はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

三島由紀夫の結婚について

2020年12月08日 | 三島由紀夫

2020/12/08

 

岩下尚史著『ヒタメン 三島由紀夫 若き日の恋』①、②の続きです。

徳岡孝夫著『五衰の人』には三島の結婚について、「愛を前提としない結婚をした」と書かれています。

前にも書きましたが、『五衰の人』から瑤子夫人について書かれた部分を抜き書きします。

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〈瑤子夫人に会った時も、故人のことは何も聞かなかった。瑤子夫人が決意をもって亡き夫の私事を守る人であるのを承知していた。

周知のように、三島さんは愛を前提としない結婚をした人だった。

「結婚適齢期で、文学なんかにはちっとも興味をもたず、家事が好きで、両親を大切に思ってくれる素直な女らしいやさしい人、ハイヒールをはいても僕より背が低く、僕の好みの丸顔で可愛らしいお嬢さん。僕の仕事に決して立ち入ることなしに、家庭をキチンとして、そのことで間接に僕を支えてくれる人」(『私の見合い結婚』)  という条件を出し、日本画家・杉山寧氏の長女と結婚した。〉(p.279)

〈瑤子夫人の言葉によると、「主人のこと、彼との生活のことについては、いままで1度も書いたことはありません。書く手法も知らないし、主人との昔からの約束もあります。こういう夫でございましたと妻が書いても、それはたかだか興味の対象になるくらいでしょう。私自身、そういうものを読むのが好きではないし、妻が書くことによって亡くなった人の姿を変えるすべもありません。書く意志もなければ書くこともできません。」『諸君!』昭和60年1月号〉(P304)


瑤子夫人は語らないことを貫いたのでした。


 
 

岩下尚史著『ヒタメン 三島由紀夫 若き日の恋』(文春文庫)には、三島の結婚について、友人・湯浅あつ子の証言が載っています。湯浅さんは『鏡子の家』の鏡子のモデルになった女性です。小説に描かれたように、自宅のサロンには多くの人が集まってきました。

画家・杉山寧の娘瑤子との縁談は、三島の両親から見合い相手を探してくれるように頼まれて、湯浅さんが持っていった話でした。

湯浅さんは、かなりざっくばらんな人だとお見受けしました。ここまで言っていいのかと思った箇所もあります。しかし湯浅さんが語らなければ、語られないまま消えていくエピソードだったでしょう。

三島の両親や瑤子夫人が亡くなった後のインタビューだからこそ言えたことでしょう。三島に興味を持つ人や研究者には貴重な情報です。インタビュー時期は2010年とあります。



 
 

『ヒタメン』より要約、ところどころ抜き書きさせていただきます。

〈湯浅あつ子の知人の姪御にあたる杉山瑤子とのお見合いを設定した。(p.305)杉山瑤子と見合いをした帰りの車の中で、公威(三島)は「縁談を断ってくれ」といった。

「彼女はまだ学生なのに、親に言い含められて嫁に行かされようとしているかもしれないけれど、ぼくとしてはこの場でお断りするからね。すまないが、あっちゃん(湯浅あつ子)、明日から円満な手続きを頼むよ」(p.306)

断ると、瑤子ちゃんが私の家に駆け込んできて「三島由紀夫ではなく、平岡公威というひとを好きになっちゃったんだから、絶対にお嫁に行かせてください、お願いします」って、それこそ泣いて訴えるじゃありませんか。

断りをお伝えしましたら、こんどは杉山夫妻が私や小松さんを通り越して、平岡の家と直接、この縁談の交渉をするようになったんです。(P.308)

杉山家が経済上の攻勢をかけたんです。奥さんの御実家が御内福だという話もありましたから。決して裕福ではなかった平岡家が倒れたわけですよ。

しかし、結婚してからは杉山家からの応援も期待したほどではなくて、平岡の両親からは、あとになって種々の愚痴を聞かされましたけれども・・・。

結婚して新築した馬込の家の、家具調度の類はほとんど、瑤子ちゃんの実家から出たお金で買ったものだと聞いたことはあります。(P.309)

ですから、後になって、おばさま(倭文重)がね、とんでもない家との縁談を世話してくれたと云うような苦情をおっしゃるたびに、私は一度はお断りしたのよ、って言いたくなりましたよ(笑)

2人が新婚旅行から帰ってきて、半月ほど経ってからでしょうかしら、「この結婚はやっぱり失敗だった。あっちゃん、別れたいんだけど」って言うんですよ。(P.311)

しかし、まもなく瑤子ちゃんが妊娠しているらしいということになったんですね。ですから、そのときの別れ話はしぜんと立ち消えになりましたのよ。(p.312)

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文学座や大映の女優さんと写っている写真などは、全て瑤子ちゃんの手で破棄されたそうです。そうした嫉妬の的になったのは女ばかりでなく、男の友だちにまで及びましたから。

結婚以前の三島由紀夫の交友関係を一掃しようとしたんですもの。それも自分が表に出るのではなく、わざと公ちゃんに喧嘩させる形で、どなたとも縁を切らせましたからね。(P.313)

そんなことで、唯一の親友だった黛敏郎さんも絶交することになったンです。

それと同じ頃に、瑤子ちゃんは私のことも公ちゃんから遠ざけました。


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瑤子ちゃんだって、女として、妻として、可哀想でしたよ。

だこさん(貞子)と結婚していたならば名作が書けるでしょ、ええ、書くことができましたね。華やかで豊かな暮らしと云うものが、彼らしい名作を生むには、何より必要だったのだと思います。

その証拠に、あれは確か、「楯の会」を作ったときですよ。「あっちゃん、もう、以前のように書けないんだよ。僕、小説書けなくなっちゃった」などと、泣き言をいうのを聞きましたもの・・・作家がね、そんなことを言うようになったら、もう、了りなんじゃありませんか。

だけどね、夫婦はおたがいさまですからね、公ちゃんばかりでなく、お嫁さんも気の毒でしたよ、女ですもの。

だって、表向きはともかく、良人から敬遠されてばかりでは、妻としての立場がありませんよ。

その上に、別棟とは言いながら、隠居所を隔てた塀の向こうからは、息子を溺愛する姑の目がいつもいつも光って居りましたしね。(p.320)

三島の未亡人ということよりも、ふたりの子供の母親としての瑤子ちゃんが、世間の好奇の目から、幼い子どもたちを守るために、それこそ必死で闘いましたからね。その覇気たるや、子を持つ母親として、実に偉いものでした。(p.326) 〉

 

・・・・・・・・・・・

これは湯浅あつ子から見た平岡家(三島)の様子である。別の人が見れば、また別の感じ方があったかもしれない。しかし、ぎくしゃくした結婚生活であったことは、平岡家を知っている他の何人かが語っているところである。

次回は、湯浅あつ子が語る三島の死の理由を書いてみたいと思います。

 


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