1947(昭和22)年の今日(7月5日)、食糧危機の為、外食券食堂などを除く全国33万軒の飲食店に休業命令 が出た。
アメリカのサブプライム問題(参照)以降、世界の投機マネーが、エネルギー資源や穀物など食料に向かい、ここのところ原油を初め諸物価が高騰しており、中でも、食糧危機の問題が一気にクローズアップされてきたことは、先日、このブログ7月1日「初の国産愛用週間」でも触れてきた。今の世界及び日本の「食糧危機」の問題については、以下参考に記載の「フォーラム 地球の危機管理 ”世界がかかえる食糧問題、日本がかかえる食糧問題”」など参照されると良い。
日本の食糧危機は何度かあったが、近い年代としては、やはり、昭和の初め、そして、終戦直後の時代であろう。
1939(昭和14)年、ドイツがポーランド侵攻後、これを受けてイギリスやフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始った。そして、1940年7月、軍部をはじめ各方面の衆望をになって第二次近衛文麿 内閣が発足。同内閣は、組閣直後に大東亜新秩序(大東亜共栄圏)の建設をかかげた「基本国策要綱」を決定。この対外国策要綱にもとづいて、9月には日独伊三国軍事同盟を締結し、南方進出策と対英米戦争の準備に進み、10月には大政翼賛会を発足させている。
第二次世界大戦開始に先だつこと1ヵ月余り、アメリカは日米通商航海条約(日米修好通商条約参照)の廃棄を通告してきた。すでに1931(昭和 6)年の満州事変から1937(昭和12)年の支那事変(日中戦争)へと10年近くも、中国と戦争を続けていた日本の戦時経済は、戦争によって甚大な打撃を受けた。もともと低位な産業構成と国際的に劣弱な資本蓄積しかもたなかった日本経済が、その弱点を急速に補強するため日中戦争下に生産力拡充政策を強行してゆくなかでしだいに累積されてきたもろもろの矛盾が国際的悪条件のもと、一斉に表面化しはじめた。物資の統制は生産財・輸出品・輸出品用原材料等の配給統制が行なわれ、ほとんどすべての主要商品に及んだ。インフレによって物価指数は再上昇し、生産力拡充に重点をおく低物価政策がとられた。また、食糧問題が重大化し、1941(昭和16)年4月1日生活必需物資統制令が公布(以下参考に記載の「中野文庫 - 生活必需物資統制令」参照)された。また、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の6大都市で米穀配給通帳制による配給が実施された(以下参考に記載の「戦時中の生活【シルバー回顧録】」など参照)。同時に外食券制実施。外で食事をする者には、米の配給の代わりにチケットが公布された。配給による米の割当量は普通の大人(数え年11歳から60歳、まで=甲種・勤め人など)が1日当たり330g(2合3勺)余とし、年齢や労働の差によって個人の配給量が細かく決められていた。数え年1歳~5歳120g、6歳~10歳200g、11歳~60歳乙種(重労働者)男390g、女350g、丙種(特別重労働者)男570g、女420g、61歳以上甲種(普通)300g、乙種男350g、女320g、丙種男480g。大人1日330gの割当量は、通常の消費量を約2割も下回っていた。しかも、配給の米には、コーリャン(イネ科1年草の「モロコシ」「タカキビ」とも呼ばれる)やトウモロコシが混ぜられ、質・量共に低下していく。米の不足分は代用食で補わざるをえなかった。5月には家庭用木炭配給通帳制・酒切符制を実施している。6月7日付けの朝日新聞には「ゲンゴロウのてんぷら、トンボのつくだに(佃煮)ー食える雑草は1000種も」の見出しで、次のような記事が掲載されていたという。
”食料報告連盟では、全国で「備荒動植物」の調査をおこなっていたが、その概要がまとまった。雑草として今まで顧みられなかった草で食料になるものは約1000種、動物は100種に及んでいる。たとえば、キク科(タンポポ、ノアザミ、ノゲシ、ヨメナ、ヨモギ)の36種をはじめキキョウ科、シャクナゲ科、バラ科、クワナ科などは食用調整法が研究されている。一例をあげると、タンポポは若菜を和え物に、ヤマツツジは、塩漬けやフレンチサラダに、と言う具合だ。動物は、トカゲの頭を落して焼いて食用に、ゲンゴロウは幼虫の羽を除いて焼いて食う、身はてんぷらに、トンボは成虫の羽を取って油で炒め、しょうゆ・砂糖で煮付ける、カタツムリは焼いて食う。”と・・。そして、”新聞の家庭面には、食用ガエルの食べ方を教えて欲しい、金魚池を食べられる魚の養殖場に変えたいが素人にできる養魚法は?”といった読者からの投書が紹介されているという。また、東京市公園課では市内の公園に農園芸指導相談所と指導栽培園を設け市民に解放、ジャガイモ、サトイモ、ホウレンソウ、トマトなどの野菜を収穫していたそうだ(朝日クロニクル「週刊20世紀)。
いや~、なかなかゲンゴロウやトカゲ、トンボの食べ方まで親切なこと?ではある・・・・しかし、本当に食糧問題が深刻なのはそのようなものが豊富にある田舎では無く、都会の住民なのであるが・・・(-。-) ボソッ。
このような戦争に伴う物資不足の中、南方に資源を求めようとする日本とアメリカの対立が激化。日本軍の南部仏印(ベトナム)侵攻(仏印進駐参照)に対して全面経済封鎖が取られ、1941(昭和16)年12月に対米英戦が開始された(大東亜戦争の勃発)。その後戦局が悪化していくと、生活物資、特に食糧の配給量の不足は顕著になり、農作物の増産が盛んに奨励される中、清沢洌(きよさわ きよし)は1944(昭和19)年『暗黒日記』において、次のような状況を記しているという。
”「毎日の新聞は野菜のことばかりだ。ところが、その増産の奨励にかかわらず、馬鈴薯(ばれいしょ、ジャガイモの別名)の種薯(たねいも)も、にらもいずれも種が配給されぬのである。官僚主義がいかに不生産的なものであるかが、この一事でも分るであろう。しかしフレキシビリチー(フレキシビリティー [flexibility] 柔軟性。融通性。)のない日本人は未だ覚ることが出来ぬ。何か行詰ると「統制の不足」に持っていっている」"・・・と。(以下参考に記載の「国立公文書館アジア歴史資料館「写真週報にみる昭和の世相」の2・食生活参照)
清沢洌は、長野県生まれの、ジャーナリスト、評論家で、晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた自由主義平和思想家であったというが、この日記では、官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記しているという。清沢が日本の国民意識に対してどのような見方をしていたかは、以下参考に記載の「松岡正剛の千夜千冊『暗黒日記』清沢洌」に詳しく採りあげているが、”不思議なのは「空気」であり「勢い」である。米国にもこうした「勢」があるが、日本のものは特に統一的である。この勢が危険である。あらゆる誤謬がこのために侵される。”・・・と日本が、戦争に突入していった空気を読んでいる。
先に触れた「国立公文書館アジア歴史資料館「写真週報にみる昭和の世相」の2・食生活の中の資料11は、昭和19年(1944年)6月付の「食料不足を繞(めぐ)る流言蜚語の概要」という資料がある。内務省警保局経済保安課が作成したこの資料では、食糧不足の中で語られた様々な「流言蜚語」がまとめられている。
1945年度に入ると、主食の逼迫に加えて副食物も調味料も極度に供給が低下。肉、魚、野菜、調味料は戦前の半分近くに減少し、生活必需品の配給もほとんどなくなった。それにともない、闇取引の横行、物価の高騰と国民の貧困はその極(きわ)みに達していた。しかし、このような状況に国民が追い込まれているなか、当時の支配層が第一に心配したのは、国民の健康や生命を守ることよりもその治安をどうするかであり、軍部は直接民衆を統制し治安確保するために、国内の憲兵隊の大規模な増強がおこなわれ、連日のように全国の諸都市が空襲に見舞われていた最中、国民の罹災(りさい)救助は二の次で、治安強化を第一とした。
そして、全国の都市は焼け野原に。同年8月15日の戦争終結により、GHQ占領下の元で復興が始まるが、8月20日にはすでに新宿の焼け跡に闇市が出現。9月には闇市が氾濫した。東京の上野ー御徒町間に今日もあるアメヨコの始まりはこのような闇市だった。1945(昭和20)年の日本の状況がどうであったかは以下参考に記載の「広告景気年表:1945年」を見られるとよい。戦災孤児・引上げ孤児・家出浮浪児が激増し、お腹のすいた子供たちは、ジープに乗った進駐軍を見ると「ヘイ!ギブ・ミー・チョコレート・チューインガム・サンキュウ」などと叫びかけて、敗者としての卑屈さも勝者への恐れもなく恵みをうけた。戦後からの衣食住の不足は深刻をきわめた。とくに都市では食糧の配給がとどこおり、多くの人々が飢えて死んだ。戦後の日本には、少ない食料を全ての国民に「平等」に行き渡らせるための食糧管理制度として1942(昭和17)年に制定された「食糧管理法」があった。この法律は、食糧の生産・流通・消費にわたって政府が介入して管理するというものであり、食糧営団の設立とともに、それまでの米問屋は整理統合された。全国都道府県にそれぞれ開業した「地方食糧営団」は、政府から払下げを受ける米穀の配給を行ない、また「中央食糧営団」(東京に設置)から精麦、小麦粉、乾麺、乾パンの売渡しを受けてこれを全国一律通帳制により配給するものであった。
しかし、現実には、農村部に食糧の売り惜しみやヤミ取引が発生して、都市部の食糧事情は戦争中よりも、逆に悪化し、配給で配られるはずであった食料は不足。庶民が闇市場に群がって食糧を買いあさるようになり、それを警察が法律違反で検挙するという悪循環が始った。
1946(昭和21)年5月には、東京世田谷で食糧不足を訴える集会が開かれ、その一部が皇居へ押しかけるという大規模な民衆運動、いわゆる「米よこせデモ」が繰り広げられた。以下の歴史記録映像 ⇒ 昭和21年【米よこせデモ】では、その時の画像が見れる(ここ)。しかし、皆が飢えて悲壮な時代にデモ行進している人達の顔には険が無いですよね~。どうしてこう穏やかな表情をしているのか・・・当時の日本人に素朴さ、純情さが窺える。
この年からのNHKの新番組「街頭録音」の主題は「あなたはどうしてたべていますか」だった。このころのモノへのこだわりは当然であるが、この体験が戦後の日本人のモノへの異常な執着心を生んだといえる。そして、1947(昭和22)年7月5日の今日、食糧危機対策で、外食券食堂などをのぞき全国33万軒の飲食店に休業命令 が出、これ以後、飲食店までも裏口営業が盛んになるのである。
私がまだ小さな子供の頃、母方の田舎・徳島へ行き米を貰って母と一緒に小さな船で、神戸へ運んできたことを覚えている。神戸の港へ着くと同じ船の乗っていた同じ様な立場の人達が、一斉に雲の子を散らすように四方へ散った。捕りにくくするための手段である。餓死するわけには行かないので、配給がなければ、たとえ、法律違反とわかっていても、闇で食料を手に入れるより仕方がないであろう。米の配給が正当になされてさえいれば、闇米など存在しないはずである。食糧管理法は食糧を管理し、国民に等しく配分するための法律であり、
警察は配給に廻されるべき食料を不当に手に入れた連中を捕まえることに努力をすべきであろう。にもかかわらず、闇市場を牛耳っている悪い連中を逮捕せずに弱い立場の飢えに苦しんでいる庶民を取り締まるなんてとんでもないことではないだろうか。
そんなことがおこなわれていた同年10月、東京地裁の山口良忠判事が餓死する事件が起きた。彼は、法律を守る裁判官の義務として終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡した。つまり、餓死である。彼は、その自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと思われがちであるが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われている。インフレの中、この翌年7月、閣議で、消費者米価の1.79倍値上げが決定されている。
今、日本政府により後期高齢者(後期高齢者医療制度の対象とされている75歳以上の人達)などと呼ばれて、別脇で管理されている人達、又、それに近い年代の人達は、皆、そんな、食べるものもなく、餓死寸前の中を政府に生きることの保護もされないなかを必死に頑張って生き、そして働いてきた人達である。つまり、今の世界の中でも豊かになった世の中は、この年代の人達が必死に頑張ったお蔭であるといえるだろう。それにもかかわらず、少子高齢化が進み、若いものが面倒を見切れないから早く死ねといったような政策を平気で推し進めようとする、日本の政府のやり方を見ていると、庶民に対して無慈悲な態度は昔も今も、本当に変らないな~とつくずく思うよ。
いままた、食糧問題が深刻になってきている。農業政策面を見てもエネルギー政策を見ても日本の政府の無策ぶりは相変わらずである。我々の年代のものは、もう、余り、長生きしないことが幸せかもしれない。
(画像、「お米持参の外食」は昭和18年のもの。街に出て昼飯といっても、外食券や弁当持参でないと食いっぱぐれることも。食堂などの業務用配給米が減って、銀座の天麩羅やでは、「米約1合又は外食券をもってくる客を相手に商売していた。また、食材不足でどの店でも献立が定食、ランチに限られていた。朝日クロニクル「週刊20世紀より)
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アメリカのサブプライム問題(参照)以降、世界の投機マネーが、エネルギー資源や穀物など食料に向かい、ここのところ原油を初め諸物価が高騰しており、中でも、食糧危機の問題が一気にクローズアップされてきたことは、先日、このブログ7月1日「初の国産愛用週間」でも触れてきた。今の世界及び日本の「食糧危機」の問題については、以下参考に記載の「フォーラム 地球の危機管理 ”世界がかかえる食糧問題、日本がかかえる食糧問題”」など参照されると良い。
日本の食糧危機は何度かあったが、近い年代としては、やはり、昭和の初め、そして、終戦直後の時代であろう。
1939(昭和14)年、ドイツがポーランド侵攻後、これを受けてイギリスやフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始った。そして、1940年7月、軍部をはじめ各方面の衆望をになって第二次近衛文麿 内閣が発足。同内閣は、組閣直後に大東亜新秩序(大東亜共栄圏)の建設をかかげた「基本国策要綱」を決定。この対外国策要綱にもとづいて、9月には日独伊三国軍事同盟を締結し、南方進出策と対英米戦争の準備に進み、10月には大政翼賛会を発足させている。
第二次世界大戦開始に先だつこと1ヵ月余り、アメリカは日米通商航海条約(日米修好通商条約参照)の廃棄を通告してきた。すでに1931(昭和 6)年の満州事変から1937(昭和12)年の支那事変(日中戦争)へと10年近くも、中国と戦争を続けていた日本の戦時経済は、戦争によって甚大な打撃を受けた。もともと低位な産業構成と国際的に劣弱な資本蓄積しかもたなかった日本経済が、その弱点を急速に補強するため日中戦争下に生産力拡充政策を強行してゆくなかでしだいに累積されてきたもろもろの矛盾が国際的悪条件のもと、一斉に表面化しはじめた。物資の統制は生産財・輸出品・輸出品用原材料等の配給統制が行なわれ、ほとんどすべての主要商品に及んだ。インフレによって物価指数は再上昇し、生産力拡充に重点をおく低物価政策がとられた。また、食糧問題が重大化し、1941(昭和16)年4月1日生活必需物資統制令が公布(以下参考に記載の「中野文庫 - 生活必需物資統制令」参照)された。また、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の6大都市で米穀配給通帳制による配給が実施された(以下参考に記載の「戦時中の生活【シルバー回顧録】」など参照)。同時に外食券制実施。外で食事をする者には、米の配給の代わりにチケットが公布された。配給による米の割当量は普通の大人(数え年11歳から60歳、まで=甲種・勤め人など)が1日当たり330g(2合3勺)余とし、年齢や労働の差によって個人の配給量が細かく決められていた。数え年1歳~5歳120g、6歳~10歳200g、11歳~60歳乙種(重労働者)男390g、女350g、丙種(特別重労働者)男570g、女420g、61歳以上甲種(普通)300g、乙種男350g、女320g、丙種男480g。大人1日330gの割当量は、通常の消費量を約2割も下回っていた。しかも、配給の米には、コーリャン(イネ科1年草の「モロコシ」「タカキビ」とも呼ばれる)やトウモロコシが混ぜられ、質・量共に低下していく。米の不足分は代用食で補わざるをえなかった。5月には家庭用木炭配給通帳制・酒切符制を実施している。6月7日付けの朝日新聞には「ゲンゴロウのてんぷら、トンボのつくだに(佃煮)ー食える雑草は1000種も」の見出しで、次のような記事が掲載されていたという。
”食料報告連盟では、全国で「備荒動植物」の調査をおこなっていたが、その概要がまとまった。雑草として今まで顧みられなかった草で食料になるものは約1000種、動物は100種に及んでいる。たとえば、キク科(タンポポ、ノアザミ、ノゲシ、ヨメナ、ヨモギ)の36種をはじめキキョウ科、シャクナゲ科、バラ科、クワナ科などは食用調整法が研究されている。一例をあげると、タンポポは若菜を和え物に、ヤマツツジは、塩漬けやフレンチサラダに、と言う具合だ。動物は、トカゲの頭を落して焼いて食用に、ゲンゴロウは幼虫の羽を除いて焼いて食う、身はてんぷらに、トンボは成虫の羽を取って油で炒め、しょうゆ・砂糖で煮付ける、カタツムリは焼いて食う。”と・・。そして、”新聞の家庭面には、食用ガエルの食べ方を教えて欲しい、金魚池を食べられる魚の養殖場に変えたいが素人にできる養魚法は?”といった読者からの投書が紹介されているという。また、東京市公園課では市内の公園に農園芸指導相談所と指導栽培園を設け市民に解放、ジャガイモ、サトイモ、ホウレンソウ、トマトなどの野菜を収穫していたそうだ(朝日クロニクル「週刊20世紀)。
いや~、なかなかゲンゴロウやトカゲ、トンボの食べ方まで親切なこと?ではある・・・・しかし、本当に食糧問題が深刻なのはそのようなものが豊富にある田舎では無く、都会の住民なのであるが・・・(-。-) ボソッ。
このような戦争に伴う物資不足の中、南方に資源を求めようとする日本とアメリカの対立が激化。日本軍の南部仏印(ベトナム)侵攻(仏印進駐参照)に対して全面経済封鎖が取られ、1941(昭和16)年12月に対米英戦が開始された(大東亜戦争の勃発)。その後戦局が悪化していくと、生活物資、特に食糧の配給量の不足は顕著になり、農作物の増産が盛んに奨励される中、清沢洌(きよさわ きよし)は1944(昭和19)年『暗黒日記』において、次のような状況を記しているという。
”「毎日の新聞は野菜のことばかりだ。ところが、その増産の奨励にかかわらず、馬鈴薯(ばれいしょ、ジャガイモの別名)の種薯(たねいも)も、にらもいずれも種が配給されぬのである。官僚主義がいかに不生産的なものであるかが、この一事でも分るであろう。しかしフレキシビリチー(フレキシビリティー [flexibility] 柔軟性。融通性。)のない日本人は未だ覚ることが出来ぬ。何か行詰ると「統制の不足」に持っていっている」"・・・と。(以下参考に記載の「国立公文書館アジア歴史資料館「写真週報にみる昭和の世相」の2・食生活参照)
清沢洌は、長野県生まれの、ジャーナリスト、評論家で、晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた自由主義平和思想家であったというが、この日記では、官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記しているという。清沢が日本の国民意識に対してどのような見方をしていたかは、以下参考に記載の「松岡正剛の千夜千冊『暗黒日記』清沢洌」に詳しく採りあげているが、”不思議なのは「空気」であり「勢い」である。米国にもこうした「勢」があるが、日本のものは特に統一的である。この勢が危険である。あらゆる誤謬がこのために侵される。”・・・と日本が、戦争に突入していった空気を読んでいる。
先に触れた「国立公文書館アジア歴史資料館「写真週報にみる昭和の世相」の2・食生活の中の資料11は、昭和19年(1944年)6月付の「食料不足を繞(めぐ)る流言蜚語の概要」という資料がある。内務省警保局経済保安課が作成したこの資料では、食糧不足の中で語られた様々な「流言蜚語」がまとめられている。
1945年度に入ると、主食の逼迫に加えて副食物も調味料も極度に供給が低下。肉、魚、野菜、調味料は戦前の半分近くに減少し、生活必需品の配給もほとんどなくなった。それにともない、闇取引の横行、物価の高騰と国民の貧困はその極(きわ)みに達していた。しかし、このような状況に国民が追い込まれているなか、当時の支配層が第一に心配したのは、国民の健康や生命を守ることよりもその治安をどうするかであり、軍部は直接民衆を統制し治安確保するために、国内の憲兵隊の大規模な増強がおこなわれ、連日のように全国の諸都市が空襲に見舞われていた最中、国民の罹災(りさい)救助は二の次で、治安強化を第一とした。
そして、全国の都市は焼け野原に。同年8月15日の戦争終結により、GHQ占領下の元で復興が始まるが、8月20日にはすでに新宿の焼け跡に闇市が出現。9月には闇市が氾濫した。東京の上野ー御徒町間に今日もあるアメヨコの始まりはこのような闇市だった。1945(昭和20)年の日本の状況がどうであったかは以下参考に記載の「広告景気年表:1945年」を見られるとよい。戦災孤児・引上げ孤児・家出浮浪児が激増し、お腹のすいた子供たちは、ジープに乗った進駐軍を見ると「ヘイ!ギブ・ミー・チョコレート・チューインガム・サンキュウ」などと叫びかけて、敗者としての卑屈さも勝者への恐れもなく恵みをうけた。戦後からの衣食住の不足は深刻をきわめた。とくに都市では食糧の配給がとどこおり、多くの人々が飢えて死んだ。戦後の日本には、少ない食料を全ての国民に「平等」に行き渡らせるための食糧管理制度として1942(昭和17)年に制定された「食糧管理法」があった。この法律は、食糧の生産・流通・消費にわたって政府が介入して管理するというものであり、食糧営団の設立とともに、それまでの米問屋は整理統合された。全国都道府県にそれぞれ開業した「地方食糧営団」は、政府から払下げを受ける米穀の配給を行ない、また「中央食糧営団」(東京に設置)から精麦、小麦粉、乾麺、乾パンの売渡しを受けてこれを全国一律通帳制により配給するものであった。
しかし、現実には、農村部に食糧の売り惜しみやヤミ取引が発生して、都市部の食糧事情は戦争中よりも、逆に悪化し、配給で配られるはずであった食料は不足。庶民が闇市場に群がって食糧を買いあさるようになり、それを警察が法律違反で検挙するという悪循環が始った。
1946(昭和21)年5月には、東京世田谷で食糧不足を訴える集会が開かれ、その一部が皇居へ押しかけるという大規模な民衆運動、いわゆる「米よこせデモ」が繰り広げられた。以下の歴史記録映像 ⇒ 昭和21年【米よこせデモ】では、その時の画像が見れる(ここ)。しかし、皆が飢えて悲壮な時代にデモ行進している人達の顔には険が無いですよね~。どうしてこう穏やかな表情をしているのか・・・当時の日本人に素朴さ、純情さが窺える。
この年からのNHKの新番組「街頭録音」の主題は「あなたはどうしてたべていますか」だった。このころのモノへのこだわりは当然であるが、この体験が戦後の日本人のモノへの異常な執着心を生んだといえる。そして、1947(昭和22)年7月5日の今日、食糧危機対策で、外食券食堂などをのぞき全国33万軒の飲食店に休業命令 が出、これ以後、飲食店までも裏口営業が盛んになるのである。
私がまだ小さな子供の頃、母方の田舎・徳島へ行き米を貰って母と一緒に小さな船で、神戸へ運んできたことを覚えている。神戸の港へ着くと同じ船の乗っていた同じ様な立場の人達が、一斉に雲の子を散らすように四方へ散った。捕りにくくするための手段である。餓死するわけには行かないので、配給がなければ、たとえ、法律違反とわかっていても、闇で食料を手に入れるより仕方がないであろう。米の配給が正当になされてさえいれば、闇米など存在しないはずである。食糧管理法は食糧を管理し、国民に等しく配分するための法律であり、
警察は配給に廻されるべき食料を不当に手に入れた連中を捕まえることに努力をすべきであろう。にもかかわらず、闇市場を牛耳っている悪い連中を逮捕せずに弱い立場の飢えに苦しんでいる庶民を取り締まるなんてとんでもないことではないだろうか。
そんなことがおこなわれていた同年10月、東京地裁の山口良忠判事が餓死する事件が起きた。彼は、法律を守る裁判官の義務として終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡した。つまり、餓死である。彼は、その自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと思われがちであるが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われている。インフレの中、この翌年7月、閣議で、消費者米価の1.79倍値上げが決定されている。
今、日本政府により後期高齢者(後期高齢者医療制度の対象とされている75歳以上の人達)などと呼ばれて、別脇で管理されている人達、又、それに近い年代の人達は、皆、そんな、食べるものもなく、餓死寸前の中を政府に生きることの保護もされないなかを必死に頑張って生き、そして働いてきた人達である。つまり、今の世界の中でも豊かになった世の中は、この年代の人達が必死に頑張ったお蔭であるといえるだろう。それにもかかわらず、少子高齢化が進み、若いものが面倒を見切れないから早く死ねといったような政策を平気で推し進めようとする、日本の政府のやり方を見ていると、庶民に対して無慈悲な態度は昔も今も、本当に変らないな~とつくずく思うよ。
いままた、食糧問題が深刻になってきている。農業政策面を見てもエネルギー政策を見ても日本の政府の無策ぶりは相変わらずである。我々の年代のものは、もう、余り、長生きしないことが幸せかもしれない。
(画像、「お米持参の外食」は昭和18年のもの。街に出て昼飯といっても、外食券や弁当持参でないと食いっぱぐれることも。食堂などの業務用配給米が減って、銀座の天麩羅やでは、「米約1合又は外食券をもってくる客を相手に商売していた。また、食材不足でどの店でも献立が定食、ランチに限られていた。朝日クロニクル「週刊20世紀より)
このブログの字数制限上参考は別ページになっています。以下をクリックするとこのページの下に表示されます。
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