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食糧危機の為、外食券食堂などを除く全国33万軒の飲食店に休業命令 が出た

2008-07-05 | 歴史
1947(昭和22)年の今日(7月5日)、食糧危機の為、外食券食堂などを除く全国33万軒の飲食店に休業命令 が出た。
アメリカのサブプライム問題(参照)以降、世界の投機マネーが、エネルギー資源や穀物など食料に向かい、ここのところ原油を初め諸物価が高騰しており、中でも、食糧危機の問題が一気にクローズアップされてきたことは、先日、このブログ7月1日「初の国産愛用週間」でも触れてきた。今の世界及び日本の「食糧危機」の問題については、以下参考に記載の「フォーラム 地球の危機管理 ”世界がかかえる食糧問題、日本がかかえる食糧問題”」など参照されると良い。
日本の食糧危機は何度かあったが、近い年代としては、やはり、昭和の初め、そして、終戦直後の時代であろう。
1939(昭和14)年、ドイツがポーランド侵攻後、これを受けてイギリスやフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始った。そして、1940年7月、軍部をはじめ各方面の衆望をになって第二次近衛文麿 内閣が発足。同内閣は、組閣直後に大東亜新秩序(大東亜共栄圏)の建設をかかげた「基本国策要綱」を決定。この対外国策要綱にもとづいて、9月には日独伊三国軍事同盟を締結し、南方進出策と対英米戦争の準備に進み、10月には大政翼賛会を発足させている。
第二次世界大戦開始に先だつこと1ヵ月余り、アメリカは日米通商航海条約(日米修好通商条約参照)の廃棄を通告してきた。すでに1931(昭和 6)年の満州事変から1937(昭和12)年の支那事変(日中戦争)へと10年近くも、中国と戦争を続けていた日本の戦時経済は、戦争によって甚大な打撃を受けた。もともと低位な産業構成と国際的に劣弱な資本蓄積しかもたなかった日本経済が、その弱点を急速に補強するため日中戦争下に生産力拡充政策を強行してゆくなかでしだいに累積されてきたもろもろの矛盾が国際的悪条件のもと、一斉に表面化しはじめた。物資の統制は生産財・輸出品・輸出品用原材料等の配給統制が行なわれ、ほとんどすべての主要商品に及んだ。インフレによって物価指数は再上昇し、生産力拡充に重点をおく低物価政策がとられた。また、食糧問題が重大化し、1941(昭和16)年4月1日生活必需物資統制令が公布(以下参考に記載の「中野文庫 - 生活必需物資統制令」参照)された。また、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の6大都市で米穀配給通帳制による配給が実施された(以下参考に記載の「戦時中の生活【シルバー回顧録】」など参照)。同時に外食券制実施。外で食事をする者には、米の配給の代わりにチケットが公布された。配給による米の割当量は普通の大人(数え年11歳から60歳、まで=甲種・勤め人など)が1日当たり330g(2合3勺)余とし、年齢や労働の差によって個人の配給量が細かく決められていた。数え年1歳~5歳120g、6歳~10歳200g、11歳~60歳乙種(重労働者)男390g、女350g、丙種(特別重労働者)男570g、女420g、61歳以上甲種(普通)300g、乙種男350g、女320g、丙種男480g。大人1日330gの割当量は、通常の消費量を約2割も下回っていた。しかも、配給の米には、コーリャン(イネ科1年草の「モロコシ」「タカキビ」とも呼ばれる)やトウモロコシが混ぜられ、質・量共に低下していく。米の不足分は代用食で補わざるをえなかった。5月には家庭用木炭配給通帳制・酒切符制を実施している。6月7日付けの朝日新聞には「ゲンゴロウのてんぷら、トンボのつくだに(佃煮)ー食える雑草は1000種も」の見出しで、次のような記事が掲載されていたという。
”食料報告連盟では、全国で「備荒動植物」の調査をおこなっていたが、その概要がまとまった。雑草として今まで顧みられなかった草で食料になるものは約1000種、動物は100種に及んでいる。たとえば、キク科(タンポポ、ノアザミ、ノゲシ、ヨメナ、ヨモギ)の36種をはじめキキョウ科、シャクナゲ科、バラ科、クワナ科などは食用調整法が研究されている。一例をあげると、タンポポは若菜を和え物に、ヤマツツジは、塩漬けやフレンチサラダに、と言う具合だ。動物は、トカゲの頭を落して焼いて食用に、ゲンゴロウは幼虫の羽を除いて焼いて食う、身はてんぷらに、トンボは成虫の羽を取って油で炒め、しょうゆ・砂糖で煮付ける、カタツムリは焼いて食う。”と・・。そして、”新聞の家庭面には、食用ガエルの食べ方を教えて欲しい、金魚池を食べられる魚の養殖場に変えたいが素人にできる養魚法は?”といった読者からの投書が紹介されているという。また、東京市公園課では市内の公園に農園芸指導相談所と指導栽培園を設け市民に解放、ジャガイモ、サトイモ、ホウレンソウ、トマトなどの野菜を収穫していたそうだ(朝日クロニクル「週刊20世紀)。
いや~、なかなかゲンゴロウやトカゲ、トンボの食べ方まで親切なこと?ではある・・・・しかし、本当に食糧問題が深刻なのはそのようなものが豊富にある田舎では無く、都会の住民なのであるが・・・(-。-) ボソッ。
このような戦争に伴う物資不足の中、南方に資源を求めようとする日本とアメリカの対立が激化。日本軍の南部仏印(ベトナム)侵攻(仏印進駐参照)に対して全面経済封鎖が取られ、1941(昭和16)年12月に対米英戦が開始された(大東亜戦争の勃発)。その後戦局が悪化していくと、生活物資、特に食糧の配給量の不足は顕著になり、農作物の増産が盛んに奨励される中、清沢洌(きよさわ きよし)は1944(昭和19)年『暗黒日記』において、次のような状況を記しているという。
”「毎日の新聞は野菜のことばかりだ。ところが、その増産の奨励にかかわらず、馬鈴薯(ばれいしょ、ジャガイモの別名)の種薯(たねいも)も、にらもいずれも種が配給されぬのである。官僚主義がいかに不生産的なものであるかが、この一事でも分るであろう。しかしフレキシビリチー(フレキシビリティー [flexibility] 柔軟性。融通性。)のない日本人は未だ覚ることが出来ぬ。何か行詰ると「統制の不足」に持っていっている」"・・・と。(以下参考に記載の「国立公文書館アジア歴史資料館「写真週報にみる昭和の世相」の2・食生活参照)
清沢洌は、長野県生まれの、ジャーナリスト、評論家で、晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた自由主義平和思想家であったというが、この日記では、官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記しているという。清沢が日本の国民意識に対してどのような見方をしていたかは、以下参考に記載の「松岡正剛の千夜千冊『暗黒日記』清沢洌」に詳しく採りあげているが、”不思議なのは「空気」であり「勢い」である。米国にもこうした「勢」があるが、日本のものは特に統一的である。この勢が危険である。あらゆる誤謬がこのために侵される。”・・・と日本が、戦争に突入していった空気を読んでいる。
先に触れた「国立公文書館アジア歴史資料館「写真週報にみる昭和の世相」の2・食生活の中の資料11は、昭和19年(1944年)6月付の「食料不足を繞(めぐ)る流言蜚語の概要」という資料がある。内務省警保局経済保安課が作成したこの資料では、食糧不足の中で語られた様々な「流言蜚語」がまとめられている。
1945年度に入ると、主食の逼迫に加えて副食物も調味料も極度に供給が低下。肉、魚、野菜、調味料は戦前の半分近くに減少し、生活必需品の配給もほとんどなくなった。それにともない、闇取引の横行、物価の高騰と国民の貧困はその極(きわ)みに達していた。しかし、このような状況に国民が追い込まれているなか、当時の支配層が第一に心配したのは、国民の健康や生命を守ることよりもその治安をどうするかであり、軍部は直接民衆を統制し治安確保するために、国内の憲兵隊の大規模な増強がおこなわれ、連日のように全国の諸都市が空襲に見舞われていた最中、国民の罹災(りさい)救助は二の次で、治安強化を第一とした。
そして、全国の都市は焼け野原に。同年8月15日の戦争終結により、GHQ占領下の元で復興が始まるが、8月20日にはすでに新宿の焼け跡に闇市が出現。9月には闇市が氾濫した。東京の上野ー御徒町間に今日もあるアメヨコの始まりはこのような闇市だった。1945(昭和20)年の日本の状況がどうであったかは以下参考に記載の「広告景気年表:1945年」を見られるとよい。戦災孤児・引上げ孤児・家出浮浪児が激増し、お腹のすいた子供たちは、ジープに乗った進駐軍を見ると「ヘイ!ギブ・ミー・チョコレート・チューインガム・サンキュウ」などと叫びかけて、敗者としての卑屈さも勝者への恐れもなく恵みをうけた。戦後からの衣食住の不足は深刻をきわめた。とくに都市では食糧の配給がとどこおり、多くの人々が飢えて死んだ。戦後の日本には、少ない食料を全ての国民に「平等」に行き渡らせるための食糧管理制度として1942(昭和17)年に制定された「食糧管理法」があった。この法律は、食糧の生産・流通・消費にわたって政府が介入して管理するというものであり、食糧営団の設立とともに、それまでの米問屋は整理統合された。全国都道府県にそれぞれ開業した「地方食糧営団」は、政府から払下げを受ける米穀の配給を行ない、また「中央食糧営団」(東京に設置)から精麦、小麦粉、乾麺、乾パンの売渡しを受けてこれを全国一律通帳制により配給するものであった。
しかし、現実には、農村部に食糧の売り惜しみやヤミ取引が発生して、都市部の食糧事情は戦争中よりも、逆に悪化し、配給で配られるはずであった食料は不足。庶民が闇市場に群がって食糧を買いあさるようになり、それを警察が法律違反で検挙するという悪循環が始った。
1946(昭和21)年5月には、東京世田谷で食糧不足を訴える集会が開かれ、その一部が皇居へ押しかけるという大規模な民衆運動、いわゆる「米よこせデモ」が繰り広げられた。以下の歴史記録映像 ⇒ 昭和21年【米よこせデモ】では、その時の画像が見れる(ここ)。しかし、皆が飢えて悲壮な時代にデモ行進している人達の顔には険が無いですよね~。どうしてこう穏やかな表情をしているのか・・・当時の日本人に素朴さ、純情さが窺える。
この年からのNHKの新番組「街頭録音」の主題は「あなたはどうしてたべていますか」だった。このころのモノへのこだわりは当然であるが、この体験が戦後の日本人のモノへの異常な執着心を生んだといえる。そして、1947(昭和22)年7月5日の今日、食糧危機対策で、外食券食堂などをのぞき全国33万軒の飲食店に休業命令 が出、これ以後、飲食店までも裏口営業が盛んになるのである。
私がまだ小さな子供の頃、母方の田舎・徳島へ行き米を貰って母と一緒に小さな船で、神戸へ運んできたことを覚えている。神戸の港へ着くと同じ船の乗っていた同じ様な立場の人達が、一斉に雲の子を散らすように四方へ散った。捕りにくくするための手段である。餓死するわけには行かないので、配給がなければ、たとえ、法律違反とわかっていても、闇で食料を手に入れるより仕方がないであろう。米の配給が正当になされてさえいれば、闇米など存在しないはずである。食糧管理法は食糧を管理し、国民に等しく配分するための法律であり、
警察は配給に廻されるべき食料を不当に手に入れた連中を捕まえることに努力をすべきであろう。にもかかわらず、闇市場を牛耳っている悪い連中を逮捕せずに弱い立場の飢えに苦しんでいる庶民を取り締まるなんてとんでもないことではないだろうか。
そんなことがおこなわれていた同年10月、東京地裁の山口良忠判事が餓死する事件が起きた。彼は、法律を守る裁判官の義務として終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡した。つまり、餓死である。彼は、その自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと思われがちであるが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われている。インフレの中、この翌年7月、閣議で、消費者米価の1.79倍値上げが決定されている。
今、日本政府により後期高齢者(後期高齢者医療制度の対象とされている75歳以上の人達)などと呼ばれて、別脇で管理されている人達、又、それに近い年代の人達は、皆、そんな、食べるものもなく、餓死寸前の中を政府に生きることの保護もされないなかを必死に頑張って生き、そして働いてきた人達である。つまり、今の世界の中でも豊かになった世の中は、この年代の人達が必死に頑張ったお蔭であるといえるだろう。それにもかかわらず、少子高齢化が進み、若いものが面倒を見切れないから早く死ねといったような政策を平気で推し進めようとする、日本の政府のやり方を見ていると、庶民に対して無慈悲な態度は昔も今も、本当に変らないな~とつくずく思うよ。
いままた、食糧問題が深刻になってきている。農業政策面を見てもエネルギー政策を見ても日本の政府の無策ぶりは相変わらずである。我々の年代のものは、もう、余り、長生きしないことが幸せかもしれない。
(画像、「お米持参の外食」は昭和18年のもの。街に出て昼飯といっても、外食券や弁当持参でないと食いっぱぐれることも。食堂などの業務用配給米が減って、銀座の天麩羅やでは、「米約1合又は外食券をもってくる客を相手に商売していた。また、食材不足でどの店でも献立が定食、ランチに限られていた。朝日クロニクル「週刊20世紀より)
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2008-07-05 | 歴史
参考:
日本占領期年表1947(昭和22)年
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/senryou/1947.htm
フォーラム 地球の危機管理 ”世界がかかえる食糧問題、日本がかかえる食糧問題”
http://www.ecology.or.jp/crisis/9911/happyou1.html
近衞文麿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
統制経済 ( とうせいけいざい)
http://e-obs.com/heo/heodata/n244.htm
戦時中の生活【シルバー回顧録】
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/haikyuu.htm
米穀通帳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E7%A9%80%E9%80%9A%E5%B8%B3
科 (分類学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91_%28%E5%88%86%E9%A1%9E%E5%AD%A6%29
語り継がれるコーリャン~広島にて~
http://wadeli.jugem.jp/?eid=34
国立公文書館アジア歴史資料館「写真週報にみる昭和の世相」
http://www.jacar.go.jp/shuhou/topics.html
中野文庫 - 生活必需物資統制令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs16-362.htm
清沢洌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%B4%8C
松岡正剛の千夜千冊『暗黒日記』清沢洌
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0648.html
山口良忠 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%89%AF%E5%BF%A0
法政大学大原社研_太平洋戦争下の労働者状態
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/index.htmlhttp://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/index.html広告景気年表:1945年
http://www.dentsu.co.jp/marketing/adnenpyo/r1945.html
食糧管理制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E7%B3%A7%E7%AE%A1%E7%90%86%E5%88%B6%E5%BA%A6
後期高齢者医療制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E9%AB%98%E9%BD%A2%E8%80%85%E5%8C%BB%E7%99%82%E5%88%B6%E5%BA%A6
続く食糧不足
http://www5b.biglobe.ne.jp/~leaper/syokuryohusoku47.htm
平野力三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%8A%9B%E4%B8%89
『大衆食堂の研究』復刻HTML版 もくじ
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_index.htm

「国産愛用週間」が初めて開催された日

2008-07-01 | 歴史
1927(昭和 2)年、国産愛用を呼びかける「国産愛用週間」が7月1日から初めて開催された。
自動車はまだ輸入車が主だったため、1日目に国産車愛用を宣伝。首相官邸前に十数台を並べて各大臣に国産車に乗ってもらい、デモンストレーションを行った。冒頭の画像は、その時の模様である。(アサヒクロニクル「週間20世紀」より)。
とりあえず、1927(昭和 2)年までの日本の自動車の歴史を簡単の振り返ると、自動車が世界で初めて実用化されたのは1880年代のドイツで、日本に最初の自動車を持ち込んだのは、1898(明治31)年、フランス人ジャン・マリー・テブレ氏による「パナール・ルヴァッソール」と言われており、これが日本の自動車史のスタートとも言えるようだ(以下参考に記載の「日本自動車百年史」参照) 。当時、一般の人には見たこともない代物だった。1903(明治36)年春、大阪の天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会は日本で初めて自動車が展示された博覧会であり、アメリカの輸入会社3社が計8台を出品し、これを契機に各地で乗用自動車事業の申請や国産車作りがあいついだ(1909年 博覧会跡地の東側を公園として整備し、「天王寺公園」が開園した)。
1904(明治37)年に、日本車第一号と言われている「山羽式蒸気バス」(ここ参照)が電気技師・山羽虎夫によって製作されたが、彼も前年の内国勧業博覧会での送迎用の蒸気バスやガソリン・バスの威力を見てこれに刺戟された1人であったが、空気入りタイヤが出来ず、試走は失敗したようだ。(以下参考に記載の「[PDF] 博覧会は、まさに国産自動車の歴史」参照)。その3年後の1907(明治40)年に、国産ガソリンエンジン自動車第1号となる「国産吉田式自動車」(通称タクリー号【ここ参照】)が吉田真太郎と内山駒之助の二人によって約10台製作されるが普及するまでには至らない。乗用車では、1917(大正 6)年、 「三菱A型」(ここ参照)が三菱造船神戸造船所によって生産を開始し、1919(大正 8)年に、我が国初の量産乗用車として誕生した。 また、トラックでは、1918(大正 7)年東京瓦斯電気工業が大森工場完成と同時に軍用正式四屯自動貨車の試作を開始し、日本車初のトラック「T.G.E.トラック」(ここ参照)が生産されるようになる。
1923(大正12)年、関東大震災のために、路面電車が使えなくなった東京市代替バスの車種としてフォード社に1000台のT型を発注した。このときフォードは800台しか対応できなかったが、ここに商機をみたフォード社は1925(大正14)年に横浜に組立工場を建設。この年、白楊社の豊川順弥(三菱財閥の重役豊川良平の長男)が製造した「オートモ号」(ここ参照)約300台が上海に輸出され、日本車初の輸出車となっているという。
その2年後、ゼネラルモーターズがフォードを追って、大阪にシボレー組立工場を建設。この2社により日本での初期のモータリゼーションが始まった。トラックやバスへの架装も多かったが、その多くはタクシー用途に使われたようだ。
この1927(昭和 2)年、国産愛用を呼びかける「国産愛用週間」が7月1日から初めて開催された。
1927年7月1日と言えば、田中義一内閣の時代(1927年4月20日~1929年7月2日)のことである。
第一次世界大戦(1914年~1918年)により、今までヨーロッパ諸国が輸出していた物資が、戦争のためにストップし、日本は、これまで輸入に頼っていた工作機械、発電機、蒸気機関、ディーゼル機関、削岩機(さくがんき)、電気機関車その他工業製品も国産化に成功。ヨーロッパからの輸入が途絶えていた市場に日本が参入したため国際収支は大幅な黒字となり、大戦前は債務国だった日本は、戦後にはいちやく債権国となり、戦後経済もしばらくは好況がつづいたが、やがてヨーロッパ諸国が復興し、その産物が東アジア市場に輸出されるようになると、それとの競争に押されて日本の輸出は伸び悩んでいた。そして、貿易は輸入超過に転じ、1920年(大正9)には戦後恐慌がおこって、綿糸や生糸の価格が暴落。ついで1923年の関東大震災によって京浜工業地帯は大きな被害を蒙り、日本経済は大打撃を受けた。その後全般的には不況がつづき、国際収支は再び悪化していた。
そのような中、1927年(昭和2年)3月、第一次若槻禮次郎内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった(昭和金融恐慌)。大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちはここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。 この昭和金融恐慌によって若槻内閣は同年4月に総辞職し、代わって元老西園寺公望内大臣牧野伸顕らによる憲政常道の観点から推挙された立憲政友会総裁の田中(陸軍出身)が内閣を組閣し、田中は、高橋是清を蔵相に任命。高橋は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。しかし、田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針(幣原外交参照)を転換し、軍備強化・対外強硬路線へと転換する。そして、5月、山東出兵や7月、東方会議を開催するなど、満蒙(満州内蒙古東部のこと)地帯における日本の特殊権益堅持の政策を提出している。
そのような中での「国産愛用」の運動である。この時の「国産愛用週間」といったような、今ではよく見られる「標語」といったものが何時頃からあったのだろうと調べていると、面白い記事、以下参考に記載の「解説委員室ブログ:NHKブログ | 視点・論点 | 視点・論点 「標語誕生」」に行き当たった。ここの解説によると、”標語が始まったのは第一次世界大戦の最中の欧米だそうで、連合国側も、ドイツ側も、兵隊の募集や戦争公債の買い入れの宣伝などに、いろいろなポスターとそこに書かれる簡潔なスローガンを工夫した。世界大戦は、多くの国の国民を戦争に参加させるために、こうした国民に呼びかける印象的な手法が必要になった。日本でも、第一次世界大戦を境に、国民に命令する行政から、国民に呼びかける行政が増えてきた。そして、具体的に標語が用いられたのは、貯金奨励、労働安全や交通安全、合理的な生活習慣をとるための生活改善運動などがあり、ちょうど、市民意識の芽生えた大正デモクラシーの時期と重なることになり、興味深いのは、標語が登場する直前に、「米騒動」(1918年=大正 7年)という日本中を巻き込んだ騒乱が起こっていたが、これは、シベリア出兵に当て込んで米の投機で儲けようとしていた商人たちに反発して起きたもので、この米騒動と時期を前後して、標語ブームが訪れた”という。
そのような、民衆の言葉の中から生まれた「標語」が、第1次大戦後の不況の中、幣原喜重郎らによる協調外交方針から田中内閣の軍備強化と対外強硬路線への転換といったことを背景に、国産愛用」の運動が芽生え、その第1として、関東大震災後の外国車の急増に対抗する「国産車」愛用をスローガンに日本車のデモンストレーションが行われたのであろう。
これら民衆から生まれた標語は軍部の影響力が強まるに従い次第に「国策標語」が増えてゆくことになる。
1930(昭和5年)年6月3日の閣議では昭和5年度物件費の1割削減を決定し、国産愛用品運動の開始を通牒している(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。その翌日、つまり、1930(昭和5)年6月4日、大阪朝日新聞 により、全国的国産愛用運動を開始することになったことが報道されている。以下参考。
新神戸大学附属図書館 ・新聞記事文庫 産業(5-007)「国産使用奨励の具体的方法決る」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00745092&TYPE=HTML_FILE&POS=1
しかし、これに対して、外国人貿易業者等から不満の声が上ったのであろう、阪神貿易業者の招待席上武富通商局長の挨拶では「国産愛用運動は外国品排斥ではない」と述べた旨の1930(昭和5)年7月20日付けの新聞記事(神戸新聞)が見られる。以下参照。
新聞記事文庫 産業(5-028)「国産愛用運動は外国品排斥ではない」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00745113&TYPE=HTML_FILE&POS=1
このような政府主導の国産化から、第二次大戦時には、あの有名な「「撃てし止まむほしがりません勝つまでは」・・といった標語まで出てくるようになった。
そして、第二次世界大戦後、焼野原から驚異的な経済成長を遂げた日本ではあるが、何でもかでもお金を出せば買えるものと、今の時代、日本は、あらゆる物を、輸入に頼っているが、今まで経済的に後進であった中国、インド、ブラジルといった大国の経済発展、そして、地球温暖化などもあり、地球資源が不足してきている中で、アメリカのサブプライム問題(参照)以降、原油などエネルギーや穀物その他食料品などが高騰している。地震大国日本は、又、言い換えれば、地熱エネルギー(地熱発電 参照)の宝庫ともいわれているが 、温泉が出なくなるといった観光地からの反対などもあり、この分野の研究も先進国の中では相当遅れていると聞いているが、食料問題に関しての農林水産に関する政策も行き当たりばったりの感がある。そんななかで、少子高齢化で、これからは車両も減少してゆくはずなのに、時代遅れの政治化などはあくまでも道路建設に固執している。今こそ、日本は英知を絞って、今後のエネルギー、食糧問題、そして環境問題への取り組みが必要だし、輸入にばかり頼らない良い意味での国産化政策が必要なのではないだろうか。
(画像は、首相官邸前での国産車愛用のデモンストレーション。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
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初の国産愛用週間が初めて開催された日:参考

2008-07-01 | 歴史
参考:
自動車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A
日本自動車百年史
http://www.st.rim.or.jp/~iwat/index_j.html
I Love Legacy/Car History
http://www2s.biglobe.ne.jp/~legacybf/info04.html
(社)自動車技術会/日本の自動車技術240選
http://www.jsae.or.jp/autotech/
国産自動車誕生物語山羽式蒸気自動車が行く
http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/yamaba/
田中義一内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80%E5%86%85%E9%96%A3
天王寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA
◎大阪市立図書館イメージ情報データベース~Webギャラリー
http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme111.html
[PDF] 博覧会は、まさに国産自動車の歴史
http://www.toyota.co.jp/Museum/data/magazine55/magazine55_10.pdf
●大正時代 たいしょうじだい
http://www.tabiken.com/history/doc/L/L074R100.HTM
標語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E8%AA%9E
解説委員室ブログ:NHKブログ | 視点・論点 | 視点・論点 「標語誕生」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/2965.html
神戸大学附属図書館 ・新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
地熱発電 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%86%B1%E7%99%BA%E9%9B%BB
地熱エネルギー入門(Mary H. Dickson, Mario Fanelli 著,日本地熱学会IGA専門部会 訳)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/grsj/geoenergy1.htm
サブプライムローン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3