1891(明治24)年3月27日の今日、米国総領事ハリスの小間使い・唐人お吉が、川に身投げし絶命した。
名もないこの街に 異国の陽がのぼる
乙女は悲しみを 御国(みくに)のためと知る
春はまだ夜は長く 金鳴る了仙寺
運命(さだめ)と泣くもよし 儚(はかな)き世の情け・・・。
これは、サザンオールスターズの「唐人物語(ラシャメンのうた)」(作詞・作曲:桑田圭祐)の歌詞である。ここに歌われている乙女は、下田が生んだ悲劇のヒロイン"唐人お吉"こと斉藤きちのことである。
嘉永6年、突如、ペリーが浦賀に来航し、泰平の夢を貪っていた。江戸幕府に日米和親条約の締結と下田、函館の開港を迫り、翌年これを締結した。そして、安政3年には下田に着任したハリスによって、日米通商条約の締結を迫られる。
対応に苦慮した下田奉行は交渉の進展の為、又、米側の懇請もあり、ハリスの看護人として、新内お吉と呼ばれる名妓お吉を差し出すことを決めた。お吉は、はじめきっぱりと拒絶するが、奉行所の役人や名主は無論のこと、言い交わした船大工の鶴松にまで説得されて、泣く泣く領事館の置かれた玉泉寺に通う事を承知する。
必死のご奉公であった玉泉寺通いは、短期間で済んだのだが、そんなお吉を世間は、唐人お吉、異人の女房などと白眼視して迫害するのだった。
新内お吉と呼ばれたその腕だけを頼りに下田を捨て、転々として横浜に流れついたお吉は、尾花うち枯らした鶴松と再会し、二人で一からやりなおそうと手を携えて、下田に戻ってくるのだが・・・・これは、文学座公演「女人哀詞・唐人お吉ものがたり」のチラシ案内文である。
「唐人お吉」の物語は、古くから小説や演劇・映画などに取り上げられた。
お吉はこの玉泉寺通いが原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐え切れず、酒に溺れ、世間から孤立し、その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めたが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業したが、2年後に廃業。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、1891(明治24)年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶った。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕は多くの人の涙を誘う。
私は、唐人お吉の話になると、1992年(平成4)年10月13日未明、旅公演先の伊東市で深夜のドライブ中に海へ転落し水死した文学座俳優の太地喜和子さん(48歳)を思い出す。太地さんは文学座の巡業公演で静岡県伊東市を訪れ、前日、同市の観光会館で公演された「唐人お吉ものがたり」に主演。公演を終え、スナックで飲んだ後、「海を見よう」と乗用車で観光桟橋に出かける。桟橋に係留していた知人の船を訪れたが誰もいないので車を後退中、誤って桟橋から転落したもの。「唐人お吉ものがたり」は念願の役で、「私の代表作にしたい」と入れ込んでいたものだった。私の大好きな俳優であった。俳優座・杉村春子の後継者といわれていた彼女がなくなったのは日本の演劇界にとっても非常に残念なことであった。下、参考の唐人お吉物語では、1955年頃、堀内天嶺画伯によって描かれ、絵葉書となったものを、デジタル画像処理を施し、紙芝居調に構成したものを見せてくれる。是非、綺麗な画像で紙芝居を見るような気分で楽しまれることをお勧めします・・・。
(画像は、文学座公演「女人哀詞・唐人お吉物語」のチラシ。お吉=太地喜和子)
参考:
唐人お吉
http://www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html
唐人お吉記念館(静岡県>
http://www.jalan.net/kanko/SPT_162791.html
唐人お吉物語 宝福寺
http://www4.i-younet.ne.jp/~hofukuji/
唐人お吉物語
http://www2.ncc.u-tokai.ac.jp/moon/public_html/p1.html
名もないこの街に 異国の陽がのぼる
乙女は悲しみを 御国(みくに)のためと知る
春はまだ夜は長く 金鳴る了仙寺
運命(さだめ)と泣くもよし 儚(はかな)き世の情け・・・。
これは、サザンオールスターズの「唐人物語(ラシャメンのうた)」(作詞・作曲:桑田圭祐)の歌詞である。ここに歌われている乙女は、下田が生んだ悲劇のヒロイン"唐人お吉"こと斉藤きちのことである。
嘉永6年、突如、ペリーが浦賀に来航し、泰平の夢を貪っていた。江戸幕府に日米和親条約の締結と下田、函館の開港を迫り、翌年これを締結した。そして、安政3年には下田に着任したハリスによって、日米通商条約の締結を迫られる。
対応に苦慮した下田奉行は交渉の進展の為、又、米側の懇請もあり、ハリスの看護人として、新内お吉と呼ばれる名妓お吉を差し出すことを決めた。お吉は、はじめきっぱりと拒絶するが、奉行所の役人や名主は無論のこと、言い交わした船大工の鶴松にまで説得されて、泣く泣く領事館の置かれた玉泉寺に通う事を承知する。
必死のご奉公であった玉泉寺通いは、短期間で済んだのだが、そんなお吉を世間は、唐人お吉、異人の女房などと白眼視して迫害するのだった。
新内お吉と呼ばれたその腕だけを頼りに下田を捨て、転々として横浜に流れついたお吉は、尾花うち枯らした鶴松と再会し、二人で一からやりなおそうと手を携えて、下田に戻ってくるのだが・・・・これは、文学座公演「女人哀詞・唐人お吉ものがたり」のチラシ案内文である。
「唐人お吉」の物語は、古くから小説や演劇・映画などに取り上げられた。
お吉はこの玉泉寺通いが原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐え切れず、酒に溺れ、世間から孤立し、その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めたが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業したが、2年後に廃業。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、1891(明治24)年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶った。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕は多くの人の涙を誘う。
私は、唐人お吉の話になると、1992年(平成4)年10月13日未明、旅公演先の伊東市で深夜のドライブ中に海へ転落し水死した文学座俳優の太地喜和子さん(48歳)を思い出す。太地さんは文学座の巡業公演で静岡県伊東市を訪れ、前日、同市の観光会館で公演された「唐人お吉ものがたり」に主演。公演を終え、スナックで飲んだ後、「海を見よう」と乗用車で観光桟橋に出かける。桟橋に係留していた知人の船を訪れたが誰もいないので車を後退中、誤って桟橋から転落したもの。「唐人お吉ものがたり」は念願の役で、「私の代表作にしたい」と入れ込んでいたものだった。私の大好きな俳優であった。俳優座・杉村春子の後継者といわれていた彼女がなくなったのは日本の演劇界にとっても非常に残念なことであった。下、参考の唐人お吉物語では、1955年頃、堀内天嶺画伯によって描かれ、絵葉書となったものを、デジタル画像処理を施し、紙芝居調に構成したものを見せてくれる。是非、綺麗な画像で紙芝居を見るような気分で楽しまれることをお勧めします・・・。
(画像は、文学座公演「女人哀詞・唐人お吉物語」のチラシ。お吉=太地喜和子)
参考:
唐人お吉
http://www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html
唐人お吉記念館(静岡県>
http://www.jalan.net/kanko/SPT_162791.html
唐人お吉物語 宝福寺
http://www4.i-younet.ne.jp/~hofukuji/
唐人お吉物語
http://www2.ncc.u-tokai.ac.jp/moon/public_html/p1.html
太地喜和子さんはふっくらしたお顔でお色気たっぷりの女優さんでしたね。お酒を飲んであのトロンとした目で見つめられたら一遍に虜になりそうな人でしたね。
お吉の資料館などまわってまいりましたが
なんとも哀しい一生でしたのね
その一偏に触れてまいりましたが胸が熱くなりましたわ
身を投げました川では今も供養祭が行われてますのね
大地喜和子さん 個性的な女優さんでしたが
あのお亡くなりになりましたニュース 驚きましたわ あまりにもお気の毒でよく覚えております
けぃみさんもファンだったのですか・・・。いい女優さんがなくなりましたね~。
本当に惜しまれます。