12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

どうするガリア再興

2008年10月31日 08時16分31秒 | Weblog

 ガリア総司令官二年目にしてユリアヌスはあらかたこの地を平定し、リヨン・オータン・ストラスブール・マインツ・ケルン・・・などに軍団基地を再建した。

一連の蛮族相手の大勝利の実績で、若き哲学者は部下の将兵から英雄と認められ、ローマ帝国の「インペラトール(皇帝)」とみなされた。しかし、みなされたのみであって、正式の皇帝になったわけではなかった。

民衆達から絶大な信望を抱かれたユリアヌスは、 住民の平穏な生活を取りもどしたのみはでは不十分で、住民の活気を取り戻さねばならなかった。

このためには、法と徴税の公正な実施を実現することが一番だと彼は考えた。 ローマ帝国末期のこの時代は、紀元前の光り輝いていた元首政時代とは全て反対の考えが支配していた。

ローマ帝国が光り輝いていた頃の税制は、シンプルかつ広く浅い徴税と前に書いたが、これを具体的に説明する。

元首政時代のローマでは、「国家」は「納税額の範囲内」でやれるだけの事をやり、「地方自治体」もまた同様であった。そして足りない分は、「私」が補うという税の考え方であった。

その一例として、帝国の高速道路といわれるローマ街道網は、「国」が8万km、「地方自治体」が15万km、そして「私」が敷設し開放したのが7万kmで、建設以降のメンテンアンスもこの分担だった。

(「私」が公益に関する義務感を強く持ち、それを誇りとして行うという高邁な心掛けに溢れていた時代だったからこそ可能だったのであるが。)

このような仕組みのため、直接税は10%、関税15%、消費税(売上税)1%というシンプルな税制と広く浅い三本立ての徴税であった。

ところが、後期のローマ帝国は、社会貢献や寄付をするという崇高な精神はどこかに消え、さらに兵士と行政官僚の数を倍増したので、当然歳出も倍増したのであった。 その上、ライン河やドナウ河流域の蛮族による破壊で主要産業の農業の生産性は著しく低下し税の減収を生じた。

これらの事が特別税をはじめとし、税制は複雑化の一途を辿り「広く浅く」から「狭く厚い」税制となった。 当然のように、官僚達は、特別税なるものを捻り出すことになった。

ユリアヌスは、官僚達がもっともらしく提出した特別税案を決然と拒否したのであった。

さて、ユリアヌスは、このような難局といかに戦うか、次のテーマは「ユリアヌスの改革」とする。

長々とお付き合い頂いてきたが、次回が小生の書きたかった第一番目の山場なのである。

追記;ローマ帝国末期は、なんだか現在の日本に似ている気がしてならないのである。

おまけ:
今回は、メル友が紹介してくれた、アルザス地方の民族衣装をご紹介する。
一部分英語で残りはフランス語である。写真だけ見ていただければよいと思う。

日本の着物もそうであるが、いずれの国の民族衣装も美しい、伝統が培った美を堪能して頂きたい。

 http://costumes.alsace.site.voila.fr/historique/en/index.html


 

 


ストラスブールの勝利とその後

2008年10月29日 07時01分12秒 | Weblog

 ローマ時代アルジェントラーテ(Argentorate)と呼ばれていたストラスブールは、当時4万近いアレマンノ族によって占領されていた。

350年にわたってローマの軍団基地となっていたこの町は、高い城壁に囲まれた堅固な要塞であった。ろう城して戦に望めば有利なのだが、アレマンノ族は数をたのんでこの堅固な要塞を出て平野での合戦を挑んできた。

これは1万3千名のユリアヌスにとって幸運だった。陣頭に立ち自ら戦う総司令官として大活躍、6千以上の敵死者と族長以下多数を捕虜とし大勝利した。 また、勝ちに乗じてライン河を渡り蛮族の本拠地に攻め込んだ。

攻撃は最大の防御の喩えの如く、蛮族達はライン河を超えて進入・掠奪する事は出来なくなった。

 ローマ帝国が光り輝いていた頃の税制は、直接税は10%、関税15%、消費税(売上税)1%という仕組みのため、税制シンプルでかつ広く浅い徴税であった。

これが「ローマ帝国後期」と呼ばれるディオクレティアヌス帝の頃から税制が一変し、全てが国税化した。また職業は世襲制となり、これが帝国後期独特の脱税世ステムを生み出した。

コンスタンティヌス大帝と息子のコンスタンティウス帝の二人によって、キリスト教の聖職者は免税とされ、地方自治体の有力者はこぞってキリスト教化した。これは合法的脱税者(非課税階層)を多数発生した。

後期のローマ帝国は、兵士と行政官僚の数を倍増したので、当然歳出も倍増したのであった。その上、ライン河やドナウ河流域の蛮族による破壊で主要産業の農業の生産性は著しく低下し税の減収を生じた。

これらの事が特別税をはじめとし、税制は複雑化の一途を辿り「広く浅く」から「狭く厚い」税制となった。 このように、ローマ帝国末期のこの時代は、紀元前の光り輝いていた元首政時代とは全て反対の考えが支配していた。

さて次のお題は、「どうするガリア再興」とする。

追記:
このブログの左側下方に「ブックマーク」がある。 そこにメル友のブログ英語版とフランス語版の二つを掲載した。彼女のブログはスライドショーで作った動画と詩で構成されている、御興味があればクリックしてみて下さい。

フランス語版では、スライドショービデオ作品や詩と共に彼女の横顔も見る事ができる。
英語版では、彼女のスライドショービデオ作品と詩を読むことができる。

それぞれのブログには、右上に国旗の小さなマークが表示されている。
このうちの日本の国旗をクリックすると、日本語に翻訳してくれるが、言葉の問題は依然として大きく、かなり不完全な翻訳である。語学に強い人は、原文で読んで下さい。


流れに乗る人からの変身が始まった

2008年10月28日 07時41分52秒 | Weblog


   ケルン大聖堂(インターネットより)

 父を正帝コンスタンティウスに殺された若者としては、自分の身の安全上やむをえなかったのだが「流れに乗る人」或いは「流れに流される人」であった。

ところが24歳にして、副帝としてガリアに派遣されるや、まず積極戦法家に変身したのであった。

普通なら、正帝のご機嫌第一に、休まず・遅れず・働かず・失敗なきように流れに乗り、要領よく泳ぎきることに専念するのであるが、初めての責任ある立場を自覚したのであろうか、積極戦法の人に変身したのであった。

 一年目に幾つかの目覚しい戦歴を挙げた後、二年目に入ると正帝のご機嫌をとることにたけただけの要職中の要職「騎兵長官」を解任し、一兵卒上がりの勇敢な積極戦法家をナンバーツーの「騎兵長官」とした。

これは、正帝の人事を覆したのだから、随分勇気のいった事であった。

ユリアヌスが敵としたのは、ゲルマン民族のフランク族(フランス人の祖)とアレマンノ族で、ライン河沿いのケルン・ボン・マインツ・ストラスブールなどをライン河を渡河し掠奪を繰り返していた。

ユリアヌスの生涯は、反逆的でしかも劇的であり、彼を主人公とした歴史小説は「ジュリアン(Julian)-ゴア・ヴィダル(Gore Vidal)著」が世界的ベストセラーとなった。

次回は、ストラスブールの勝利と題することにした。

 補足;ケルンは、ローマの公用語だったラテン語で殖民都市を意味する「コローニア」が、ドイツ語風に変化したものである。

ケルンも世界遺産である、次のURLはケルンを紹介するTBSのサイトである。

 http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20010916/onair.html



ユリアヌス一夜にして、副帝(カエサル)となる

2008年10月27日 07時09分52秒 | Weblog

AD355年11月6日、ユリアヌス24歳の誕生日は、誰も祝ってくれる人はいなかった。

上流階級の生まれとはいえ6歳から20歳まで幽閉され哲学を志した若者は、この日「正帝(アウグストウス)」コンスタンティウスから「副帝(カエサル)」に任命された。

一夜にして、あご髭を伸ばし放題のギリシャ哲学者から、きれいに髭をそり皮製の胸甲に紅の大マントというローマ軍の将軍に変身した。

この時代、ドナウ河とライン河は、ゲルマン民族やその他の蛮族からの略奪に対するローマ帝国の防衛線であった。

シーザがBC1世紀にガリアを征服して以降ローマ帝国領となったオランダ南部、ベルギー、ドイツ西部、スイス、フランスにまたがる古代ガリアは、ライン河沿を防衛線としていた。

より困難なのはドナウ河よりライン河の方で、ゲルマン民族系の蛮族に侵略されるガリア地方は、弱体化したローマ軍の少数しか駐留していなかった。そのガリア方面担当司令官として急遽派遣されたのが、ユリアヌスだった。

当時マインツとストラスブールは、「ゲルマニア防壁」と呼ばれるローマの最前線基地だったが、既にストラスブールは、蛮族に占領されていた。

 「おお、プラトン、プラトン、哲学の一学徒いうのに何たる大仕事!」と叫んで、全く政治や戦争を知らない24歳の若者はたった360名の兵士を従えて敵地に赴いたのである。

このとき彼が信頼できる供は、僅か4名、二人の従者に一人の侍医と一人の図書係兼書記兼秘書のみだった。その他の供は、正帝のスパイと高級官僚宦官のネットワークの手先というまことに油断のならない取り巻きばかりだった。

閉鎖的で疑り深く優柔不断の絶対専制君主の正帝コンスタンチィウスによる粛清はなによりも注意を要したのはいうまでもない。

なにしろ戦の素人ユリアヌスは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザ)の書いた「ガリア戦記」を急ぎ勉強したという。

次回は、この若者の変身について。

補足;
フランス語読みストラスブール(Strasbourg)は、ドイツ語読みでストラスブルグである。思いがけないときに、メル友の住んでいるこの町の名に出くわした。

2000年の歴史を有する世界遺産の街である。

ケーキ屋の店先
    メル友よりの写真

 美しい町並み
    メル友よりの写真



ライン河一本でドイツと隔たれており、5kmほど電車やバスは元より自転車を利用すると容易にストラスブールからドイツの町Kehl(ケール)へ行けるのである。

この地方は、アルザス地方と呼ばれ、歴史的にはドイツとフランスの領土争いが頻発した地域である。

このアルザス地方には、日系の企業も多数進出しているフランスで3番目の工業化の進んだ地方であり、また、大変風光明媚な地方でもある。この地方の民族衣装もすばらしく美しい。


コンスタンチヌスの凱旋門

2008年10月26日 07時37分57秒 | Weblog

 今回から、4世紀頃のローマ帝国について書くが、歴史を辿るとき結果だけではその面白さは判らない、それゆえ少し長文となるが、プロセスというか歴史的経過も書く。


    アッピア街道側から、右が円形闘技場(コロッセウム)


     コロッセウム側から、正面の路がアッピア街道
     

ローマの円形闘技場(コロッセウム)の近くにある巨大な凱旋門(AD315完成)をコンスタンチヌスの凱旋門と呼ぶ。

コンスタンチヌスは、後世「大帝 (magnus=マーニュス))と呼ばれた4世紀初期のローマ皇帝である。また、最初にキリスト教を公認した皇帝としても有名である。

それまでは神君(divus)の尊称が死後送られたのであるが、一神教のキリスト教では、神以外の神はあってはならない、それゆえにgreatを意味するmagnusの尊称となった。このように4世紀の偉大な皇帝であった。

この大帝には三人の息子があり、死後それぞれに大ローマ帝国を3分割して統治させた。その後紆余曲折の末、次男のコンスタンティウスが、二人の兄弟を廃して、正帝コンスタンティウスとなり、全ローマ帝国を支配した。

直系の子には恵まれなかった正帝(=アウグストウス)コンスタンティウスは、残された唯一の血縁者(叔父甥の関係)のガルスとユリアヌスの異母兄弟を副帝(=カエサル)に任命した。

ガルスは、AD351年に副帝に任命されたが、性格に破綻をきたし2年後正帝の命令で斬首された。

ユリアヌスは、ガルスの死後AD355年に副帝に任命された。 今回数回にわたり、このユリアヌスについて書こうと思ったのは、
「時代の転換期の生きかた」に次の三種があるとすれば、

下記3以外の、1.と2.、むしろ改革を引っさげて2.“流れに逆らう”に近い生きかたをした人のように思えたからである。

1. 流れに乗る
2. 流れに逆らう
3. 流れから身を引く(引退or隠遁)

それでは次回をお楽しみに。

補足;
正帝(=アウグストウス)と書いたのは、「アウグストウス」が尊称のため。

副帝(=カエサル)と書いたのは、「カエサル」が尊称のため。
特に、”カエサル”という表示は、ユリウス・カエサル (日本で有名な、シーザ本人のことではない)こことではない。


特集外灘

2008年10月25日 07時34分30秒 | Weblog

 昨日は、特集南京東路編でYouTubeのURLを表示するのを忘れていたので、それを文末に表示しておく。

さて本論であるが、いよいよ連載同窓会の最終日である。 上海は1840年頃から都市化が始まった漁村だった、しかし現在は人口では北京をしのぐ中国の第一の都市である。 

当然東洋でも最大の都市となっている。 岡山県人にとっても、ソウルと共に近い外国の一つとなっている。極端な表現をすれば、東京に行く程度の予算で旅を楽しめる外国の一つである。

ここ数日の異常な円高は、意外にも、こちら方面の日本人観光客の増加に繋がるかもしれないと思いはじめた。

同窓会報告の連載を終わるに当たって

常連読者には連日小生の同窓会限定の情報を飽きずに、或いは飽きられたこともあったろうが、ご辛抱いただいたことに感謝する。

また同窓生ならびに同行奥方には、身障者もどきの小生が何かとご面倒をお掛けし、時々必要な介助の手を差し伸べて頂いたことに厚く感謝する次第である。

特集外灘    http://jp.youtube.com/watch?v=ClnW4FgolrA

特集南京東路   http://jp.youtube.com/watch?v=RxawTI35Pmo

 

 追記;
静止画でも動画でもひとたび撮影し一度見ると、それ以降それらを再び見るということは稀になっているのが通例であった。

最近ビデオを楽しむようになって初めて気が付いたことであるが、編集作業するためには必ず何度かそれらを見なくてはならず、必要に迫られてとはいうものの、しばしば見て楽しんでいる自分を発見した。

しかし、いまだ問題だと感じているのは、一度完成したビデオや写真はめったに見ることがないという点である。


特集「南京東路」

2008年10月24日 06時47分44秒 | Weblog

 

中国の道路名は、南京東路の例の如く主要な都市名や地方名、或いは建国西路のような国の大切ななにかにちなんだ名前である。中国の人達には分かり易いのだろうが、小生にはどうもよく判らなかった。

 唯一覚えたのが、この南京東路であった。上海一の歴史を有する繁華街で、日本で見られるようなせり出した看板が沢山あり、東洋的な感じの街であった。

 西蔵中路から河南中路の間は、終日歩行者天国で、午後4時になると、ビルの3階のベランダからサキソフォーンを持った男性がファンファーレを吹奏し一段と雰囲気を盛り上げる。

この頃からだろうか、歩行者天国に小さな遊園地で走っているような乗り物が、走り出す、外灘に行くときや帰るときに利用すると、足の疲れを軽減できる。(3元が乗車賃)

南京東路は、夜11時頃ともなるとかなり人通りが少なくなるが、夕方から暫らくは若い人達が繰り出してきて大変賑わっていた。

地下鉄の人民広場駅を起点とすれば便利に安く大抵の観光地をカバーできるこの通りに面した東亜飯店に宿を取ったのは大正解だった。二星ホテルでも不自由はない、こうなれば安くて便利な取り得の方が俄然効果を発揮した。

外灘にはてくてく歩きで、1.5km程度、商店を眺めながら散歩するには最適であった。結局外灘には、昼夜あわせて3度も見物に行った勘定になった。

追記;次回の特集「外灘」で今回の同窓会報告にピリオドを打ち、従来のテーマに戻る予定である。

重症筋無力症の検査入院の日はいまだ未定。1.5万円/日の個室料を払うと直ぐ検査にかかれるのだが、1.5万円x7日=10.5万円と高額である。

上海の奇跡であろうか、幸い症状はやや軽くなってきて、視野の中央部で静止したものに限定すれば、二重に見えるという不便さはなくなってきた。それで現在は、眼帯の使用を中止している。


リニアモーターカー

2008年10月22日 06時02分47秒 | Weblog


リニアモーターカーに乗りたいという希望者が多く、帰国の時は上海市内から浦東国際空港まで乗った。昨年の夏、空港発上海市内往きに乗って、これで往復乗った勘定になった。


小生がYouTubeで公開しているビデオのヒット数統計値は、次の如くである。

フッセンとノイシュバンシュタイン城は4332ヒット/10ヶ月(換算すると、5201/12ヶ月)であるが、リニア5362ヒット/12ヶ月と実質一番手である。

読者の関心の最も高いテーマである。同窓生が、乗りたいと希望するのも無理からぬことであった。

かつての日本が忘れたことのように思えてならないが、中国の人達は、世界のトップ・最先端を目指して日夜努力をしているのである。

世界の四分の一に相当する人的資源と広大な土地と巨大な鉱物資源を有するこの国は、近い将来東洋のドラゴンとして羽ばたくような気がする。

今回かなり詳細に行脚し見学したこの街は、戦前の日本人が憧れたような上海にそろそろなろうとしているかのようであった。

http://jp.youtube.com/watch?v=6nxTso2pLM4

 


上海旧日本租界

2008年10月21日 06時54分31秒 | Weblog


 三日目は、ホテルから南京東路を外灘方向に東に、外灘の手前から四川路を北に進み、上海の中心部から北東部に2kmくらいの地点にある旧日本人租界を目指した。

次いで魯迅が住んだ「魯迅故居」と呼ばれる場所を訪れた。

上海の庶民の町を散策したのであった。上海にはスターバックスとUCCという日系のコーヒー店が見られ、数においてはUCCを多く見かけた。

ひと歩き後のトイレ休憩に洒落たUCCの店に入った。 早朝で客は我々のみ、店の選択は正しく一流店だった、ゆっくりとコーヒーを楽しんだが、惜しいことに水が少し臭った。

従業員は皆若く、外国人が来るような店ではないので言葉は全く通じない、全て中国語の出来る二人の友人の通訳に頼った。


旧日本租界では、奇石の露店市が開かれていたし、小さな商店も沢山見ることが出来た。

魯迅一家は、一階から三階まで使用する、当時のハイカラな三階建てのアパート風の建物の一隅であった。

管理事務所は国家公務員の管理であったのか、対応はぶっきらぼう、撮影禁止とおばちゃん事務員に叱られるし、ガイドの若い青年の日本語もうまくない。 その後、魯迅公園向かった。

ビデオは次にURLで。

http://jp.youtube.com/watch?v=2Qw6v2I_hQ4

(昨日ご紹介したダウンロード アクセラレータを使用して、高画質をお楽しみください)

追記;
三日目に入り疲れも溜まったのだろう、思いの他撮影量が少なかった。少し写真を補充するためインターネット見たら、うまく解説したものがあった。次の文と写真の一部をコピペした。(コピペ = コピーandペーストの略)

 虹口地区は日本人租界で、当時上海は長崎からパスポートなしで行けた外国だということであった。この時代については、自由劇場の「上海バンスキング」を初め、様々な小説の題材となっている。

なかでも、金子光晴の『どくろ杯』は、『どくろ杯』、『西ひがし』、『ねむれ巴里』のヨーロッパ放浪3部作の中国編として、当時の上海の日本人たちの生活の様子が、彼独特の鋭い描写力で描き出されている。

 村松梢風も上海で活動した文学者として著名だが、その孫が直木賞作家の村松友視。彼は、自分の祖父の痕跡を訪ねる旅を『上海ララバイ』という小説に描いている。(でも、これはちょっと大衆小説・・・)

それから、森川久美の『蘇州夜曲』とか『南京路に花吹雪』という漫画があり、これを読むと日中戦争の前後関係を理解できる。 上海の陸戦隊本部の建物。また、この道の反対側には日本の神社が相当広い敷地で存在していたそうだ。

戦前の日本人の活動は、中国をはじめ東南アジアの諸地域には相当進出していたようで、おそらく、今日よりもはるかに・・・。それが進出なのか侵略なのか微妙な問題であるが、狭い日本から抜け出してアジアで一発当てようと思った日本人が数多くいた事は確かなようだ。
ことに満州の大地は狭い島国日本人の欲望をかき立てたに違いない・・・。 

この文の作者に、小生も共感を抱いた。かつては身近な外国の一つに上海があったのだろう。

この日は、多くの庶民生活を垣間見ることが出来たと言う点で、他の二日とは趣をことにした


ダウンロード アクセラレーター

2008年10月20日 02時49分50秒 | Weblog

メル友が有難いフリーソフトを教えてくれた。早速試して見たら、YouTubeの高画質版を見ようとすると、しょっちゅう途切れ途切れの再生になって困っていたのが、見事に解消した。

既に、世界で900万人が利用していると言う。大変便利なのでご紹介する。(高速回線の方には必要がないだろう)

ご参考に下記Bの一部分である効能書きを載せておきます。
「YouTubeなどを見ていると、時々、重たくなって再生が詰まったり、バッファリングが始まったり、フリーズしたみたいになって止まっていたりする場合があり、快適に視聴できないことがあります。

そういった不快な事態を防ぐのが、「Download Accelerator Plus」というダウンロード支援ソフトを開発しているSpeedBit Ltd.が同じ技術を応用して無料で配布している「SpeedBit Video Accelerator」というフリーソフト。

YouTubeやCNN、Gametrailers、Soapboxなど約60近いサイトでストリーミング速度が高速化するという便利で快適なインターネット生活を実現するものです。

基本的にダウンロードしてインストールし、常駐させるだけでOK、かなり簡単です。」

!!!ダウンロードしてインストールされる方にご注意!!!;
万一パソコンが何らかの不調を起した時に備えて、まず「復元ポイント」をすぐお作りください。  その後、インストール作業を開始してください。

 A:英語の得意な方は、次のURLから、直ちにインストール。
http://www.videoaccelerator.com/

B;日本語の得意な人は、次のURLでインストールの仕方を見てから、上のA;URLでインストールして下さい。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20071204_speedbit_video_accelerator/

 


上海の地下鉄

2008年10月19日 08時00分26秒 | Weblog

あまり観光一点張りでは食傷気味ではないかと、目先を変えてみる。


 地方に住んでいると地下鉄を利用する機会は殆ど無いが、大都市では庶民の欠かせない便利な足である。 今回のてくてく上海では、幾度か地下鉄にお世話になった。3元程度の料金でちょっとそこまで出かけられるのはありがたい。


 漢字圏の人々にとっては、現在の中国の簡略漢字は多少面倒だがどうにか識別可能な範囲のものである。他の多くのことは判らぬが駅名程度なら何とかなりそうである。

同窓生中二人が中国語を判る関係で大変心強く、てくてく観光も無料ガイド兼通訳付きのお任せ観光となったが、それでも次回は自分一人で地下鉄を利用しながら上海見物が出来るという自信が持てたのは大変な収穫だった。

いまだ不安が残るのは、レストランでメニューを渡されたとき全く判らないことである。小生がたまに行くような日本の大衆食堂では、蝋で作られた見本があるので、これが食べたいと簡単にオーダーできるのだが、上海ではどうもこうはいきそうにない。 まったくのところ何時になったら、メニュー解読に自信が持てるようになるのか見当もつかない。


魯迅公園の一角にある「サッカー場駅」から地下鉄8号線に乗り「人民広場駅」に向かったとき、車内で隣の席にかわいい赤ちゃんを抱いている人を見かけたので撮影させて貰った。

撮影しても構わぬかと身振りで問いかけるとOKとジェスチャーで答えてくれ、赤ちゃんをカメラの方に向けてくれた、自慢の子なのか孫なのであろう。ビデオの最後にチラッと写っている。

筆談で聴いた名前は「徐家祺」チャン(中国語の出来る友人に聞くと“Su Cha Chi” と発音すると言う)赤ちゃんを抱いている人が、両親か、若い祖父母なのかは筆談ではついに確認が取れなかった。

<!-- 上海の地下鉄 -->

 


逞しきかな庶民達

2008年10月18日 06時43分42秒 | Weblog

 豫園エリアから西に歩き新天地を目指した。新天地は上海のプレイスポットで映画館・飲食店・バー・喫茶店・ショッピングなど若い人達が好みそうな洒落た場所だった。この一角でジャズバーCJWで思い思いにビール・コーヒーなどで一休み。

途中、路上市場なのであろう多くの商店・露店と買物客を見ることが出来た。実は、この日も沢山の観光をしたのだが、一番印象的だったのがこの路上マーケットであった。 子供のころの自分の町の雰囲気を懐かしく感じたのだった。


気ぜわしく通り過ぎて行く客達にひきかえ、露店の商人達は至ってのんびり、客を呼び込むでなくのんびりと構え、中にはトランプに興じるものも見られた。せわしないマーケットにもゆったり感をかんじたのであった。

庶民の逞しさとでもいえばよいのだろうか、それともゆったりした国民性だったのだろうか。


豫園商城

2008年10月17日 07時22分36秒 | Weblog

この地は以前、深夜出発便の乗継ぎ時間待ちで一度来たが、夜景中心の見物でしかなかった。今回昼景も見物できたことで一通り見たことになった。

本稿の題を「さすががっちり奥様」にしようかとも思ったが、一人の独身と思える若い外国人女性もいたので諦めた、その出来事をご紹介しよう。

露店に沢山の人だかりがし髪をカールする道具を売っていた。奥方連中が、近くにいた若い外国女性と組んで勇敢にも値切り交渉をした。暫らく後、デパートのバーゲンで見られるような格闘技のごとき見事な値切りを成功させ、意気揚々と引き上げてきたのである。

「物が欲しいと言うより、値切ることが楽しく生き甲斐なのだ」という蔭の声もあったが、とても我々男には真似のできない行動である。 この事実から洋の東西を問わず女性が値切りに適している事が実証されたのであった。

小生はなんと頼もしい女性達かとおおいに尊敬した次第である。かように女性達にとって大変面白い場所が豫園商城である。今回は、上海最大のお土産スポット豫園商城をご覧いただく。

中山路からビル街の路を西へ少し歩くと長方形区画の豫園エリアに着く。その北東部三分の一くらいが豫園であり、残り三分の二が豫園商城である。

まず歩いて空いた腹を満たすため昼食。どのくらい有名なのか知らないが、とにかく有名といわれる「上海老飯店」で美味しい昼食を摂ったが、食べるのに夢中で写真を撮るのをすっかり忘れご紹介のしようがない。

今回は、ホテルバイキングの朝食を除き、てくてく中のトイレ休憩喫茶や昼食やそして一日の締めくくりの豪華夕食は、超巨大都市上海で一流の有名店や気おくれのしそうな立派な店構えのところばかり。

さすがにどれも日常小生が経験することが出来ない豪華なで美味なものを、安く味わうことが出来た。つかの間の金持ち気分を味わったのであった。ただいまひとつ残念なのは、食べることに夢中で料理の写真が全く残っていないということである。

豫園商城では沢山の店がありどこを見てよいか迷うばかり、買い物好きな人には堪らない場所である。この地区は、外灘と共に上海で最大の見所の一つで、大抵の人は必ずこの二箇所を訪れるといってよいであろう。

ビデオはこちらから

http://jp.youtube.com/watch?v=ttEpWFDgl9Q

 

 読者でまだのお方は、それほど遠くない土地である、一度訪れるのも一興ではないだろうか。

 次回は、高級役人が晩年を迎えた父親に18年もの歳月を掛けて造営した豫園を特集する。

 

追記:sigejiiさまへ;
毎度ご覧頂有難う。貴兄も二年前にご夫婦で上海を旅されたとの事。懐かしくご覧頂いていることと思います。

旅は非日常を作る最適な手段です、小生も健康を取り戻し更なる非日常を味わいたいと思っております。


中山路

2008年10月16日 05時18分59秒 | Weblog

お知らせ;
昨日の「東方明珠塔からの眺め」編では、YouTubeのURLを表示し忘れていました。追加しました。

左の昨日の日付をクリックして戻り、一番下にあるURLをクリックしてください。動画も見えます。

さて、本日分はじまり。

二日目の午前中は、ホテルから南京東路を東にとり外灘に出て浦東地区の高層ビルを見物し、それから川沿いに中山路を南に歩いた。

数年前には沢山いた不愉快な観光客にまとわりつく土産物売りが一掃され快適に観光できるようになったのは有難かった。

 川沿いの道には戦前のヨーロッパ式建物が多くとても雰囲気はあるが、2年後に予定されている上海万博に向けての工事が盛んに行われていた。万博頃か或いは後に再び来ると見違えるようになっている事であろう。

 

 

緑色の郵便ポストがあったのに興味を惹かれた。 途中で一休み、由緒ある建物は1階がブティックで2階に洒落たレストランがあった。大変豪華で日本で小生はこの種のものを利用した経験はない。雰囲気といい眺めといい最高であった。

暫らく待って午前11時開店、ランチ用のアレンジを完了していたが、本日の昼食は、豫園商城の一角にある「上海老飯店」のため、軽くドリンクのみですませた。

午前中のハイライトはなんといってもこの一流レストランだった。日本では一流レストランでコーラやジュースやビールを飲んでサヨウナラはどうしても出来ないが、旅でこそ味わえた経験だった。

それからビル街の路を進んだ、信号を渡る回数が少ないので、あまり交通事故の心配をしないで歩けた。また昼が近いためであったのだろう若いサラリーマン達が、どこかで購入した弁当をぶら下げて歩いていた。

この地点から暫らくビル街の裏道を歩くと豫園商城に到着。

動画編は下記のURLへ、
http://jp.youtube.com/watch?v=rGFshxXe18Y

 

 


東方明珠塔からの眺め

2008年10月15日 06時58分38秒 | Weblog

 最近開業した東洋一高いビル

 上海の見所は色々あるが、その代表選手の一つに浦東地区にある東方明珠塔と呼ばれるコンクリート製のテレビ塔がある。日本流でいえば東京タワーならぬ上海タワーとでも例えれば分かり易いであろう。
(地震の心配のないこの地方ならではの建造物である。)

既にお馴染みになった人民広場駅から地下鉄2号線に乗り二駅東へ行く、駅名は小生のフォントはないので省略、テレビ塔の近くに着き、ここからてくてく歩きを始めた。

日本村での宴会が待っている関係で急がねばならかったので、東洋一高いビル組とテレビ塔組に別れて行動した。

 テレビ塔組

小生はテレビ塔組だったので、この塔からの眺めを報告する。 人口1千八百万の大都市である、地方に住んでいる小生には目がまわるほど巨大な都市であった。

これ以上の説明は不要であろうし、小生にはとても出来るわけがない。写真とビデオの出番である。

http://jp.youtube.com/watch?v=YHX3LNzyCXQ