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小説家・山本周五郎 (『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』) の忌日

2010-02-14 | 人物
今日・2月14日は小説家・山本周五郎 (『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』) の1967(昭和42)年の忌日である。
山本周五郎(本名:清水三十六(さとむ)は、1903(明治36)年6月22日山梨県北都留郡初狩村(現・山梨県大月市初狩町下初狩)にて、馬喰(Yahoo!百科事典参照)や繭の仲買をしていた父清水逸太郎、母とくの長男として誕生したが、4歳のとき、初狩村が明治40年の大水害で壊滅的被害を受け、一家で東京の北豊島郡王子町に住むことになるが、1910(明治44)年には、現横浜市西区久保町へと転居し、1916(大正5)年、横浜市立尋常西前小学校を卒業し、東京木挽町(現銀座)にあった質店の山本周五郎商店(きねや質店)に徒弟として住み込み、洒落斎(しゃらくさい)を雅号としていた店主・山本周五郎から深い影響を受けたようだ。三十六(周五郎)は小学校4年生の頃受持ちの先生から「君は小説家になれ」と言われ、小説家を志望するようになったようで、通学を希望していたが、家の事情が許さなかったようだ。店主は以後、三十六が文壇に自立するまで、物心両面にわたってよき庇護者であったという。しかし、彼が20歳のとき、関東大震災 (1923年=大正12年9月1日発生)によって山本周五郎商店も被災し解散となり、その後、三十六は、友人を頼りに神戸の須磨で約5ヶ月ほど生活していたらしい。1924(大正13)年 1月中旬、神戸より帰京。翌年春頃、帝国興信所(現:帝国データバンク)文書部に入社し、1926(大正15)年4月、23歳のときに『須磨寺附近』が「文藝春秋」に掲載され、これが文壇出世作となる。この時より、三十六(以下三十六を周五郎という)は、恩人の山本周五郎をペンネームとするようになったする説があるようだが、このペンネームは以前にも使用していた形跡があり定かではないという。
題材となった須磨寺は神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派大本山であり、山号は上野山(じょうやさん)。宗教法人としての公称は福祥寺である。886(仁和2)年に光孝天皇勅願寺として聞鏡上人が創建したとされる。源平合戦ゆかりの寺として知られ、一の谷の合戦で源氏方の熊谷次郎直実に討たれた平敦盛の首塚や、源義経が腰掛けたとされる「義経腰掛松」があり、敦盛愛用の「青葉の笛」など多数の寺宝を有する古刹である。この寺の境内には多くの句碑や歌碑があるが、仁王門前の放生池に架かる太鼓橋“龍華橋”を渡った左手に山本周五郎『須磨寺附近』の碑(冒頭の画像参照)がある。この石碑の表面には、『須磨寺附近』の冒頭部分が刻まれている。
「須磨は秋であった。…ここが須磨寺だと康子は云った。池の水には白鳥が群れを作って遊んでいた。雨がその上に静かに濺(そそ)いでいた。池を廻って、高い石段を登ると寺があった。…『あなた、生きている目的が分りますか』『目的ですか』『生活の目的でなく、生きている目的よ』」
上記碑の若干の補足をすると、高い石段を登ると寺があった。…の次には「舞台の背景」のように意図を持って配置したような濃密な風景描写がある。
「そこには、義経や敦盛の名の見える高札が立ててあった。それは何処へ行っても必ず在る、松だの小沼だのに対する伝説が書かれているのだ。・・中間略・・・寺の前から裏山へかけて、八十八ヶ所の地蔵堂が造られてある、二人はその方向へ進んだ、が最早夕闇が拡がり出して、木樹の蔭には物寂しい影が動き始めた。」・・・・・。そして、康子が傘を広げようとしながら清三の顔を見て言ったのだ。・・・『あなた、生きている目的が分りますか』・・・と、また、『生活の目的でなく、生きている目的よ』・・・と。
こう念を押された主人公の清三とは、周五郎自身のことであり、周五郎(山本周五郎の本名“清水三十六”からとったものだといわれている)にとって、康子が清三に問いかけたこの言葉こそが、彼が生涯を文学に賭けた命題であった。関東大震災の後、横浜の小学校時代の旧友4人のうちの1人である桃井達雄の長姉、じゅんの嫁ぎ先木村家(神戸市須磨区離宮前町。Google地図⇒ここ)に下宿し、観光ガイド誌「夜の神戸」に勤務していた(その発行会社は神戸市栄町通にあったらしいといわれている)一時があった。この木村じゅん宅寄宿時の体験を元に書かれたものが『須磨寺附近』であるが、この木村じゅん(山本周五郎より9歳年長らしい)が作中の青木康子のモデルになっているという。「康子」のモデルとなった木村じゅんは彼にとって終生心の壁画から剥落することのない、あこがれの女人像であったらしい。一般に“神戸もの”といわれる作品には、当作品の他『陽気な客』(1949年)『豹』(1933年)の三篇に登場する女性はすべて彼女がイメージされているようだ(詳しくは、以下参考の※:「花を巡る文学散歩(神戸市HP)」又、※:「『須磨寺附近』山本周五郎-花四季彩」参照)。
須磨寺にある周五郎の『須磨寺附近』の碑の裏面には、彼が世の中の人へ残した遺書と思われる真筆(脇にある解説板にそう説明が記されている)を写したものが刻まれている。
「貧困と病気と絶望に沈んでゐる人たちのために幸ひと安息の恵まれるように」
周五郎は、日本の女性のあり方を描くと同時に日本の家、主婦の姿を大衆的な視点から掘り起こした連作『日本婦道記』(ここ参照)が、1943(昭和18)年第17回直木賞に、江戸時代に仙台藩で起こったお家騒動「伊達騒動」に新しい解釈を加えて描いた『樅ノ木は残った』が、1959(昭和34)年に毎日出版文化賞に推薦されるも受賞を辞退。「沖の百万坪」と書いた千葉県の浦安の漁場は埋立てにより沖へ沖へと遠ざかっていった。著者の体験をモチーフにして、ノン・フィクションに見せかけた精妙なフィクションであり、周五郎風理想郷を、浦安を借りて表現したとものだと云われる『青べか物語』(以下参考の※:「青べか物語」や※:「「青べか物語」と吉野屋|浦安の釣り船「船宿 吉野屋」」など参照)も、1961(昭和36)年、文藝春秋読者賞に推薦されるが、これも受賞を辞退するなど、生前「賞」とつくものはすべて受賞を辞退し、孤高の作家と言われた。文学碑の建立も「石工を連れて行ってぶち壊す」とその一切を拒否したといい、今日全国にある周五郎の文学碑はすべて没後に建立されたものだそうで、当然、この須磨寺にある碑もそうである(1983年建立。1984年4月除幕式)。
「私は、自分が見たもの、現実に感じることの出来るもの以外は(殆ど)書かないし、英雄、豪傑、権力者の類いには、まったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかに、より強く私はかんじることができる。『古風』であるかどうかは知らないが、ここには読者の身近にすぐみいだせる人たちの、生きる苦しみや悲しみや、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびがさぐりだされている筈である」と周五郎は書いているそうで(アサヒクロニクル「週間20世紀)、山本周五郎の作品には英雄や豪傑は登場しない。寛文事件(伊達騒動)を扱ったもので、代表作の1つでもある樅の木は残った』では、極悪人として描かれることの多い原田甲斐も、そのようなヒロイックな存在ではなく、人間としての苦しみや悩みをもち、社会的な枠の中にあって、それに抗しながらギリギリの生き方を貫いた人物、悪名を負って藩を救った人物として描かれている。彼が描く人物は、岡場所に春をひさぐ(売る)女性や社会の下積みになってその日その日を生きる人々、封建社会の枠組みの中で人間でありたいと願う下級武士などであり、いずれの作品にも共通して見られる1つの特徴がある。それは、政治の中核にいる権力者ではなく、権力者によって収奪され、あえいでいる人々の姿を描いていることだ。『日本婦道記』でも、日常的なものから出発し、生きることの尊さ、きびしさに光をあて、夫の目にふれないところで払われる妻の努力に視点をあてている。しかし、ある時点から、一握りの幸せさえ奪おうとする「政治」へのメカニズムにもメスを入れるようになった。権力を濫用したとして悪名高い老中筆頭・田沼意次を、実は幕府の財政再建に尽くしたという視点から描いた『栄花物語』、反骨の医師、「赤ひげ」こと新出去定を主人公にした『赤ひげ診療譚 』などがある。山本周五郎が50才を過ぎて書かれたという、長編3部作(『樅の木は残った』『虚空遍歴』『ながい坂』)の最後の作品『ながい坂』(ここ参照)もお家騒動の渦中にあって人間の生き方に取り組む三浦主水正を描いている。良いも悪いも、善も悪も、幸運・不運も現実にあるものとしてとらえた彼の作品は、面白いだけでなく、読んだものを泣かせる作品が多い。
世界的に名の知られた日本を代表する映画監督・黒澤明は、周五郎の作品の愛読者であったそうで、『日日平安』、『赤ひげ診療譚』、『季節のない街』、『雨あがる』の4作品が映画化された。
1962年公開の黒澤明監督の時代劇映画「椿三十郎」は、元々、かつて黒澤組のチーフ助監督であった堀川弘通の監督作品として黒澤が執筆した、『日日平安』の脚本をベースにしたものだったそうだ。この『日日平安』は周五郎の原作に比較的忠実に、気弱で腕もない主人公による殺陣のない時代劇としてシナリオ化されたが、制作会社である東宝側が難色を示したため、この企画は実現ししなかった。その後、1961年4月公開『用心棒』の興行的成功から、東宝側から「『用心棒』の続編製作を」との依頼をされた黒澤が、陽の目を見ずに眠っていた『日日平安』のシナリオを大幅に改変し、主役を腕の立つ三十郎に置き換えて『椿三十郎』としてシナリオ化したものだそうだ。黒澤は『日日平安』の主役にはフランキー堺小林桂樹を想定していたようである。「椿三十郎」で小林が演じた侍の人物像には「日日平安」の主人公のイメージが残っているという。1965年公開の黒澤監督映画「赤ひげ」は、『赤ひげ診療譚』を元に、2年の歳月をかけて映画化した黒澤ヒューマニズム映画の頂点ともいえる名作である。赤ひげをを演じる三船敏郎 を主演にすえているが、実質的な主人公は加山雄三演じる保本登であった。
『季節のない街』(ここ参照)を原作にしたものが、1970年公開、「どですかでん」であるが、この映画では、それまでの三船敏郎とのコンビによる重厚な作品路線から一転、頭師佳孝を主役に抜擢しての貧しくも精一杯生きている小市民の日常を明るいタッチで描いた作品と言われるが、黒澤映画は殆ど見ている私もこの映画は見ていない。映画の興行成績は悪く、この映画のために、以降、黒澤は「デルス・ウザーラ」(ソ連・日本の合作映画)を挟んで10年間にわたって日本映画界の中心から遠ざかることになった。又、2000年公開の「雨あがる」(監督:小泉堯史)は、周五郎の同名の短編を元に、黒澤が、脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入り1998(平成10)年9月6日脳卒中により死去。映画は黒澤監督の事故によってラストシーンのみを残して未完となっていたが、黒澤組スタッフとゆかりのものたちで編成された「雨あがる」製作委員会(制作プロジェクト)と、脚本執筆中も助手として起居を共にしていた助監督の小泉堯史が監督のノートをもとに制作プロジェクトと相談しつつ完成させたもの。主役の三沢伊兵衛役を、寺尾聰 が演じ、強い剣豪でありながら仕官のできない心根の優しい浪人を好演した。映画は、第24回日本アカデミー賞などを受賞している。しかし、黒澤の『どですかでん』以後の娯楽性よりも芸術性を重視した作品に対しての作品については評価は分かれ、否定的な見解も出されている。
周五郎は、権力や馴れ合いやヤクザ者が大嫌いで、貧しく、また弱い立場にある人、苦しむ人、それでも健気に困難に立ち向かっていく人たちを愛した。読者から認められればそれでよしということで、直木賞をはじめ賞の類はいっさい辞退しているが、映画では、やはり、娯楽性がないと興行的には大変だ。娯楽性よりも芸術性を重視したものは、小説を読む方が良いだろうね~。娯楽時代劇映画が好きな私などには、周五郎作品を基に作られた映画では、「青葉城の鬼」(1962年、監督:三隅研次 。『樅の木は残った』原案。主演:長谷川一夫)、「五辧の椿」(1964年、監督:野村芳太郎。同名小説が原案。主演:岩下志麻)、「斬る」(1968年、監督:岡本喜八。『砦山の十七日』が原案、主演:仲代達矢、高橋悦史ら) 「どら平太」(2000年、監督:市川崑. 『町奉行日記』が原案。主演:役所広司)それに、「冷飯とおさんとちゃん」(1965年、監督:田坂具隆。 『ひやめし物語』、『おさん』、『ちゃん』が原作。主演:中村錦之助 )などが面白かったな~。
周五郎の死後、功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられた。
山本周五郎の映画のことなら、※:「山本周五郎 - goo 映画」を、作品のことなら以下参考の※:「山本周五郎作品館」で映画と原作の関係など参照されると良い。
(画像は、須磨寺の山本周五郎の文学碑 )
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クリック ⇒ 小説家・山本周五郎 (『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』) の忌日:参考

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