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12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

ミラノ スカラ座とガッレーリア

2008年03月31日 06時12分45秒 | Weblog

 ミラノは北部の大都市である。毛織物、麻布、皮革など繊維産業や工業の盛んなところであり、アルマーニ・フェレ・ヴェルサーチなどの本拠地であり、ファッションの都と言われる。

スカラ座は、オペラの殿堂でトスカニーニ、カラヤンやマリア・カラスなどが台頭した。

 ガッレーリアは、ドゥオーモとスカラ座を結ぶ優雅なアーケード。

               

ブランドショップが沢山あった、一番目立つ中央部の十字路角にマグドナルドがあった。イタリア人のガイドさんに、変なものが在るねと言ったら、同じ感想を返してきた。

 この十字路の通路中央部分に雄牛のモザイクがある。この絵の雄牛の局部が窪んで作られており、片足のかかとを置いて一回りすると幸運が来るというのである。

若い女性がこぞって試みていた。

ガッレーリアは、アーケードというのが日本的な呼称であろう。ミラノに限らず他の都市でも見かけたのだった。

<!-- ミラノ スカラ座とガッレーリア -->


コーヒー

2008年03月30日 05時56分36秒 | Weblog

 コーヒーにまつわる名言

よいコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い。」
(フランスの政治家、タレーラン=ペリゴール)

「私は自分の人生をコーヒースプーンで測りつくした。」
(詩人、T・S・エリオットの『J.アルフレッド・プルーフロックの恋歌』より)

 「コーヒーは地獄のように黒く、死のように濃く、恋のように甘くなければならない。」 (トルコの諺)

小生は、インスタント党でコーヒー音痴である。イタリアで味わったコーヒーは行った店やホテルが悪かったのかインスタントのような味がした。カプチーノもアメリカンも似たような味だったことが、ちょっと残念だった。

ある夜、寝ぼけ眼でラジオを聴いていたら、コーヒーのお話であった。あわててメモを取ったのだが、ミミズが這ってしまい、後で読むのに大変苦労した。こんな訳で、箇条書きにしなくてはならなかった。

 1.コーヒーは、アフリカや中南米の農家の血である。
2.1999年のコーヒー危機 
ブラジル・ベトナムでコーヒーの生産が増加し、市場価格は85ドル/kgから17ドルに一気に下落した。

3.コーヒー市場の規模は、石油に継ぐ大市場。(予想だにしなかった)
4.市場の9割は大手7社で占められている。

5.これまではフェアートレイド(公正な取引)の考え方がなかったので、中南米などが大変搾取されていた。
6.コーヒーは、ジャングルなどで自生している植物なので、肥料や農薬の無い自然な物で森を守る植物。

フェアートレイドのコーヒーが、貧しさから農家を守り、美味しく自然に優しい一杯をもたらしてくれることを祈るのである。

参考1:日本インスタントコーヒー協会より
■ 原材料:コーヒー豆(生産国名:コロンビア、ブラジル、インドネシアなど)
◇原材料は100%コーヒー豆に限ります。他の原材料を使用した場合は「インスタントコーヒー」とは表示しません。

■ 使用上の注意:なおインスタントコーヒーは、開封したら蓋の内側のラベルを全部はがし、しっかりと蓋をして保存してください。

 参考2:Wikipedia より
コーヒーは世界で最も多くの国で飲用されている嗜好飲料。アルコールや茶と並んで、人類との関わりが最も深い嗜好飲料と言える。

また世界各国で、コーヒーを提供する場の喫茶店(コーヒー・ハウス、カフェ、カフェー)は、知識人や文学、美術などさまざまな分野の芸術家の集まる場として、文化的にも大きな役割を果たしてきた。

さらに、石油に次いで貿易規模が大きい一次産品であるため、経済上も重要視されている。 大体北回帰線と南回帰線の間(コーヒーベルト)の約70箇国で生産され、アメリカ、ヨーロッパ、日本など全世界に輸出されている。

 コーヒーの経済 コーヒーはロンドン商品取引所やニューヨーク商品取引所などで、商品先物取引の主要銘柄として取引が行われ、その取引金額は一次産品としては石油に次いで大きいと言われている。

しかし、その一方でコーヒーは、消費国と生産国との経済格差を生む南北問題の一因となっていることも指摘されている。 労働集約型の作業がほとんどであることにこれらの背景が加わって、労働環境の悪さが指摘されており、実際に生産者が受ける収益がきわめて少ないことは国際的にも問題視されている。

1970年代以降、この問題の解決を目指してフェアトレード運動が活発になりつつある。商品価値の高い高品質なコーヒー(スペシャルティ・コーヒー)を生産することで収益の安定させて生産者の経済的自立を促す、生産環境の改善に向けた取り組みがなされている。

* 世界の生産量
1. ブラジル - (2,390,000t - 32.5%)
2. ベトナム - (689,000t - 9.4%)
3. コロンビア - (660,000t - 8.9%)

* 世界各国の輸出量
1. ブラジル - (1,252,000t - 23.5%)
2. ベトナム - (931,000t - 17.5%)
3. コロンビア - (560,000t - 10.5%)

コーヒーの販売と格差 コーヒーの販売は世界の大手4社(クラフト、ネスレ、P&G、サラリー)がほとんどを独占しているが、実際にコーヒーを生産している新興国のコーヒー農家が得る利益は、大手4社が得る利益の数十分の一である。


ミラノ スフォルツェスコ城まで

2008年03月29日 07時15分01秒 | Weblog

 イタリア現地での観光日数は、正味5日間であった。

なんともあわただしいのであったが、予算の兼ね合いもあり仕方が無かった。長期のバカンスなど我々日本人にはなかなか難しいことである。

キリスト教の建造物、例えば大聖堂などはブラジル・シンガポール・・・など出張中数回見た記憶があるが、これまではすごいなと思った程度の感慨にしか過ぎなかった。(これは歳のせいでもあっただろう)

しかし、今回の旅では、ただ単に珍しいとか美しいとかで済まされない、鉄槌で一撃を食らうと言った衝撃を感じた。

「イタリアは、海外旅行の仕上げの国」と云うのも頷けたのだった。

この衝撃は日が経つにつれ、少しは慣れたり薄らいだりしてきたが、最後まで驚きと衝撃の連続となった旅だった。

中世の民衆は日本も例外ではないが、宗教にすがって生きた時代だったと思う。

 うまくは表現できないが、キリスト教文化の重厚さとこれだけの建造物を建てようとした人たちの熱い思いや願望、と更には、多額の建造費を奉納した信者の思いや、或いはひょっとすると重税などにあえいだ民衆のことなど、 その当時のさまざまなことを、感慨深く考えさせられた初めての旅だった。

「関空からミラノのスフォルツェスコ城まで」を3分33秒のビデオにまとめてみた。

<!-- 関空からミラノ スフォlルツェスコ城まで -->

 今後「駆け歩き イタリア」の題で、幾つかの小品にし、旅の順番に順じて公開する予定である。

いくらかでも楽しんでいただけたら幸いである。

 追記:2月末でstage6のサービスが打ち切られた。(採算面の問題)当面、これに替わる高画質サイトを見つけるまでは、YouTubeで公開を行います。


遍路39番と40番

2008年03月28日 07時33分59秒 | Weblog

 39番は、赤亀山山延光寺 本尊 薬師如来である。

山門を入ると梵鐘を背負った赤亀がある。寺に伝わる梵鐘は国の重要文化財。

              

大師が湧出させた目洗いの井戸があり、眼病に良いと言う。

白衣の背面に赤亀のスタンプがいただける。

ご詠歌:南無薬師諸病悉序除の願こめて 詣でる我が身を助けませ 

40番は、平城山観自在寺 本尊 薬師如来 である。

 一番札所から最も遠い四国霊場の裏関所と呼ばれている。
境内にある八体佛十二支守り本尊に水をかけて願い事をした。

大師が、有名な一木三体一刀三礼の尊像を自ら彫られた、そのときの残りの霊木を刻まれたのが版木で、大師のお名前と手印を残された宝判が遺されている。

このお寺では、宝判を転写した「宝印御守」の手ぬぐいを購入した。

枕の下に敷いて寝ると万病にご利益があるとのこと。 汚れても洗わずに使い、一年たつとお炊き上げに返送するもの。更に、お陰を受けた人は、晒一反を奉納する慣わしがある。

ご詠歌: 心願や自在の春に花咲きて 浮世のがれて住むやけだもの

これで予定のお参りは全て終了となったが、時間的に余裕が出来たとやらで、四国別格に十霊場の一つ、「十夜ケ橋」もお参りすることになった、これは続報で。


美味しかった

2008年03月27日 05時53分26秒 | Weblog

 往きは関空発フランクフルト行き、フランクフルトで乗り換えミラノまで、帰りはローマからフランクフルト乗り換え関空まで、全てルフトハンザであった。

非常にサービスが良いとも思わなかったが、なんとなくきっちりした感じが快かった。(飲み物無料が最高に良いサービス)

機内食は昼・夜だが、日本で調理したものであろう日本人には美味しいと思える味だった。
帰りは、昼・夜・夜食(三角おにぎり)ともドイツ製?だったのだろうが、これも結構美味しく食べた。

さて、現地ではどうだったかというと、
ミラノ風カツレツ(牛肉製トンカヅあまあ、日本の豚カツの方が美味しい)、
魚料理(これは旨かった)、
イカ墨パスタ(結構いける)、
鶏肉料理(味は良かった)、
ラザニア(こんな旨いものかと思った)、

スパゲッティポロネーゼ(これもいけたのでした)、
ピザ30分食べ放題(これは格別旨かった)、
スパゲッティ・ボンゴレ(といったかな?アサリのパスタ)とイカリングおよび海老のフライ(特にイカと海老が美味しかった)

こんな風に昼食と夕食は日本人にぴったりだった。

特に、若い女学生達の食べっぷりには目を見張った、あっという間にペロリと平らげていたのには驚いた。若い人たちにとっては、イタリア料理は日常的な食べ物になっているようだった。(小生の年齢になると、あまり食べることもないが)

 物足りなかったのは朝食であった、予め聞いていた如く、パンとコーヒーとハム・チーズ程度のヨーロッパ風の至極簡単なものだった。不味いとは思わなかったが、美味しいとも思えぬものであった。

 最後の日は、早朝出発でレストランも開かないため、紙袋に入ったパンとジュース程度の簡単朝食弁当を食べたのだった。


これは、簡単朝食弁当についてきたジュースと比較した、現地の巨大マツボックリである。

スパゲッティ・パスタなど茹でるものは、食べ始めは少し硬いかなと思うのだが、食べ終わり頃は、小生が通常茹でるくらいの軟らかさになってきた。

この様な茹で方が本場で行われているのなら、これからはやや堅い目に茹でる様にしようと思っている。

ピザのナポリ風は日本で普通見かけるような少し厚めの生地で作られており、
ローマ風は厚さ数mmの薄い生地のものだった。案内された店は、ローマのピザの有名店だったらしく、大変美味しく食べ放題が有難かった。

先日、スパゲッティについて聞いたことであるが、
スパゲッティ・イタリアンは大正時代に日本の海軍が発明したものだと言うのである。

また、スパゲッティ・ナポリタンは、S22年頃横浜の料理長が発明したと聞いた。したがって、これらの名前をイタリアで言っても通用しないのだそうである。(食べ物も生物と同様に、環境に適合するようである)

更に、鉄板乗せスパゲッティ別名を「名古屋式ナポリタン」と言うものは名古屋の料理店店主の発明だと聞いた。

鉄板に乗せる利点は、冷めないので暖かく食べることが出来るのであるが、最初の頃は麺が焦げてしまってものにならなかったのであった。

 初め玉葱を刻んで炒めたものを下に敷いた鉄板に乗せたのだが、いまひとつまろやかさが足らなかった。

そこで、薄焼き卵を敷いてその上に載せてみたが、案の定、焼けすぎてまた駄目。

結局は、ナポリタンを作っておき、鉄板に乗せてから溶き卵を満遍なく注ぐと、見事、卵敷きナポリタンが完成、現在の名古屋名物になったとのこと。

最近では名古屋方面に行く機会もなくなったが、もしあったら、一度この名物を味わってみたいものである。

あとがき:この原稿を書いているとき、なぜか無性に「月影のナポリ」と言う歌が聞きたくなったのである。理由不明である。


遍路37番と38番

2008年03月26日 06時26分03秒 | Weblog

37番は、藤井山岩本寺 本尊 不動明王 阿弥陀如来 薬師如来 聖観世音菩薩 地蔵菩薩 である。

           

大師にまつわる七不思議、三度栗などの伝説が今に伝わっている。5体の本尊を有し、内陣の天井には600枚近くの天井絵が描かれていた。

       

 絵の中には、マリリン・モンローとおぼしき絵まで有ったのには驚いた。

ご詠歌:六つのちり五つの社あらわして ふかき仁井田の神のたのしみ 

 

 39番は、蹉跎山金剛福寺 本尊三面千手観世音菩薩 である。

         

   

 

足摺岬に近接するお寺であり、亜熱帯の植物が周辺に点在する。

ご詠歌: 補陀洛やここは岬の船の棹 とるもすつるも法の蹉跎山

お参りの後、足摺岬・椿のトンネルを見物し、バスで数分のホテルに泊まる。これらの観光については、後日別稿でご披露する。


ローズライン(子午線)

2008年03月25日 06時55分23秒 | Weblog

                    

ミラノのドゥオーモにも、仏教徒にとっては非常に難解だったあの有名な小説「ダ・ヴィンチ・コード」で初めて知った「ローズ・ライン」と語られる南北軸線が、床に描かれていた。

 (「ダ・ヴィンチ・コード」 ダン・ブラウン 著/越前敏弥 訳/角川書店)より

「 ローズ・ラインとは、子午線あるいは経線とも呼ばれるもの、北極と南極を結ぶ想像上の線である。(中略)フランス人にとってのゼロ度の経線はパリのサン・シュルピス教会を通っていた。

真鍮の標線はその事実を記念したものであり、1884年にグリニッジにその名誉を奪われたものの、元来のローズ・ラインとしていまも残っている。 」

 ローズラインとは;
北極と南極を結ぶ想像上の線のことで、子午線あるいは経線のこと。これは無数に引くことができる。それゆえ、昔の航海者はそれらの線のどれを真のローズライン、つまり、経度ゼロの線とするかを決める必要があった。 

現在、その線は英国のグリニッジにあり、世界共通になっている。しかし、それまでは、フランスの子午線が世界初であり、多くの国がそれを使っていた。

 しかし、数百年の年月を経て英国が地図製作や航海技術で世界の頂点に立ったことから、英国の本初子午線――経度ゼロの子午線を世界標準に決めざるを得なかった。

参考1;薔薇と羅針盤
何世紀ものあいだ、薔薇は地図や、正しい方向へ人々を導くものの象徴だった。 羅針盤はほとんどの地図に描かれて、東西南北を指し示しているが、元来は"風の薔薇"として知られ、三十二の風向きを表していた。

主要な八方位を基準とし、十六方向、三十二方と細分したものである。円の上に図示すると、三十二個の頂点のなす形が、三十二枚の花弁を持つ伝統的な薔薇の模様によく似て見える。

 今日でもコンパス・ローズは航海の基本とされており、北側の先端には矢じりまたは百合の花の紋章が描かれている。 

参考2:ローズラインは、時を知らせる手段
小説上の記述に対して、小説に登場したフランスのサン・シュルピス教会では、以下のような声明文(?)を印刷し、教会内で無料配布を行っている。 以下、全文転載する。

サン=シュルピス教会の日時計、グノモン

 教会の床からピラミッド*の先端まで堂内を分断する真鍮片の『日時計』は 1743年にここサン・シュルピス教会に設置されました。

この装置は
-正確に南北を示す子午線と、
-正面の窓の右側上方の金属片に穿たれた照門から成っています。

この線は『ローズライン』と言う呼び名で呼ばれたことはありません。 それは異教徒の寺院の名残でもありませんし、この場所にそのような建物が存在した事実もありません。

グリニッジ天文台が公認される以前に、この線が『本初子午線の基点』となったこともありません。

今日、グリニッジ天文台の場所に南北に通る経線を
-経度の標準と呼び、
-『世界共通の標準時』としています。

正午に南中する太陽の光はオベリスクの反対側の窓にある照門を通って、毎日少しずつ位置を変えながら、光りの円盤を床の線上に映し出します。

天文学者ル・モニエ(1715年~1799年)は太陽運動の研究を重ね、
-地球の自転のパラメーターを算定しました。
-また、グレゴリー暦施行の準備段階でその数値の正しさを立証しました。

 グレゴリー暦は16世紀に教皇グレゴリー13世の命を受けて作られた暦で、復活祭が春分の日に続く最初の満月の頃になるように定められています。

もともと、サン・シュルピス教会の日時計、グノモンは、正確な時間を計る手段であり、教会の鐘を鳴らしてパリ中にそれを伝えたのです。
(*部分、“ピラミッド”という表記は原文のままです。)


遍路35番と36番

2008年03月24日 05時48分45秒 | Weblog

35番は、医王山清滝寺 本尊 厄除薬師如来 である。

八丁坂と呼ばれる狭く細い急な参道が有名である。ひざを怪我していたのでどうなることかと心配したが、さすがバスツアー、足の悪い人・体の不自由な人の参加を前提に、歩行距離が最小限度になるように配慮していた。

数キロ手前のスーパーマーケットの駐車場に数台のタクシーとマイクロバスを準備しており、狭い参道をなんなく登った。 運転手達は、車載の無線機で常時連絡を取り合い、対向困難な細い山道を譲り合いながら円滑に運行していた。

どこかに司令塔でもあるのだろう、時折混じる自家用車を交わすため、退避行動を上手にとり、円滑な運行が確保されていたのには感心した。

自家用車で訪れる人は、対向車をかわすことに最大限の注意が必要な道である。(運転に自信のない向きは、コーナーが一回では曲がれないところが数箇所ある、タクシーを利用する方が無難なコースである)

       

入り口付近にある高さ15mの薬師如来像は、札所中最大とのこと。また、小さな「胎内 戒壇めぐり」もあった。

 ご詠歌: 澄む水を汲めば心の清瀧寺 波の花散る岩の羽衣

      

36番は、独鈷山岩本寺 本尊波切不動明王 である。

      この階段は辛かった

唐長安(西安)の清龍寺を模して、伽藍の配置をしている。本堂には、家庭円満の信仰を集める国の重要文化財「愛染明王」像を安置している。

ご詠歌: わづかなる泉にすめる清龍は 仏法守護のちかいとぞ聞く

   
         歩き遍路さん用お接待所                             

ここのお参りが済むと昼食となった。


スタンダードホテルとは

2008年03月23日 06時30分58秒 | Weblog

2回あった2連泊の最後のホテルでは、特別室303号と書かれた部屋が割り当てられた。その部屋の写真である。豪華さはさほどなく何が特別室なのか判らなかったが、広く清潔感あり快適に過ごすことが出来た。

ホテル選定のとき、星の数が幾つかなど気にしなくてもよい国に生まれた関係で、国内旅行ではそれほどホテル選びに気を使うことはなかったのであるが、海外ではそれなりに気を使う必要があった。

格安ホテルに泊まるような人物は低い地位の人と見做され仕事がスムーズに行かない恐れがあるとか、或いは、安全・衛生上問題があるとかで、海外出張では低級なホテルに滞在した経験は無かった。定年後の海外ツアーでもこの感覚が自然と残り、なんとなく判らないままスーペリアクラスという中間的なレベルのホテルを選択してきた。

今回は学生さんの卒業旅行向けコースなので全てスタンダードクラスという日本人が泊まる最低クラスのホテルとなっていた。(類似のコースでデラックスホテル利用の場合には、2倍強の価格帯になっていた、勿論食事やその他もろもろも全てが贅沢になるのだろうが・・・)

考えてみれば当たり前のことだったが、学生さんが泊まって問題無いホテルと言うことは、小生が泊まってもさしたる問題があるはずが無いのであった。

ヨーロッパのホテルは、シャワーばかりと聞いていたが、連泊ホテルではバスタブもありゆったりと入浴も出来た。 シャワーのみのホテルは、さすがに湯はぬるく出も悪かった、風邪を引くのではと危惧したこともあったが大事に至らなかった。(安い旅行では我慢も必要である)

もう一つ安いホテルには難点があった、それは全てのホテルが、主要な観光地から30km(観光バスで1時間)くらい離れており、交通の便もあまり良くなかったことであった。(タクシーを手配することも不可能と言うところもあった)また、モーテルを兼ねているホテルが多かった。

専用の観光バスでもない限り、ちょっとそこまで夜の観光になどは考えられない。(夜の観光は、夜景も楽しめるし、酒でもお茶でもちょっと一杯など、おまけの楽しみがあるのだが・・・)

そして、距離がある分、ホテルにたどり着くと午後9時前後とどうしても遅くなってしまった。それから手紙を書いたり,FAXを打ったり、バッテリーの充電など雑用をしていると、結構就寝まで忙しく過ごさねばならなかった。

高級ホテルについて調べると、デラックスクラスでは観光地内で宿泊することが多いようで、夜の観光・散歩と言う楽しみがあると言える。(スーペリアークラスも多くの場合には、主要観光地から少し離れるようで、ちょっとそこまで遊びに出かけるには不便だと思えた)

懐具合との相談だが、ホテル選びも旅の楽しさを満喫するためには大切な要素である。

参考1:
そうだ、大変不便なことを思い出した、それは普通のホテルではレターペイパーと封筒があるのだが、今回の全てのホテルに、この種のものが一切無かった。 FAXは、領収書の裏側に書いて送ってもらうなど、紙の無い国に行ったような不便さがあった。

これらのホテルを利用する場合には、日本から白紙や手紙用紙と封筒を各数枚持参すると、手紙・FAXなどのとき便利である、しかし、どのホテルも切手を持ち合わせていなかったので、帰国してから発送した封書・はがきが発生した。

参考2:
比較的観光地化した町のホテルではFAX1通(A4-1枚)が6.5ユーロ(約1000円)、他方あまり観光ズレしていないホテルでは僅か1ユーロ(160円)だった。

ひどい値段の差に驚いたのであった。 こんなことなら、レンタル式の国際通信可能な携帯電話を借りた方が安くて便利かもしれない。

そろそろ過去の習慣から脱却する必要がありそうである。


右手と左手

2008年03月22日 07時32分08秒 | Weblog

 雪の峯 しずかに春の のぼりゆく   飯田 龍太

この句と共に、龍太氏生前のインタビューが、TVで放映されていたのを偶然見た。 氏は、父飯田蛇笏(いいだ だこつ)の功績を称え、角川書店が『蛇笏賞』を創設した有名な俳人の四男である。

俳人に適する条件とはとの問いに対し、「頭が良くないこと」と「体が頑健でないこと」と答えていた。

頭の点についてはご謙遜であろうが、いくらか体に問題があるほうが内面的に物を考える傾向が強くなることから、小生もこの点には大いに同意できた。

 きれいな景色の描写は、俳句より写真が勝るが、「写真に写せないものを、じわっと現すのが俳句」と解説されていた。
言いえて妙なる喩えではなかろうか、写真と共に俳句を詠みながらの旅を楽しもうと思っている。

 氏は、山梨県東八代郡五成村(旧境川村、現笛吹市境川町)の大地主の家に生まれたのであるが、「右手は生活を支える手、左手は俳句を詠む手」と語っていた。

今でこそ俳句で生計が立つ方も出てきたが、当時は生計と全く縁のない心の支えであったり、感動の発露だったのであろうと思った。

 小生の場合には、ありがたいことに年金が生計を支えてくれる今、心豊かに暮らすために両手をフルに活用している毎日である。

参考1:
飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年7月10日 - 2007年2月25日)は日本の俳人、随筆家、評論家。戦後における俳壇で新鋭的な俳人として一躍注目を集める。

俳人・飯田蛇笏(武治)の四男。 1940年(昭和15年)に國學院大學文学部国文科へ進む。折口信夫を尊崇し、句作に親しむ。

右肺浸潤のため一時休学し、右肋骨にカリエスが発症したため療養生活を送り、1947年(昭和22年)には大学を卒業、卒業論文は「芭蕉の悲劇性の展開」。

その後は句作を活発に勤しみ、俳句と俳人に囲まれた環境にあったため父の句会に加わり、故郷の境川村で蛇笏主宰の俳誌『雲母』の編集に参加。当世的な感覚から生み出される叙情味あふれた句は、多くの人間を惹きつけた。

参考2:
わらんべの 溺るるばかり 初湯かな  飯田蛇笏

父飯田蛇笏(いいだ だこつ、1885年(明治18)4月26日 - 1962年(昭和37)10月3日)は俳人。本名、飯田武治(いいだ たけじ)。別号に山廬(さんろ)。

山梨の山間で創作した作品が大半。句友と離れて暮らすその作風は孤高であり重厚かつ剛直なものであったが、子供らの死によりその作風は静穏なものに変わっていった。

東八代郡五成村(現笛吹市)の大地主で旧家の長男として生まれる。五成村では、古くから俳句が盛んで蛇笏も9歳の頃より俳句に関心を持つ。

5人の男児をもうけたが、そのうち次男が病死し、長男・三男が戦死。四男の龍太が家督を継いだ。龍太も俳人であり、のちに『雲母』を主宰した。(同誌は1992年(平成4)に終刊となった。)


早朝の迷子

2008年03月21日 07時46分51秒 | Weblog

初日は、関空のホテルで朝食、昼夜はフランクフルトまでの機内食。夕刻ミラノの空港に到着、そこから出迎えの観光バスでコモ湖という有名な別荘地に近接する町コモのホテルに到着。

フロントで添乗員さんから鍵(といってもカードだが)を受け取り自分の部屋を探したが、どうしても該当する部屋番号が見当たらなかった。
(毎度のことながら、一人旅につきものの、自分だけ離れ小島に追いやられたのであった)

万事休す、フロントにとって返すと運良く添乗員さんに出くわした。二人で部屋探しを始めたが添乗員さんも始めてのホテルとのことで要領を得なかった。

 しばらく探して、二階のドアから屋上部分に作られた屋上庭園らしいものを横切り別棟のドアにたどり着いた。 それらしい番号に近くなったので、更に部屋探しを二人で開始し、ようやく部屋までたどり着いた。

しかし、添乗員さんと別れたのが一瞬早過ぎた、ドアーは開けたが照明用のカードの挿入口が見当たらないのであった。 途中角を曲がった20室くらい手前で、午後9時過ぎだと言うのにメイドさんがベッドメーキング中だったのを思いだした。

取って返し、彼女に身振り手振りで照明が点けられないことを伝えると、同行してくれた。 これで一件落着、通常ならドア付近にあるはずのカード挿入口は、遥かかなた真っ暗な寝室の中央部の壁にあった。何でこんなに判りにくいところに設けるのか、大変不親切なつくりで驚いた

写真のような鏡張りの壁面に女性の大きな写真か絵が描いてある「鏡の間」には、いささか驚いたが、部屋そのものは至って快適だった。

   

          

 

この時点でも、小生は別棟のモーテルに泊まっていると言う認識は全く無かった。(この認識に至ったのは、翌朝のことだったのである、これがそもそもの不幸の始まりであった。)

 夜明け前、例によってスモーキングタイムとなったので、薄着のまま灰皿探しに出かけたが、何処にも灰皿が無い。

思い余って、フロントまで行けばどうにかなるかもと思い、フロント探しを始めたのだが、昨夜通過した二階屋上部分に作られた庭らしいものを横切る通路のドアがロックされてしまっていた。

この建物から出る道は非常口のみである、もし非常口を出て、万一そのドアーが閉まったら万事休すである。

 色々動き廻ったが結局迷子になるのが落ちで、寒さに震えながら自室を探し出し、ニコチン切れのまま再びふて寝してしまう羽目になった。

こう書くと、いたって単純なようだが、本人にとっては、1時間くらいの彷徨であった。情けないことに、完全にモーテル内で迷子になっていたのであった。

大げさに言えば、「冬山での遭難」すら、脳裏に浮かんだのであった。「日本人のボケ老人が、モーテルで凍死」などとみっともないことになったらどうしようと、真剣に危惧したのであった。

 朝食の時間が来て部屋から出たら、他のツアーグループの学生さんたちがぞろぞろと非常口を経由してロビーといとも簡単に行きしているのであった。

小生は、狐につままれたような気がした。
添乗員さんが、「間違い通路」を教えてくれたのだった。


一泊二日足摺方面遍路バスツアー

2008年03月20日 06時22分57秒 | Weblog

遍路バスツアーに飛び入り参加したのは、1泊2日足摺方面のものだった。
全18回のツアーのうち第8回目(この回以外は全て日帰り)、参加者は殆どが顔見知りのようで、飛び入りした小生のみが新顔?

 毎回同行者を募れど、同行二人の弘法大師とご一緒の旅となってしまうので、今回は走行距離が長いのと、高速道路の整備がそれほど進んでいないため、体力を考慮してバスツアーを選択した。


(四国の西半分=児島IC-坂出―高知―足摺―宇和島―松山―坂出―児島ICを完全に走破し代35番から40番まで六ケ寺と、別格四国ニ十霊場「十夜ガ橋」を加えた計七ケ寺であった)

食べることが楽しみの重要なポイントと心得ているのだろう、それなりに美味しい食事を楽しんできた。

1日目のお昼。

その夜。 夫婦と言えども男性と女性とに別れ、4・5名ずつ1室に泊まった。最近では、同窓会以外では味わえない宿泊の形態であった。

足摺岬の宿で夕食時、宿のスタッフによる余興の仮面踊りが披露された、「河童踊り」を地方の言葉で言うのだが、あいにくと忘れてしまったのが残念である。

展望露天風呂という売りで湯加減はちょうど良かったが眺めは報告するほどでもなかった。

翌日の朝食。

2日目の昼食。
あくまでお参りの旅で観光旅行ではない関係上、観光地といえば足摺岬のみ。

また、かなり強行軍=効率的なお参りスケジュールのため、ゆっくりと写真を撮影する余裕には乏しい旅であった。殆どの写真が、バスの車窓から走行中に撮影すると言う、かなりブレの激しいものとなってしまった。

高速道路は大洲の先の西予宇和まで伸びていたので、四国を西半周するコースだったが2日で十分巡ることが出来た。

詳細はおいおいと報告をします。

 

交代運転手兼お参り同行者募集:

読者の中で四国遍路にご興味をお持ちの方が居られたら、ご連絡下さい。
(どんなものかちょっと経験してみようと言うお方向きです。完全に一巡しようとお考えの方には不向きな旅です。ばらばらのお参りですので予めお断りしておきます。)

これから残りを少しずつ進めていきます。従いまして、日帰りのスポット的なお参りに成りますが、それでよろしければご参加くださると有難く思います。

 同行の弘法大師様は運転免許がありませんので、小生も独り運転では居眠りと疲労に困っております。交代運転手としてご協力頂きたく思っています。
(車は、8万km越えのヴィッツ1000ccですので、走りと騒音はご辛抱ください)

参加条件;
参加人員最大3名まで。交代運転手は、1名で十分です。
高速道路のみ部分的にお願いする予定。
また、運転要員は、自動車保険の関係で26歳以上であること。

交代運転手の日当はお支払いしません。
食費と飲み物代およびお賽銭などは自己負担です。


アッピア街道

2008年03月19日 07時14分19秒 | Weblog

 

ローマから南へナポリに向かって高速を走ると桃の花が沢山咲いていた。南部地方は暖かいので桃の産地だと言う。

更に、南下すると、イタリヤ風に選定された丸っこい頭の松並木が見えた。 この道が、アッピア街道と呼ばれる、大ローマ帝国の“ローマ街道”(高速道路)の代表的な道路である。

 ローマ街道(ローマかいどう)とは、古代ローマ時代に主要都市を結ぶように作られた道路のことである。 ローマ街道の歴史は、紀元前312年にローマのケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により敷設されたアッピア街道(Via Appia)に始まる。

それまでも、サラリア街道(Via Salaria、「塩の道」の意)などの街道は存在したが、軍隊の迅速な移動を目的とした舗装されたローマ街道は、アッピア街道が最初である。

以後、敷設されたローマ街道には、その街道を敷設したケンソルや属州総督などの名前が冠せられることとなる。 初期のローマ街道は、ローマからイタリア半島の主要都市を結ぶだけであった。

しかし戦争を重ね、領土が広がるにつれ、ローマ以外の都市から都市へ結ばれるようになる。 最終的にはイタリア半島のみならず、ガリアやブリタンニア、イベリア半島、アフリカ、ギリシャなどローマの属州にも敷設され、地中海全域に網の目のように敷設されることとなった。

また、軍事目的で敷設されてはいるが、軍事に関係のない一般市民でも利用することが出来たため、物流などの経済面でも大きな影響があった。

アッピア街道(Via Appia)は、現存するローマ街道の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。

新しいアッピア街道が1784年に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道 (Appia Antica) とも呼ばれる。

紀元前71年、約6000人の奴隷がスパルタクスに率いられ反乱を起こした。マルクス・リキニウス・クラッススによってこの奴隷反乱が鎮圧されると、逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられ、それらはポンペイにまで達した。(ローマ・ポンペイ間は250kmある)

ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが、教皇ピウス6世の命により修復され再び利用された。 街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている(例えば、ヴェッレトリ近辺)。

                   

 ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教のカタコンベを多数見ることができる。 アッピア街道上にマイルストーンがあると聞いていたが、見る機会は無かった。


トマトジュースがワインになった

2008年03月18日 06時56分08秒 | Weblog

 今回の旅行は往復ルフトハンザ、飲み放題・無料のまことに呑み助にとっては有難い稀な航空会社である。

 帰路隣席の大柄な中年ドイツ人男性が、ビールを注文したので同じものを要求してみた、さすがにドイツのビールである小生の知らない銘柄だったが実に美味しいものだった。

 このドイツ人、オートメイションのエンジニアと言っていたが大変な呑み助、寝ている時以外はビール・ワイン・水・を延々と繰り返し、またギャレーに行っては盛んに食べ物をねだって食べることを繰り返すのである。

11時間ほどの機内で食べた量は測りかねたが、2ダースほどの飲み物を飲み干したのであった。 おそらく、航空運賃の大半を取り戻したのではなかったろうかと思った。(ちなみに、小生たちのツアーでは、往復の航空運賃は基本料金31200円+燃料サーチャージ他、計4万円ほどである)

下戸の小生は、ビール1本とワイングラス1杯のみであった、これで十分ゆっくりと眠ることが出来た。 ただ、ワインは、よほど小生の言い方が悪かったのであろう、トマトジュースを要求したものが化けたものであった、それでも美味しく頂戴した。
(どう間違うとこんなになるのか、見当も付かない)

昨年スリーピースの入れ歯を装着したので、日本語ですら聴き返されることが多くなってきた、こんなことが関係したのであろうかとも思っている。

 この種のことは、現地のレストランでも起きた、それはワインを1/4ボトルで頼んだのだが、クオーターの発音が悪かったのであろう、水が出てきた。幸いこれはワインに変えてくれたのであるが。

英語から離れて久しいいため、単語がおぼつかなくなったのと、発音が一段と悪くなったこともあり、これから益々困ることが多くなりそうである。


カンツォーネ

2008年03月15日 07時09分32秒 | Weblog

写真は、ナポリの海岸で撮影したものである。

 カンツォーネ (Canzone) はイタリア語で歌曲を指す単語である。

日本国内においては主にイタリア民謡、特にナポリ民謡を指すことが多く、広義には1960年代~1970年代に日本で流行したイタリアの歌を含むこともある。

先日、レンタル店でカンツオーネCD2枚借りてきた。

*チャオ・チャオ・バンビーナ
*ヴォラーレ
*アリヴェデルチ・ローマ
* フニクリ・フニクラ
*オ・ソーレ・ミオ
* サンタ・ルチア 
  http://jp.youtube.com/watch?v=aTbvKrH0FB4&feature=related
* 帰れソレントへ
* 勿忘草
* あまい囁き

等もあった。

 今回の旅では、オプショナルツアーとして、カンツォーネディナーショウが含まれていた。
これを小生の最大の楽しみとしていたが、参加希望者は小生のみ、これではキャンセルとなってもいたしかたなかった。

 最年長小生の次に若い御夫婦(10歳くらい違う)は勿論のこと、子連れ親父さんも、福井の仲良しママさん4人組もはかばかしい興味を示さなかった。

更には、レンタルCD店でもたったの2枚しか置いていないのである。 ショッキングなことは、完全にカンツォーネは、過去の忘れ去られた歌となってしまっているのである。

言い換えるならば、小生も過去の時代の人間になってしまったということを思い知らされたのであった。 こんな思いをしようとは予想だにしなかった。

小生より若い人たちが多数参加するツアーは、今後参加しないと決心した。

参考:ヴェネツィアとカンツォーネ
観光都市であるヴェネツィアに行くと、日本人などの観光客はゴンドラ観光を行う。決まって「カンツォーネを唄って欲しい」と注文するが、カンツォーネ=ナポリ民謡と言うイメージから、ナポリ民謡を唄うことになる。

しかし、ヴェネツィアとナポリは元々独立国家で文化圏が違うため、地元民は不快な思いをしているという。

もっとも、「カンツォーネ」はもともと「民謡」の意味でしかないので、ヴェネツィア民謡としてのカンツォーネももちろん存在する(愛しのわが子などが有名)。

お知らせ;
足摺岬近辺にお遍路に行きますので、16・17日は休刊します。