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ふぶきの部屋

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秋篠宮殿下の結婚の時

2017-11-24 07:00:00 | 皇室報道

 はとバスさま

どうもありがとうございます。引用させて頂きますね。

もう25年以上も前の話ですし、知らない人も多いんですよね。

秋篠宮殿下の「結婚」に関しては結婚前からいわゆるバッシング対象であったと思われます。

理由は

 浩宮の結婚が決まっていなかった事

 美智子皇后にとって学習院出身の嫁は好ましくなかった事

この2点です・・・って考えると全てのつじつまがあうでしょう?

世の中が「こんなお嬢様がいたのか」と大喜びして「紀子ちゃんフィーバー」が起き、常盤会がもろ手を挙げて賛成して「今回はうちからお妃が出た」と鼻高々になっている横で、実は「昭和天皇の喪中なのに婚約を強行した」と雑誌やテレビが伝えていました。

いくら説明しても「昭和天皇の服喪期間に婚約」という言葉が取り消される事はなく今に至っているわけです。

宮内庁も今回の眞子様の結婚のように「KKの仕事に配慮して」なんて言わなくて、粛々と「服喪令には違反していない」という事で進めていました。

浩宮が成年式を迎えた時から「お妃選び」が始まり、毎週のように雑誌を賑わせ、久邇さんだ北白川さんだ、服部さんだ・と名前が上がる中、突如マスコミに登場したのが小和田雅子さんです。

あの当時は、識者の方や皇室尊崇派の間では小和田雅子さんはありえないという意見で一致していました。

なぜなら当時の皇族の結婚に関しては暗黙の了解で

 家柄が3代にさかのぼり、犯罪者や精神疾患者がいないこと

というのが大前提になっていたからです。

小和田雅子さんの祖父はチッソの社長。日本一の公害を起こした企業のトップで、彼自身様々なトラブルを抱えていたし、父親は外務省の官僚。後ろ暗さは天下一品。

ゆえに「いくらお金があってもダメなものはダメ」と言われていたのです。

後藤田さんによる「皇室に筵旗が立つ」という有名な言葉がありましたし。

事実かどうかわかりませんが、浩宮と小和田雅子さんの結婚には昭和天皇も反対していたと言われます。

しかし。浩宮の小和田さんへの執着はすごいものがあり、イギリスで小和田さんが「私は浩宮様と結婚する気はありません」と言ってもめげなかった。

めげなかった理由は

 政治家・外務省を通じて彼女を説得してみせるという裏取引があった

 美智子皇后が彼女の学歴を気に入っていた

という事があるのではありませんか?

最近公になってきて、果たしてそれが本当かどうかわかりませんが、保守派からぜひ久邇晃子さんを・・と言われてお見合いしたけど浩宮は気に入らず、世継ぎの結婚はそもそも好き嫌いではありませんのでそれで決定しょうとした時、美智子妃が「久邇家の退職金をお支度に使わせるのも気の毒だし、あちら(小和田)はおできになるし」の一言で結婚が消えてしまった。

久邇晃子さんはオックスフォード、東大に入って精神科医になりました。

もしスムーズに久邇晃子さんと浩宮が結婚を決めていたら秋篠宮の結婚はもっと遅かったし、紀子様は予定通り海外留学を果たしその上でご結婚されたかもしれません。

秋篠宮殿下の言葉を借りましょう。

<結婚にむけた準備>

文仁 :

少し時計の針を進めましょう。

私が大学を卒業したのが1988年ですが,その年の夏から暫くの間英 国に滞在しました。

この間,昭和天皇のご不例と崩御があったことから,しばしば日本に帰ることに なりました。

日本にいる間は,諸行事に参列するためだったのですが,そのおりに,将来のことにつ いていろいろと話す機会にもなりました。

そして,1989年の9月に公表するに至りました。

これはい わゆる結納に当たる正式な婚約ではなく,皇室会議の議を経て婚約が内定したということを発表する 機会でした。

 私自身の結婚式を9月30日に控えていた8月末、突如礼宮様の婚約が発表され、お父様と並んであるく川嶋紀子さんの映像が流れました。

 実は私の夫は次男で長男の兄は独身。

 それが郡山宮夫妻にはものすごく気に入らない事で「お兄ちゃんの結婚まで待て」と散々言われました。しかし、義兄には付き合っている女性がいるわけでもなかったし、別に今時弟が先に結婚してもいいじゃないかとわりと強行突破したんですね。

 でも礼宮様のおかげで「兄より先に弟が結婚しても差し支えない」という事になり、文句を言われなくなりました。そういう意味で私は秋篠宮ご夫妻には「恩」があります。

服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが,1951年7月の順宮 (現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で,しかも当時参考としていた旧皇室服喪 令によると,私たちの発表時期より一段階重い服喪期間中でしたので,手続きを終えたという発表は 前例にもあり問題ないと宮内庁は判断したわけです。

 現皇室典範の服喪令にしますと祖父母が亡くなった場合の服喪期間は150日(5か月)

150日を3つの時期に分け

1段階 → 30日

2段階 → 30日

3段階 → 90日

ですから、池田厚子さんの婚約発表は第二段階で行われたという事になります。

それに比べると礼宮の婚約内定は9月ですから150日をとうに超えていたという事になります。

にも関わらず「喪中」と言い続けたのは、庶民が勝手に「服喪期間は1年」と思っていたからでしょう?

服喪期間1年というのは天皇の配偶者とその子供の場合で、今上と皇后、香淳皇后の服喪期間の事です。

この1年を3期にわけて

1段階 → 30日

2段階 → 30日

3段階 → 305日

です。この「段階」というのは庶民でいうところの「初七日」「四十九日」など心のけじめをつける為の区切りでそれによって喪服の色も変わってきます。

池田厚子さんの時は誰も「喪中なのに」と言わなかったのに礼宮の時はやたら「喪中」と叫び

 礼宮のわがままで結婚を強行(紀子ちゃんと結婚できなければ皇族やめるなどの報道)

 川島紀子の「妃」への野心(妃になりたくてなったんだから苦労して当たり前などの報道)

の印象操作をしたかったのではないかと思います。

確か、あの頃、特に何度も報道されたのは皇后の「長幼の序というものがありますよ」と説得したという話。

母の忠言に耳を貸さない、貸さなかった礼宮の印象操作が大きくなされました。

そして,私たちの結婚の時期についてです。

秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で,昭和天皇の 即位の礼が同年の11月初旬。その間は2ヶ月もなく,大変だったことを両陛下が聞いていらしたそう です。

そのようなことから,私たちのときには,結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までにある程 度の時間があったほうがよいとのことで,私が帰国した直後に式がおこなわれることになりました。

紀子 :とてもありがたい思し召しを賜り,感謝申し上げております。

 ここでもう一人、川島紀子嬢の入内を心から喜んでいる方がいらっしゃいました。それが秩父宮妃です。

  秩父宮妃は会津藩出身。川嶋家の祖母も会津藩士・池上四郎の子孫。宮妃は同じ会津の血を引くお妃の誕生をとってもとっても喜ばれ、多分結婚を後押しし、自分達が結婚した時の例をあげて急いだほうがよいとアドバイスされたのではないかと思います。

 秋篠宮の結婚 →1990年6月29日

  即位の大礼 → 1990年11月

当時、浩宮妃は決定しておらず暗礁に乗り上げていた状態。

皇后を支える「妃」の存在がない事に宮内庁も危惧していたと思われます。

ゆえに紀子妃は結婚早々「筆頭宮家の妃」として皇族方上に並んだのです。

秋篠宮両殿下の結婚を別な側面から見ると、非常に興味深い事がわかりますね。

 正田美智子入内に反対していた香淳皇后一派である秩父宮妃の後押しがあった

 正田美智子入内によって煮え湯を飲まされた常盤会の後押しがあった

この事が皇后のプライドをいたく傷つけた事は想像に難くない。

最初は「官舎にすむ貧乏学者の娘」程度にしか見ていなかったのに、敵対勢力が息を吹き返してしまった・・・これは何とかしないと、潰さないと自分の存在が否定される事になると皇后は思った事でしょう。

秩父宮妃の紀子妃への「愛情」かたから見てても微笑ましく、さっさと自分が勤めていた結核予防会の名誉総裁を譲られました。

自分が元気なうちに紀子妃をきちんとしたお妃として支えようと思われていたのでしょう。

そういう事がますます美智子妃の気持ちを逆なでしたのではないかと。

・紀子妃堕胎説

・川嶋教授の怒鳴り込み説

などは結婚直後から口コミで広がっていきましたが、そんな芸当が出来る組織は一つしかないと私は思っています。皇后の気持ちを忖度し動く勢力、それらをあえて止めない皇后。そしてわけがわからないままに翻弄されてきた宮家の歴史があるのです。

本当に皇后の「恨み」はすさまじいもので、2000年続いた皇室を自分達の代で終わらせても構わない程に憎々しいのです。

美智子妃としてどれだけ「いじめられた」と考えて来たかはわかりません。

お金と美貌と才能があるのになぜ認められないのか、戦前戦後のひずみの中で「血筋」を持たないというどうしようもない事に対してのコンプレックスは火山のマグマのようにフツフツと湧き上がっていたに違いありません。

女性というのは歳をとればとる程、結婚した頃の「恨み」は増幅するもので、例えば里帰りがままならなかったとか、子育てを否定されたとか、女官に指図されたとか、服装についてあれこれ言われたとか、そりゃあ細かく覚えていては一層悔しくなるもの。秋篠宮殿下が結婚した頃は、反対派の秩父宮妃も高松宮妃も生きていましたから。

それに実母の正田富美さんが週刊誌に残した謎の言葉「何もかも約束が違った」「今私が口を開けば困る人が50や100人はいる」もあり、結婚前に何か約束事があった、しかしそれは守られなかった、ゆえに恨みは一層募ったという事です。

(この時の「約束」は里帰りを多くするとか、昭和天皇に目通りが叶うとかそんなレベルの話ではないと思っています)

僅か23歳だった紀子妃はそんな大人達の積年の対立の中で筆頭宮妃となったのです。

 

小和田雅子さんは

・3代前まで家柄が遡れない半島出身の「なりすまし」疑惑

・母方の江頭家は出身疑惑が強い

・日本一の公害病を起こし、今なお係争中であるチッソの代表者を祖父に持つ

という出自と完璧な発達障害を持って生まれた女性でした。

今まで、皇后が小和田雅子さんを庇うのは「自分より出来が悪いから安心できる」と言われて来ましたが、私はそれ+浩宮に共通する発達障害に親しみを持っているからではないかと思います。

久邇晃子さんのような血筋も頭脳も完璧な女性を皇太子妃にしてしまったら、息子の「障害」がより明るみに出ると思ったのかもしれません。

副産物である愛子内親王の障害まで果たして予想がついたかどうかはわかりませんが皇后にとって愛子内親王は「普通の子」であって、少なくとも「ねむの木学園」の子達とは違うと(これもまた差別ですが)思っている節があります。

今回の眞子内親王の結婚に関しては、将来的に「ただ一人の皇女」として愛子内親王を残す為にはよきことであり、頭脳明晰で分別がつく内親王などはさっさと降嫁して欲しいでしょう。

将来の女帝のいとこのレベルが上では具合が悪いのです。

おりしも、KKという小和田雅子さんを男バージョンにしたような相手を望まれ、皇后にとっては眞子様はとっても「いい孫」です。

 

お父様達も回りの反対を押し切って学生結婚したじゃない」ともし、眞子様がおっしゃったとしたら、それは間違っています。

眞子様のご両親こそ、国民から祝福を持って迎えられ懸念を示していたのは今上と皇后のみだったのですから。

むしろ、眞子様は「お父様達のおっしゃる事もわかるし、正しいと思う。でも私は従えない。無理だから」って所ではありませんか?

「なぜですか?」と問うても「だって私がしたい事と違うから」としか言いようがないでしょう。ここで親や回りがいくら「内親王としての矜持」「内親王としての分別」「将来の天皇の姉としての自覚」を促しても「小さい頃から人一倍厳しく育てられていつも真っ先に叱られて、笑いたい時に笑えなかったし泣きたい時に泣けなかった」なんて言われたらもう言い返せないですよね。

あの東宮一家のありようを間近で見てきたら両親の行動全てが「偽善」としか映らないです。叱りやすい自分にだけ叱る、とかそんなに正しい事をいうなら私に言うんじゃなくてまずあっちでしょ!くらいな気持ち?

KKを否定するなら皇太子妃も否定するんだよね?

世の中に伯父様一家程不可思議で非常識な人たちがいますか?それを思えばなぜ自分の結婚が否定されるのかわかりません。

理屈じゃなくてこれは感情の問題です。

だから自ら失敗し、傷ついて思い知る必要があるのです。

いくら一時金があっても年収250万で都内の一等地マンション住まいは大変です。ご友人たちはみなそれ相応の方に嫁ぐでしょうし、ある時、ふっと惨めさが襲ってくる事があるでしょう。

弟君が大変な立場に追い込まれ身動きできなくなっても助ける事すら出来ないと知った時、初めて「失敗した」と思うかもしれません。

帝国ホテルでの結婚もKKにしては身分不相応すぎます。

お金もない、家柄もない、血筋もない、親族もいない、真っ当な仕事もない、ぜーんぶ嫁の実家頼みのKKがいつまでほくそ笑んでいられるか、もしいざこざがあれば、やっぱり皇后のように恨みを募らせるでしょうね。

ああ、怖い。この悪循環。

 

 

 

 


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12 コメント

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Unknown (ミロ)
2017-11-24 07:50:08
ふぶき様、はとバス様のコメントの解説ありがとうございます。
私はあまり、弟君のご結婚の経緯はよく覚えていなくて、
兄上のときのほうがなんとなく記憶があります。

雅子様男バージョン=KKさん?ですが、それでも雅子様とは大きな違いですよね。
〇〇もない・・。の連続、吉幾三さんの「おら東京さ行くだ」の歌詞を思い出しました。
そしてKKさんの「ほくそ笑み」、あのママも加えて、本当にあのお二人の心境?を表した言葉に思えます。

KKママさんの婚約内定の時に出したコメント「息子を信じて任せるに至りました」「静かにお行事を見守ってまいりたく存じます」(ネットの産経ニュースより)って、
お金は出さないって意味かなと自分では解釈してます。
返信する
Unknown (とまと)
2017-11-24 08:09:24
今までの流れがよく分かりました。

因縁というか、
因果というか、、、
怖いですね。

久しぶりに、

「かわしまきこ
おわだまさこ」クロス読みの怪を思い出しました。
返信する
Unknown (美絵理)
2017-11-24 08:48:48
一字一句、共感しながら拝読しました。
眞子様には、今からでも考え直していただきたいですが、思いを貫き通されるなら、強く、強く生きていって欲しい。
それも姫様の今生での修行ということかも。一般市民と異なり、帰るお里がないのが、親世代としては不憫でなりませんが、世の中に、意味のないことはないと思いますので。
返信する
92さん (猫カフェ)
2017-11-24 09:42:10
久邇さんが当時すでにオックスフォード大学出の医師だったら権威に弱い浩宮はOKしたかもしれません。浩宮はマサ子さんの主治医のことを記者会見で「お医者様」というくらいです。
もしや当時の久邇さんは皇太子から見て大雑把に言えば古風で地味な紀子さまタイプに見えたのではないですか。そこに現れたのが眼のパッチリとした皇太子の好きな国際的のシンボルのように見えたマサ子さんだった、カッコよかったということではと思います。
返信する
訂正させてください (猫カフェ)
2017-11-24 10:56:33
再投稿失礼いたします。
先ほど紀子さまのことを古風で地味などと不正確なことを書いてしまい申し訳ありません。
返信する
「愛」 (しまき)
2017-11-24 13:14:08
秋篠宮をサゲようとする一派や、週刊誌でさえ、紀子妃殿下は「皇室に対する過剰適応」とかなんとか書きたてることがありますが。

私は、そんなことじゃなくって、紀子妃殿下は、もうどうしようもなく、というか、本当に心底というか……まあなかなか言葉にするのも難しいんですが。

要するに、一生涯にこのお方だけ!
というぐらい、礼宮殿下のことを愛してしまわれたんじゃないかと思っているわけです。

「結婚してください。」
「よく考えさせていただきたいと思います(ウロ)」

悩んだでしょう、当時の紀子さんは。
大変な世界に入っていくんだ。これまでの生活が一変してしまうんだ、あれやこれや。。
でもそれ以上に、どうしても礼宮親王殿下と添い遂げたいという気持ちが強かった。

物語にしか存在しないぐらい、ご夫妻、特に紀子妃殿下の親王殿下に対する強い「愛」を私は長年感じてきています。

結婚してから、苦労苦労の連続。最初は皇后にあれやこれや注意されっぱなしで、紀子妃はビデオで皇后の所作をそのまままねるように勉強した、という話もありました。
あの、コンス型作法だって、かなり長いこと、皇后陛下のカタチのまんま、同じようになさっておられましたよ。
ご苦労してこられましたよね…………

でもそれでも、苦労よりも、夫に対する「愛」がまさっていて。切り抜けられてきたんだと思います。

で、ここからは私の妄想になっちゃうわけですが。
眞子さま。
とりあえず今は、自分はK氏を愛していると、思ってます。はい。私はそう思います。

で、反対するご両親に
「でも、私はどうしても彼を愛しているの。わかっていても愛しているのです。」って言い続けたのかなぁ……

なんてね。想像です。憶測です。妄想です。
勘違いの「愛」になりそうな気配がありそうだから、我々心配しているわけですが。

それからこれもついでに。
あの婚約内定会見のときに
K氏が言った

「これからのことは、宮様とよくご相談申し上げて」っていう、あのフレーズ。
あれ、私はどうしても「秋篠宮様と」って聞こえちゃうんです。
つまり、眞子さまじゃなくて、お父様の方ですね。
お父様がきっと何とかしてくれる。うん。みたいな。

綿密に台本つくってやった茶番劇のような婚約内定会見。普通だったら

「これからのことは、眞子さまとよくご相談申し上げて」

or

「同 内親王殿下とよくご相談申し上げて」

じゃないですか?
眞子さまは、内親王殿下だけど、宮号をお持ちなのは、お父様の「秋篠宮親王殿下」ですよね……
返信する
Unknown (ゆきんこ)
2017-11-24 15:28:49
名作「天皇の母」の190~192話(2時間47分)、205話を読み返すと、
眞子さま佳子さまの心境を思って悲しくなります。

「笑いたい時に笑えなかったし泣きたい時に泣けなかった」眞子さま、
悪くないのに窘められてた佳子さま。

紀子さまはご懐妊だったし、
秋篠宮殿下のふんばりどころだったと今は思います。

返信する
Unknown (翡翠)
2017-11-24 21:13:42
本当に眞子様は「恋」していらっしゃるんでしょう。
そういう時って、反対されればされるほど、
執着は強くなります。
しかし恋わずらい、というように
一種の熱病に罹っているようなもの。
年月を経て、冷静になったとき、
幻想は消えてしまうのではないでしょうか・・・。
仰るように失敗して見なければわからないのだと
思います。
それも致し方ないことかと思います。
返信する
Unknown (はとバス)
2017-11-24 22:43:46
ふぶき様

『宮内庁ホームページ http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/03/kaiken/gokanso-h27-gokekkon25.html 』から秋篠宮 同妃両殿下の御言葉をお載せしただけですのに、さらなる歴史的考察・洞察をありがとうございました。
ふぶき様が11月19日の『皇室ウイークリー』で「 力のない私に出来る事は秋篠宮家の仕組まれたマイナスイメージを払しょくする事です」と書かれた通りに、ふぶき様の博識 博学で真実を教えて下さって感謝しております(「力のない」ことは無いです)。

あの「即位の礼」の時。清子内親王殿下の前を御進みになり、御緊張の面持ちで御目を伏せられていた、今より少しだけ ふっくらとされていた秋篠宮妃殿下の御立派な御姿は忘れられません。
結核予防会会場で、御隣の秩父宮妃殿下と御親しく御話しになっていたのも。
御懐妊中、吹雪の中の式典に長時間御出だったのも。
川嶋紀子さんは、ただの「可憐な御嬢様」ではありませんでした。
秩父宮妃殿下と高松宮妃殿下が秋篠宮妃殿下を得られ、やっと正しい皇室に引き戻して下さったのだと思います。
返信する
宮様 (キャベツ)
2017-11-25 02:25:17
小室サンの、『宮様*宮様』に、首を傾げていましたが、宮様とは秋篠宮殿下の事でしたか。
返信する

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