12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

もらった病は重い

2008年01月30日 06時17分18秒 | Weblog

 田辺聖子氏のエッセイより、

“この世の中でどれほど楽しみをみつけ得るかということが、女のかしこさの度合いだと、この頃つくづく思うようになっている。”、

 “そしてそれは、自分にどれだけ美味しいご馳走を食べさせてやるか、ということである。” 

と書いてあった。 これは、男女を問わぬ、真実であろう。

時々、知人に小生の面白いと思うことを、紹介するのであるが、

「もらった病は重い、というけれど・・・・・・こんなになるなんて」と小生を思わせるほど、「****狂い」に罹った人は、今のところ現れていない、笛吹けど踊らずである。

人それぞれ「以前から持っている自分の楽しみ」に、それなりに満足しているようである。そういう人は、それでいいのであろうと思っている。

あとがき:
先日、俳句のSさんに偶然本屋で出会い、しばらくもろもろの立ち話。

彼には以前ストレッチ体操4種を教えた、現在も毎日続けているとのこと。

 若いとき交通事故にあって8ヶ月入院し、そのときの後遺症で「片方のくるぶしが不自由かつ冬場はしびれて困っていたが、今年は全く痺れを感じることが無い」と感謝された。

彼は、一度始めるとこつこつ持続できる稀有な性分の人である、これからもずっと継続し、うまくいけばくるぶしの不自由度が少しでも改善することを祈るのである。

幾度もおせっかいを焼いて人に疎まれているのかもしれないのだが、たまにはこういったこともあるから、たとえ疎まれようとも、おせっかいを焼き続けようと思っている。

追記:俳句の皆さんへ

世話役のSさんが、忘年会が出来なかったことを、気にしていました。

新年会やカラオケなど、遊びの方面でのご意見・ご希望・ご要望があれば、彼に申し出てください。


日本画はビデオ

2008年01月29日 06時34分00秒 | Weblog

 杉浦日向子さんの「江戸塾」なる本の「江戸文化を代表する浮世絵」のお話を読んで、目からうろこ。

 「ありていに描きては興無きものなり」すなわち写実は面白くないという。ではどうするかというと、一枚の絵に「時の流れ」を描いたりするというのである。

すなわち、一枚の絵に春から冬にかけての景色の移り変わりが描写されているものがあるという。これは、科学主義を超えた未来主義だという。

西洋絵画は一瞬を描写した写真だ、浮世絵はビデオだ、一枚の絵の中に一連の時間の移り変わりを表現する手法を芸術の域まで極めているという。

 一例として引き合いに出されたのが、枕絵(春画)である。

この絵のあるものは、手足の部位がいろいろな方向を向いている、一連の動作を一枚の絵に収め、しかも一瞬の姿ではなく、数十分間の時間の経過が表現されているという。

以前何度かこの種の絵を見た記憶があるが、不思議に思う以外に、こんなことを全く考えもしなかった。

 やはり、杉浦日向子さんは偉かったのである。

参考:
(以下の項目には性的な表現や記述が含まれます。閲覧はご自身の責任で行ってください。18歳未満の方は、見ないでください。)

 春画サイトを改めて覗いてみた。

 言われるが如く、想像をたくましくして手足を見るが・・・、なかなかビデオを見る境地に至らず・・・、あらぬことに思いがいってしまう・・・。

http://homepage3.nifty.com/itoti/index.html

 


背水の陣

2008年01月28日 06時42分33秒 | Weblog

先生のお手本ビデオ(自作)を見ながら自宅で練習するが、なかなか型が覚えられないのである。

無鉄砲だろうかと危惧したが、来月24日太極拳の3級~5級(最下級)検定試験を受けることにした。そしてこのための準備として、先日岡山市で開催された講習会に出席。

こういう立場に自らを置くことを端的に表現する言葉はないかと探してみた。

 1)「瀬戸際」は辞書によると、次のように説明されている。

 1 狭い海峡と外海の境。2 勝負・成否などの分かれ目。「生きるか死ぬかの瀬戸際」「瀬戸際にたつ」「人生の浮沈の分かれ目」「瀬戸際外交」などのように使われている。

2)「背水の陣(はいすいのじん)」を大辞林でも検索すると、次のように出てきた。

《「史記」淮陰侯伝の、漢の名将韓信が趙(ちょう)の軍と戦ったときに、わざと川を背にして陣をとり、味方に退却できないという決死の覚悟をさせ、敵を破ったという故事から》

一歩もひけないような絶体絶命の状況の中で、全力を尽くすことのたとえ。

小生の場合には、「背水の陣」の方が、現状をうまく表しているように思えたのである。
いずれにしろ、これからはまじめに自習をしなければならなくなったのである。自ら招いたこととはいえ、気の重いことである。

講習会では、小生と同じ初心者クラスの人が20名くらい、1級までの上級の人が80名くらい居たように思った。皆さん伸び伸びと明るくにこやかに楽しそうに学んでいた。

  

小生のように「背水の陣」で臨んだ人は何人いたのだろうか・・・。

偶然同じ教室のMさん(若手女性)に出会った、到着が早すぎたので待ち合わせに30分ほど雑談をした、そのとき彼女も小生と同じ考えで参加したと言う、案外背水の陣の人が多いのかもしれないと思ったのである。

小生と同期の男性Sさんにも、今度の教室で、参加の動機を聞いてみようと思っている。


うどん談義

2008年01月25日 06時45分08秒 | Weblog

 A.同窓会のブログに小生が次の投稿をした。

NHKの「当世キーワード」の放送で、「うどんツアー」なる言葉を知った。直ちに、インターネット検索、出てくるは出てくるは、山ほどうどんツアー情報が出てきた。

沢山あるので、画面のきれいなこのサイト一つのみ紹介することにした。 【さぬきうどんツアー】 讃岐うどんの旅応援します!
http://www.udonyado.com/udontour.html

幾つかのコースから一つ選び、誘い合わせて出かけるのも一興であろうと思った。
各地にうどんがあるが、なぜか讃岐うどんの味に勝るものに出くわさない。

 B.直ちに、反論が来た。
京都方面在住の友人が、最高のうどんは、稲庭うどんだという。その一文は、かくの如し。

もう5年も前になるが、社用で秋田へ行ったときにI君のご自宅を訪ねた。随分歓待を受けて、そのときに隣町のホテルで「稲庭うどん」をご馳走になったんや。

私がそれを所望したとき、I君は一瞬「そんなもんでええんか?」と言わんばかりに小首をかしげた。

「そりゃあ秋田くんだりまで来たんやから、ここで本場もんを食わんでどこで食うんや?フレンチやステーキはどこで食うたって同じやんか」これが私の思いやったんや。べつに遠慮した訳やない。

おかげで生涯一番のうどんに出会えたんやから最高や。あの上品な細身うどんののど越しは未だに忘れへん。

ところで讃岐うどんにはね、苦い経験がありまんねん。
うどん屋に誘うてくれた知人に、「ナンボ美味い言ても所詮うどんはうどんやんか。回ってるとこでええから寿司を食わしてくれ」 

讃岐生まれの知人は本気で怒った。
高松では絶対に言うたらあかん言葉や」

小生も、これからは注意することにした。

お断り:
明日土曜日とさらに日曜日は、所要のため休刊します。

 


みやび

2008年01月23日 06時06分45秒 | Weblog

 NHK教育で「新日曜美術館 千年のみやび・近衛家の名宝 流麗かな書・豪華絵巻」の番組をご案内したが、小生も見た。

 1. 書は、字を読むのではなく、字を読めなくてもよい。

2. 一字一字の美しさもさることながら、全体のバランス・墨の濃淡・筆勢などを抽象画の鑑賞のように楽しめばよいというのである。

書を親しみ楽しむ極意を教わったような、楽しみの一つが増えたような気がした。
絵だけなく書の展覧会にも足を向けることにした。

3. 番組では、出演者がそろって筆を取り「みやび」と書いた。
字を書くことのアドバイスは、上手に書こうとせず、自分の書きたいように自由に書けという。

書き慣れてくると、筆が自由に動いて書いてくれるという。
(奥田監督などは、息を止めて一気に書いていた、彼の映画作品のタイトルは、監督自筆のものだそうである)

 書を書く極意であろう。水墨画を描くときの貴重な参考になった。

    

これは、貴族の奥方や娘さん達が楽しんだ御所人形の写真である。
「頭大(頭が大きいことは、かわいらしいことに通じるという)」と言われ、とてもかわいらしい人形である、。

昔は、貴族などの上流階級(不労所得階級)が、大いなるゆとりのもとの貴族社会の文化として「みやび(書・物語・和歌・絵画・人形などの工藝品)」を楽しんだようである。

若い現役世代には申し訳ないことだが、現代のみやびを楽しめるのは、気持ちにゆとりがもてる我々シルバー世代である。

(現役世代の人達は、いずれ来るであろうゴールデンエイジを楽しみに、毎日を活躍してもらいたい)

今日の日本を作り上げた功績に免じて、大いに楽しませてもらうことにした。

「みやび」とは、上品さであると番組で云っていた。
今後、ぼちぼち「上品さ」とは何か考えることにした。


超美人

2008年01月22日 07時20分13秒 | Weblog


 昔の職場の大先輩に当たる「中村一郎」画伯没後15周年遺作展に出かけた。
宇野駅の東側の「駅東創庫(えきひがしそうこ)」で11点を見ることが出来た。
 http://ekihigashi.blogspot.com/


これらは、BAUHAUS(バウハウス)と呼ばれる玉野市文化会館の倉庫に眠っていた物だそうである。(殆ど、見たことの無い作品ばかりであった)


さて本論、市内の方はよくご存知であろうが、前商工会議所会頭夫人KFさんに、駅東創庫でお会いした。

この方は、小生よりお姉さまであるが、時々新聞のY養蜂場のローヤルゼリーの広告欄に実名・実年齢で登場される方である。
(当市在住者では知らぬ方はいないであろう)

まことにお若いのである、40代といっても十分に通用する驚くべき若さであると同時に小生好みの一大美人である、それ故、超美人と題したのである。

若さの秘訣を伺ったところ、ローヤルゼリーは当然として、幾つかの社会貢献活動をなさっていることとおっしゃる。

駅東創庫での活動もその一つであるとのこと、来る4月29日午後、この展覧会の場所で、ギター伴奏で歌を披露される予定。

出席を案内された、こんな超美人のお誘いには、当然ながら唯々諾々として承諾。
楽しみなことである。

追記:
駅東創庫の管理人から、BAUHAUS(バウハウス)にはさらに20点くらいが展示されていると聞いたので、続いてこちらも訪れてみた。
(こちらのものは、数枚見た記憶があった)

この報告は、また後日。


ああと

2008年01月21日 07時37分22秒 | Weblog

 俳句を始めた頃、図書館で
「日本の名俳句百選 金子兜太編 壇ふみ朗読」のCD付き本を借りた。

 

今日までに、この朗読を数十回聴いたのであるが、依然として理解できない句が沢山ある。
ただその中に初めから判らないながら、
特別印象の強い句が幾つかあった。

その中の代表的な一つが次の句である。

   ああといひて吾を生みしか大寒に  
                  矢島渚男 (やじまなぎさお) 1935年生 

十月十日の出産前・出産・出産後の子育てなどなど、母親の苦労と愛情に大いなる感謝を背景にこめているように感じ、
さらには作者自身が生かされていることに感謝も表しているように思い始めたのは、つい最近のことである。

出産・子育て経験のある女性にとっては、小生とは異なる感慨もあるのではなかろうか・・・。

矢島渚男氏は、NHK俳句の選者としてTVで何度か拝見した方である。

小生の好きな氏の俳句を紹介する。(冬と春から選んでみた)

   さびしさや撞けばのどかな鐘の音

   じやが薯を植ゑることばを置くごとく

   姫はじめ闇美しといひにけり


螺旋階段

2008年01月20日 05時18分20秒 | Weblog

 太極拳ミネルバ教室の若先生が独立し、新たに教室を開催されることになった。
いわゆる、暖簾分け・支社開設・分社化とでも云うべきものである。

今年度末で非常勤講師の仕事は定年、水曜は準備、木曜は授業の日に当てていたが、自由な二日間が取れることになるので、金曜の夜は大(おお)先生の教室・水曜日の日中は若先生の新教室と、二つの教室に参加することにした。

 こんな訳で、若先生から指導方法を我々生徒に下問された。
世の中の人には、天才型の人(ごく少数と思う)と凡人型(大多数)があると思っている。

天才型の人は、五寸釘がぬかを一瞬で貫くようにすばやく奥まで届いて(すばやく体得し)、抜く(忘れる)ときは、木ねじのごとく直ぐには抜け(忘れ)ないのである。

反面大半の凡人は、体得する(理解し覚える)ときは、木ねじのごとく長時間を要し、忘れるときは釘のごとくすぐに忘れるように思っている。

小生は、螺旋階段式指導方法をお願いした。
螺旋階段式とは、ぐるぐると回りながら次第に少しずつ高度を加えていく方式。

ある型Aを指導されても直ぐには先生のように理解も演技も出来ないのが普通の人である。
それ故、型B・C・・・と順次新しいものを勉強しながら、ぐるりと一回りして、最初の型Aに戻り螺旋階段が一回りし、先生の説明・指導が以前に増して良く判るようになる。

そうして、一歩前進し少し高みに到達し、さらに次の循環に入りより高みに登っていく指導方法である。

 学校の教育でも同様である。小学校で算数を習い、中学校・高等学校と段々に高度なものを習うのである。これこそ、螺旋階段式指導方法の典型であろうと思っている。

上達の早い人遅い人それぞれである、それ故、小生の一抹の不安は、この指導方法が、全員にとって最適なものかどうかという点である。

しかし、現在これ以外に、少なくとも自分に合いそうな指導方法を思いつかない。

 

お知らせ1:
今日のことです。  

本日の新聞TV欄によると、NHK教育で、案内人奥田瑛二氏
「新日曜美術館 千年のみやび・近衛家の名宝 流麗かな書・豪華絵巻」の番組が、

午前9時から45分間または午後7時から45分間、2回放送されるとあった。
(いつもの放送と同じなら、同じ内容の放送と思います、いずれかを見ればよいはずです)

お知らせ2:
こちらは、2月3日まで開催のもの。

駅東創庫(えきひがしそうこ)にて、玉野市の洋画家・中村一郎氏の没後15年遺作展との紹介があった。市に寄付した作品の中から11点が展示されているとのこと。

重厚な色彩が特徴の絵である。小生も近いうちに一度覗いて見る予定。


親しむ・楽しむ

2008年01月19日 07時03分43秒 | Weblog

NHKに「知るを楽しむ」というTV番組がある。結構面白いので、時々見ている。

「楽しむ」ためには、まず「親しむ」という段階があるように思う。
さらに、高度になると「極める」という段階になるのであろう、しかし、「極める」ことは普通の人にとって至難の業ではなかろうか。

ご近所の奥さんが、「・・・を始めるのが遅すぎた」と感じるというのである。小生も常々感じていることである。

太極拳のIZMさんが、俳句にご興味を持っているようであるが、いまだ逡巡されているように感じた。

もしも「極める」ことをめざそうとすると、これは容易なことではない。
しかし「楽しむ」ことをめざすなら、まずは「親しむ」ことから始めるのみでよい。それほど深く悩む問題ではないと思うのである。

考えるとしても何を考え迷うのかと言いたい、迷いにかける時間の分だけ、スタートが遅くなるだけで「得るところは何もない」はずである。

小生の場合にも、「もし止める事態になったらどうしよう」という不安がつきまっとったが、冷静に考えると、止めることなどなんでもないことである。
教室に行かなければ良いのである。それだけである。自己責任で決めればよいことなのである。罪も罰もないにもないのである。

こんな訳で、IZMさんに迷惑がられない程度に、俳句をお勧めすることにしようと思っている。 俳句を楽しむ人が一人でも増えるといいのだが。

追記:
Kiborimanさんからの「とんど」の記事に対するコメント。

 俳句をしていると、視点が違ってきますね。今朝、母より、「お宮さんで新年の飾り物を焼いてきてくれないか」と頼まれていました。これから行って来ます。

まさにこの一文の通りである、視点を変えて見ることが出来るようになることは、「親しみ楽しむ」ための最良の方法であろうと思っている。


堪返上

2008年01月18日 06時41分22秒 | Weblog

「かんぺんじょう」と読む。

古文書で使用される語彙・用語などについて読み方と意味をまとめたという「古文書用語集」で調べてみた。

【堪返上】かんぺんじょう:来書の字句に合点などして、行間に返事を書いて返す書状。

(  古語を調べるのは、下記URLが便利である。 http://www.toride.com/~sansui/materials/date/mon45.html  )

現代では、電子メールで返事の場合、行間に返事を書き込む人もいる。

これと同じ発想であるのが「堪返上」、千年も前の人達も同じことを考えたのであった。

       

実は、この真筆の「堪返上」を見ることが出来る場所がある。
それは、東京国立博物館である。お名前を失念したが、孫の某天皇から祖父に当たる道長に宛てた返書にこれが見えるのだそうである。

道長が送った手紙の行間に天皇のご返事が朱記されていると聞いた。
祖父―孫間の愛情溢れる手紙のように思えてならない。見たい気がする。

参考:東京国立博物館のサイトに、以下のような記事があった。

 陽明文庫創立70周年記念特別展「宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝」
平成館 2008年1月2日(水)~2月24日(日)

―見たことがありますか? 道長自筆の日記―

 陽明文庫は、昭和13年(1938)に時の首相近衞文麿(近衞家29代当主)が設立したもので、近衞家が宮廷文化の中心として護り伝えてきた貴重な文書 や宝物を収蔵しています。

その所蔵品は各所で公開されてきましたが、このたび陽明文庫創立70周年を記念し、20万点にもおよぶその所蔵品の全貌を俯瞰するはじめての展覧会を開催いたします。

  藤原道長自筆の日記である「御堂関白記」(国宝)、名筆の集大成である「大手鑑」(国宝)、美麗な舶来の唐紙に和漢朗詠集を書写した 「倭漢抄」 (国宝)をはじめとした陽明文庫の所蔵品に、皇室に献上された作品などを加え、江戸中期の当主で書画、茶道、華道、香道に精通した当時の宮廷文化の第一人者である家熙の作品などを、一堂に集めてご覧いただけるまたとない機会です。

  みやびな公家文化の世界をぜひご堪能ください。

http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=4814

とあった。

地の利を得ている東京都在住者は、本当に恵まれている、羨ましき限りである。


1月2日の「TV電話」に関する質問の答え

2008年01月16日 06時22分03秒 | Weblog

  

1月2日の「TV電話」に関する質問「どんな画面で見えるのか?」にお答えします。

パソコンの画面に小生側の送信画像を表示したものです。
会話中は、相手方の画像(同様なもの)も表示されますので、二つの画像を見ることになります。

但し、相手方の画像は、なぜか自分の画像より低画質となります。

 急ぐときは電話で、時間があり会話などを楽しみたいときには、TV電話と使い分けています。


どんど

2008年01月15日 05時43分03秒 | Weblog

   

どんど(とんど)焼きの写真を同窓生がブログに掲載した。

   

それもあり、今日は小正月でもあり、新年の季語について調べてみた。
同じ意味の季語が沢山出てきた、列記してみる。

 1.どんど《「とんど」とも》
正月15日に、門松・竹・注連縄(しめなわ)などを燃やす行事。どんど焼き。

 「黒こげの餅見失ふどんどかな/室生犀星」

2.左義長(さぎちょう)/三毬杖(さんぎちょう)
《もともとは、毬杖(ぎちょう)を三つ立てたところからという》小正月の火祭りの行事。

宮中では、正月15日および18日に清涼殿の東庭で、青竹を束ねて立て、これに吉書(きっしょ)・扇子・短冊などを結びつけ、はやしたてながら焼いた。

民間では、多く14日または15日に野外で門松などの新年の飾り物を集めて焼く。その火で焼いた餅(もち)や団子を食べると病気をしないとか、書き初めの紙をこの火にかざして高く舞い上がると書道が上達するという。どんど焼き。さいとやき。ほっけんぎょ。

「左義長へ行く子行き交ふ藁(わら)の音/中村草田男」

3.とんど焚く、、飾り焚く、注連焚く(しめたく)、吉書揚(きっしょあげ)
なども同じ意味の新年の季語である。

この種の新年の行事を見る機会も一段と少なくなった感が強い。
何とかして残す努力が必要なようである。


成木責め

2008年01月14日 08時00分34秒 | Weblog

 1月の句会で、とても珍しい新年の季語に出くわした。

投句者の解説を聞くまで、全く読むことすら出来なかった。
(な“る”きではなく、な“り”きぜめと読まないと辞書検索すら出来ない)

 読者の中には、ご存知の方もおられるかも判らないが、大変珍しい風習なので、取り上げて見た。

 [生り木責め/成り木責め]を辞書によると、

「小正月の予祝行事。果樹に、刃物で傷をつけたり、棒で打つなどの威嚇をして、果実の精霊に豊熟を約束させるもの。

その際、「成るか成らぬか、成らねばきるぞ」「成ります、成ります」などと問答をする。」「木責め。木呪(きまじない)。成るか成らぬか。」という地方もある。

時代と共に、失われていく言葉が沢山あるようである。

参考:
判りにくいだろうから、毎日新聞 山口版より引用する。
この一文で、情景をご理解いただけるであろう。

光市の山間部、・・・では早春、柿やナシ、ミカンなどの果樹の豊作を願う「成木責め」という行事があった。
戦後、過疎化と高齢化の波に洗われて途絶えた。ところが復活に向けた動きがあるという。

  地元に伝わる風土、習慣を残そうと語り継いでいるのは同市塩田の谷さん(80)。 1月15日の小正月が一般的だったが、石城山では旧暦2月 3日の節分の日に行った。

谷さんは「植物も冬眠する12~2月は畑の土も触ってはいけなかった。新芽が芽吹くころに木を起こしてあげる意味もあっ た」と説明してくれた。 
谷さんは近くの友香さん(7)と環さん(7)を引き連れ、柿の木の下で再現した。

  谷さんが用意したのは、おむすびを包んでいた大きな葉蘭の葉と硬めに炊いた餅、そして斧(おの)。
一体何が始まるのかとワクワクしながら見守ると--。

友香さんと環さんの2人は突然、木に抱きつき、谷さんは斧を振りかざした。
そして問いかける。 「なるかならぬか、ならねばこの木を切ってしまうぞ」  元気よく「なるなるなる」と応じる2人。

谷さんは木に斧を入れると皮を幅10センチ程度はいでいく。 谷さんはそこに餅をこすりつけて葉蘭をかぶせ、さらにひもで縛り付けるとほほえんだ。 「これで来年も豊作よ」

 それにしても、どうしてこんな行事が? ・・・「裏年対策ですよ」と谷さん。果樹は通常、隔年で豊作と不作を繰り返すため豊作の年に少しだけ木に傷をつけると、けがを治そうと根が養分を吸い上 げる。

 「だから次の年もたくさん実がなります。粘り気のある餅と葉蘭で傷を覆うのは雨が染み込み木が腐るのを防ぐためなんですよ」。

 「さらに」と谷さんは付け加えた。「当時、お餅は何よりのごちそう。痛い目をさせた木に『無理させてすまんね』という気持ちで一番貴重な物を食べさせたのでしょう」  

子どもが木に抱きつき豊作を願う。まさに人間と自然が横並びだった時代の風習なのだ。


もしも

2008年01月13日 07時17分17秒 | Weblog

もしもには、いろいろなケースが考えられるが、本稿では、趣味講座について書くことにした。

* もしも趣味講座が無かったら、どれも始めていなかった。
* もしも趣味講座が無かったら、三日坊主にならずに続いたであろうか?「否」である。

水墨画:教室に持参するため、家で描くのである。この強制力が無かったら、全く描くことは無い。

 俳句:これも水墨画と同じであろう。

 料理:とにかく食生活上困った。まだまだ、知らないことが多すぎる。そして、男性ばかりであるから、数少ない男の会話が出来る場所である。

源氏物語:教室以外では、全く接する機会がない。こちらは宿題が無いので、家で読むことは無い。教室でこそ、楽しめるのである。

ビデオクラブ:最初から高度な知識が必要である。教室で学ばないと、全く手に負えなかった。
(現在は、眼の不調のため、遠ざかっている。しかし、ある程度覚えたので、孫のためなどには、医者に内緒でこっそり撮影している)

太極拳:ひざ痛対策の一つとして始めた。複雑な動作である。簡単に自宅学習が出来ないのである。

真向法:これもひざ痛対策の一つ。こんな単純な体操でひざ痛などが軽快するなどとは、思っても見なかった。

これは、自宅で個人的に十分実践できる種類のものである。
教室に出席しなくても、十分に効果が期待できるが、教室の方がはるかに効果的に出来る。

 教室出席の原動力となっているのは、四種の基本体操のみならず、中心的に指導される各種の柔軟体操と補導体操(パートナーストレッチ体操)である。 基本体操2週間分(14回x朝夕計2回=28回分に相当)を自宅で朝夕行ったと同じ効果が、教室の1時間半に相当するような気がする。これこそ、教室に参加する意味であるといえる。

すべての教室が、五百円/回見当の料金である。 それほど高価なものではない。中には、ビデオのように無料のものもある。

年金生活者でも、さしたる経済負担を感じなくて済む、問題は時間である。 同時に、行きたい講座が複数あると、身体は一つ、どれかに絞る必要が出てくる。 これが、最大の小生の悩みである。

あと幾つか参加したいものがあるが、時間的に不可能なのである。

 「もしも、教室が全く無かったら・・・」と考えるとぞっとするのである。
今頃、いったい何をしているのだろうか・・・


おめでたい

2008年01月12日 06時24分20秒 | Weblog

 判りきったこととして、何気なく使っている言葉に、
「おめでたい・めでたい」がある。
新年には、「新年明けましておめでとう」と多用する言葉である。 そこで、辞書を見た。

[形]おめでた・し[ク]

1 「めでたい」の丁寧語。喜ばしい。(以下のめでたいの項を参照いただきたい)

2 お人よしである。ばか正直である。また、楽観的にすぎる。「今まで何も知らなかったなんて、君も―・いね」

◆「御目出度い」「御芽出度い」などと当てて書く。
* め[形]めでた・し[ク]《動詞「め(愛)ず」の連用形「めで」に形容詞「いたし」の付いた「めでいたし」の音変化》

1 喜び祝うに値するさま。喜ばしい。「―・く成功する」「―・い席」

2 評価・評判などがよい。「社長の覚えが―・い」

3 (多く「おめでたい」の形で)お人よしである。人がよすぎてだまされやすい。「これで承知するなんて―・い人だね」

4 賞美する価値があるさま。みごとである。

新年に使うのは、上記の1であろう。
新しい年が、「めでたい(喜び祝うに値するさま)」のは、判ったようで判らない。

過去をすべて清算し、ご破算のすっきりした状態から出直そうとするので、めでたいく祝うというのであろうか。

これが使われた句を調べたが、見つけられなかった。
面倒になったので、これ以上詮索するのをやめた。

それでも、暫くは多用することになる。