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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

新宿御苑大温室の小さな花々の写真をお楽しみ下さい

2013年01月23日 | 写真

新宿御苑には明治8年に西洋式の温室が出来ました。日本の温室のさきがけとして文明開化のシンボル的存在でした。

戦災で壊滅し、昭和33年(1958年)に大温室が復活しました。それから54年後の2012年に大改修がなされ全く新しい構造が出来上がりました。

今日は新宿御苑の散策のついでに寄って、花々の写真を撮って来ました。

この温室は明治時代からランの花の新品種を作ることに努力し、数多くのシンジュクという名前が語尾についたランの品種を栽培して来ました。

その伝統で温室の中には小さな花々が幾種類も咲いていました。花は小さく、可憐なのですが、精神を集中して眺めてると絢爛と見えるから不思議です。

なお今回の大改修の機会に絶滅危惧種の熱帯植物の保護、栽培もしています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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この日本に4万年前の昔から、人々はどんな暮らしをしてきたのでしょうか?

2013年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは約4万年前の旧石器時代から、縄文、奈良、平安・・・・江戸時代と

いろいろな時代の遺跡を紹介して来ました。

何故、私は人々の生活の遺跡に強い興味があるのでしょうか?

答えは簡単です。いろいろな時代の人間の生き方、考え方を想像するのが趣味だからです。想像ですから学問的には間違った部分も少し混じっています。しかし昔の人間の生き方と現在の生き方を比較すると人間として変わらない部分と時代と共に変わる部分が想像出来て興味が尽きないのです。

実例を3枚の写真で示します。

上から順に、

(1)20000年前の旧石器時代の円形・掘っ立て小屋の住居跡の写真と、

(2)5000年前の縄文時代の住居復元モデルと、

(3)西暦700年頃に出来た武蔵野国の役所の建物の柱だけの復元モデルの写真です。

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上の円形住居跡には12本の柱を埋めた穴と炉跡が2つあります。外周部分に作りかけの石器が多数並べてあります。2万年前の住居跡は日本で一番古いものです。詳しくは末尾のブログ記事をクリックしてご覧ください。

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上はよくあちこちにある縄文時代の住居の復元です。縄文時代は16000年前から3000年前まで約13000年間も続いたのです。

しかし住居の基本的な構造はあまり変わっていません。しかも円形で掘っ立て柱を使っている点では旧石器時代とあまり変わっていません。

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上の写真は現在の東京都府中市の大国魂神社の東隣にある律令国家、武蔵国の役所(国衙)の柱だけの復元です。西暦700年頃に建てられた役所の中心的な建物の柱穴からかなり大きな建物であったことが想像出来ます。

この国衙が何処にあったかは全く判っていませんでした。それが昭和50年頃からの府中市の根気良い発掘調査によって位置が確定したのです。

尚、役所の建物とは違い一般の農民の住宅は縄文時代とあまり変わらない掘っ立て小屋だったのです。ただ家によっては腰壁を少し高く作り、窓がある小屋もあったようです。その構造は農村では鎌倉時代まで続いたと言われています。

室町時代や江戸時代になると農家は大きくなります。江戸時代の農家の復元展示がおちこちにあります。その農家の構造は1970年代の経済の高度成長時代の始まるまで地方の農村では実際に使われてきたのです。

上の写真は意図的に後ろの高層マンションを入れて写してあります。

武蔵国の役所が出来た頃から1700年たつと後のマンションのように人々の住宅には大きな変化があったのです。

自分の個人的な考えをあまり書かない方が良いと思います。しかし下のような問題を少し考えて頂くのも面白いと思います。

(1)時代の変化で住宅も変わりました。それに従って家族は別々の部屋に暮らすようになったのは何時頃からでしょうか?

(2)住居の変化で炊事や食事の様子が変わったでしょうか?土器で作った鍋はどのような料理に使ったのでしょうか?

私の家では戦争中に金属の供出で土鍋で炊事をしていました。その不便さを思い出します。急熱・急冷するとすぐに割れるのです。

(3)冬の間の暖房はどのようにしていたのでしょうか?昔の人は寒さに強かったのでしょうか?

(4)一般の人々はお風呂に入ったのでしょうか?行水や川に入って体を洗ったのでしょうか?

(5)着るものはどのように作ったのでしょうか?

下に釜戸の上にはめ込んで煮炊きする昔の土鍋の写真をしめします。

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いろいろ想像すると興味が尽きません。こんなことを考えていると現在の私どもの生活条件に対して感謝の気持ちが湧いてきます。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

======参考して頂きたい記事===============

日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見

私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷

所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代

相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中

旧石器捏造事件によって得られた2つの大きな成果

日本に人間が住み始めたのは何故4万年前からと言うのでしょうか?・・・旧石器捏造事件の起きた原因

新年にあたり雄大な気分になる・・・私は火山灰の大地に住む

2万年前の日本人の生活の様子を示す

写真を楽しみながらチョットした歴史を学ぶ・・・郷土史を愛する方々へ

上の記事にある江戸時代の大きな農家の写真を示しておきます。

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B29の搭乗員として何度も東京空襲をしたオートンさんの思い出

2013年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の記事、飛燕(ひえん)の掩体壕が保存展示してある調布飛行場 で旧陸軍の戦闘機、飛燕が第二次大戦中に2800機ほど製造されたことを書きました。

それに加ええて海軍のゼロ式戦闘機が12000機程製造されましたので合計15000機程の戦闘機と数少ない爆撃機で日本はアメリカと戦ったことになります。

アメリカの主力戦闘機はグラマン社のワイルドキャット、7700機とヘルキャット12300機、その他合計20000機以上の戦闘機と戦ったのです。

初戦ではゼロ式戦闘機とグラマン機は互角に戦いましたが、工業生産力の低い日本が追い込まれ、戦闘機戦でも苦戦の連続になりました。

日本の航空母艦が沈められても補充出来ないので太平洋の制海権も制空権もアメリカ軍に取られてしまったのです。

開戦から1年間ほどは互角でしたが、あとの2年7ケ月は玉砕、玉砕の敗け戦の連続でした。

それに留めを刺したのが1944年に3900機も投入された大型爆撃機のB29 です。

そのB29 の搭乗員にジョージ・オートンさんという空軍将校がいました。その人と私は偶然親しい友人になったのです。

その事も含めてB29 の事をあれやこれや書いて見たいと思います。

その前にグラマン・ヘルキャットとB29 の写真を示します。

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上がグラマン・ヘルキャットで下がB29の写真 (ヘルキャットの写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/F6F_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

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B29の写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/B-29_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

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ついでに私が靖国神社の展示館で撮ってきたゼロ戦の写真も示します。

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上の写真にあるB29 は1944年から終戦の1945年8月15日までの約1年間で日本中の都市という都市はすべて完全に焼き尽くしたのです。

この徹底的な無差別焦土作戦は日本民族がその歴史上経験しなかった一大悲劇だったのです。

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何となく生きる仕合せを感じない日に読むべき横山美知彦さんの思い出の記

2013年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

何となく憂鬱な日です。今日はものごとがうまくゆきません。周りの人との関係もうまくいきません。天気が悪い日が続きます。低気圧で気分がわるいです。何故か生きる喜びを感じないのです。人間にはそんな日があるものです。

そんな時に読むとしみじみとして、何故か感動する随筆があります。

下仁田という小さな山の里で少年期を過ごした横山美知彦さんの思い出の記です。

しみじみと人生の質とは何かと考えさせる文章です。豊かではない少年期でしたが温かな家族に囲まれた何か切ない日々の記録です。

そして東京に出て来て会社で働きます。停年後は故郷の下仁田に定住し静かな日々を過ごしています。その彼から送られて来る随筆集から何篇かをこのブログに連載して来ました。

すべて短い思い出の記です。何となく生きる仕合せを感じない人にこそ是非読んで頂きたい文章です。以下の中から試に一つクリックしてお読みになって下さい。

横山美知彦著「戦中・戦後の山里の生活の思い出」(3)電気スタンド

横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(2)落し物

横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(1)夜網(よあみ)

山里のコンニャクつくりの様子・・・失われた日本の原風景

横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景

横山美知彦著、「若き日のある危険な山の思い出」

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出」と

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)

群馬県の山の中の下仁田という村落は水田が無く、小麦やコンニャク、ネギなどの野菜しか採れない寒村です。

上の思い出の記の一つだけ、「おきりこみ」のあらすじをご紹介します。

横山少年の家では、夜と朝は「おきりこみ」という煮込みうどんを大鍋に作り、家族七人が食べていたのです。その「おきりこみ」を毎日作るのがまだ中学生だった横山少年の役目でした。彼は美味しい「おきりこみ」を作るためにいろいろ努力をします。うどんの腰を強く練り上げる方法を丁寧にします。具にする野菜を用意します。家族が揃って美味しいと言って食べることを祈って、誠心誠意作るのです。この生活をなんとも思っていません。働いてる両親や幼い妹や弟を思いながら一心に「おきりこみ」を作るのです。

そこには「貧しさと小さな幸せ」がせつせつと描かれています。

少年の頃の家族との生活を老境になってからいつくしんでいるのです。

随筆の中には美辞麗句が一切ありません。幸福だとか不幸だとかとも書いていません。「おきりこみ」の作り方を実に淡々と書いているだけです。しかしああこの人は幸福だった。ああこの人の一生は幸福だったに違いない。と思わせるのです。

気分が落ち込んで生きる仕合せを感じない日に読むと何かを感じる文章です。

元気で、すべてがうまくいっている日には読まない方が良いかもしれません。

生きているだけで人間は仕合せなのです。そんな思いを強く感じさせる思い出の記の連載です。横山さん掲載をお許し下さって有難う御座います。

下に昨年4月に私が撮った下仁田の風景写真を添えます。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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ベゴニアの花の栽培に精魂を込める人々

2013年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

都立神代植物公園には比較的大きな温室があります。その内部の一部屋がベゴニア専用の部屋です。

四季折々何時訪問しても色とりどりの見事なベゴニアが華麗に咲いているのです。その花は日本古来の花のように可憐ではありません。楚々としていません。如何にも西洋の花のように色彩鮮やかに豪華絢爛と咲き誇っています。

私はその花を栽培している人々の情熱に感動しています。何時行っても2、3人の作業服を着た男性が花の手入れをしているのです。肥料液を少しだけやっています。枯れかかった花を摘んでいます。下に落ちた葉を拾っています。鉢の向きを動かして一番良く見えるようにしています。色とりどりの花をバランス良く配置して絵画的美しさを追及しています。見物客の邪魔にならないように身をかがめて作業をしているのです。

展示室の他に同じ大きさの栽培用の部屋が見えます。そこでも作業服を着た男性が2、3人働いています。

このベゴニアの栽培の丁寧さや情熱に頭が下がるのです。花が好きな人には悪人がいないと言います。そんなことを考えながら花々の写真を撮っていると心が豊かにになります。幸福感が湧いてきます。

下にその写真をお送りいたします。

そして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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飛燕(ひえん)の掩体壕が保存展示してある調布飛行場

2013年01月20日 | 写真

戦闘機の飛燕は旧日本軍唯一の液冷エンジンを搭載した戦闘機でした。ドイツのダイムラー社の液冷エンジンをライセンス生産して使ったのです。形がスマートで美しい戦闘機でした。陸軍三式戦闘機とも呼ばれていました。

真珠湾攻撃のあった昭和16年(1946年)に試験飛行をし。終戦の1945年まで2800機ほど生産されました。当時、日本の技術が劣っていたため液冷エンジンは故障が多くて、飛燕は整備に苦労したと言います。

その飛燕は東京の調布飛行場にも配備され、首都防衛戦闘機として活躍しました。

その戦闘機を空襲から守るために機体をコンクリートの覆いで隠したのです。その覆いのことを掩体壕(えんたいごう)と言います。戦争遺跡として、調布飛行場の傍に幾つか保存され、公開展示されています。先ほど写真を撮って来ました。

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飛燕の機体は知覧にだけあるので、掩体壕の断面には絵が描いてあります。

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上は金属製の模型で、左上は掩体壕のカット模型です。

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調布飛行場は昭和13年に急遽作られたことが書いてあります。長さ700mと1000mの滑走路が完成したそうです。その後は陸軍が飛燕を配備して首都防衛にしました。

戦後は進駐軍が広大な土地を占領し、飛行場を含めて関東村という基地にしました。当時、日本の農業では野菜の栽培に人糞を使っていたので進駐軍は怖がって自分たちの野菜は関東村の中で水耕栽培していたのです。それにしても隔世の感です。

下に検索して、飛燕の写真を示します。

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写真の出典はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%BC%8F%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9Fです。

なお、掩体壕を検索すると全国各地に戦争遺跡として保存されていることが分かります。

自民党が政権をとって自衛隊の予算を増大し、軍備強化する方針ですが、こんな時こそ戦争遺跡を見て、愚かな戦争をまた始めないようにすべきです。

そんな感慨を持ちながら写真を撮って来ました。(終わり)


緑豊かな熱帯樹が気分を良くしてくれる

2013年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

神代植物公園へ行くと必ず温室を訪問します。冬でも花がある上に、緑豊かな熱帯樹を見てまわると気持ちが平和になり、幸せな感じに満たされるからです。

写真をお送り致します。

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実は緑の樹木を見て心を落ち着かせなければいけない事情が今朝起きてしまったのです。ある書評を読んでしまったのです。

今朝の読売新聞10面に野村真理著「ホロコースト後のユダヤ人」(世界思想社、2400円)の紹介と書評です。書評は星野博美氏が書いています。

本の内容は簡単です。戦後、ナチの収容所から解放されたユダヤ人が故郷へ帰ろうとしてもポーランドなどのヨーロッパ各国が反対したのです。ユダヤ人への差別と嫌悪がそうさせたのです。仕方なくアメリカを主にした連合国がパレスチナにイスラエルという国を作り、そこへユダヤ人の行き先を作ったのです。

この欧米人の身勝手な厄介払いがユダヤ人とパレスチナ人の戦争の原因になったです。

多くのユダヤ人をヨーロッパから追い出したことでナチのホロコーストが完成したとも言えます。

恐ろしい内容の本です。内容は半分の真理を含んでいると思います。人間の悪さには際限が無いことを浮き彫りにした内容です。

気分が悪くなりました。

そこで上に示した熱帯樹の写真を見ています。見続けていると心が静まります。

気分が良くなります。そうして何時もの祈りが出来るようになりました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


冬の睡蓮の花・・・神代植物公園の温室にて

2013年01月19日 | 写真

このところ毎日寒い日が続いています。朝は零下4度です。 最高気温が5度です。

毎日最高温度が36度や37度になったあの真夏の日々が信じられません。人間は忘却する生物なのですね。

あまり毎日寒いので暖かい場所が恋しくなりました。そうです。植物園の温室に飛び込めば良いのです。

神代植物公園の温室を思いつきました。

驚いたことに其処には睡蓮の花が咲いていたのです。その写真をお送りいたします。

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冬の雑木林・・・都立小宮公園にて

2013年01月19日 | 写真

今日は八王子市にある都立小宮公園の雑木林の中を散策して来ました。

葉のすっかり落ちた雑木林の中は陽が射しこんで明るく暖かでした。

家内が雑木林の写真は構図が難しいと言いながら、木道を走ったり階段を駆け上り下りして写真を撮りました。

皆様も冬の雑木林を散策している気分で写真をお楽しみ下さい。ゆったりしたご気分になるかと存じます。

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映画、「カサブランカ」に見る現地人無視の欧米人・・・アルジェリア独立戦争も思い出す

2013年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

今回のアルジェリア人質事件はいろいろな事を考えさせます。

アルジェリアはフランスの植民地です。第二次大戦後に熾烈なアルジェリア戦争に勝って1962年に独立した国です。ドゴール将軍が敗けてフランスへ、「凱旋」(?)しました。

昨日からその隣国のモロッコを舞台にして作られた映画、「カサブランカ」の事を考えています。第二次大戦中の仏領モロッコの首都、カサブランカはナチスと友好関係で出来たヴィッシー政権の支配下でした。ナチスの将校達も旅券を盗んだ犯人を追ってやって来ます。

そこでナイトクラブを経営しているアメリカ人のリーク(ハンフリー・ボガード)はナチスから逃れてリスボン経由でアメリカへ渡る人々を助けているのです。

そのカサブランカの警察はフランス人のルノオは表面的にはナチス将校の言うことを聞きますが最後はリークを助けるためにナチス将校を射殺するのです。

フランス領モロッコの第二次大戦中のナチス将校の考え方、ヴィッシー政権とフランス人の建前と本音、アメリカ人の正義感と活躍などが入り混じったモロッコの歴史のある瞬間を活写した傑作です。

勿論、主題はイングリット・バーグマン演ずるイルザとハンフリー・ボガード演ずるリークとの切ない恋愛物語です。実に巧妙に出来た感動的なラブロマンスです。不朽の名画です。

それを最近見たとき不思議なことに気が付いたのです。映画にはモロッコ人がほとんど出て来ないのです。植民地の人間を欧米人が重要視していないのです。私は義憤を感じました。

しかし戦後映画館で同じ映画を見たときはモロッコ人のことは気にもかけませんでした。

現在のアフリカや中近東における混乱の種はやっぱり欧米人の考え方に関係していると考えられるのです。

歴史は変えられません。しかし人類の未来を少しでも明るいものにする努力は出来ます。どんな民族にも優劣が無いのです。それを信じてお互いを尊敬し合う事が一番重要です。少なくとも私はそのように信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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真ん中がフランス人警察署長、その左がイングリット・バークマン、右端がハンフリー・ボガード

====映画、カサブランカのあらすじ=============

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD1037/story.html

まだ独軍に占領されない仏領モロッコの都カサブランカは、暴虐なナチスの手を脱れて、リスボンを経由し、アメリカへ行くために、1度は通過しなければならぬ寄港地である。

この町にアメリカ人リークが経営しているナイト・クラブは、それら亡命者たちの溜り場だった。

独軍の将校シュトラッサアは、ドイツ側の飛脚を殺して旅券を奪った犯人を追って到着する。

旅券を盗んだウガルテという男は、リークに旅券の保管を頼む。リークはこれをピアノの中へ隠す。リークと奇妙な友情関係にあるフランス側の警察署長ルノオは、シュトラッサの命をうけてウガルテを逮捕した。

そのあとへ、反ナチ運動の首領ヴィクトル・ラスロと妻のイルザ・ラントが現れる。2人はウガルテの旅券を当てにしているのだが、イルザは、この店の経営者がリークであると知って驚く。

憂うつなリークは、店を閉めたあと、盃を傾けながら、彼女とのことを回想する。独軍侵入直前のパリで、彼はイルザと熱烈な恋に身を焦していた。が、いよいよ独軍が侵入して来たとき、2人は一緒に脱れることを約束した。が、彼女は、約束の時間に姿を現さず、そのまま消息を断ってしまったのだった。

こうした回想にふけっているとき、イルザが一人で訪れて来た。が、彼は素気ない言葉で彼女を立ち去らせる。ラズロは闇商人フェラリの口から問題の旅券はリークが持っているらしいと聞き、彼を訪れて懇請するが、リークは承諾しない。

2人の会見の模様を夫からきかされたイルザは、再びリークを訪れ、パリで彼と恋に陥ちたのは、夫ラズロが独軍に捕われ殺されたと信じ切っていたためであり、約束を破って姿を消したのは出発の直前、夫が無事であることが判明し、しかも病気で彼女の看護を求めていると知ったためである。と事情を語った。これでリークの心もとけ、2人の愛情は甦った。

翌日、リークは署長ルノオを訪れ、ラズロに旅券を渡すからそのとき彼を捕えろ、俺はイルザと逃げる、と語り、手はずを整えさせた。が、その夜、店へラズロとイルザが現れ、ルノオがこれを逮捕しようとしたとき、突然リークはルノオに拳銃をつきつけ、ラズロ夫妻の旅客機を手配するため、飛行場へ電話をかけるように命じた。

ルノオは、電話をシュトラッサアへつなぎ、暗に2人が出発しようとしていることを知らせた。飛行場へ赴いたリイクはラズロとイルザをリスボン行の旅客機に乗せてやる。一足違いで駆けつけたシュトラッサアは、これを阻止しようとして却ってリークに射殺された。

彼の死によって独軍及びヴイシイ政府の呪縛から逸したルノオは、リックと相携へてこのカサブランカを脱出し、反独戦線に加わることを誓うのだった。

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左がヒットラーと握手しているフランス人のヴィッシー

上の2枚の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB_(%E6%98%A0%E7%94%BBです。


誕生日の記念ドライブ

2013年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は私の喜寿の誕生日です。家内が中華料理の昼食に招待してくれました。

そして午後は奥多摩へのドライブへ一緒に行きました。子供が小さい頃、週末になると毎週のように遊びに行った御岳駅の少し上にある多摩川上流にある国際マス釣り場へ行って散歩して来ました。

晴天で空気がすがすがしい午後でした。寒い日なので釣り人は一人だけ竿を振っていました。

思い出話をしながらのドライブでした。こういう誕生日の過ごし方も良いものです。つまらない写真ですが3枚だけお送りいたします。

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上は東青梅の昔よく行ったスケート場(大分まえに無くなりましたが)の駐車場から見た御岳の主峰の大岳と多摩川の流れです。

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上が御岳駅より上流にある国際マス釣り場です。自然の流れに、養殖したマスを沢山放流して客が釣り上げるという有料釣り場です。川原は自由に遊んで良いのです。

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冬らしい光景です。 しかし川に沿って遊歩道があり、数組の老夫婦が散歩を楽しんでいました。冬日の散歩も良いものです。つまらない写真で失礼しました。(終わり)


さむさに震えている寒ボタン

2013年01月18日 | 写真

この時期は花が絶える季節です。昨日、花が何処かに無いかなあと、いろいろ考えていたら毎年のこの時期に神代植物公園で寒ボタンの野外展示があることを思い出しました。昨日の午後に行きました。

寒ボタンといえども流石に寒さに震えていました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます

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ボーイング787事故とアルジェリア人質事件は何故起きた?

2013年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

ここ数日マスコミはボーイング787事故とアルジェリア人質事件についてさかんに報道をしています。

当然何故この様な事故や事件が起きたか、その原因についても解説がなされています。しかしその解説は直接的原因に終始し、もっと深い底に流れている大きな原因へ言及していません。浅い表面的な因果論なのです。

そこで以下に少し深く考えるヒントになるような個人的な感想を書いてみたいと思います。

まず判りやすいボーイング787の事故について書きます。結論を先に書いてしまえば、その原因は日本人技術者の経験軽視や感性の欠如が背景にあると思われるのです。写真を見ながら考えて見ましょう。

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(写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0787 

美しい航空機です。ところがこの飛行機はエンジンはアメリカ製で機体や部分品は日本を主にして、外国製の寄せ集めで組み上げた新製品なのです。

日本の会社が機体や部分品の35%を作っているのです。特に火を吹いたバッテーリ(リチューム電池)はGSユアサ(昔の湯浅電池株式会社)が作っているのです。

日本の技術陣は基礎科学と数学だけを重要視する風土があるのです。経験や素人の感性を無視する風土があるのです。

ところが工業製品は長年の使用の経験の積み重ねで完成するものなのです。

とくに日本の航空機製造技術は決定的に経験の蓄積が欠如しているのです。

航空機に搭載されたリチューム電池が離着陸の時受ける衝撃でどのような損傷を受けるかという経験的な知見が無いのです。

ジェットエンジンでどの位急速に過充電がなされるかという経験的な知識がないのです。

勿論、過充電が起きれば回路を自動的に切断する安全装置はついていた筈です。ところが離着陸の衝撃でその安全装置が壊れてしまっていれば火を噴くのは当たり前です。

机上の計算では安全装置は完璧だったのです。しかし実際に使用される条件の経験的知識が無かったのでしょう。

その他の事故のフロントガラスのひび割れや燃料系統からの燃料油の漏れは明らかに航空機製造の歴史の浅さによるものです。

近代工業製品は科学と経験が合体してようやく信頼できるように完成して行くのです。今回のボーイング787の一連の事故はその事実を教えているのです。

さて次にアルジェリア人質事件の底に流れれている真の原因です。

結論を先に書けばそれはフランスがアルジェリアや隣国のマリを長い間植民地にしていたからです。その歴史の上で最近フランス軍がマリの武装イスラム勢力を大々的に攻撃したのです。それに対抗して、武装イスラム勢力が報復したのがアルジェリア人質事件なのです。

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(写真の出典:http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323284004578246601320559198.html 

上が事件の舞台になった石油精製工場です。GSニッキという会社は昔、「日本揮発油製造株式会社」と言って、ベンジンや航空機燃料を作っていた会社で、現在は世界中に工場を展開している大会社です。

この事件の底流にはアフリカや中東を欧米が植民地として搾取したことに対する憎しみがあるのです。怨念があるのです。

生活が良ければそんな低次元の感情は理性で抑えられます。忘れることも出来ます。

しかし貧富の差が大きく、そしてそれをキリスト教国である欧米が増長していれば、当然イスラム武装勢力が実力行使をします。

この様に危険な国はイラク、レバノン、カメルーン、エジプト、アンゴラ、アルジェリア、モロッコなどと今日の読売新聞(9面)が報じています。

日本人は中国や朝鮮しか植民地にしなかったので、アフリカや中近東の人々の欧米人へ対する怨念を重要視しない傾向があります。今度の事件はその根の深さを示したのだと思います

それにしても、

今日は人質になった全ての人々、特に日本人が安全でありますようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


教会でも成人式を行います

2013年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

カトリック教会は日本の伝統や文化を尊重します。七五三も祝いますし、元旦のミサも行います。

1月13日の日曜日には5人の若者の成人式をミサの間に挟んで行いました。

今日から一人前の大人となったことを祝うのです。

ディン神父さまが火をともしたローソクを一人一人へ手渡します。

そして社会の為に貢献出来るように心がけなさいと話します。そこまでは一般の成人式と同じです。しかし成人式に出た5人はカトリックの信者なのでもう一つ注文がつきます。イエスさまの教えを守り隣人を愛しなさい。大きな愛の心で世の中の為につくしなさいと神父様が言い、5人がイエス様の教えに従いますと答えます。

するとディン神父様が一人一人へ贈り物を手渡します。美しく包んだ聖書です。

これで式は終わりです。最後に5人が皆の方へ向いて挨拶をします。皆が祝福の拍手をします。そして通常のミサ次第へ戻ります。

そんな様子を下の写真で示します。

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この様にカトリックは世界中の各地でその現地の民族文化を尊重しています。

ですから南米のカトリックはインドのカトリックと違う儀式をまじえています。しかしその民族特有の儀式以外の通常のミサはローマ法王庁が決めた通りに行います。その式次第は世界中皆同じなのです。ですから外国へ旅行をしてもミサが同じなので気楽に参加出来ます。

世界共通のミサを行うことは非常に重要な意味を持っているのです。すべての人々は兄弟だという実感が持てるのです。その全ての兄弟の父は唯一の神なのです。

そんなことが体験的に理解出来るのです。

成人式からついそれて蛇足を書いてしまいました。失礼しました。(終わり)


横山美知彦著「戦中・戦後の山里の生活の思い出」(3)電気スタンド

2013年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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横山美知彦さんは家内が群馬県の下仁田町へ疎開していた時通っていた小学校の同級生です。下仁田町は上の写真の妙義山の麓にある山村です。米がとれず畑作だけです。

日本が真珠湾攻撃をして大戦争を始め、やがて敗戦になります。アメリカ軍が日本を占領し、マッカーサー司令官が日本を統治しました。その頃この下仁田は本当に貧しい山郷でした。

その頃の横山少年の思い出の記の連載の第3回目をお送りしたいと思います。

食料難の山里でも楽しいことがあったのです。

この連載は日本民族の生活の歴史の一コマです。

===横山美知彦著「戦中・戦後の山里の生活の思い出」(3)電気スタンド===

高校の生活は昭和28年~31年だが、まだ物がない時代と云ってよかった。しかしそろそろ戦後の新しい品物が出始める頃でもあった。

電気製品も戦前とは比較にならない洗練された便利な品物が続々店頭に並ぶようになった。

ある日の朝刊に松下電器産業の照明器具の広告が掲載された。同時にクイズの出題募集の広告があり、私はすかさず応募した。

その後、そんな事を忘れるほどクラブ活動で絞られ、疲れて帰宅する毎日だった。

ある日の午後、日通のおやじさんが大きな木箱を配達してくれた。松下電器産業からの蛍光灯の電気スタンドだった。感激だった。問題は採用されなかったが、

出題応募に対する礼状が入っていた。

その電気スタンドで、能率よく夜遅くまで勉学に励んだか否かは疑問だが、松下電器産業という社名と製品は忘れられないものとなり、電気製品は松下と決めるに充分なものだった。(平成22年8月30日記)(続く)