昨シーズン限りで現役を引退した椋原健太さんは岡山市に本社を置く株式会社アン・ドゥーで働いています。引退の理由について、以下のとおり語っています。
「代理人(仲介人)から情報を聞いていたこともあり、少し前から将来について考えていました。大好きで、家族も住み慣れている岡山を離れることと、新しい環境でサッカーを続けることを天秤にかけたら、迷いはなかったです」〉
早めに契約満了を告げられることは、サッカー選手としてのキャリアを終わられるための心の整理するいい期間になったようです。
〈「引退を告げてからの1カ月半が、いま振り返るとよかったです。5歳から25年以上もやってきたサッカーに、お別れの思いを持ちながらプレーできた。まだプレーできる状態なのに、自分からやめて違う道に進むのは素敵じゃないか、と言ってくれた方もいます。最終節では感情が高ぶって泣いてしまいましたが、きちんとお別れができました」〉
サッカー選手の多くはセカンドキャリアとしてサッカー関係の仕事を希望するというイメージがありましたが、椋原健太さんは普通の生活を希望されたため会社で働くことを選択されました。
〈「一度きりの人生を、今後もサッカーに捧げようとは思わなかったです。違う人生を歩みたいと考えていました。学生時代は年代別代表の海外遠征で、1カ月くらい授業を休むのもザラ。学校の行事も、ほとんど出たことがありません。普通のこと、普通の生活がしたかったんです」〉
僕の経験で恐縮ですが、真剣にマラソンに取り組んでいた時、いい記録を出すことができましたが、これ以上一人で練習を頑張る気持ちになれませんでした。同年代と同じように普通に生活したい、仕事が終わった後の練習時間の確保を気にせずに一生懸命仕事に取り組んでみたい、と思っていたことを思い出しました。
しかし、椋原健太さんはいきなり仕事につまづきます。
〈「FAXの送り方も、コピー機の機能も分からず、イチから上司に教えてもらいました。メールを送るときのCCやBCCの使い方も知らなかったですね。一番苦労したのは2つ、3つの仕事を任されたとき。優先順位を決めて要領良くこなすことができず、焦ってパニックになってしまいました。サッカーのときはボールだけじゃなく、周りも見ながら、いろいろなことを考えてプレーできていたのに……。自分のポンコツさに驚いて、がっかりしました」〉
これは新入社員がよくぶつかる壁です。自信を持って入社したのに、何もできないという現実に打ちのめされることが多いのです。
しかし、椋原健太さんは一生懸命仕事に食らいつくことで、壁を乗り越えられたようです。
〈初出勤から3カ月、仕事に必要なスキルは一通り覚え、「会社の仲間を助けたい、少しでもお手伝いができるように、という思いで精一杯やっています。今後は年齢層に応じた売れ筋のアイテムを予測するなど、ファッションのことを勉強しなければいけない」と意欲的だ。〉
サッカーと関わりのない仕事についた椋原健太さんですが、時々ラジオでサッカー解説の仕事もされておられるようです。いつかDAZNで岡山の試合を見れば、椋原健太さんの声が聴けるかもしれませんね。
最後に椋原健太さんが今の生活について語っている言葉を掲載します。僕はコロナ禍で以前のようにスタジアムに通えない、スタジアムで楽しめない日々が続き、時々愚痴ってますが、そんなことはちっぽけなことだと気付かされました。
〈「いい会社で働くことができて幸せです。メンタル面で厳しかった世界から解放されて、やっと定住できる。いまは心に余裕があって、そうなると仕事帰りに歩く道のりの景色が、華やかに、きれいに見えるんです。こんなに素晴らしいことはないですよ」〉
椋原健太さんと記事を書かれた石倉利英さんに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。