度書きしたりしてしまう。このブログもそうで、2007年10月の今日書いたいたものと重複して書いてしまった。アップするのを止めようかと思ったが、前のものとは少し、違った視点でも書いているので、もったいないのでそのままアップしたものであることをお断りしておく。(以前のものはここです)
サツマイモ(薩摩芋または甘藷:かんしょ。)は、ヒルガオ科サツマイモ属の多年草植物であり、アサガオなどの園芸植物、また野菜として利用するヨウサイ(アサガオ菜)などの仲間であり、花はピンク色でアサガオに似ている(花はここ参照)。そのいも(塊根=養分を蓄えている肥大した根)を食用としている。
もともとは南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方から東南アジアに導入される。日本への伝来には諸説があるようだが中国を経て17世紀初頭に、最初は沖縄(琉球)に、それから長崎と順次、九州地方に広がっていき、本州へと伝わった。このため中国(唐)から伝来した沖縄や九州では唐芋(奄美群島では例外的に薩摩芋)、沖縄(琉球)から伝来した北部九州では琉球藷、九州から伝来した本州では薩摩芋と呼んでいる。尚、サツマイモを天麩羅等の和食において、丸十と呼ばれるのは、薩摩藩島津氏の家紋が丸に十字であることが由来と言われる。
サツマイモの中国名が甘藷、甜藷(甘いイモの意)と言われるように、甘味が強いことから焼芋などの間食としての美味しさが際立つているが、主食級の作物にはなりえなかった。主食になるには、栄養素や作りやすさ、保存性の他に、淡白な味でなければたくさん食べられないからだろう。
中国から伝来の甘藷は主食級の作物にはなりえなかったものの繁殖能力が非常に高いうえに、痩せた土地でも育ち、強風にも強く初心者でも比較的育てやすいので、江戸時代以降広く救荒作物として栽培されてきた。救荒とは飢饉を救うという意味で、救荒植物とは、凶作飢饉の年に、稲以外に収穫できる作物のことを言うが、古代から存在した種類では稗(ヒエ)が代表的であった。稗は穀物の中では最も野生的な強さを保持しており、しかも生育期間が比較的短いことから、徳川幕府も「稗を第一にいたし」緊急用にせよとの布告を幾度か出した(天明8年その他)。又、幕府は飢饉対策として、この他に、豊作の年の米を貯蔵する指示を繰り返し出している(天和3年、享保15年、同17年、宝暦6年など。)ようだ。(以下参考の1参や※2参照)。
しかし、稗も含めて、穀物は地上に長く立った稈(かん、茎のこと)の頂部に穂をつけるため、安定が悪く風により倒れやすい弱点を持つ。対照的なのが、イモ類であり、サツマイモの普及はしばしば起る飢饉を契機にしている。
1732(享保17)年の享保の大飢饉により西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、既にサツマイモが栽培されていた今日の長崎県と鹿児島県では餓死者を出さなかったといわれ、サツマイモの有用性を天下に知らしめることとなっていた。江戸では、青木昆陽が1735(享保20)年に『蕃薯考』(ばんしょこう)を著し、飢饉のときにもよく出来ること、虫がつかないこと、風の害をうけないことをあげ、救荒食として甘藷(サツマイモ)の栽培普及を進めたことで知られている。そして、8代将軍徳川吉宗より、甘藷の栽培を命じられ、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ小石川薬園(小石川植物園)ほかでの試作に成功。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくり、その後、サツマイモは東日本にも広く普及するようになり、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評されている(以下参考の※3参照)。
サツマイモは穀物に比べ腐りやすく保存に関しては難点があり、又、黒斑病(以下参考の※4参照)と言う厄介な病気もあるが、それでも、稲の不作な環境でも無事育つことから高く評価された。又、穀物はたねが完全に充実しない限り役立たないが、サツマイモは完全に大きくならなくてもある程度まで肥大していれば収穫して食べられることも利点だったようである(週間朝日百科「野本の歴史」87参照)。
サツマイモは栽培しやすいことから、太平洋戦争後の食糧難の時期にも、国民の食を支えてきた。私なども小学校に入ったこれからといった成長期に芋粥や焼き芋をよく食べたのを思いだす。御蔭で、私等の年代のものは、栄養不足で殆どの人は身体が小さいよ。戦後経済が成長し、食糧事情も良くなるに従って、甘いものは、次第に果樹等に置き換わり、サツマイモはあまり顧みられなくなった。その一方で、品種改良によって更に甘みを増した事から、むしろ飢饉食・主食の代替というより、おやつ、お菓子の原料とみなされるようになった。 近年は、健康食品や、いも焼酎の原料として注目されている。
私は子供の頃厭と言うほど芋を食べて育ったので、幾ら美味しくなっているといっても、今は余り、買ってまでサツマイモを食べたいとは思わない。しかし、今年は、鹿児島から箱で送って来たので食べきれないから食べてくれと、ご近所の方2箇所から、2度、サツマイモをいただいた。通常見かけるサツマイモは、切り口の色が淡い黄色であるが、最初に貰ったのは普通のものより濃い黄色のものであったが 、2度目に貰ったものはオレンジ色をしてた。どちらも、天麩羅や焼き芋にして食べたが甘くて美味しかった。ネットで検索すると、やはり、シロ、黄色、オレンジのほか紫と4色のサツマイモがあり、それぞれの色によって、独自の機能性色素があり、色によってそれぞれ利用道が違っているようだ。(以下参考に記載の※5参照)。
文学上では、明治時代の俳人・歌人にして国語学研究家でもある正岡 子規の随筆『墨汁一滴』(以下参考に記載の※6:「青空文庫:正岡子規 「墨汁一滴」」参照)の明治34年2月9日の段に”近日我貧厨(ひんちゅう)をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺蕪(かぶら)、函館の赤蕪(あかかぶら)、秋田のはたはた魚、・・(中間略)・・神戸の牛のミソ漬、下総(しもうさ)の雉(きじ)、甲州の月(つき)の雫(しずく)、伊勢の蛤(はまぐり)、大阪の白味噌、大徳寺(だいとくじ)の法論味噌、薩摩(さつま)の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴(あめ)、横須賀の水飴、北海道の(はららご)、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。”・・・と、書かれているように、サツマイモは昔から鹿児島の名物であった。
サツマイモは当初救荒食として作られていたが、直ぐに農家の普段の食時としても作られるようになり、それが都市部にも広まり、京・大阪・江戸などの都市部ではそれを煮たり焼いたりして路傍で売られるようにもなるが、やはり、焼き芋が昔から好まれたようである。この焼き芋が露天で売られるようになったのはやはり、古き歴史のある都・京都のようである。
1719 (享保4)年朝鮮通信使の申維翰(シン・ユハン。日本語読:しん・いかん以下参考の※7参照)が製述官(書記官)に選ばれ来日。彼は来日の際の道中日記と日本事情観察記をまとめて『海游録』を著しているそうで、同書に京都郊外の焼き芋屋の情景が描かれているという。以下参考に記載の※8:「焼き芋小百科」によると、“江戸に向かう一行が京都から大津へ向かった9月12日のこと。小さな峠を越えたところに道をはさんでたべものの店が並び、「それぞれ酒、餅、煎茶、焼き芋を用意して路傍に並べ置き、通行人を待って銭をかせぐ」とある。”ようだ。
京都のやきいも屋は、栗「九里」に近いというなぞかけで「八里半」と言う看板を出していたそうだ。さすが京都、粋な名前を付けるよね~。江戸には寛政年間に初めて焼芋屋ができたようだが、その店も八里半と書いた行燈を出していたようだ。
冒頭の画像は、神田雉子町の名主斎藤月岑が、雪舟系の絵師長谷川雪旦とのコンビで江戸末期に描いた絵入り年中行事記『東都歳時記』(これに郊外分などの追補し完成したものが、よく知られている『江戸名所図会』であるといわれているが・・・)に描かれている焼芋屋のある風景である。この画の焼芋屋の店先には「八里半」と、もう一面には「○焼」と書いた行燈が吊り下げられているが、これは、芋を丸ごと焼いたものと言うことで当時焼き芋のことを「○焼」とも言っていたようだ。又、画には焼き芋と共に草鞋(わらじ)なども売られているのがわかるだろう。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典ともいわれる『守貞謾稿』(もりさだまんこう。著者:喜田川守貞。1853年)には、江戸には専門の焼芋屋は少なく、冬に焼き芋は木戸番小屋で売ることが多いとあるそうだが、木戸番とは、町ごとに作られた木戸の番人のことで、江戸の町々にはこの木戸が設けられ、夜は閉じられることになっていた。その木戸にはそれぞれ「番太郎」または「番太」と呼ばれる木戸番が2人番小屋に居住していたが、これは、盗賊や不審者の通行・逃走を防ぐためであった。又、江戸は火事も非常に多かったことから火の見櫓(梯子櫓)が木戸の側に設けられていたため、火事があった時には半鐘を打つ役割もあり、夜毎に拍子木を打って夜警もしていた。それで、木戸番屋を「火の番屋」とも呼んだそうだが、この木戸番の給金はそれぞれの町内から支払われた。しかし、木戸番の賃金は少なかったため、彼らには駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢・草履・草鞋などの荒物(生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったりして副収入としていたようだ。火事の多かった当時の江戸では普通の駄菓子屋や荒物屋では火を使っての商売は、禁じられていたが、木戸番は火の用心の仕事をもしていたことから、火を使って焼芋を商うことも特別に許可されたのだろう。そのようなことから焼き芋屋は木戸番の専売のようになっていたようで、木戸番は本職より内職の方で知られ、木戸番屋のことを「商(あきない)番屋」とも呼んでいたという。江戸時代も後期になると、木戸番は番屋を拡げて妻子を住まわせたり、番人の職が株化されて売買されたりもしたという。時代劇など見ていると、拍子木を打ちながら火の用心と言いながら町を警戒している腰の曲がった冴えない年寄りが木戸番として登場することが多いが、なかなか実入りの多い恵まれた仕事だったのだな~。
”神田明神の祭りもすんで、もう朝晩は袷(あわせ)でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太(ふでぶと)にかいた行燈の灯がぼんやりと点(とも)されるようになると、湯屋の白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどき鳴った。”・・・これは、岡本綺堂の捕物帳もの「半七捕物帳 半鐘の怪」からの抜粋である(以下参考に記載の※9:「青空文庫:岡本綺堂 半七捕物帳 半鐘の怪」を参照)。
栗の美味に近いという意味で「八里半」といわれていた焼き芋屋にやがて、小石川のあたりで「十三里」と言う看板を掲げて売る店が現れたという。8代将軍吉宗が、サツマイモの栽培を奨励したのがきっかけで、埼玉県の川越がサツマイモ(川越イモ)の栽培地として知られるようになるが、一説には、この川越までの距離が江戸から十三里あるのでこう呼ばれた・・・などとも言われているようだが、実際には、江戸での焼芋屋が、“栗「九里」より「四里」うまい十三里(9+4=13)”とのしゃれから生まれたキャッチコピーだろうとするのが今では通説のようだ。
現代と違って当時の江戸では,冬に雪が降ることは珍しいことではなく,たびたび降った様であり(以下参考に記載の※10:「江戸時代の気候」参照)、江戸の庶民は、寒い冬に雪見酒や雪見風呂など、暖かいものを楽しみながら「雪見」に興じることも広く行われていた。それは、浮世絵師・広重の雪見の絵「江都名所隅田川雪見之図」(※11参照)や、北斎の傑作、『富嶽三十六景』のうちの1図「礫川 雪ノ旦」(雪見参照)などがある。北斎の「礫川 雪ノ旦」は、美女数人をはべらせた通人が雪景色の中の料亭の二階に宴を張り、富士を眺める様子を描いた一枚であり、「礫川(こいしかわ)」とは「小石川」のことで、現在は東京都文京区に属している一地域。江戸期には、武蔵国豊島郡小石川村のみならず、神田上水の現・水道橋界隈から外白山あたりまでを含む広い地域を指す呼称であったそうだ。
このような当時の寒い江戸の冬場には、暖かくて甘く美味しい焼き芋は江戸庶民に大人気だったようで、現代で言えばスナックのような感覚で急速に普及していったようだ。特に、男性よりも女性が好んだであろうことは、「芋たこなんきん」が女性の好む食材の代名詞として使われていることを見ても判るだろう。江戸でサツマイモの試作が成功して50数年後の寛政年間に発刊されたという『甘藷百珍』(いもひゃくちん。著者:珍古楼主人)には、サツマイモ料理が、奇品、尋常品、妙品、絶品の4分類され123品もの料理が収録されているという(以下参考に記載の※11:「百珍本を読む:百珍本」の甘藷百珍を参照)。
今日の「さつまいもの日」の話はこれまで。
以下は、サツマイモとは関係ない私のひとり言なのでお暇な人だけ見てください。
(冒頭の画像は、『東都歳時記』に描かれている焼き芋屋。NHKデータ情報部編、ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より借用)


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さつまいもの日( Part 2):余談と参考

2010-10-13 | 記念日
このブログの中段で、サツマイモについての文学上の話に触れたとき、正岡 子規の随筆『墨汁一滴』の一文を引用した。
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした明治時代を代表する文学者の一人である正岡 子規は、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていたが、この随筆『墨汁一滴』は、子規が亡くなる((1902年9月) 前年の1901(明治34)年1月から7月まで164回にわたって新聞「日本」に掲載されもの。この当時すでに子規は歩くことどころか、寝返りさえもままならず、結核からくる脊椎カリエスの苦痛を忍び、喀血しながら毎日墨汁一滴分、1行から20行の文章を書き投稿した闘病随筆である。しかし、当初投稿しても新聞には掲載されず、創業者である陸羯南に「場所は選ばぬ、欄外でも差支無い、・・・」との悲痛な申し込みをし、掲載が実現したとのエピソードがあるようだ。詳しくは以下参考に記載の※12:「明治」という国家:「墨汁一滴」、連載開始を参照されるとよい。
この『墨汁一滴』の冒頭(1月16日)の文書には以下のように書かれている。
”病める枕辺(まくらべ)に巻紙状袋(じょうぶくろ)など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾(わかざり)をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶(しだ)の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙(だいだい)を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据(す)ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨(そこつ)の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林(きつりん)黒竜江(こくりゅうこう)などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何(いか)に変りてあらんか、そは二十世紀初(はじめ)の地球儀の知る所に非(あら)ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱(ほうらい)なり。
枕べの寒さ計(ばか)りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも”・・・と。
この短歌のほぎも、ほぐもほの漢字には祝または寿が当てられ、祝事(祝いごと)を「ほぎごと」と言うように祝うことである。それはさておき、この当時の日本の地図には、日本の領土が赤く染められており、台湾も赤く染められ、新日本と記されていたのだ。以下参考に記載の※13:「古~い世界地図 」にある日露戦争が終わって数年後の11908年発行「亜細亜全図」を参照。
台湾の日本統治時代は、日清戦争後の1895(明治28)年4月17日に調印した下関条約によって清朝(当時の中国)から大日本帝国(当時の日本)に割譲されてから、第二次世界大戦の結果ポツダム宣言によって台湾が大日本帝国から中華民国に編入された1945年(昭和20年、民国34年)10月25日までの時代である。
ただ、日清戦争後の下関条約で、日本が中国・清朝から割譲を受けたのは台湾と澎湖諸島であり、尖閣諸島は含まれていないのだが、中国と台湾は「尖閣諸島も含む」と主張している。
尖閣諸島は1880年代後半から1940(昭和15)年にかけ、琉球諸島の住民が建設した船着場や鰹節工場などもあったが、後に無人島化し現在に至っている。1968(昭和43)年の海底調査の結果、1971(昭和46)年に東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘されると領有権を巡って中華人民共和国と中華民国が領有権を主張し出し問題化している。
2010(平成22)年・今年の9月7日、尖閣諸島中国漁船衝突事件が発生し、本問題が争点となっている。
世界には、大小約200カ国の国が存在し、小さなものから大きなものまで含めると、約50カ国が領土問題を抱えているというが、その中でも日本のように、ロシア、韓国、中国との三か国(※台湾も尖閣諸島の領有を主張)にまたがり領土問題を抱えている国は少ない。これは、海洋国日本が島国であり、小さな無人島を含め多くの島々を領有していることにも起因するが、このような難しい領土問題を、今の頼りない民主党政権がこれからどのように対応してゆくのだろうか?
国民の多くの民意である”優しく真面目そうなどと言う”消極的理由を背景に菅政権が成立したが、全く経験も知識も統率力もない菅首相ときれいごとばかり言っている原理主義者の多い閣僚で固めた菅内閣が、裏も表もある難しい領土問題で下手な外交をすると今抱えている領土問題が次々と問題化してくるだろう。日本の主権に関わる大切な問題が噴出し始めた大事なときに今の菅内閣の頼りなさが日本の将来に大きな禍根を残すことになるのではないかと私は心配でならないのだが・・・皆さんはどう思っておられるのだろう?
(画像は、尖閣諸島の位置と名称(日本名)1.魚釣島 2.大正島 3.久場島 4.北小島 5.南小島 6.沖の北岩 7.沖の南岩 8.飛瀬。Wikipediaより)
参考:
※1:東京市史稿 産業篇第32 目次
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0601sangyo32.htm
※2:昔の飯能
http://ghosts.s87.xrea.com/daylight/yore/yore-059.htm
※3:青木昆陽
http://www.burari2161.fc2.com/aokikonyou.html
※4:黒斑病 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%BB%92%E6%96%91%E7%97%85/
※5:色鮮やかなサツマイモ品種
http://www.knaes.affrc.go.jp/sakukai/ryutsu/new/topix/murasakiimo/murasakiimo-parts/murasakiimo-1.html
※6:青空文庫:正岡子規 「墨汁一滴」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html
※7:※申維翰 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E7%94%B3%E7%B6%AD%E7%BF%B0
※8:焼き芋小百科(PDF)
http://www.jrt.gr.jp/yaki_imo/zenbun.pdf#search='京都 焼き芋屋 発祥'
※9:青空文庫:岡本綺堂 半七捕物帳 半鐘の怪
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/965_14983.html
※10:江戸時代の気候
http://www.geocities.jp/srkhayasi/kikou3.html
※11:百珍本を読む:百珍本
http://karusyoku.com/hyakutin/hyakutin_hanasi.html
※12:「明治」という国家:「墨汁一滴」、連載開始
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/01/post_414.html
※13:古~い世界地図
http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/
毎日JP:尖閣諸島の領有権とは
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/Senkaku_Islands/?inb=yt
領土問題- Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/territorial_dispute/
日本の領土問題(PDF)
http://sun.ac.jp/prof/yoshilee/IL-9.pdf#search='日本の領土問題'
甘藷百珍 / 珍古楼主人 輯
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo08/wo08_00023/index.html
野菜図鑑
http://vegetable.alic.go.jp/panfu/zukanmokuji.html
明治大学図書館所蔵「長谷川雪旦書簡」とその背景について
http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/saitouM04.pdf#search='長谷川雪旦'
和蘭文字略考
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data19.htm
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
サツマイモ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2


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カラーアニメ作品「ゲゲゲの鬼太郎 」がTV放映された日

2010-10-07 | 歴史
「ゲゲゲの鬼太郎」は、幽霊族の少年鬼太郎を主人公とする水木しげる(本名:武良 茂=むら しげる)の代表作ともいえる漫画『ゲゲゲの鬼太郎 』(旧題:『墓場の鬼太郎』)を原作とする妖怪アニメ作品である。
人間界の常識では解決できないような不思議な事件が起こった時、妖怪ポストに助けを求める手紙を入れると、謎の少年・鬼太郎が現れて全てを解決してくれる。事件の大半は妖怪たちが引き起こしたものだがその背景には、自分たちの利益のため、ひっそりと棲んでいた妖怪の世界へと踏み込んで、自然を荒らした人間たちの姿があった…。鬼太郎と妖怪の戦いを描きながらも、現代社会の抱える諸問題、世相を盛り込んだストーリーは、大人が読んで楽しめる漫画である。
1968(昭和43)年1月より東映動画がフジテレビ系で「ゲゲゲの鬼太郎 」アニメ第1シリーズの放送を開始したが、このシリーズはモノクロであった。好評を博し、全65話が放送された(1968年1月3日~1969年3月30日)。
そして、カラーアニメ作品として製作(第2シリーズ)され放送開始されたのが1971(昭和46)年の今日・10月7日からであった。この時より猫娘がレギュラーに加わっている。第1シリーズの続編として製作されたため、原作ストックは早々に底を突き、後半は水木の他作品を鬼太郎エピソードに脚色して使用することで乗り切ったという。
私は特別の漫画、特に水木ファンと言うほどでもないので、水木の漫画本やテレビなどもつまみ食い程度にしか見ていないので、詳しいことはよく知らないが、そのためか、このカラーアニメ作品は後半では児童向けらしからぬ非常に怖いストーリー展開や、社会性のある重厚なエピソードも誕生したようだ。尚、幼少時代の水木しげるは自分の名前(しげる)を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となったようで、そのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルとなったようである。
今日このブログで、「ゲゲゲの鬼太郎」のことについて書いてみようと思ったのは、水木の妖怪漫画は子供だけでなく大人が見ても面白いと思うし、大丸ミュージアムKOBE(大丸神戸店9階)で、2004(平成16)年8月(4日~16日)に「大(Oh!)水木しげる展」が開催されていたのを観に行き、会場で、東海道五十三次に因んだ「妖怪道五十三次」の絵はがきセットを販売していたので購入。私のコレクション絵はがきの中の1つとして大事に保管している。
又、水木しげるの妻・武良布枝(むら ぬのえ)が著した自伝『ゲゲゲの女房』(2008年)を原案として放送された同名の「NHK連続テレビ小説」が、3月29日(月)~9月25日(土)まで放送されていた。このドラマは人生の同伴者である妻の目からみた水木像が描かれている。テレビドラマで水木しげる(ドラマ上は村井茂)の妻布美枝役を演じていた松下奈緒は、私の地元・兵庫県の川西市出身で、ファッションモデル、ピアニスト、作曲家、歌手でもある。本職がファッションモデルと言うだけあって長身で身長は174 cmあるという。
テレビドラマ上の水木の妻は、顔の長い大女として描かれているので彼女はそのような役にはぴったりであるが、ドラマが終わった後、番組名は忘れたがどこかのテレビで水木夫婦をインタビューしていたのを見たが、実際の布枝さんはテレビドラマに描かれている時代の人としては少し大柄な方だったかも知らないが、そんなに大きな人とは感じなかった。少し面長ではあるが非常に品の良い理性的な女性であった。
このドラマは戦後15年ほど経った1960年代を中心とする昭和の時代。まだこれから先の世の中がどのように発展して行くか判らなかったが、それでも確実に成長していた時代、しかし、貸本マンガ業界はすでに斜陽であり、本が売れなくて喰うものも食えない貧乏ではあったが、それでも、諦めずに、明るく漫画一筋に生活をしてゆく水木やその妻、つまり、夫婦や家族の人情味あふれるやり取りを描いたものであった。
今の荒んだ時代から振り返ってみれば非常に懐かしい良き時代、いわゆる昭和レトロ、つまり昭和30年代のドラマであった。思い起こせば、この頃を境にして、日本の世の中がそれまでの古い時代から新しい日本、現代へと転換を始めた時期と言えるだろう。
金・金・金の今の世の中、3K(キツイ、汚い、危険)を嫌い、どれだけ仕事に熱中しているのかは知らないが不平不満ばかり言っている人が多い。このドラマでは、作品が売れない中、それでもただひたすらにマンガを描き続ける水木の姿、又、貧乏のどん底の生活の中でも嫁入りに持ってきた大切な着物なども質に入れながら何の不平不満も言わずに明るく振舞い、マンガに打ち込んでいる夫を支え、子供たちを育てている妻の姿は、実に微笑ましく、見ていてすがすがしかった。
しかし、かっての日本では、殆どの家庭の主婦がこのようであったのだが、現代の家庭の状況などを見ていると、時の経過と共にこんなにも家庭のあり方が違ってきたのだな~と感慨深かった。
この時代でもまだまだ日本人は誰もが、必死に働いて生きていた。しかし、同じ貧乏でも終戦直後の悲惨な状況ではなく、日本の経済が発展していた時期であり、じめじめとした暗さはなく明るい家庭を描いたのがこのドラマ成功の一因でもあるように思う。最近は、NHKの朝ドラも、余り芸のない今名前だけ知られているような若手のタレントを使ったものなどが多く、面白いと思ったものも少なくなり、観ることも少なくなったが、このドラマは、水木役の向井理(むかい おさむ)、妻役の松下奈緒が好演し、他の役者も味のある演技派が配され見ごたえがあり、きっちりと最後まで観た。
テレビの視聴率は、当初、余り良くなかったようだが、その後右肩上がりに推移し、最終回には番組最高の23.6%を記録したという(詳細はWikipediaの#各週のサブタイトル・#視聴率参照)。
鳥取県境港市生まれの水木は幼少のころより好奇心が旺盛で、近所に住む老婆(「のんのんばあ」と呼ばれていたらしい。)から不思議な話を多く聞き、妖怪や精霊に興味をもつようになったという(『のんのんばあとオレ参照)。
画家への道を夢見ていた青年時代、太平洋戦争に召集されラバウルマラリアを発症、その上、爆撃で片腕を失うが、九死に一生を得て、1946(昭和21)年に復員後、片腕の本格的な治療を受けながら、故郷で養生した後、1948(昭和23)年武蔵野美術学校に入学。輪タク(以下参考の※1参照)業を営むが失敗し同大学は中退する羽目になったようだ。その後、1950(昭和25)年には、私の地元である神戸市兵庫区水木通りで「水木荘」というアパートの経営をしていたいう。
このアパートの住人に紙芝居作家がいたことから翌年には紙芝居画家となる。後のペンネームの「水木」は、このときのアパート「水木荘」に住んでいたことから「水木さん」と呼ばれていたことからつけられたそうだ。
この頃すでに、『墓場の鬼太郎』『河童の三平』を描いているそうだが、紙芝居は使い捨てで「後世に残す」という部類のものではなかったため、水木の紙芝居作品は現存していないようだ。
その後、昭和30年代になるとテレビの普及等で紙芝居が廃れたことからアパートを整理して上京し、貸本漫画家に転身。各地を転々としていたが、東京・調布市に家を買い、現在もその地に住んでいるようだ。先述のテレビの水木夫妻へのインタビューに訪問していたのはこの調布市に有る屋敷であった。
「ゲゲゲの女房」のテレビドラマは、昭和14年。飯田布美枝(水木の妻・布美枝の幼少時の役名。旧制の本名は、飯塚布枝)が7歳のころから始まり、第3週(第13回〜第18回)に入ると、昭和35年の秋。布美枝と、東京に住む貸本漫画家の村井茂(水木しげる)との見合い話が持ち上がったところから始まる。ここからの夫婦の東京での生活などはほぼ、2人の実生活に近いようなので、テレビを見られた方などはお分かりと思うので書くのを省略する。この11月20日より映画としても全国公開されるようなので、テレビドラマを観ていない人などは映画を見られると良いだろう。テレビでの向井、松下が良い味を出して演じていたが映画ではどうなのだろう。
水木と水木の漫画のことなど知りたければ、以下参考に記載の※2:「大川瀬萬画倶楽部─トキワ荘の漫画家の大好きな人集まれ ・水木しげる」が見て面白く詳しいよ。サブメニューの「現在・過去・未来」4~2(4から2へ順に見る)の「水木しげる~遠野物語~」にも水木と水木の漫画のことが詳しく書かれているので好きな人は見に行かれると良い。
私は前にホームページで、コレクションの水木の「妖怪道五十三次」の絵はがきセットを浮世絵の「東海道五十三次」との比較で、一時的な催事として紹介したことがあるのだが、枚数が多く、容量が大きくなり、催事終了後に全てホームページから消去してしまったが、今のホームページには容量に余裕が出来たので、再度、1枚づつ紹介していくことにしよう。
以下のYouTubeで「ゲゲゲの鬼太郎 」アニメ第1シリーズオープニングが見れる。そういえば、「ゲゲゲの鬼太郎 」の歌詞も水木の作詞だったんだね~。いずみたくの作曲によるものだがなかなか良い曲だよ。
YouTube-ゲゲゲの鬼太郎オープニング '60s
http://www.youtube.com/watch?v=At2FdwQd4rI
(画像は、大丸ミュージアムKOBE(大丸神戸店9階)で、2004(平成16)年8月(4日~16日)に開催された「大(Oh!)水木しげる展」のチラシ。)
参考:
※1:輪タク- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%BC%AA%E3%82%BF%E3%82%AF/
※2:大川瀬萬画倶楽部─トキワ荘の漫画家の大好きな人集まれ ・水木しげる
http://blogs.yahoo.co.jp/okawasemc/folder/616797.html?m=lc&p=1
水木しげるの妖怪ワールド
http://www.japro.com/mizuki/
ゲゲゲの女房 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%88%BF
連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」
http://www9.nhk.or.jp/gegege/index.html
劇場情報|映画『ゲゲゲの女房』公式サイト
http://www.gegege-eiga.com/theaters.html
NHK朝ドラ『ゲゲゲの女房』最終回視聴率は23.6%
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100927-00000005-oric-ent
ゲゲゲの鬼太郎 歌詞
http://www.fukuchan.ac/music/anime/gegegenokitarou.html

俳優・緒方拳(映画「楢山節考など)の忌日

2010-10-05 | 人物
今日・10月5日は、日本を代表する名優として数多くの舞台・テレビ・映画などに出演し日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を5回受賞する他、数々の賞を受賞している緒方拳(おがた けん)の2008年の忌日である。
代表作に、NHK大河ドラマの「太閤記」「必殺仕掛人」などや映画の「楢山節考(1983)、「火宅の人」(1986)などがある。
緒方拳、本名:緒形 明伸(おがた あきのぶ)は1937(昭和12)年、東京生まれ。東京の高等学校卒業後、1958(昭和33)年に辰巳柳太郎に憧れて新国劇に入団し、辰巳の付き人となった。
芸名の緒形拳は歌舞伎、新派、新国劇などに数多くの脚本を提供し、演劇界の大御所と言われた劇作家・北条秀司の夫人によってつけられたもので、元々は「おがた こぶし」という読みであったという。なんでも、「お前の特徴は何だ」と聞かれて、とっさに「うーん、手かなあ」と答えたことから手に関連するあらゆる単語の中からこの名が選ばれたそうだが、周囲の誰からも「こぶし」と読まれず、「ケンさん、ケンさん」と呼ばれ続けた為に、この呼び方が定着したというが、たしかに、この呼び名の方が親しみがあっていいよね~。
下積みの彼の才能を評価し抜擢してくれたのは師匠の辰巳ではなく、新国劇のもうひとりの雄・島田正吾の方であった。
1960(昭和35)年、新国劇で上演された菊島隆三の原作を映画化した「遠い一つの道」でボクサー役に抜擢され、島田と競演し銀幕にデビューを果たした(緒方の出演映画のことは以下参考に記載の※1:「緒形拳 - goo 映画」を参照)。
1965(昭和40)年、NHK大河ドラマ「太閤記」の主役・豊臣秀吉に抜擢され、お茶の間の人気を独占。翌1966(昭和41)年にも、同大河ドラマ史上最年少での尾上菊之助主演による「源義経」に続けて起用され、主君義経を必死で守りぬく武蔵坊弁慶役を演じ、最期は義経を守るために仁王立ちのまま絶命。義経に「死んでもなお、我を守るか!」・・・と言われる。
以下では、太閤記より12年目の1977(昭和52)年「大河ドラマの十五年」という番組での「太閤記」で競演した緒方と石坂浩二との対談と、ドラマラストでの緒方の凄まじい形相をした「弁慶立ち往生」のシーンが見れる。
YouTube-緒形拳
若かりし頃の二人の対談が良いが、特に笑顔で冗談話をしている緒方に役者として演じている緒方とは違った意外にひょうきんで明るい面を感じられた人も多いのではないか。
又、テレビで忘れてはならないのが、1972(昭和47)年9月2日から翌年4月14日にかけて毎週土曜日にTBS系列(現在とネットワーク編成が異なる)で放映されたテレビドラマ「必殺仕掛人」である。池波正太郎の小説『仕掛人・藤枝梅安』シリーズを原作とするもの。「明るく陽気な町医者(鍼灸医・藤枝梅安)として江戸の庶民たちに慕われるが、裏に回れば凄腕の仕掛人」という、時代劇史上類を見ない、画期的なキャラクターを好演した。
緒方の出演した「必殺仕事人」のチーフプロデューサーだった山内久司氏は、緒方について、「必殺シリーズ第1弾の主演であり、過去のテレビには存在しなかった現代感覚を定着させた。俳優として、その後、登場した藤田まことが必殺シリーズの「育ての親」とすれば、緒方は「生みの親」。演技に大変な工夫をする人で、仕掛人の梅安が針で人を刺すとき、指先を切った手袋をはめたが、あの小道具も彼の考案によるものだという。大ヒットしたため、緒方で、シリーズ化を考えたが、彼自身がほかの役をやりたい・・・といったので実現しなかったのが残念と語っていた。
映画に進出するや野村芳太郎今村昌平らの名監督の作品で活躍するが、映画で最初に高く評価されたのが、松本清張の同名小説を野村芳太郎監督が映画化した「鬼畜」(1978年)であった。ある日愛人に生ませていた3人の隠し子を、突然押し付けられ彼女は失踪してしまう。気弱な男は動転して親とは思えない行動をとり・・・次々捨てていくことに・・・。この役でキネマ旬報主演男優賞を受賞した。
又、1975(昭和50)年下期の直木賞を受賞した佐木隆三の小説を今村昌平が映画化した「復讐するは我にあり」(1979年)は、敬虔なクリスチャンでありながら次々と5人の人間を殺害した連続殺人犯を描いたものである。佐木の小説は実際にあった西口彰事件を題材にした作品であり、その主人公が殺人を犯す極めて不条理な心理状況を描写している。
映画評論家の佐藤忠男氏は、緒方死去の際の新聞(2008・10・7朝日)紙上で緒方について、「役者としての資質が最も出た作品だった」「何かとことんまでやってしまう・・・エキセントリック(性格などが風変わりなさま。奇矯〔ききょう〕なさま)な人間像は、戦後日本人の持つ熱さを象徴している、役者としてのスケールが映画で生きている。」と評していた。
深沢七郎が中央公論新人賞を受賞した小説『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、姨捨山(うばすてやま)伝説をベースに、信州の寒村に住む人々を描いたものである。
1958(昭和33)年に、木下惠介監督により、映画化されていたものを、1983(昭和58)年に今村昌平監督が2度目の映画化をし、見事、日本人では初めてカンヌ国際映画祭にて2度目の最高賞(パルム・ドール)を受賞したが、緒方も老母を山に捨てる息子役(冒頭向かって左の画像は、老母役の坂本スミ子を背負う緒方)で鬼気迫る演技を見せ、日本アカデミー賞などの演技賞を独占した。
ちょっと面白いのが、一倉治雄監督の映画「国会へゆこう!」(1993年5月1日公開。)である。 冒頭向かって右のものは、同映画のチラシである。
実際の政治とその裏側をコミカルに暴き出しながら理想の政治改革をめざして奮闘する保守党代議士(緒方拳)と若き議員秘書(吉田栄作)の姿を描いた政治コメディである。
若き議員秘書(吉田栄作)が見聞きするのは、遷都をめぐる汚職疑惑、どろどろした派閥闘争、平然と行なわれる闇献金・・・。緒形は「片手で賄賂を握りながら、片手で政治改革法案を書く」といったやり手政治家を見事な演技でこなしている。
私は、時代劇が好きなので、時代劇を演じている緒形が好きだが、このようなコメディーでもいい味を出す。本当に良い役者だったよな~。
この映画公開時の興行成績はイマイチだったようだが、映画の最後では、緒形演ずる保守党代議士が新党結成を決断するが、映画公開の前年には日本新党が結成され、同年7月の第16回参院選では政治改革の流れの中で無党派層の支持を獲得し、55年体制崩壊をもたらした「新党ブーム」のいわば火付け役となっていた。
又、自民党内最大派閥・経世会の会長・金丸信が5億円のヤミ献金発覚(東京佐川急便事件)で起訴され、世論の強い反発で議員辞職(10月)した後、竹下派七奉行による激烈な主導権争いが繰り広げられ、党内最大派閥が完全に分裂。
映画公開後に、羽田孜小沢一郎らによる自民党離党・新生党結成(6月)騒動が起き、この映画のストーリーが現実のものとなってしまった・・・ことなど、まさにタイムリーな話題を提供した映画だった。
新生党は7月18日の第40回衆議院議員総選挙で、55議席を獲得。自民党が過半数割れとなり、8月9日、非自民・非共産8党派による細川護煕内閣を発足させている。 
尚、戦後わが国では、巨大化した首都東京の過密問題や、国土全体の地域格差是正等の諸問題に関し、有力な対応策として、国会・政府機関等の移転、あるいは東京の大規模な都市改造がたびたび論議の的となり、さまざまな提案がなされてきたが1990(平成2)年11月7日には、「国会等の移転に関する決議」が衆・参両院において決議されている(以下参考に記載の※2:「国土交通省:国会等の移転に関する移転ホームページ」参照)が・・・この問題は、今どうなってしまっているんだろうか??
この映画、政治を扱ったコメディ映画であるが、当時の状況を想像しながら見るとなかなか面白い映画だよ。
緒方は、ひと所に安住せず、芸の道の挑戦を続けた。まるで旅人のような役者人生を送った。多くの作品に出演しているが、どの作品を観ても、完全に役になりきっており、主役ではないちょい役であっても彼の演技が目立ち、この人の内から滲み出ている雰囲気には、とても人間的な魅力を感じる。
映画で、スターとなった後も原点となった新国劇やテレビを大切にし、2006(平成18)年、新国劇の師・島田正吾晩年の代表作「白井弁十郎」(エドモンド・ロスタンの名作「シラノ・ド・ベルジュラック」を、幕末から明治中期までの日本を舞台に一人芝居の形式で翻案したもの)をアレンジした1人芝居「白野-シラノ-」を演じている。
又遺作となったのは、倉本聡脚本の連続テレビドラマ「風のガーデン」(フジテレビ系列)となった。
(左画像は、1983年公開の東映映画「楢山節考」の1シーン。2008年10月7日朝日新聞より。右画像は、1993年公開の東宝映画「国会へ行こう!」のチラシ。向かって左:緒方拳、右:吉田栄作)
※1:緒形拳 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c86263/index.html
※2:国土交通省:国会等の移転に関する移転ホームページ
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/information/basic/b_02.html
緒形拳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E5%BD%A2%E6%8B%B3