1957(昭和32)年の今日(1月29日)は、「南極の日、昭和基地開設記念日」。
日本の南極観測隊が南極・オングル島への上陸に成功し、昭和基地を開設した。
この年から翌年にかけては「国際地球観測年」で、南極大陸には日本を始め12か国による観測網が敷かれた。
他に、12月14日「南極の日 」があり、この日は、1911(明治44)年、ノルウェーの探検家・アムンゼンと4人の隊員が人類で初めて南極点に到達した日であり、このことは、前に私のブログ、12月14日は「南極の日」で書いた。そこでは、当時の南極観測競争等をテーマーに書いたので、今日は、昭和基地設記など日本の状況に絞って書いてみよう。1957(昭和32)年、1月25日、日本の南極観測船「宗谷」(隊員53人、乗組員77人)が、南極大陸のアフリカ大陸側にあるリュッツオールホルム湾にたどり着いた。同1月29日には、湾内のオングル島に永田武観測隊長らが上陸「昭和基地」と名づけた。第二次世界大戦が終わって、平和な時代を迎え、1957年~1958年にかけては「国際地球観測年」が設定された。戦争中に大幅に進歩した科学の知識や技能を駆使して、局地を中心に各国が力を合わせて大規模に地球を調べようと言うものであった。しかし、日本は敗戦の痛手からやっと立ち直りかけたばかりの時である。まだ、國際学術連合会(ICSU)の参加呼びかけにすぐ応じるという情勢にはなかったときである。南極観測船「宗谷」も海軍特務艦、復員船、灯台補給船などの経歴を持つ海上保安庁の「宗谷」を改造したものであり、砕氷能力も低かったため他国の観測隊によく世話になった。米ソ両国は言うに及ばず、西欧諸国にも随分と遅れを取ったが、日本もようやく自前で南極観測に取り掛かかったのであった。昭和基地が設けられたオングル島には東西2つの島があり、上陸地点は西の島、基地本部所在地は東の島で南緯69度29秒、東経39度35分10秒に位置していた。西の島は最も幅の広いところで、約4キロ、高さは最高点でも50メートル以下と見られ、土もあって全体に暖かい感じ。カラフト犬20頭が同行した。上陸後は、数百キロもの荷物を積んだそりを引くなど活躍。昭和基地には、西堀栄三郎隊長ら11人の第1次越冬隊が残った。アメリカ、ソ連などは発電所設備まで持ち、電気も自由に使え暖房設備なども万全の宮殿のような基地に比べ、日本の基地は小屋の様な不十分な施設と物資の中で、厳しい気候に耐えながら観測をしていたが、翌1958(昭和33)年2月、越冬隊は分厚い氷の海と荒天にたたられ、飛行機で脱出せざるを得なくなり、カラフト犬15頭の犬は置き去りにして去った。その翌1959(昭和34)年、再び昭和基地に向かった観測隊員は置き去りにした中の2頭の犬の大歓迎を受けた。残してきた時はまだ子犬だったタロとジロである。このタロとジロとの奇跡の再会は感動のドラマや映画にもなった。基地での日本の観測は第6次まで続いたが、「宗谷」の老朽化などから1963(昭和38)年2月に一旦閉鎖した。再開が決まって、観測船「ふじ」を新造、1965(昭和40)年初冬に第7次隊が出発現在に至っている。
思えば、アメリカの探検家ペアリーが1909(明治42)年に北極点の徒破に成功した後、世界の探検家の目がいっせいに南極に向かい、ノルウエーのアムンゼン、イギリスのスコットの両隊が南極点を目指して凌ぎを削っていたのが1911((明治44)年であった。当時、日本の白瀬矗(しらせのぶ)もまた、目標を南に変え、1910(明治43)年11月29日、東京・芝浦を発った。この探検に政府は1銭の援助もなく、大隈重信らの後援による義捐金で行われたが、途中ニュージーランドにより、翌日(翌年2月11日)、ニュージーランドのウェリントンから南極に向かったものの、残念ながら氷に阻まれ撤退した。そして再び南極を目指し到達したのが、1912(昭和明治45)年)1月28日、南緯80度05分西経156度37分の地点であった。この地に日章旗を立て、一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名した。しかし、その地は、南極点ではなく、南極点までは100キロもある地点ではあったが、当時世界4位の南進記録であり、南極探検史に残る堂々の金字塔であった。探検隊は、白瀬隊長以下27人。野村直吉(本名西東直吉)船長を始め、「生還おぼつかなし」と断ったにもかかわらずはせ参じた男達だった。僅か204トンの木造機帆船「海南丸」で猛吹雪と流氷軍を乗り切り到達したものであった。先に南極に到達していたノルウエーのアムンゼン隊は白瀬隊の船を見て、「こんな小さな船でよくここまでやってこられたものだ」と感心したと言う。戦後、日本の南極探検の先駆者として白瀬矗は高く評価され、「宗谷」「ふじ」に続く3代目の南極観測船に「しらせ」と命名されたり、白瀬の故郷の秋田県には白瀬記念館が建てられたりしている。又、現在の南極大陸の地図には、白瀬海岸、白瀬氷河という地名が記載されたりもしている。 それにしても、昔の日本人の根性は凄いね!
(画像は、1912年1月29日、南極の西オングル島中央部での南極観測隊による国旗掲揚式。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
昭和基地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%9F%BA%E5%9C%B0
日本初の南極探検
http://www.tanken.com/nankyoku.html
[PDF] 南極にかける日豪友情と協力の橋
http://www.australia.or.jp/gaiyou/japanese_resources/pdf/06_shirase.pdf
バーチャル未来科学館
http://www.pref.akita.jp/kagaku/5f/space/2/menu2/c.html
日本の南極観測隊が南極・オングル島への上陸に成功し、昭和基地を開設した。
この年から翌年にかけては「国際地球観測年」で、南極大陸には日本を始め12か国による観測網が敷かれた。
他に、12月14日「南極の日 」があり、この日は、1911(明治44)年、ノルウェーの探検家・アムンゼンと4人の隊員が人類で初めて南極点に到達した日であり、このことは、前に私のブログ、12月14日は「南極の日」で書いた。そこでは、当時の南極観測競争等をテーマーに書いたので、今日は、昭和基地設記など日本の状況に絞って書いてみよう。1957(昭和32)年、1月25日、日本の南極観測船「宗谷」(隊員53人、乗組員77人)が、南極大陸のアフリカ大陸側にあるリュッツオールホルム湾にたどり着いた。同1月29日には、湾内のオングル島に永田武観測隊長らが上陸「昭和基地」と名づけた。第二次世界大戦が終わって、平和な時代を迎え、1957年~1958年にかけては「国際地球観測年」が設定された。戦争中に大幅に進歩した科学の知識や技能を駆使して、局地を中心に各国が力を合わせて大規模に地球を調べようと言うものであった。しかし、日本は敗戦の痛手からやっと立ち直りかけたばかりの時である。まだ、國際学術連合会(ICSU)の参加呼びかけにすぐ応じるという情勢にはなかったときである。南極観測船「宗谷」も海軍特務艦、復員船、灯台補給船などの経歴を持つ海上保安庁の「宗谷」を改造したものであり、砕氷能力も低かったため他国の観測隊によく世話になった。米ソ両国は言うに及ばず、西欧諸国にも随分と遅れを取ったが、日本もようやく自前で南極観測に取り掛かかったのであった。昭和基地が設けられたオングル島には東西2つの島があり、上陸地点は西の島、基地本部所在地は東の島で南緯69度29秒、東経39度35分10秒に位置していた。西の島は最も幅の広いところで、約4キロ、高さは最高点でも50メートル以下と見られ、土もあって全体に暖かい感じ。カラフト犬20頭が同行した。上陸後は、数百キロもの荷物を積んだそりを引くなど活躍。昭和基地には、西堀栄三郎隊長ら11人の第1次越冬隊が残った。アメリカ、ソ連などは発電所設備まで持ち、電気も自由に使え暖房設備なども万全の宮殿のような基地に比べ、日本の基地は小屋の様な不十分な施設と物資の中で、厳しい気候に耐えながら観測をしていたが、翌1958(昭和33)年2月、越冬隊は分厚い氷の海と荒天にたたられ、飛行機で脱出せざるを得なくなり、カラフト犬15頭の犬は置き去りにして去った。その翌1959(昭和34)年、再び昭和基地に向かった観測隊員は置き去りにした中の2頭の犬の大歓迎を受けた。残してきた時はまだ子犬だったタロとジロである。このタロとジロとの奇跡の再会は感動のドラマや映画にもなった。基地での日本の観測は第6次まで続いたが、「宗谷」の老朽化などから1963(昭和38)年2月に一旦閉鎖した。再開が決まって、観測船「ふじ」を新造、1965(昭和40)年初冬に第7次隊が出発現在に至っている。
思えば、アメリカの探検家ペアリーが1909(明治42)年に北極点の徒破に成功した後、世界の探検家の目がいっせいに南極に向かい、ノルウエーのアムンゼン、イギリスのスコットの両隊が南極点を目指して凌ぎを削っていたのが1911((明治44)年であった。当時、日本の白瀬矗(しらせのぶ)もまた、目標を南に変え、1910(明治43)年11月29日、東京・芝浦を発った。この探検に政府は1銭の援助もなく、大隈重信らの後援による義捐金で行われたが、途中ニュージーランドにより、翌日(翌年2月11日)、ニュージーランドのウェリントンから南極に向かったものの、残念ながら氷に阻まれ撤退した。そして再び南極を目指し到達したのが、1912(昭和明治45)年)1月28日、南緯80度05分西経156度37分の地点であった。この地に日章旗を立て、一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名した。しかし、その地は、南極点ではなく、南極点までは100キロもある地点ではあったが、当時世界4位の南進記録であり、南極探検史に残る堂々の金字塔であった。探検隊は、白瀬隊長以下27人。野村直吉(本名西東直吉)船長を始め、「生還おぼつかなし」と断ったにもかかわらずはせ参じた男達だった。僅か204トンの木造機帆船「海南丸」で猛吹雪と流氷軍を乗り切り到達したものであった。先に南極に到達していたノルウエーのアムンゼン隊は白瀬隊の船を見て、「こんな小さな船でよくここまでやってこられたものだ」と感心したと言う。戦後、日本の南極探検の先駆者として白瀬矗は高く評価され、「宗谷」「ふじ」に続く3代目の南極観測船に「しらせ」と命名されたり、白瀬の故郷の秋田県には白瀬記念館が建てられたりしている。又、現在の南極大陸の地図には、白瀬海岸、白瀬氷河という地名が記載されたりもしている。 それにしても、昔の日本人の根性は凄いね!
(画像は、1912年1月29日、南極の西オングル島中央部での南極観測隊による国旗掲揚式。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
昭和基地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%9F%BA%E5%9C%B0
日本初の南極探検
http://www.tanken.com/nankyoku.html
[PDF] 南極にかける日豪友情と協力の橋
http://www.australia.or.jp/gaiyou/japanese_resources/pdf/06_shirase.pdf
バーチャル未来科学館
http://www.pref.akita.jp/kagaku/5f/space/2/menu2/c.html
最初の頃は宗谷がよく氷に閉じ込められてソ連のオビ号だったかレナ号だったかに助けてもらいましたね。
人の頑張りでやってきた時代・・・みんな良くやりましたね。