12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

親しき仲

2008年09月30日 05時59分33秒 | Weblog

我々機械工学科は僅か50名のこじんまりしたクラスで、現在四十数名が存命、それぞれそれなりの毎日を過ごしている。

同窓生は、京浜・近畿・中京地区と母校の徳島地区に集中し、その他は西日本各地に点在しているのである。

当然の事ながら、京浜地区は同窓生の数も多く最も活発な活動を行っている。今年は初めて9月23日から26日まで上海で同窓会をするという。

うれしいことに小生にお声がかかった、日をめくって見ると、成田にいる孫の運動会が9月27日である、二つ返事で参加することにした。これが暫らくブログをお休みした理由。

同窓生6名と同伴奥方3名の総員9名での同窓会であった。 ご出席の奥方達は外国経験の豊富な、いずれ劣らぬ猛者ばかり、酒・ゴルフ・テニス・水泳・・・、その上臆することをどこかに忘れてきた良妻賢母ばかりだった。

この種のしっかりもの女性の代表選手が、我が尊敬する塩野七生女史であるが、この奥方達も負けてはいない、小生も直ぐに尊敬してしまった。
(しっかりものの女性を見ると、直ぐ尊敬してしまうのが小生の泣き所)

ぶらぶらと上海の下町を歩いているとやたらと洗濯物が目につく、歩道にブラジャーまでは干していたが、さすがにパンティーはなかった。

そこで思い出したのが、塩野七生女史著「男たちへ」文春文庫の中の
「親しき仲にも礼儀あり」の一文だった。

 “・・・要するに女には、贈れるものならなんでも贈ったらいいのです。そうすれば、女は贈られたものに応じてさまざまに変身してみせます。
(ただし、絶対に贈ってはいけないものにブラジャーとパンティーがあります)・・・”

この一文を歩きながら思い出して、「奥方にブラジャーとパンティーを贈って見たらどうか」と同伴同窓生に口から出そうになったが、後の事が怖くて結局言い出せないままとなった。


キリスト教徒ローマ

2008年09月20日 06時38分10秒 | Weblog

コンスタンティヌスの人物歴は、古代ローマ帝国の衰退の歴史に重なる。紀元312年、コンスタンティヌスはローマに進撃中だった。 ローマには政敵のマクセンシウスが待ちかまえていた。

コンスタンティヌスの軍勢は、3万。ガリア、ゲルマニア、ブリタニアの勇猛な兵士たちは長い行軍に疲れ果てていた。  攻撃の対象は、千年の帝国を標榜するローマ。

マクセンティウスは鉄壁の要塞と15万の兵士を抱えて、コンスタンティヌスの、わずか3万の軍を迎え撃とうとしていた。  誰の目にも、いや攻撃軍の将コンスタンティヌスにしてから、この進軍は不安に満ちたものだった。  

ローマを目前にして、ガリア・ゲルマニア軍団は評議を開いた。そのときの結論は、奇蹟が起こらなくては、ローマには勝てぬ、というものだった。

幕舎に戻ったコンスタンティヌスはしばらく仮眠をとり、夕日を浴びるテントの外に出た。地上を赤く初める夕日の残照に見とれ、ふと気配を感じて、振り向いて東の空を仰いだ。

  すると、暗くなりゆく空に、黄金色の十字の印がくっきりと浮かび上がっていた。ここまでは、光と雲のいたずらで、しばしば起こる可能性のある天然現象だ。

しかし、コンスタンティヌスはこの天然現象のなかに、文字をはっきりと読んだ。十字架の上の空に「In hoc signo vinceイン・ホク・シグノ・ヴィンケ(汝、この印にて勝て)」と書かれていた。

これこそ奇蹟だ。十字といえば、キリスト教の印ではないか。  コンスタンティヌスは、この奇蹟を直ちに全軍に取り入れた。全軍団の旗や楯、馬具などに、十字の印を付けることを命じた。

全軍は一夜にして、キリスト教徒の軍団に変貌した。  奇蹟(十字架)の加護を受けた、ガリア・ゲルマニア軍団は、マクセンティウスの大軍団を、まさに奇跡的に破壊し、ローマ入城を果たした。

マクセンティウスの暴政に疲れ果てていたローマ民衆は歓呼し、コンスタンティヌスを受け入れた。暴政は去り、ローマに本来の元老院による政治が戻ってきた。  

コンスタンティヌスはキリスト教を初めて認めた統治者となった。紀元313年、キリスト教を公認するミラノ勅令を発布し、キリスト教がローマ帝国の礎となった。

お知らせ:都合により9月30日まで御休み。


アルキメデス

2008年09月19日 07時39分29秒 | Weblog

 長靴のつま先に向き合ってシチリア島がある。このシチリア島の東南のシラクサに住んでいたため、とくにシラクサのアルキメデスとも呼ばれた天才がいた。一時、アレクサンドリアで数学を学んだともいわれている。

第二次ポエニ戦争でシラクサがハンニバル側(カルタゴ)に味方したため、ローマ軍に包囲されたときには数々の発明品(石弾を打ち込む器械を発明したり、凹面鏡を作ってローマの軍船を焼いたとも伝えられるが真偽の程は定かではない)でローマを苦しめた。

BC213年、シラクサ攻略を目指したローマ軍は、一人の人間の頭脳の力が四個軍団にも匹敵することをまざまざと見せつけられた。ついにこの年は、アルキメデス一人のために、シラクサ攻略が不発に終わった。

 翌BC212年、シラクサの捕虜尋問から、狩の神アルテミスの祭日にはギリシャ民族であるシラクサの人びとは葡萄酒に酔いつぶれるのが習慣だと判った。

この期に乗じて夜間ローマ軍は城壁内に突入し一気にシラクサを占領した。

シラクサ陥落の際、ローマ側の将軍マルクス・クラウディウス・マルケルスは 「決してアルキメデスを殺すな」と命令を下していたが、

地面に図形を描いていたアルキメデスはそれを踏みつけた兵士に反抗し、結果その一兵士の手によって 殺害された

(アルキメデスの最期の言葉は、「私の図形をこわさないでくれ(私の円を踏むな)」だったと伝えられる)。

その兵士は命令違反によって処刑され ている。その後、その報告を聞いたマルケルスによって墓が作られたという。


バスしかないのか

2008年09月18日 05時08分05秒 | Weblog

 最近両眼複視のため(二重にものが見える)、車の運転が不可能になり、外出は殆ど出来なくなったのである。

小生の住む「地方」では、当然ながら地下鉄は無い、公共交通機関は、限られている、せいぜい、バスとJRである。

JRも駅は7kmほど先か、又は12km先のいずれかである、歩けば駅まで1時間半強または3時間である。とても手軽に利用できる交通機関ではない。 駅までは、バス又はタクシーのいずれかを選択することになる。

上京すると、バス・地下鉄・電車の便利さには驚かされるのである、誠に便利で快適である。目的地近傍まで運んでくれるのは言うに及ばず、ちょっと待つだけで次々と便がある。

そして、驚かされるのに、朝夕の通勤時間帯は、地獄の如く込み合うが、その他の時間帯でも、かなりの乗客が乗っているということである。

都市部の公共交通機関の経営は順風満帆と見える、人口集中とベッドタウンの拡大につれて、依然として路線拡張が進んでいる。

反面、「地方」では、通勤時間帯以外は、乗客はまばら、路線縮小・便数削減と縮小均衡一方である。

小生にとっての現実問題は、バス以外の便利で安い交通手段がないものかと毎日考えているのである。


火牛の計

2008年09月17日 05時58分29秒 | Weblog

 ナポリのあるカンパアーニア地方から長靴のかかとの部分であるプーリア地方に抜けるには、イタリア半島の背骨であるアペニン山脈を越えなければならない。

BC217年、連戦連勝でイタリア全土を荒らしまわっているアルプス越えで攻め入ってきたハンニバルを、ローマ軍は一網打尽にしようと、山脈越えの谷間で待ち伏せしていた。

しかし、僅か三十歳のハンニバルは、優れた情報収集能力でこの待ち伏せを察知し、枯れ木を多量に集め荷車を引かせていた牛二千頭の角に枯れ木の束を結び付けさせた。

夜の暗闇になると、枯れ木の束に点火させ待ち伏せのローマ軍が陣地を築いているのとは反対側の丘に牛を追い立てた。

 夜間の戦闘を避けたかったローマ軍は、反対側の丘を奪われても、谷間での待ち伏せには一向に差し支えないと、暗闇のなか反対の丘に攻め上って行くたいまつの火をただ見送ったのであった。

このスキに、ハンニバルは全軍を一兵も失うことなしに通り過ぎてしまった。

これ以降、ローマ人の間では、どんなに妨害されてもやり遂げる事を「何であろうと、ハンニバルは通過する」という言葉で表現するのだと言う。(塩野七生著 ローマ人の物語)

おまけ;火牛の戦法、或いは、火牛の計について

その1:火牛の戦法は、中国の春秋時代BC284年、角に短剣をくくりつけ、尻尾にたいまつをつけた多くの牛を夜の敵陣に放って大混乱に陥れ(火牛の計)、その上で強襲をかけて敵将を討ち取った、田単将軍が採った戦法である。

 (ハンニバルと近い時代のことであるが、洋の東西交易はそれほど頻繁だったとも思われないので、それぞれの独創と考えてよいようである)

その2:源 義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。通称・木曾 義仲の名でも知られる。「朝日将軍(旭将軍)」と呼ばれた。

1183年5月にいよいよ倶利伽羅峠の戦いが始まった。平家は砺波山西麓に布陣し、義仲軍は東麓一帯に布陣した。義仲軍は地元の石黒・宮崎などの協力を得て夜襲をかけた。

 平家軍はこの夜襲に狼狽し谷底に転落するものも多く、平知度・為盛も戦死し、平維盛は都へ逃げ帰った。この戦いを機に義仲軍は都へと兵を進めた。この時の採られた戦法が世に有名な『火牛の計』である。  

この倶利伽羅峠の戦いにおいて、義仲の戦法『火牛の計』は、500頭にのぼる牛を集め、その牛の角に火をつけた松明を結びつけ、夜中に敵軍のいる方向に追い立てるというやり方である。驚いた平家は敗走したという話である。この話は「源平盛衰記」に登場する。

 500頭もの牛はこの時代この地方には存在した可能性は無い。ましてや短期間にそれだけ多くの牛を集めることは不可能である。また、牛の角に松明を縛りつけ火をつけると、むしろ牛は怖がって前には進まないとの事である。  

おそらく、後の世に諸国行脚の琵琶法師の語り部たちが倶利伽羅峠の戦いを、義仲軍の武勇として誇大表現して伝えたことは当然である。

そして、聞く人に楽しんでもらうため、中国の田単将軍の話を添えて伝説化したものが源平盛衰記に記されたものであろうと推測されている。


一階

2008年09月16日 06時20分55秒 | Weblog

二十年かもう少し前のことだが、幾つかの国々では、エレヴェータボーイの「仕事を奪う」ことになるからと、エレヴェータを自分で操作しないように注意された。

 仕方がないので、毎度xx階に頼むと現地語で言う必要があった。 従って、いろんな国に着くと、一番に覚えるのが感謝と謝罪の言葉であるが、次に必要になるのが、エレヴェータの行き先階を指示するための数字である。

総じて高層ビルが多かったので、47階とかというとてつもない大きな数字を覚える必要があった。

 自分の借りている事務所だけなら一つの階を覚えればよく大した問題ではないのだが、お客の事務所となるとさあ大変、百くらいまでの数字を自由に言える必要があった。

しかし、数字を覚えるだけなら、現在より若かったのでさしたることもなかったのだが、アメリカ式と英国式(ヨーロッパ式)とでは、一階分呼び方が異なり、時々間違いをして困った記憶がある。

我々は中学生のとき、次のように習った。アメリカ式は、日本と同じように、地表面から1・2・3・・・階と数えるが、ヨーロッパ式(英国式)では、日本の2階が1階となるというのであった。

辞書によると、アメリカ式と英国式では、地上階の数え方が、1階ずれる、すなわち、
アメリカ式:the first floor
英国式:the ground floor   となる。

最近TVの世界遺産の番組で幾つかの国の生活様式を見る機会が多い。これによると、

外敵から身を守る必要性の高かった国の場合、地上階(日本式の1階)を馬・馬具・農機具倉庫・中庭・外敵を防ぐための防御区画としており、実際の生活は日本の2階以上の階で行っているケースが多かった。

そんな訳で、自分なりに合点したのが、英国式の階の表示は、外敵から身を守るためのものに起源を発しており、アメリカ式のものは、外敵に対して配慮の要らない国の生活様式に由来するのだろうと思ったのである。

この考え方は、あくまで小生の素人判断に基づくもので、なんらの学術的な根拠には基づくものではない。(もし、誤っていたらお許し頂きたい)


NHKへの投書

2008年09月15日 07時21分53秒 | Weblog

小生の大好きな「世界ふれあい街歩き」の番組に投書をした。この番組は、単なる観光案内に留まらない面白さがある。直ぐに、貴方の受付番号は「xxxx」番ですと返事が来た、後は結果を待つのみである。

 BSハイビジョンでは、「ドナウ川をゆく~南ドイツからオーストリア~」を9月4日木曜日から4週間にわたり放送しているのだが、小生はいまだハイビジョンでなくて総合TVで再放送分をかなり遅れて拝見している。

そのキャッチフレーズは
“ドイツの「黒い森」に源流を発し黒海へ注ぐドナウ川は、ヨーロッパの大動脈として古くから個性豊かな街を育ててきました。

特に南ドイツからウィーンへのルートは、かつてのオーストリア帝国時代に作られた、世界遺産にも登録される美しい町並みが多くあります。 そこで今回は、ドナウ上流からウィーンを目指す旅。

個々の街を単独で訪れても十分に魅力的ですが、遠くヨーロッパの歴史に思いをはせて、川を下る4本シリーズです。“

どうしてドナウ川が出てきたのにライン川が出てこないのか、小生は我慢ならなかった。 こんな訳で、この番組の取材先にライン川流域、もっと具体的にいえば「ストラスブルグ」を加えそれを放送して欲しいと頼んだのである。

 ドイツの「黒い森」の西側をライン川(国境)が流れ、これに接して数kmのところにストラスブルグがある。(フランス・アルザス地方と呼ばれるところ)

観光案内書に寄れば
“ライン川の支流イル川に「大きな島グランイール」と呼ばれる中州の上にストラスブルグがある。中心街はプラハ・ヴェニスなどの都市と同じく「世界文化遺産の都市」に認定されている。”と書いてある。

二千年を越える歴史のあるゆったりとした美しい街である。

過去の放送番組をチェックしたが一度も放送された形跡がない、おそらく採用間違いなしと思う、
是非早く見たいものである。

おまけ;これはストラスブルグ観光局のサイトである。美しい写真をご覧頂きたい。

フランス語の得意な方はそのまま、そうでない方は、右上に国旗があるので、イギリスの国旗をクリックすると英語に切り替わるのでご利用ください。

http://www.otstrasbourg.fr/phototheque.php?id_theme=15&lang=en

 

 

 

 


盆栽の続き

2008年09月14日 06時59分10秒 | Weblog

 先日は、小生の視点から盆栽をスライドショーにしご紹介したが、再度お宅にお邪魔してご主人から幾つかの御説明を頂いた上でビデオを作ってみた。

ご主人にご面倒を掛けて色々解説もお聞きしたが、ほとんど知識の無い事なので数時間ほどの付け焼刃ではどうにもならなかった。

35年にも及ぶ趣味であるため、数は元よりお持ちの盆栽たるや五百年もの三百年ものと、非常に長い年月を凝縮していることは驚きであった。

 山に自生していた数百年ものの盆栽は、大木になる事が出来ないような何とか生き延びるだけのぎりぎり生存できる厳しい環境のなかでしか採取できないと言う。

厳しい風雪・岩ばかりの地味栄養の満たされない極限で苦労に苦労を重ねて生き抜いたからこそ、その厳しくも味のある美しい姿をなしたのだと言う。

部分的に死んでしまった幹のことを、舎利幹と言うが、この舎利幹の身もだえしたような曲がりくねった形から、その盆栽が過ごした厳しい環境を想像するのも鑑賞のポイントであると言う。

また、同様に松などでも分厚いうろこのような幹の皮の部分に着目することが、同じような鑑賞のポイントのようである。

将来、盆栽展を覗くことがあれば、もう少し楽しめそうである。

ビデオはこちらから;

http://www.veoh.com/videos/v15887783znZES55g

 


ローマ人の名前

2008年09月13日 06時26分33秒 | Weblog

ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂の写真である。

ローマ人とはローマ帝国とは何かと考えているが、どうも判ったようで判らないのである。ローマ帝国とは、ラテン人の帝国と宣言した王がいたと本に書いてあったが、これだと益々判らなくなる。

概略の歴史を調べると、次のようである。

BC8世紀;テヴェレ河畔に都市国家建設
BC272年;イタリア半島統一

BC27年;帝政となる
この間、パスク・ロマーナ(ローマの平和)を享受
AD395年;ビザンチン帝国(東ローマ帝国)と西ローマ帝国に分立

AD476年;西ローマ帝国はゲルマン民族の侵入で滅びる
AD1453年まで;東ローマ帝国はビザンチン帝国として存続

年表によっては、やたらと人名が出てくるものがある。ところが、大変似通った名前が何度も出てくることに困らされた。そこでローマ人の名前の構成について調べてみた。

“塩野七生「ローマ人の物語」の旅”に、シピオ(日本読みでは、スキピオと呼ばれる、ハンニバルを破った有名な将軍であり政治家)

「プブリウス・コルネーリウス・シピオ・アフリカーヌス」を例として、次のように書いてあった。

ブリウス; Publius: 個人名
コルネーリウス; Cornelius :コルネリア族の一員
シピオ; Scipio ; シピオーネ家の一員 (日本でスキピオとして有名であるが、家の名前であるため、
スキピオの名は至るところに出た来ることになる)
アフリカーヌス; Africanus ;「アフリカ人」と言う意味。カルタゴのあるアフリカのザマでハンニバルを破った事から付けられた尊称(最も長い名前として引用したと思われる・・・普通の人には最後の「尊称」は付かない)

二番目と三番目すなわち「族」と「家」は、これらが滅び去らないかぎり常につきまとうわけで、繰り返されてしまう。

さらに、一番目の「個人名」も偉大な祖先に借りてくることが多いため、またまた繰り返されてしまう。

この結果、とても似通った名前が歴史に登場しているようである。
こうなると、何年に生まれ、何年に亡くなったXXXさんかを特定しないと誰かはっきりしないのである。

複雑怪奇な歴史に首を突っ込んだと後悔しはじめた。

 ローマの町角編をついでにどうぞ。

 http://jp.youtube.com/watch?v=4vMMZPtdUL0

 


パン

2008年09月12日 09時29分53秒 | Weblog

「人はパンのみにて、生きるにあらず」という言葉を知らない人は居ないのである。

この言葉の裏には、最小限パンくらいは有るという世界に生きている事を前提にしていると思うのである。

あえてここでは「人はパンなしでは、生きる事あたわず」と言い換えてみた。

そうすると、こちらはパンすらも無くなる事を前提にして生きねばならぬ場合に用いる言葉となったのである。

昨今の原油高騰は、パンすらも無くなる将来を暗示しているように思えてならないのである。


盆栽

2008年09月11日 06時47分33秒 | Weblog

 

小生の散歩コースには、あいにくと石垣の上に建てられている関係で、庭を覗く事ができないお宅が何軒かある。

その内の一軒に盆栽を沢山飾った家がある、いつもこれらの盆栽を見あげながら通り過ぎていた。 ある日、通りかかったら、ご主人が丁度帰宅したところだったので、無理をいって庭に入らせてもらい盆栽を拝見した。

驚くなかれ一番古い物は、五百年を経たものと言う。通りから仰ぎ見ていたものは、小ぶりのもの二十程度だったので、全部を拝見した時の驚きは大きかった。

既に、盆栽暦35年と聞き絶句した。 人口僅か7万人のこの町で、三十人くらいの盆栽愛好家がいると聞いた。日本の総人口に直すと、いったい幾人の愛好家がいるのだろうか・・・。

手始めに静止画からスライドショーを作ってみた。

盆栽を知らないので纏める方策が良く判らなかった。
結構悩んだが、いまだ纏まりの無い作品となってしまった。

盆栽のお好きな方は、次をご覧ください。

(最近は外国の広告が冒頭に入るようになった、驚かないように。約6分半あります)

http://www.veoh.com/videos/v15875064dCkwhGW4

 


ヨーロッパの歌川国芳

2008年09月10日 05時48分51秒 | Weblog

メル友から送られてきた美術館の絵を見てびっくりした。
(わが国以外では、美術館も写真撮影OKのところが多い・・・日本も何とかならぬものか!)

静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られるこの作者は、

ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo, 1527年 - 1593年7月11日)、イタリア・ミラノ出身の画家、マニエリスムを代表する画家の1人とされる。

さて、次の「寄せ絵」をご覧頂こう。2月23日掲載記事である。


「みかけハこハゐがとんだいい人だ」 驚くなかれ、一人の人物の顔に見えたものが、見方を変えると複数の人物像に見えるではないか。

国芳は、歌川 国芳(うたがわ くによし、1798年1月1日〈寛政9年11月15日〉 - 1861年4月14日〈文久元年3月5日〉)は、江戸時代末期の浮世絵師。

鎖国の厳しい時代であるから、国芳がこの種の絵をどこかで見て真似たとは到底考えれない、本人の創作だと思うが、西と東で同じ事を思いつくものだと思った。

おまけ:
この画風を買われ、1562年に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世の宮廷画家となり、ウィーンに移る。

彼の孫のルドルフ2世のお気に入りだったが、この時期には画家よりも他の分野での活躍が目立ち、祝典や馬場槍試合の企画、水力技師などで非凡な才能を発揮した。楽器、噴水、廻転木馬等の発明をする。

詳しく知りたい方は、こちらから。
(但し、英語版、 一番下に幾つかの絵が紹介されているが、四季の植物を用いて春-冬まで表現しているのも珍しい)

http://en.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Arcimboldo

 

 


混信

2008年09月09日 07時32分36秒 | Weblog

 昼間・夜間とも、殆どラジオを聴いている。(厳密には、スイッチを入れている)

 実に面白い番組が多いのである。面白い番組に出くわすと、それから、まじめに聴取するのである。

 落語・講談・浪花節・歌謡曲・軽音楽・クラシック・ウンチクを傾けたトーク番組等が、連日連夜さらに早朝・深夜と一杯詰まっている。

不便なことの一つに、番組内容が概略しか新聞に掲載されないことである。あらかじめ、心の準備をして聴いたり、録音装置をセットするなどが出来にくいのである。

 後日、再放送などで、非常に面白い番組に出くわすことが多い。それで、気が付くのであるが、面白い番組を、沢山聞き逃しているようである。

さらに、もっと困っていることがある。夕刻から夜明けまで、近隣諸国のラジオ放送が、混信し聞き取り難くなるのである。

ラジオのデジタル化(あまり放送業界側で積極的でないと聞く)をして混信防止することは出来ないものであろうか。

小生のような世代の人は、こんな悩みをお持ちの方は多いのではないだろうか。


こけつまろびつの続き

2008年09月08日 06時28分01秒 | Weblog

RAMを2.2GBに増強してから、円滑に作動するようになったので、昔撮り溜めたビデオを順調に編集できるようになった。ハイビジョン編集を始めるときが来るまで、もう暫く、このパソコンを使用する予定である。

自分で作業するとしても、RAMの増強には部品代(RAMの購入費)に1GBで1万円から2GBで2万円程度の投資が避けられない。

小生のパソコンと同等の性能の新品が、最近では半分から三分の一程度の価格になっている、古いパソコンの場合には、買換えの方が良い場合もあるので慎重に御検討頂きたい。

2006年夏、西安を旅したときの「中国伝統芸能のショー」の記録である。
8月5日に前編をご紹介したので、今回は後編である。

このように撮影自由の劇場(レストラン兼だったが)は、珍しい、よくもこれだけ撮影で来たものと、改めて驚いている。

* YouTubeは、こちらから。
http://jp.youtube.com/watch?v=PXqCg93hM2Y

* より高画質のVeohは、こちらから。
http://www.veoh.com/videos/v155111372w42383E?rank=19&

 


イヴ・モタントの枯葉

2008年09月07日 06時11分21秒 | Weblog

小生が、古いシャンソンが好きだとメル友に伝えたら、次のイヴ・モンタンのYouTubeのsiteを教えてくれた。

 http://fr.youtube.com/watch?v=kLlBOmDpn1s

久しぶりに、年老いたイヴ・モンタンの枯葉を聴いた。
その上、フランス語の判らない小生に、仏と英語の歌詞を教えてくれた。

英語読みジャック・プレヴェールの詩の英語訳版を下記「補足」に示しておいた。これはかなり原文のフランス語に忠実に訳しているように感じた。

(Jacques Prévert (pronounced [ʒak pʀeˈvɛʀ] in French; February 4, 1900 - April 11, 1977) was a French poet and screenwriter.)

しかし、越路吹雪さんの歌を覗いて見たら、
作曲:J. Kosuma、作詞:岩谷時子となっていた。

日本語の作詞は実に見事に原作を反映し、しかも日本人向けに作られている。これだからこそ、訳詩ではなくて作詞の価値があるのだろうと、ほとほと感心した。

こちらは、著作権の関係もあるので、一部分のみをご紹介する。
詳しくは、越路吹雪さんのYouTubeのsite(歌のみで映像は無い)をお聞き頂きたい。

 http://jp.youtube.com/watch?v=C80BE98n8jw

作詞:岩谷時子
あれは遠い想出
やがて消える灯影も
窓辺赤く輝き光みちた
あの頃時は去りて
静かに降りつもる落葉よ
夢に夢を重ねて
ひとり生きる悲しさ
(中略)
ああシャンソン恋の唄
暮れ行く秋の日よ
金色の落ち葉散る
つかの間燃え立つ
恋に似た落葉よ
(以下省略)

「補足」:英語訳;

Oh! I would like as much as you remember
The happy days where we were friends.
In this time the life was more beautiful,
And the sun more burning than today.
The dead leaves collected with the shovel.
You see, I did not forget...
The dead leaves collected with the shovel,
The memories and the regrets also
And the wind of North carries them
In the cold night of the lapse of memory.
You see, I did not forget T
he song that you sang me.
[ Refrain: ]
This is a song which resembles to us.
You, you loved me and I loved you
And we lived both together,
You who loved me, me who loved you.
But the life separate those which love themselves,
All softly, without making noise
And the sea erases on the sand
The Steps of divided lovers.
The dead leaves collected with the shovel,
The memories and the regrets also
But my quiet and faithful love
Smiles always and thanks the life
I loved you so much, you was so pretty.
Why do you want that I forget you ?
In this time, the life was more beautiful
And the sun more burning than today.
You were my softer friend
But I don't have only to make regrets
And the song than you sang,
Always, always I will hear it !
[ Refrain: ]

traduction Patrick AUZAT-MAGNE - Juillet 2006