今日(4月11日)は、日本初のフリーアナウンサー 高橋圭三 の2002年の忌日。<83歳>
高橋 圭三(たかはし・けいぞう)は、1918(大正7)年9月9日岩手県花巻市の呉服店の子として生まれる。当時の高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)卒業後、電機メーカー(富士電機)に就職ていたそうだが、1942(昭和17)年、当時社団法人だった日本放送協会(NHK)のアナウンサー募集の新聞広告に目が止まり、採用試験を受け、合格、アナウンサーに転職したのだそうだ。この時の同期には後に最大のライバルにして盟友となる宮田輝がいた。
1924(大正13)年11月29日社団法人東京放送局が設立され、翌1925(大正14)年7月12日京放送局、港区芝の愛宕山より中波放送の本放送を開始。先日の4月10日「NHK連続ラジオドラマ『君の名は』が放送開始された日」でも書いたが、ラジオ放送は太平洋戦争に入って後、娯楽番組からニュース中心の番組に変っっていたが、敗戦後は、一転して聴取者参加番組や連続放送劇などの帯番組で人々の日常生活の伴走者となっていた。1950 (昭和25)年に電波法が改正され、1951(昭和26)年9月、日本最初の民間放送が始まり(以下参考に記載の「民間放送開局50年」参照)、受信契約者数は1000万人を超え、ラジオは、戦後の焼け跡の中で、映画と並んで人々の数少ない娯楽の1つとなった。
高橋が、日本放送協会に入ったのは、1942(昭和17)年つまり、戦前のまだ第二次世界大戦中のこと、4月18日には、B25中型爆撃機による初の本土空襲を受け、同年4月30日第21回衆議院議員選挙では、「戦時」を強調、特別の選挙だということで「翼賛選挙」と呼ばれている。そして、6月4日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦においては、アメリカ海軍は航空母艦1隻に対して、日本海軍は主力航空母艦4隻とその全艦載機を喪失するという大敗北であったにもかかわらず、「大本営発表」は国民にさも勝っているような嘘の発表がされた最初の年である。日本では1925(大正14)年のラジオ局発足後、太平洋戦争敗北に伴う改組まで、唯一の放送局だった東京放送局(現在のNHK)は政府の宣伝機関(プロパガンダ)であった。
この時期に日本放送協会に入って、何をしていたのかは、なにも記録が無いのでわからない。
兎に角、戦後になって、戦地や満州開拓者など、外地からの引揚者が多く、まだ、民間放送がなかった時代、1946(昭和21)年から全国放送の第1放送が「NHKのど自慢」を放送開始。
ラジオからは、「今日も暮れゆく 異国の丘に 友よつらかろ 切なかろ・・・」(「異国の丘」)など同じメロディが毎週流れていた。
天翔艦隊:「異国の丘」作詞:増田 幸治 補詞:佐伯 孝夫 作曲:吉田 正
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/ikoku.html
この番組は、1946(昭和21)年から2年間は太田一朗、高橋圭三、大野臻太郎、宮田輝ほか数人が交代で担当していたが、 1948(昭和23)年~1949(昭和24) 年は高橋が単独で担当している。 1949(昭和24)年から 1968(昭和43)年まで放送された長寿番組「とんち教室」(1月3日から.バラエティ番組)は、青木一雄アナウンサーの軽妙な司会に、随筆家の石黒敬七、漫画家の長崎抜天らが回答した。同時期(1月2日から)に高橋が司会する「私は誰でしょう」も放送されていた。この言葉は当時子供の間で流行語にもなっていたように覚えている。この番組に先立って、クイズ番組の原型といわれる「話の泉」(司会は、和田信賢が務めたが、1952(昭和27)年に和田が死去した後は高橋らが担当)などの司会を務め、その名は徐々に全国的に浸透した。
しかしNHKが現在の特殊法人となった1950 (昭和25)年に、高橋は肺結核を患い、1年以上もの療養を強いられた。この年には電波法も改正され、翌1951(昭和26)年9月、から民間放送が始まり、1953(昭和28)年2月1日から、 東京でアナログ総合テレビの本放送が開始された。NHKでは恐らく最初のテレビ向けクイズ・ゲーム番組となる『ジェスチャー』の司会を担当。柳家金語楼キャプテン率いる白組(男性陣)と水の江滝子率いる紅組(女性陣)に分かれ、視聴者が応募した問題を解答者がジェスチャーのみで表し、それを時間内に当てていくゲームにより番組は進行した。この番組での金語楼の演技に本当に笑わされた。
また高橋は、この年より大晦日に放送されることとなった『NHK紅白歌合戦』の白組司会に抜擢された。1951(昭和26)年から 始まった紅白歌合戦は第1回から3回はラジオでの放送であり、1953(昭和28)年は1月3日(ラジオでの放送)とこの12月31日テレビでの放送と2回放)されている。因みに第4回紅白の、赤組司会は水の江滝子、総合司会は北出清五郎であった。高橋は、これ以降第第12回まで9回連続で白組の司会を勤めその名を一気に高めた。(歴代司会者と勝敗参照)
冒頭の画像は第4回紅白歌合戦のときのものである。
そして、1955(昭和30)年に、当時のアメリカの人気番組『My Secret(私の秘密)』の日本版として製作された「私の秘密」の司会を担当。この番組の冒頭での挨拶「事実は小説より奇なりと申しまして世の中には変わっためずらしい経験をお持ちのかたがたくさんいらっしゃいます」のきまり文句で、テレビの大ヒット番組の先鞭をつけ、高橋はそのたぐい稀な話術で全国的に名を知らしめることともなった。
高橋は1961(昭和36)年にNHKを退職したが、翌1962(昭和37)年3月まで1年間の専属契約を締結、1955(昭和30)年からスタートした「私の秘密」司会を引き続き務め、契約切れとともに完全にNHKを去り、独立プロ圭三プロダクションを立ち上げ、「圭三訪問」(TBS)、「今週のヒット速報」、『テレビナイトショー』(共にフジテレビ)などの司会を担当、日本初のフリーアナウンサーとしての道を歩み、1965(昭和40)年からは『新春かくし芸大会』(フジテレビ系)の司会を務めた。
1969(昭和44)年からは、この年より大晦日の放送となった『輝く!日本レコード大賞』(TBS系)の司会に抜擢され、年末・年始のテレビの顔として長年定着することとなり、「どうも、どうも」という有名なフレーズに集約されるその温かい人柄と長年のアナウンス人生のなかで完成された独特の重厚感を持つ「圭三節」でテレビの前の多くの視聴者に感動を伝えてきた。
以下では、1978(昭和53)年度、第20回日本レコード大賞(20周年記念)でピンクレディー の "UFO" に発表された時の高橋の名司会ぶりと"UFO" の歌が聴けるよ。
YouTube - ピンクレディー Pink Lady "UFO"
http://www.youtube.com/watch?v=OeFWQ7Z1E6g
1977(昭和52)年以降、国会議員や福祉活動などしていたが、2002(平成14)年4月11日、腎不全のため死去した。本当に味のある司会が懐かしく思い出される。
(画像はテレビで初放送された第4回紅白歌合戦。司会は 、水の江滝子、高橋圭三 。 朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
高橋圭三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%9C%AD%E4%B8%89
訃報・元NHKアナウンサー・高橋圭三さんが腎不全のため死去
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020413.html
圭三プロダクション
http://www.keizopro.com/
民間放送開局50年
http://www.ne.jp/asahi/uchio/tokyo/G/housoukyoku/index.html
1942年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1942.html
プロパガンダ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80
バラエティ放送史 - Radiofly
http://radiofly.to/wiki/?%A5%D0%A5%E9%A5%A8%A5%C6%A5%A3%CA%FC%C1%F7%BB%CB
石黒敬七とは - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%D0%B9%F5%B7%C9%BC%B7
高橋 圭三(たかはし・けいぞう)は、1918(大正7)年9月9日岩手県花巻市の呉服店の子として生まれる。当時の高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)卒業後、電機メーカー(富士電機)に就職ていたそうだが、1942(昭和17)年、当時社団法人だった日本放送協会(NHK)のアナウンサー募集の新聞広告に目が止まり、採用試験を受け、合格、アナウンサーに転職したのだそうだ。この時の同期には後に最大のライバルにして盟友となる宮田輝がいた。
1924(大正13)年11月29日社団法人東京放送局が設立され、翌1925(大正14)年7月12日京放送局、港区芝の愛宕山より中波放送の本放送を開始。先日の4月10日「NHK連続ラジオドラマ『君の名は』が放送開始された日」でも書いたが、ラジオ放送は太平洋戦争に入って後、娯楽番組からニュース中心の番組に変っっていたが、敗戦後は、一転して聴取者参加番組や連続放送劇などの帯番組で人々の日常生活の伴走者となっていた。1950 (昭和25)年に電波法が改正され、1951(昭和26)年9月、日本最初の民間放送が始まり(以下参考に記載の「民間放送開局50年」参照)、受信契約者数は1000万人を超え、ラジオは、戦後の焼け跡の中で、映画と並んで人々の数少ない娯楽の1つとなった。
高橋が、日本放送協会に入ったのは、1942(昭和17)年つまり、戦前のまだ第二次世界大戦中のこと、4月18日には、B25中型爆撃機による初の本土空襲を受け、同年4月30日第21回衆議院議員選挙では、「戦時」を強調、特別の選挙だということで「翼賛選挙」と呼ばれている。そして、6月4日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦においては、アメリカ海軍は航空母艦1隻に対して、日本海軍は主力航空母艦4隻とその全艦載機を喪失するという大敗北であったにもかかわらず、「大本営発表」は国民にさも勝っているような嘘の発表がされた最初の年である。日本では1925(大正14)年のラジオ局発足後、太平洋戦争敗北に伴う改組まで、唯一の放送局だった東京放送局(現在のNHK)は政府の宣伝機関(プロパガンダ)であった。
この時期に日本放送協会に入って、何をしていたのかは、なにも記録が無いのでわからない。
兎に角、戦後になって、戦地や満州開拓者など、外地からの引揚者が多く、まだ、民間放送がなかった時代、1946(昭和21)年から全国放送の第1放送が「NHKのど自慢」を放送開始。
ラジオからは、「今日も暮れゆく 異国の丘に 友よつらかろ 切なかろ・・・」(「異国の丘」)など同じメロディが毎週流れていた。
天翔艦隊:「異国の丘」作詞:増田 幸治 補詞:佐伯 孝夫 作曲:吉田 正
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/ikoku.html
この番組は、1946(昭和21)年から2年間は太田一朗、高橋圭三、大野臻太郎、宮田輝ほか数人が交代で担当していたが、 1948(昭和23)年~1949(昭和24) 年は高橋が単独で担当している。 1949(昭和24)年から 1968(昭和43)年まで放送された長寿番組「とんち教室」(1月3日から.バラエティ番組)は、青木一雄アナウンサーの軽妙な司会に、随筆家の石黒敬七、漫画家の長崎抜天らが回答した。同時期(1月2日から)に高橋が司会する「私は誰でしょう」も放送されていた。この言葉は当時子供の間で流行語にもなっていたように覚えている。この番組に先立って、クイズ番組の原型といわれる「話の泉」(司会は、和田信賢が務めたが、1952(昭和27)年に和田が死去した後は高橋らが担当)などの司会を務め、その名は徐々に全国的に浸透した。
しかしNHKが現在の特殊法人となった1950 (昭和25)年に、高橋は肺結核を患い、1年以上もの療養を強いられた。この年には電波法も改正され、翌1951(昭和26)年9月、から民間放送が始まり、1953(昭和28)年2月1日から、 東京でアナログ総合テレビの本放送が開始された。NHKでは恐らく最初のテレビ向けクイズ・ゲーム番組となる『ジェスチャー』の司会を担当。柳家金語楼キャプテン率いる白組(男性陣)と水の江滝子率いる紅組(女性陣)に分かれ、視聴者が応募した問題を解答者がジェスチャーのみで表し、それを時間内に当てていくゲームにより番組は進行した。この番組での金語楼の演技に本当に笑わされた。
また高橋は、この年より大晦日に放送されることとなった『NHK紅白歌合戦』の白組司会に抜擢された。1951(昭和26)年から 始まった紅白歌合戦は第1回から3回はラジオでの放送であり、1953(昭和28)年は1月3日(ラジオでの放送)とこの12月31日テレビでの放送と2回放)されている。因みに第4回紅白の、赤組司会は水の江滝子、総合司会は北出清五郎であった。高橋は、これ以降第第12回まで9回連続で白組の司会を勤めその名を一気に高めた。(歴代司会者と勝敗参照)
冒頭の画像は第4回紅白歌合戦のときのものである。
そして、1955(昭和30)年に、当時のアメリカの人気番組『My Secret(私の秘密)』の日本版として製作された「私の秘密」の司会を担当。この番組の冒頭での挨拶「事実は小説より奇なりと申しまして世の中には変わっためずらしい経験をお持ちのかたがたくさんいらっしゃいます」のきまり文句で、テレビの大ヒット番組の先鞭をつけ、高橋はそのたぐい稀な話術で全国的に名を知らしめることともなった。
高橋は1961(昭和36)年にNHKを退職したが、翌1962(昭和37)年3月まで1年間の専属契約を締結、1955(昭和30)年からスタートした「私の秘密」司会を引き続き務め、契約切れとともに完全にNHKを去り、独立プロ圭三プロダクションを立ち上げ、「圭三訪問」(TBS)、「今週のヒット速報」、『テレビナイトショー』(共にフジテレビ)などの司会を担当、日本初のフリーアナウンサーとしての道を歩み、1965(昭和40)年からは『新春かくし芸大会』(フジテレビ系)の司会を務めた。
1969(昭和44)年からは、この年より大晦日の放送となった『輝く!日本レコード大賞』(TBS系)の司会に抜擢され、年末・年始のテレビの顔として長年定着することとなり、「どうも、どうも」という有名なフレーズに集約されるその温かい人柄と長年のアナウンス人生のなかで完成された独特の重厚感を持つ「圭三節」でテレビの前の多くの視聴者に感動を伝えてきた。
以下では、1978(昭和53)年度、第20回日本レコード大賞(20周年記念)でピンクレディー の "UFO" に発表された時の高橋の名司会ぶりと"UFO" の歌が聴けるよ。
YouTube - ピンクレディー Pink Lady "UFO"
http://www.youtube.com/watch?v=OeFWQ7Z1E6g
1977(昭和52)年以降、国会議員や福祉活動などしていたが、2002(平成14)年4月11日、腎不全のため死去した。本当に味のある司会が懐かしく思い出される。
(画像はテレビで初放送された第4回紅白歌合戦。司会は 、水の江滝子、高橋圭三 。 朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
高橋圭三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%9C%AD%E4%B8%89
訃報・元NHKアナウンサー・高橋圭三さんが腎不全のため死去
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020413.html
圭三プロダクション
http://www.keizopro.com/
民間放送開局50年
http://www.ne.jp/asahi/uchio/tokyo/G/housoukyoku/index.html
1942年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1942.html
プロパガンダ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80
バラエティ放送史 - Radiofly
http://radiofly.to/wiki/?%A5%D0%A5%E9%A5%A8%A5%C6%A5%A3%CA%FC%C1%F7%BB%CB
石黒敬七とは - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%D0%B9%F5%B7%C9%BC%B7
二十の扉、とんち教室、話しの泉。みんな懐かしいです。当時は寄席(道頓堀角座)に行っても大桐の代わりにお客さんを回答者にして「二十の扉」をやっていました。動物、植物、鉱物などの言葉を覚えたのは「二十の扉」だったかもしれません。
昔のアナウンサーはきっちりした日本語を話してらっしゃいましたね。話し方のプロっていう感じでした。それに比べて今の角さんや宮根さんは共通語が出来ないアナウンサーで阪神タイガースの話さえすれば聞いている人が喜ぶと思っているようです。宮根さんにいたっては、関西弁でもないし、何処の言葉やと突っ込みを入れたくなります。口で人にものを伝える人の基本は共通語だと思います。落語や浪曲のような芸能ではないのですから。
まともに日本語をしゃべれないタレントなどをつかって、アナウンサーやキャスターなどまた司会業をやらせないでほしい。
どうして日本人は自分のうまれた国の文化を大切にしないのでしょうかね~。ジョークやしゃれとチョケとが区別のつかない人も多い。笑いたくても笑えないゲスなふざけも多すぎます。人を笑わせる話術もない人間が駄洒落や品の無いふざけで笑わせようとしており、又、最近はそんなばかなものをお笑いと勘違いして、品の無い笑い方をしている人も多すぎる。そんな番組を提供している企業も程度が低いでしょう。番組やコマーシャルを見ればその企業の品格もわかりますよ。
言葉は、その国の最も基本的な文化ですけれどもね。