12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

ユリウス・カエサル2

2008年11月30日 06時53分16秒 | Weblog

古今の史家や研究者が、一様にカエサルに魅了されて悪く言うことが出来なくなっていると言われている。

 四十代までは、借金漬けの痩せ型で背の高い額の後退した普通の容姿の男が、列をつくって自分の順番が来るのを待つかのごとく、上流婦人を総なめにしたそうなのである。

生真面目なこれらの学究の徒達は、なぜカエサルはあれほど女にモテ、それらの女達から誰一人として憎まれなかったかという、重要な秘密についてなぜか研究し説明していない。

この点では、塩野七生女史は抜かりがない、きっちりと判り易く説明してくれた。

モテるだけなら俳優や歌手や金持ちや沢山の美男がモテたはずだが、モテた女から恨みを買わなかったのは、女を怒らさなかったからだという。 女が怒り恨みを抱くのは、貢いだ男が無情に縁を切り寄りつかなくなったときだという。

カエサルは、
第一に、愛する女を桁違いに豪華な贈り物攻めにした。
(これでは膨大な借金が出来るはず)

第二に、愛人の存在をだれにも隠さなかった。
公然たる愛人となると、女は愛人であっても不満を感じないのだそうである。

第三に、ものにした女性とはだれ一人とも決定的な関係の清算をしなかった。
(新しい愛人が出来ても、古い愛人達になにかれと良く面倒をみた)

塩野女史の分析では、女が何よりも傷つくのは、男に無下にされた場合であり、女と大衆とはこの点で全く同じだという。

 日本には、民衆を無下にしない政治家や官僚がいるのだろうか。


傾城

2008年11月29日 06時40分33秒 | Weblog


総称して傾城と云えば、下の欄でご紹介するものが傾城ものの代表的な作品である。 遊女の苦節や哀れさを内面描写で描いていると言うが、まだまだ小生にはこれを理解する域には到達できていない。

傾城の言葉の意味を念のため辞書で調べた。

 《「漢書」外戚伝の「北方に佳人有り。…一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く」から。その美しさに夢中になって城を傾ける意》

1 絶世の美女。傾国。
2 遊女。近世では特に太夫・天神など上級の遊女をさす。

最近,YouTubeが画面を16:9のハイビジョンサイズに変更した。
これを高画質で見ていただきたい。だいぶ見易くなった。

http://jp.youtube.com/watch?v=uhmAcg0MlQc


 


Google Chrome

2008年11月28日 07時27分48秒 | Weblog

インターネットのブラウザとして、小生が使用していたのは、最初、インターネット・エクスプローラー (IE7)であったが、機能が豊富な分立ち上がり時間が長く、この点で不便さがあった。

これを改善するため、Mozilla Firefoxを併用することにした。
これは結構早く立ち上がり、それなりの便利さを味わってきたが、このgooブログに投稿する場合、機能的に対応できないことがあり、IE7との併用が不可避であったため、上記二つのブラウザを併用してきた。

先日、“Google Chrome” なるブラウザを偶然発見しTestして見た。これは抜群に立ち上がりが早く、まことに便利なので、これをデフォルトに設定した。

これでは、このブログの投稿が出来ないのだがそれでも、日常のインターネット閲覧ではこれに勝るスピードのブラウザないようである.

 非常にシンプルな画面であるが、使い易く、高速である。便利なこと請け合いだと思うのでここで読者の皆さんにご紹介する。

こんなわけで、現在常用しているブラウザーは三種となっている。

“Google Chrome”の詳しい説明は、次のURLをクリックして、動画で説明をご覧頂きたい。そして、downloadし試してみられることをお勧めする。

http://www.google.com/chrome/intl/ja/features.html

 


藤娘色々

2008年11月26日 07時42分37秒 | Weblog


 メル友に小生が先日岡山で撮影した藤娘のビデオを送ったところ、彼女の母親に転送したと知らせてきた。

彼女の年齢からすると母親はおそらく小生と同年代であろうから、日本舞踊にも興味があるのかもしれないと思い、玉三郎の藤娘をYouTubeで調べて見た。

英語の簡単な解説まで付いた手ごろなものが見つかったので、こちらも知らせておいた。 日本舞踊には全く知識がないのだが、このYouTube版の玉三郎演ずる藤娘は、判り易い説明があり、少しとは言え日本舞踊の知識が得られた。

 岡山で撮影したものは、県内の有数の若手の女性師匠の舞である。まさに女性の美をありのまま示した感がある。

ひきかえ、玉三郎の藤娘は男性が芸の力で女性の美を表現したものである。

小生などに踊りの上手下手など判ろうはずもないのである、それぞれに趣を感じせてくれたのだった。 今後は、TVなどで日本舞踊の番組を少し見ることにしようと思ったのである。  

次のURLは岡山でのもの

http://jp.youtube.com/watch?v=KhE9A-CfDCs

次は、玉三郎のもの

 http://jp.youtube.com/watch?v=sPgtX-ljHi4

 

 


ユリウス・カエサル1

2008年11月25日 07時42分39秒 | Weblog

 1.モンテスキュー曰く。
「ユリウス・カエサルは、幸運に恵まれていた。だが、この非凡なる人物は、多くの素質の持ち主であったことは確かでも、欠点がなかったわけではなく、また悪徳にすら無縁ではなかった。

しかし、それでもなお、いかなる軍隊を率いようとも勝利者になったであろうし、いかなる国に生まれようとも指導者になっていただろう。」

2.イタリアの普通科高校の教科書
「指導者に求められる資質は、次の五つである。

知性・説得力・肉体上の耐久力・自己制御能力・持続する意思。
この全てをカエサルだけが持っていた。」

3.ユリウス・カエサル曰く。
「文章は用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や仲間内でしか通用しない表現は、船が暗礁を避けると同じで避けなければならない。」とローマの歴史上有数の文筆家と称される彼は、言ったのだった。

4.「敗者さえも自分達と同化する」
これで何度目か同じ事を書くのであるが、戦でローマが勝ち、相手国が敗者となった場合、ローマの政策は、敗者の自由や権利を幅広く認め、自らと同等に扱った事はよく知られていることだが、この点についても優等生だったのが、ユリウス・カエサルだった。

 何度もすばらしい勝利を挙げたのだが、殺戮を最小限に留め、捕虜達を自由にし、温情をもって遇した代表選手でもあった。最もローマ的な政策を敗者に対して貫いた人でもあった。

この事は、優れた先輩武将ポンペイウスとの指導者争いにおいても、例外ではなく、特にこのポンペイウスとの内戦すなわちローマ人同士の戦では、同胞を大切にする行為が随所に見られ、同胞の血が最小限に流されるように配慮し、捕虜としたポンペイウス側のローマ人に対しても実に寛大だった。

文武両道に優れた稀有の英雄であり、西洋の歴史上最も優れた人と評される人である。

優等生カエサルも決して悪くはないが、もう少し人間的なカエサル像を知りたいと思っている。


第56回岡山日本舞踊協会公演

2008年11月24日 06時44分54秒 | Weblog


日曜日、娘の車に同乗して、久しぶりに外出し3箇所の目的地を訪れた。その内の最大のイベントは、第46回岡山市芸術祭にイベントの一つ、日本舞踊鑑賞であった。

主催は、岡山日本舞踊協会、岡山市芸術祭実行委員会、岡山市の三者であった。

岡山県では、国体と同じような規模で各都道府県輪番で行われる国民文化祭が、来る平成22年秋「第25回国民文化祭・おかやま二0一0」として開催されるとのこと。この主要な催し物となることであろう。

 日本舞踊は、TVでしか見た事がないので、生で鑑賞できると言う有難い機会となった。
時間の都合で、17演目のうち7演目しか見ることが出来なったのであるが、日本伝統の優雅な舞の一端を、幾つかの静止画でご披露する。







ストラスブルグの植物園

2008年11月23日 07時27分18秒 | Weblog

日仏合作第二弾である。例によって写真は、メル友である。 今回ご紹介するのは、Jardin Botanique と呼ばれる植物園である。


この街の市電は、新旧多種多様な形の岡山市の市電の内で最も近代的でスマートな車両に良く似た形の市電が走っている。

今回は、駅から市電に乗ったとしてみよう。 ストラスブルグの駅はGare SNCFという。ここからTramway(市電)に乗り7つ目の駅まで、中央駅から直線距離で2kmほどの距離を電車に乗ったとしよう。

市電の駅で下車すると、Musee Zoologique (動物学博物館)の前に着く、その建物の北側裏手に目的地の植物園Jardin Botaniqueがある。

広々とした植物園は、ヨーロッパの長い伝統を静かに感じさせてくれる。

次のURLが今回のスライドショウである。ゆったりした植物園を感じ取って貰えると有難い。

http://www.veoh.com/videos/v16699292WjEDEtF6

 

おまけ;
この植物園の公開サイトである。フランス語だが、花の写真を見ることが出来る。

http://jardin-botanique.u-strasbg.fr/index.php?cat=1&id=6&langue=fr


 


皇帝トライアヌス

2008年11月22日 08時17分15秒 | Weblog

 トライアヌスは、5賢帝の一人に列する優れた皇帝、治世は98年1月27日から117年8月9日である。この皇帝は質素で偉ぶらない人柄だった。

1. 初めての属州出身の皇帝
トライアヌスは、フランス南部の属州生まれで、生粋のローマ子ではない。

属州とは、戦によって占領したその土地にローマ人を送り込み現地人と結婚させ、あたかもローマ人のような権利を与えその土地の独立を保障するというローマ独特の治め方。

基本的にローマの侵略形式は、共存共栄方式を採用しており武力で無理やり隷属させるのではなく、現地人の自由と権利を広く保障し、共存共栄をはかるというたぐい稀なる統治方法であった。

この統治方法には、幾つかのランク付けがあり、ローマ市民そのものが最高位に位置づけられ、ローマ連合、属州、植民地,
同盟国と次第にランクが低くなり、その住民の権利の範囲が低下するのだが、それでも共存共栄の精神は貫かれている。

 2. 従って、属州勤務で首都ローマでは未知の人

3. 皇帝に即位しても一年半はローマに姿を見せなかった
トライアヌスは、前皇帝のネルヴァから指名されて皇帝になったので、満を持して、ローマへの登場を準備のため遅らせたのだった。

 4. 妻のプロティナも南仏のニース生まれ、初の属州出身の皇后となった。
彼女は教養高く賢明な女性だったが、美人でも派手でもなかった。

塩野七生女史はこう書いておられる
「女は同性の美貌や富には羨望と嫉妬を感じるが、教養や頭の良さには羨望も嫉妬も感じない。・・・」。

これが真実なのか、ただ単に塩野七生女史だけの思いなのか、小生には判断ができない。

教養や富に、男性である小生も大きく羨望と嫉妬を感じるのだが、嫉妬という字は、何故か全て女偏である。

ローマ帝国といえば、シーザに登場願わなくてはならない。シーザといえば桁外れの人物なので、小生如きでは、彼の全てについて羨望も嫉妬も感じようが無い相手である。

 それで、次回からシーザについて書こうと思っている


ストラスブルグの日常1

2008年11月21日 06時36分10秒 | Weblog

 

メル友がストラスブルグでクリスマスの飾りつけが始まったとメールをくれた。 1600年代から、クリスマスツリーの飾り付けを始めたのは、この街からだという。



ストラスブルグのクリスマスマーケットは、大変有名で世界中から旅行者が訪れるというのである。

クリスマスマーケットは教会の回りに設けられ、日曜も休まず11月29日から12月31日の間、午前10時から夜8時まで開く。

 両親や叔母や従兄弟。兄弟達と夜遅くまで、マーケットを散策するという。その内に、家族で散策した様子を送ってくれると思うので楽しみにしている。

外に出るのが不自由になったので、ビデオもネタ切れ状態である。以前送ってくれた写真を使う許可を貰って、ストラスブルグの日常を纏めてみた。

 http://www.veoh.com/videos/v16667797dq26HZdS

三部作の予定で、ここにご披露するのは、Part1「昼の日常」である。Part2は「夜景」、Part3は「植物・植物園」を予定している。 観光案内ではなくて、この地の人々の生活を垣間見るものである。


皇帝ユリアヌス

2008年11月20日 09時12分46秒 | Weblog

 前回のお話しより1年くらいさかのぼる。ローマ帝国東方の国境はペルシャと接するチグリス川であった。敵対するペルシャ王シャブールは、十万もの大群で攻めてきた。コンスタンティウス帝は自ら軍を率いてペルシャ遠征を決意した。

ガリア方面での目覚しい成功をおさめているユリアヌスに対する嫌がらせと、後世の歴史家が評しているのが、60万もの兵員を動員できる正帝コンスタンティウスが、副帝ユリアヌスに命じたのは、1万三千の兵をガリア方面に残し、精鋭1万名を供出せよというものだった。

されど年長のいとこの命令には不満ながら従うことしかなかったユリアヌスは、部下の兵達にこれを命じたのであった。

蛮族の四部隊は、家族と離れ遠くオリエントまで行く事はもってのほかと反対し、またローマ兵たちもユリアヌスと離れて、正帝指揮下に編入されることを拒んだ。ユリアヌスに心から心服し、正帝のいやがらせと信じてユリアヌスに同情したのだった。

蛮族達はユリアヌスの宿舎の前で座り込みを続け、1ヵ月後何度目かの説得をしようと現れたユリアヌスを盾の上に担いで練り歩き「ユリアヌス・アウグストウス(正帝)」と叫んだ。

ボスを盾の上に載せ練り歩くのは、ユリウス・カエサルに征服された時代のガリア人の風習であった。カエサルより400年後昔のガリア人の風習に従って自分達の感情を表現したのだった。

迷った末にAD360年2月ユリアヌスは、番族達に「アウグストウス(正帝)」を受けると宣言した。ユリアヌスは蛮族的なやり方で擁立された最初の皇帝となる道を歩く事になった。

歩く事になったという意味は、いとこのコンスタンティウスに、ガリア地方を独立国として認めるように請願することだった。 これに対し、正帝は大軍を率いてユリアヌス征伐に向かったのだが、その途中で病のため亡くなってしまった。

あわや内戦一歩のところで、政権がユリアヌスに回ってきて、そしてユリアヌスの改革が始まったのが、前回のお話しであった。

父のコンスタンティヌスはキリスト教を公式に認めた皇帝として有名でキリスト教会からは大帝という尊称を与えられている。また子のコンスタンティウスと共にキリスト教に多大の援助庇護を与えたのであった。

これに対し、ユリアヌスは、本来のローマやギリシャの多神教はもとより、キリスト教、ユダヤ教などのその他の宗教にも平等であるべきという政策を展開した。

この事から、一神教であるキリスト教からは、目の仇にされた皇帝でもあった。

彼が、長期の政権を維持することができていたら、もしかすると中世の暗黒の時代がなくて、現在のような世界的な宗教の自由が早く確立された時代が来ていたのかも知れないと思うのである。

美人薄命ではないが、超短命の賢帝、悲劇の皇帝ユリアヌスをどうしても贔屓するのである。


美人王老師の太極拳

2008年11月19日 05時57分34秒 | Weblog


 先日の上海同窓会のおり、若年・中年中国の人達に太極拳をしますかと質問したら全て否であった。よく考えて見ると、日本人に柔道をするかと聞く事と同じなのである、大抵の日本人から否と返事が返ってくるはずである。

太極拳教室は美人・元美人に溢れ、ご他聞にもれず女性中心の教室である。 中国武術6段のすごい先生(老師)が指導に来られるから出席してはどうかとの誘いに二つ返事で参加したのは、2年前のことだった。

この高名な先生は、年に一度玉野市を来訪され、市内全域の各教室からレッスン希望者が参加するのである。

中国武術6段の老師と聞いたので、中国の仙人みたいな白髪白髭のご老人が来られるかと思いきや、とんでもない美人先生だった。

美人が嫌いな人は居ない、例外なく小生も先生に一目ぼれ、幸いこのとき模範演技を撮影させて頂いたので、この機会にご紹介する。

http://www.veoh.com/videos/v16282570xqytH3Zt

 

追記:
何事もそうであるが、還暦を過ぎてから新しい事を学ぶのは難しい。あれこれ学ぶ事を始めたのだが、どれも遅すぎた手習いになったと後悔している昨今である。

されど今のような、物が二重に見える状態では、いずれの教室にも出席できない状態である。今後体の具合と相談しながら、どうするか考えねばならない。


改革者の苦労

2008年11月18日 08時30分18秒 | Weblog

 コンスタンティウスの急死で皇帝になったユリアヌスは、361年12月11日ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに入城した。

民衆は新皇帝の入城を歓呼の声で迎えたが、それは歓呼の声で迎えておき、これからなにをするのかと様子を見るということでもある。支配される人々もそれなりの対応策を持っているのである。

これに対し、支配者たる新任者は、二種の対応方法より選択することになる。

 第一は、既得権層を刺激しないように、改革らしい改革には手を着けず、従来を踏襲する方法である。この場合、現状維持ゆえさしたる改革はなされない。

第二は、権力の座に着くや、既得権層も非既得権層にも、悟られない早さで次々と政策を打ち出し実行する方法である。

改革が難しいのは、たいてい既得権層が損になる改革は、当然ながら既得権層から激しく抵抗される。また、改革によって新たに利益を得る非既得権層も、なにが自分達の利益になるか直ぐは理解できない事が多く、改革を強力に支持する力になりがたいのである。

新皇帝になったユリアヌスは、第二の道を選び、何よりも既得権層の反対を押さえ込むべく、次々と新政策を打ち出した。 広大な皇宮をスカスカにした改革は、特権に無関係の一般市民は大いに喜んだのだったが、長年続いた特権を享受していた人々は笑うどころではなかった。

この結果、ユリアヌスには、影でも日向でも多くの敵が出来た。

不幸にして、三十一歳と七ヶ月の人生、皇帝になってから一年と九ヶ月にして、ペルシャ戦役の戦場で戦死した。 この直後から、ユリアヌスの改革は全て破棄され、改革前の状態に戻されたのは、既得権層の巻き返し以外の何物でもなかった。

ユリアヌスの改革の治世は、僅か十九ヶ月にして幻の改革に終わったのであった。 塩野七生女史は、もし十九ヶ月でなくて、十九年治世が続いたとしたら、ローマ帝国のありようも大きく変わったのではないかと、書いておられる。

わが国でも、既得権者層は、自己の損得に充分な情報を有し、また極めて敏感で、頭もよく、強力な力を持っているため、真の改革者を邪魔者として容易に排除できる能力を持っている。

我々一般民衆は、どうしても情報不足の立場におかれているし、またそれほどの力があるわけではないのが現状である。従って、ユリアヌスのような改革者が出てきても、それを強力に後押しし、既得権者達から守り盛り立てることが上手でない。

改革が今この国に必要なのは多くの人が気付いている事であるが、このような事を考えると、ユリアヌスのような改革者がこの国に現れたとしても、うまく盛り立てていけるかなとの不安を抱くのである。

正直者が馬鹿を見るの例えの如く、民衆の見方である改革者の多くは短命な政権に終わっている例が、世界的に多いのである。


難病

2008年11月17日 05時23分33秒 | Weblog

小生は元より、殆どの読者の皆さんも難病とは何かご存知の方は少ないであろう。現在も重症筋無力症の疑いが続いている小生は、他人事ではなくなった関係で色々調べて見た。

正式な呼び名を「難治性疾患克服研究事業」と称し国が事業主体となって、123の疾患を調査対象として研究が進められている。123の全ての疾患名を挙げる事は控えるが、御興味のある方は次のサイトをご覧頂くとよい

http://www.nanbyou.or.jp/what/nan_itiran_121.htm

その内45疾患(特定疾患)については「特定疾患治療研究事業」として、医療費の助成制度が設けられている。これには重症筋無力症は該当する。
但し、条件として

A:医療機関が指定される。
B:治療研究期間は10月1日から翌年の9月30日までの原則1カ年間

この窓口は、各県の保健福祉部医療安全課特定保健対策班である。 また、上記以外に、岡山県難病相談・支援センター、岡山県難病団体連絡協議会などの相談窓口や関連団体などもある。

更に、今後生活に支障が出るような障害が残れば、別途傷害者としての申請が必要になるというのである。(こちらは、必要になったときに調べる予定)

この種の難病は、10万人当たり数名の発症率のようであるが、123種もの病気があるのだから、数名x123=数百名/十万人と結構な人数になってしまう。

 誰しも好んで罹りたいわけではないが、単純な計算では、千人当たり数名、言い換えれば数百人当たり1人なので、結構身近にこの種の病気の方がおられる計算になる。

そういえば、難病といわれる病名の方を幾人か承知しているのである。 運命とでも言うのであろうが厄介な生活を強いられている人が、意外に多いのである。


何故ユリアヌスは、過激な改革ができたのか

2008年11月16日 07時05分52秒 | Weblog

ユリアヌスの改革は、この当時の産業の根幹たる農業振興のため農業用水路や洪水対策としての堤防の修復・建設にまで及んでいる。

特別税の徴収を拒否されたコンスタンティウス大帝(正帝)は、大帝への告げ口屋と化していた陰湿な宦官達の告げ口を容れ、ユリアヌスの片腕であった有能なサルスティウスを解任しミラノへ転任させるという意地悪をした。

 しかし、これらの妨害にもめげずユリアヌスは、僅か4年で敵を撃破しさらに敵地に侵攻し敵の本拠地を叩き、元首政時代の鉄壁の「防衛線」を復活した。

また地域振興にも成功し、ガリアでは出産までが増加した。 戦勝によりガリアの将兵にも、民衆にも将来に希望を持たせたことにより人民の心までこの若き副帝は掴んだのであった。 

この若者に改革が出来た理由を、塩野七生女史は、次のように推測されている。

「責任の自覚と成功による高揚感」その根拠として女史はユリアヌスが学生時代の友人に送った手紙を引用しておられる。

 “プラトンとアリストテレスの弟子を自認していた私に・・・。
民衆の幸せな日常を保証するのは私の責務である。・・・・・税金の不当な取立てを繰り返す以外に能のない皇宮内の無能な盗人どもから、民衆を守るのは私の役割ではないだろうか。

・・・・一人で何もかもやらねばならない今のこの時期を出来るだけ活用しようと思っている。一人だから、民衆のための政策を実施するのも自由にやれるからね。

その今が長い間垂れ込めていた邪悪の雲のほんの少しの切れ目でしかないとしてもだ。”

哲学の一学徒は、好きだから選んだ道であり、副帝などになろうという気は一切持ち合わせて居なかったはずである。

ユリアヌスは、副帝になってはじめて、自分が他者に必要とされている事を自覚し、他者に喜ばれる自分を発見した事が、彼の大成につながる高揚感をもたらしたと推測されている。

これを塩野七生女史は「二十代前半のユリアヌスを酔わせたのは、責任感と高揚感のカクテルだったと書いたのである、分筆家ならではの表現であると感心している。

ここまでは、アルプス以西のガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)、ヒスパニア(スペイン)方面の彼の管轄区域での活躍だった。 次は、AD360年以降のローマ帝国の東側にも広く及ぶ活躍について書こうと思っている。


長らく休みました

2008年11月15日 09時13分10秒 | Weblog

検査入院から帰り、ようやくブログを再開できることになりました。さて、何の検査かというと「重症筋無力症」の疑いでした。この詳細は、追記に書いておきます。

絶好の小春日和でしたので、帰り道、倉敷の美観地区で写真を撮りました。少し多いのですがご覧ください。

 

 


 追記:
6月から、両目で(片目では正常)物が二重に見え始め、次第にひどくなり、8月・9月は、とても両目では気分が悪くて見る事ができず、片目をふさぐため眼帯をしていました。 また、左のまぶたが半分くらいしか開かなくなりました。

あちこち病院に行きましたが、どうもよく判らず、ついに神経内科に行くようにと云われ、今の病院に行ったのが8月25日でした。 その後通院で色々検査をしましたが、結局病名を断定できるに至らず、ついに精密な検査を行うために今回の入院となりました。(最悪の場合、検査薬の副作用で危険なため)

結果はといいますと、重症筋無力症であるとは断定できないが、そうでないとも断定できないといわれ、灰色のままで退院。 しまらくは通院で経過を観察しながら、今後の事を考えることになりました。

 インターネット情報で見るかぎり、両眼複視とまぶたが半開の状態になるのは、典型的なこの病気の初期症状で、小生もとんでもない難病に罹ったものと半ば諦めていましたので、灰色でも由とせねばと思っています。

 日常生活では、静止している物は、視野の中央部付近では正常に見えるのですが、視野の外周部では二重になる関係で、階段の下りがとても危険で困っています。 また、自分が動いたり、移動する物を見るときは二重になる関係で、車の運転などは不可能です。