ブルースはブルースでも、ブルース・マクラーレン。
1970年6月2日、開発中のレース・カーで事故を起こし、若くして亡くなってしまいました。
享年わずか32歳。もう40年以上も前の話になってしまうんですね。
ドライバーとしてF-1やル・マンでも優勝したことのあるブルースですが、レース・カー開発者や実業家としてもその才能が注目されていただけに本当に惜しい人でした。
2010年現在、世界三大レースである「モナコGP、ル・マン24時間レース、インディ500」の全てを制した世界で唯一のコンストラクター(車体製造者)としても知られています。
私の中ではマクラーレンといえば何と言ってもCan-Amのレースカー。
Can-Amは正式には「カナディアン・アメリカン・チャレンジ・レース」といいます。略して“カンナム”。
排気量無制限、並列2座席のオープン・ボディで賞金総額世界一といういかにも北米らしい人気のあるレースでした(今はもうありません)。
1967年に自作のマクラーレンM6A・シヴォレーでチャンピオンになったブルースは、1968年からは友人のドライバーであるデニス・フルムとともにCan-Amを席巻、「ブルース&デニー・ショー」と呼ばれるほど優勝を重ねました。ちなみに1968年のシリーズ・チャンピオンはデニスが獲得しています。
上の写真は1968年にブルースがドライブしたマクラーレンM8A・シヴォレー(カーナンバー4)です。
デニス・フルムは1967年のF-1ワールドチャンピオンで、マクラーレン・チームにエース・ドライバーとして入ったのですが、ことCan-Amレースというとブルースの陰にかくれていた印象がありました。
1969年はブルースがCan-Amのシリーズ・チャンピオンに輝いています。
下の写真は翌1969年デニス・フルムがドライブしたマクラーレンM8B・シヴォレー(カーナンバー5)。
当時流行だった大きなウィングが目立ちます。まあ、このころはどのマシンも大きなウィングを付けていたものです。
Can-Amを3年間制したマクラーレン・チームでしたが、1970年のシリーズ開幕前に大ピンチを迎えます。
冒頭にも述べたとおり、新しいマシン、マクラーレンM8Dを開発中に事故死してしまうのです。
しかし、急きょダン・ガーニーをドライバーとして迎えシリーズに参戦し、デニス・フルムが見事チャンピオンを獲得します。
下の写真は、そのデニス・フルムがドライブしたマクラーレンM8D。
ウィングが禁止された後のボディはくさび形が強調されたカタチになっておりブルースが事故を起こした原因は、そのくさび形のボディカウルが吹き飛んだからだとも言われています。
1971年は新たに招かれたピーター・レブソンがマクラーレンM8Fシヴォレー(カーナンバー7)をドライブしてシリーズ・チャンピオンを獲得しました。マクラーレン・チームとしては五連覇を果たしたことになります。
ピーター・レブソンはスティーブ・マックィーンと組んで1970年のセブリング12時間レースで総合2位になったことでも知られていますし、その後F-1にも参戦しています。
M8Fは下の写真を見てもわかるとおり、前年のM8Dと見たところほとんど変わりません。いろいろな形のマシンが参戦したCan-Amですが、ことマクラーレンにとっては「行き着くところまで行っってしまった」感じがしないでもありません。
1972年、ポルシェがターボチャージャー・エンジンのモンスター・マシンを引っさげてCan-Amに参戦したことによって、「マクラーレンのCan-Am」は事実上終わりを告げることになります(この年マクラーレンの優勝はなし)。
その後マクラーレン・チームはF-1に絞った戦いを続け(その後いろいろ紆余曲折があって)現在に至っていますが、私の中のマクラーレンもこの頃で止まったままでいるような気がします。
※デニス・フルムもピーター・レブソンもその後レース中に亡くなってしまいましたね。合掌。
1970年6月2日、開発中のレース・カーで事故を起こし、若くして亡くなってしまいました。
享年わずか32歳。もう40年以上も前の話になってしまうんですね。
ドライバーとしてF-1やル・マンでも優勝したことのあるブルースですが、レース・カー開発者や実業家としてもその才能が注目されていただけに本当に惜しい人でした。
2010年現在、世界三大レースである「モナコGP、ル・マン24時間レース、インディ500」の全てを制した世界で唯一のコンストラクター(車体製造者)としても知られています。
私の中ではマクラーレンといえば何と言ってもCan-Amのレースカー。
Can-Amは正式には「カナディアン・アメリカン・チャレンジ・レース」といいます。略して“カンナム”。
排気量無制限、並列2座席のオープン・ボディで賞金総額世界一といういかにも北米らしい人気のあるレースでした(今はもうありません)。
1967年に自作のマクラーレンM6A・シヴォレーでチャンピオンになったブルースは、1968年からは友人のドライバーであるデニス・フルムとともにCan-Amを席巻、「ブルース&デニー・ショー」と呼ばれるほど優勝を重ねました。ちなみに1968年のシリーズ・チャンピオンはデニスが獲得しています。
上の写真は1968年にブルースがドライブしたマクラーレンM8A・シヴォレー(カーナンバー4)です。
デニス・フルムは1967年のF-1ワールドチャンピオンで、マクラーレン・チームにエース・ドライバーとして入ったのですが、ことCan-Amレースというとブルースの陰にかくれていた印象がありました。
1969年はブルースがCan-Amのシリーズ・チャンピオンに輝いています。
下の写真は翌1969年デニス・フルムがドライブしたマクラーレンM8B・シヴォレー(カーナンバー5)。
当時流行だった大きなウィングが目立ちます。まあ、このころはどのマシンも大きなウィングを付けていたものです。
Can-Amを3年間制したマクラーレン・チームでしたが、1970年のシリーズ開幕前に大ピンチを迎えます。
冒頭にも述べたとおり、新しいマシン、マクラーレンM8Dを開発中に事故死してしまうのです。
しかし、急きょダン・ガーニーをドライバーとして迎えシリーズに参戦し、デニス・フルムが見事チャンピオンを獲得します。
下の写真は、そのデニス・フルムがドライブしたマクラーレンM8D。
ウィングが禁止された後のボディはくさび形が強調されたカタチになっておりブルースが事故を起こした原因は、そのくさび形のボディカウルが吹き飛んだからだとも言われています。
1971年は新たに招かれたピーター・レブソンがマクラーレンM8Fシヴォレー(カーナンバー7)をドライブしてシリーズ・チャンピオンを獲得しました。マクラーレン・チームとしては五連覇を果たしたことになります。
ピーター・レブソンはスティーブ・マックィーンと組んで1970年のセブリング12時間レースで総合2位になったことでも知られていますし、その後F-1にも参戦しています。
M8Fは下の写真を見てもわかるとおり、前年のM8Dと見たところほとんど変わりません。いろいろな形のマシンが参戦したCan-Amですが、ことマクラーレンにとっては「行き着くところまで行っってしまった」感じがしないでもありません。
1972年、ポルシェがターボチャージャー・エンジンのモンスター・マシンを引っさげてCan-Amに参戦したことによって、「マクラーレンのCan-Am」は事実上終わりを告げることになります(この年マクラーレンの優勝はなし)。
その後マクラーレン・チームはF-1に絞った戦いを続け(その後いろいろ紆余曲折があって)現在に至っていますが、私の中のマクラーレンもこの頃で止まったままでいるような気がします。
※デニス・フルムもピーター・レブソンもその後レース中に亡くなってしまいましたね。合掌。
後年CATVにするまでは我が家はNHK2局とYBS、UTYだけでしたからね。どっちにしろ視ることはできなかったんだな。少し残念。
スロットカーは中学生当時、自転車で甲府のロイヤルモデルまで出かけてはやってました。
当時小学生だった頃の放送はモノクロテレビでしたが、昔住んでいた甲府市でも我が家だけ、民放ローカルが受信できず、東京民放キー局の放送は受信できたのです。
どうもアンテナの指向性と多段素子による弱電界仕様がもたらした事だったようです。
車のボディー色をどうして知ったかと云うと、スロットレーシング(当時はレーシングカート呼んでいました)が一部流行っていましたし、チャパラルやマクラーレンはプラスチックモデルの外箱でもボディカラーが判りました。
それ程裕福ではなかったので、当時それらを買うことはできませんでしたけどね。
例のタミヤ12分の1ポルシェ等に手が届くようになったのは、中学生になってから以降の事です。
私はポルシェファンから入ったのでマクラーレンは敵役という感じでしたが、いつの間にか好きになりました。本当はM6Bが好きなんですが見つからなくて。
そして、直ぐ其れと判るくさび形シルエット。
懐かしいですね。
カンナムシリーズ、昔東京12チャンネル(今のテレビ東京)だったかな??で毎週視てました。
ウイングと云う概念もチャパラルを通じ、このテレビ放送で知りました。
あと、ゴルフカートだかモーターボートだかのエンジンを4台取り付けた四駆のマシンとかもありましたね。
でもCan-Amは面白かったです。
シャパラルは勿論、シャドーやオートコーストのように超個性的な車も生まれ、車雑誌を見るだけで胸が高鳴りました。
しかし最近はF1マシンも皆同じ形に見えてしまいます。ナショナルカラーの時代を懐かしむのは年のせいでしょうか。