今日は、「デパート開業の日」
1904(明治37)年12月20日は、東京・日本橋の三越呉服店が、日本で初めての欧米のデパート形式での営業を開始した日。
三越呉服店の前進の三井呉服店を始めたのは、伊勢松阪出身の三井高利である。始めは京都の呉服仕入れの店を開き、江戸(本町1丁目・今の三越本店の北あたり)でも「越後屋」の屋号で開業していたが、1683(天保3)年に、江戸の店を駿河町に移した。「越後屋」は、その後、1893年(明治26年)に合名会社「三井呉服店」に改称、1904年(明治37年)には、欧米式百貨店をめざし、株式会社「三越呉服店」を設立した。それまでは、業界の常識だった「座売り」を廃し、陳列販売に踏み切るなど、常に日本の商法の先端をいく試みを展開してきたが、呉服の他に、小間物の扱いをはじめ、「今後一層、販売商品を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて用弁相成る様設備し、結局、米国に行わるるデパートメントストアの一部を実現する」と報道されたという。
1914(大正3)年の、新しい建物は、鉄筋コンクリート造による大規模なもので、ルネサンス様式の鉄筋5階建てで、日本で最初のエレベーター、全館暖房等が完備され、この時に、おなじみの青銅のライオン(ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像を模したもの)が東玄関の左右に飾られ話題を集めた。その後、西館を増築、1927年(昭和2年)には、関東大震災で焼かれた全館を修復、その翌1928(昭和3)年に、「三越呉服店」を「三越」と改め、大百貨店への道を着実に歩んできた。
1935(昭和10)年に大規模な増改築を行い、現在見られる建物となっている。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全休を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが見事な歴史的建造物である。
わが国の百貨店は、老舗の呉服店から出発したものと、後発の私鉄のタ-ミナル利用から出発したものと大きく二つの系統に分けられるが、三越、高島屋、大丸、十合、松阪屋などの大呉服店は、明治40年前後に店舗を増改築し、揃って百貨店に生まれ変わった。これらの百貨店は、呉服を中心に高級品や贅沢品を扱い、知識層である上流・中流階級を顧客としていた。
江戸時代初期の城下町には、同業が同じ場所に集る形をとったものが多く、江戸の駿河町には、呉服の店が多く集っていた。越後屋は、江戸に店を出してから、直ぐに、駿河町に移転している。呉服など大店が多数並んでいる所に店を出したことにより、江戸庶民から「大店のひとつ」として認知されるとともに「現金掛値なし」の店先(みせさき)での商売が成功し大繁盛。そして、当時の庶民、中でも知識層である上流・中流階級の圧倒的な支持を受けるが、他の大店からは嫉妬され、嫌がらせを受けるようになったところで、さっと日本橋に移転したが、店の顧客は移転先にちゃんとついてきてくれたそうで、もし、最初から日本橋に店を出していたら、三越が成功したかどうかはわからなかったといわれている。その後越後屋は大量の小銭を処理する必要から店の隣に両替屋も併設。呉服店は「三井」「越後」から「三越」に、両替屋は「三井銀行(現三井住友銀行)」になり、戦前は、三井財閥を形成するまでになった。
こんな、日本を代表する名門百貨店で、1982(昭和57)年10月29日、大不祥事が発生した。三越の岡田茂前社長(当時68歳)が自宅改修工事費に約5000万円の社費を流用したなどの特別背任容疑で、警視庁に逮捕されたのである。これに先立って、岡田前社長と個人的にも深い関係にあった三越納入業者の竹久みち容疑者も、脱税容疑で東京地検に逮捕されていた。その後、2人が三越を私物化していた実態が明らかになり、捜査当局は、2人を約18億7000万円にのぼる特別背任罪などで追起訴。2人は、一、二審で有罪判決を受けてともに上告。岡田被告は1995年07月に死亡し、控訴棄却となった。
岡田前社長は、三越の定例取締役会で社長解任案が提出され、16対0で社長解任が決定した席上思わず「なぜだ」と叫んだと言いう。当時、この一言は流行語にもなり、世間の関心である三越の女帝”とも呼ばれた竹久みちと岡田茂るの愛人関係は、映画や小説にも描かれた。しかし、この、岡田茂前社長の解任劇は、竹久みちと岡田茂るの愛人関係をネタに仕掛けられたクーデターだという説も有る。
この事件は、数々の先進的な改革によって成功し三井財閥を形成する基になった三越も、戦後の財閥解体によって三井家の手からは離れたが、三越の社長になり、自動的に筆頭株主になって強大な権限を手にした岡田茂の、ワンマンな経営手法が招いた結果と言えるかも知れないですね~。
(画像は、絵葉書:昭和ノ大東京大建築「日本橋 三越」。戦前のものである)
参考:
東京考察:日本橋三越本店
http://www.f-banchan.net/tokyo/mitsukoshi/mitsukoshi.htm
ぎゃらりー「日本橋・八重洲・京橋かいわい」:東京駿河町三ッ井正写之図
http://www.iijnet.or.jp/ynp/gallery/nishikie02.html
三越HP
http://www.mitsukoshi.co.jp/corp_info/profile/index.html
株式会社三越呉服店(現株式会社三越) 元会長 日比翁助氏
http://www.sw.nec.co.jp/kpass/035.html
安全地帯
竹久みち著『罪名 女』(ごま書房・2004年5月 ... その偏見が著者が「女」ゆえに起こり、「愛人関係」を最大限に利用したと邪推され、裁判官までも判断を誤らせる不幸を招いたといえる。
http://ginnews.hb-arts.co.jp/041201/safe.htm
1904(明治37)年12月20日は、東京・日本橋の三越呉服店が、日本で初めての欧米のデパート形式での営業を開始した日。
三越呉服店の前進の三井呉服店を始めたのは、伊勢松阪出身の三井高利である。始めは京都の呉服仕入れの店を開き、江戸(本町1丁目・今の三越本店の北あたり)でも「越後屋」の屋号で開業していたが、1683(天保3)年に、江戸の店を駿河町に移した。「越後屋」は、その後、1893年(明治26年)に合名会社「三井呉服店」に改称、1904年(明治37年)には、欧米式百貨店をめざし、株式会社「三越呉服店」を設立した。それまでは、業界の常識だった「座売り」を廃し、陳列販売に踏み切るなど、常に日本の商法の先端をいく試みを展開してきたが、呉服の他に、小間物の扱いをはじめ、「今後一層、販売商品を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて用弁相成る様設備し、結局、米国に行わるるデパートメントストアの一部を実現する」と報道されたという。
1914(大正3)年の、新しい建物は、鉄筋コンクリート造による大規模なもので、ルネサンス様式の鉄筋5階建てで、日本で最初のエレベーター、全館暖房等が完備され、この時に、おなじみの青銅のライオン(ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像を模したもの)が東玄関の左右に飾られ話題を集めた。その後、西館を増築、1927年(昭和2年)には、関東大震災で焼かれた全館を修復、その翌1928(昭和3)年に、「三越呉服店」を「三越」と改め、大百貨店への道を着実に歩んできた。
1935(昭和10)年に大規模な増改築を行い、現在見られる建物となっている。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全休を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが見事な歴史的建造物である。
わが国の百貨店は、老舗の呉服店から出発したものと、後発の私鉄のタ-ミナル利用から出発したものと大きく二つの系統に分けられるが、三越、高島屋、大丸、十合、松阪屋などの大呉服店は、明治40年前後に店舗を増改築し、揃って百貨店に生まれ変わった。これらの百貨店は、呉服を中心に高級品や贅沢品を扱い、知識層である上流・中流階級を顧客としていた。
江戸時代初期の城下町には、同業が同じ場所に集る形をとったものが多く、江戸の駿河町には、呉服の店が多く集っていた。越後屋は、江戸に店を出してから、直ぐに、駿河町に移転している。呉服など大店が多数並んでいる所に店を出したことにより、江戸庶民から「大店のひとつ」として認知されるとともに「現金掛値なし」の店先(みせさき)での商売が成功し大繁盛。そして、当時の庶民、中でも知識層である上流・中流階級の圧倒的な支持を受けるが、他の大店からは嫉妬され、嫌がらせを受けるようになったところで、さっと日本橋に移転したが、店の顧客は移転先にちゃんとついてきてくれたそうで、もし、最初から日本橋に店を出していたら、三越が成功したかどうかはわからなかったといわれている。その後越後屋は大量の小銭を処理する必要から店の隣に両替屋も併設。呉服店は「三井」「越後」から「三越」に、両替屋は「三井銀行(現三井住友銀行)」になり、戦前は、三井財閥を形成するまでになった。
こんな、日本を代表する名門百貨店で、1982(昭和57)年10月29日、大不祥事が発生した。三越の岡田茂前社長(当時68歳)が自宅改修工事費に約5000万円の社費を流用したなどの特別背任容疑で、警視庁に逮捕されたのである。これに先立って、岡田前社長と個人的にも深い関係にあった三越納入業者の竹久みち容疑者も、脱税容疑で東京地検に逮捕されていた。その後、2人が三越を私物化していた実態が明らかになり、捜査当局は、2人を約18億7000万円にのぼる特別背任罪などで追起訴。2人は、一、二審で有罪判決を受けてともに上告。岡田被告は1995年07月に死亡し、控訴棄却となった。
岡田前社長は、三越の定例取締役会で社長解任案が提出され、16対0で社長解任が決定した席上思わず「なぜだ」と叫んだと言いう。当時、この一言は流行語にもなり、世間の関心である三越の女帝”とも呼ばれた竹久みちと岡田茂るの愛人関係は、映画や小説にも描かれた。しかし、この、岡田茂前社長の解任劇は、竹久みちと岡田茂るの愛人関係をネタに仕掛けられたクーデターだという説も有る。
この事件は、数々の先進的な改革によって成功し三井財閥を形成する基になった三越も、戦後の財閥解体によって三井家の手からは離れたが、三越の社長になり、自動的に筆頭株主になって強大な権限を手にした岡田茂の、ワンマンな経営手法が招いた結果と言えるかも知れないですね~。
(画像は、絵葉書:昭和ノ大東京大建築「日本橋 三越」。戦前のものである)
参考:
東京考察:日本橋三越本店
http://www.f-banchan.net/tokyo/mitsukoshi/mitsukoshi.htm
ぎゃらりー「日本橋・八重洲・京橋かいわい」:東京駿河町三ッ井正写之図
http://www.iijnet.or.jp/ynp/gallery/nishikie02.html
三越HP
http://www.mitsukoshi.co.jp/corp_info/profile/index.html
株式会社三越呉服店(現株式会社三越) 元会長 日比翁助氏
http://www.sw.nec.co.jp/kpass/035.html
安全地帯
竹久みち著『罪名 女』(ごま書房・2004年5月 ... その偏見が著者が「女」ゆえに起こり、「愛人関係」を最大限に利用したと邪推され、裁判官までも判断を誤らせる不幸を招いたといえる。
http://ginnews.hb-arts.co.jp/041201/safe.htm
デパート業界も今は大変ですね。心斎橋筋に2軒並んでいた大丸とそごうもそごうは閉店。周りは工事の壁に囲まれてしまっています。
郊外の西武も駐車場の一部を手放して縮小しています。
手元にございます本に
『私ども越後屋は このたび開店にあたり
店内の品物はすべて格安で奉仕いたします。
一銭たりとも値引きはいたしません。
掛売り 配達もいたしませんので どうぞ
ご来店の上 現金でお買い求め願います』
っとこのような引札を出されましたとか^^
当時としましては革命的な商法でございましたでしょうね(微笑)