後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

紙上ヨット体験しませんか?(2)前帆(ジブ)1枚だけで帆走する

2008年04月22日 | うんちく・小ネタ

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まずヨットに乗ります。上の写真のように4本の杭にゆったり4本のロープで繋いであります。

一番前の手摺から2本のロープで岸壁に繋いであります。霞が浦には干満の差がありませんが、東端が利根川本流につながっているので川の水位の上下で50~60cmくらい上下します。それでゆったり繋いでおきます。乗るのは前手摺の2本のロープを引き寄せて船の先端を岸壁から30cmくらいまで、目一杯引き込んで素早く乗り移ります。食料と水も積み込みます。

船に上がったら、自動操舵装置を取り付けたり、エンジンをかけて出港の準備をします。

救命胴衣を着て、まず舫い綱(4本と2本)を解いて、左後ろの杭を手で押しながら、左甲板を前へと歩きます。惰性で船が4本の杭の外まで出ます。外に出たらエンジンを使い、港口の方角へ走りだします。

ここまでが一仕事です。船に乗ってから30分くらいかかります。今日は暖かい東風が吹いて快適に走りだしました。シメシメ。

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Dscn3143 Dscn3149 すぐに前帆(ジブセイル)を出して、うるさいエンジンを止めて帆走に入ります。ジブを出し入れする仕掛けは上の上段左端の写真のジブの下端についている2本のロープ(ジブシート)を後ろへ引きます。するとスルスルと開いてきます。

ジブを巻き取るためは、左甲板の左端に走っている細いロープを引っ張り、ジブ下端の車輪を回して巻きつけます。今日は烈風のような東風なのでジブは半分だけ開いて、ゆっくり港の中を出て行きます。風上へ登るクローズホールド(前回ご説明しました)で行きます。左手の岸壁に大型ヨットやホワイトアイリスという観光船が舫っています。白い灯台が左に見え、いよいよ港を出ました。ところが港を出ると急に風が強くなり、波も高くなりました。船が大揺れし大きく傾くので怖くなり、ジブを更に小さくし正常の面積の4分の一くらいにしました。そうしたらもう前進しません。こんなに小さなジブ1枚では風上45度へ上がるクロ-ズホールドは無理です。

仕方がないのでエンジンを再始動し、フル回転で風上へ走ります。大波が船体の前部にドスン、ドスンと当たり今にも船体が割れそうな音がします。でも繊維強化プラスチック(FRP) の強さを信じて、辛抱して風上へ登ります。風が冷たく吹き付けます。写真では大波が映っていませんが今日は海の波のようです。霞が浦東端から30km東方の鹿島灘の冷たい海風が吹きつけています。でも太陽が暖かい光を送ってくれています。怖いのを辛抱して30分、港口から2kmほど沖に出ました。そこで船首を回して追い風走法、ランニングにします。ヤレヤレもう大丈夫だ!スピードメーターを見ると4.2ノットです。4分の一だけのジブでこの速度とは驚きです。

Dscn3151_2 Dscn3155_2 Dscn3159_2 あとは一気に港内へ逃げ帰りました。

港の奥にベンツ社製の観光船があります。そこまで来たら係留地まで50m。すぐにジブを巻き取り係留地へ入りました。

風を登るのに30分、係留するまでが30分。合計60分の短いヨット遊びでした。

反省して見ると、怖くてもジブをフルに展開して、沖までエンジンを使わずにジブ1枚だけで出るべきでした。臆病風に負けてしまったので、中途半端なセイリングになってしまって、御免なさい。キャビンで、焼きうどん、コーヒー、クッキーの昼食を食べ、しばし、中世ヨーロッパ専門の歴史学者の阿部謹也氏の「ヨーロッパ一人歩き」という随筆集を読んだ。最後に航海日誌を書いて車へ乗る。撮影日時:4月22日11時から12時。


日本サクラソウの自生地にて

2008年04月21日 | 写真

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日本サクラソウは江戸の人々に愛されてきた花で、さいたま市、荒川沿いの田島ケ原が自生地として国指定の天然特別記念物になっています。毎年4月になると可憐な花が咲き出します。花の色は淡い桃色で、咲いているのを恥じているように草の陰に隠れています。楚々とし、控え目な風情が日本人の美意識に合致しているようです。

日本サクラソウは花屋さんで鉢植えのものを何度も見ました。しかし、自生地に他の草葉に混じって静かに咲いているのを見て、その実に日本的な美しさに感動しました。サクラソウに酔い痴れたようになり、1時間も田島ケ原を歩き回りました。

撮影場所;さいたま市荒川沿いの秋が瀬公園南端のサクラソウ公園田、島ケ原にて、

撮影日時:4月21日午前10時から11時。


おたあジュリアと神津島の秘密

2008年04月20日 | 旅行記

2年前に仕事を一切止めた。前々から行きたいと思っていた辺鄙な土地を訪ねる旅をはじめた。まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行った。東京から高速船で4時間、遥か外洋に浮かぶ火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」

「それは誰ですか?」

「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です」

「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」

「おたあ、を島の人々が助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」

「それで?」

「おたあ、は立派な女で島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあへ優しくして上げました」

「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」

「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」

「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」

「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子である。現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいった。

帰宅して調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かる。関が原の合戦の後、家康の側室の侍女となり、桃山、江戸、駿河と移り住んだが、禁教令と共に神津島へ流刑になった。慶長17年、1612年のことである。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もある。

今年も、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」がある。東京から1泊や2泊のパックコースが25500円から39000円で4コースある。5月16日から19日にかけて、おたあジュリア追悼の旅である。カトリック東京大司教区などが後援し、浦野雄二神父様も同行するパック旅行である。

企画・実施はJTB上野支店。詳細は上野支店(電話:03-3842-5430 Fax:03-3842-5419)の相田さん、村田さん、あるいは渡邊さんへお問い合わせ下さい(終わり)


野火止用水には驚きました!

2008年04月20日 | 写真

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Dscn2977 Dscn2979 Dscn1119_41 玉川上水は玉川兄弟が私財を投じて1653年の工事開始、1654年には江戸、四谷まで通水している。それの1年遅れで野火止用水が松平伊豆守信綱により完成した。松平信綱は玉川上水短期完成への功績が大きかったので3割の水の取得を幕府から許された。目出度いことである。現在の野火止用水は上の写真が示すように小さな流れだ。が、当時は水流の幅2間、その両岸に幅一間の堤が続いていたという。

しかし信綱は江戸時代、初代の川越城主。現在の埼玉県新座市一帯を私領としていた。自分の領地の農業振興の目的も含めて玉川上水短期完成へ知恵をめぐらしたに違いない。この大型土木事業の幕府内の意見の調整と財政支援をしたのではないかと想像される。

野火止用水の完成が玉川上水より1年しか後でない。これは始めの設計段階から野火止用水が含まれていたに違いない。そこへ3割の水を流している。そんな多量の分水をしても江戸で困らないように取水口を設計しておいたに違いない。

信綱は野火止用水の完成を待って、岩槻から平林寺を移築し松平一族の菩提寺とした。平林寺堀も作った。このような信綱の深慮遠謀ぶりは見事である。

確かに玉川兄弟は私財も寄付した、そして何よりも卓越した現場監督であったに違いない。しかし、この兄弟が1年間で玉川上水を完成させた裏には幕府側に強大な支援者が居たに相違あるまい。野火止の地域へ行くと「伊豆守殿橋」という名前の橋があり玉川兄弟のことは説明文に出てこない。上の写真の右下最後の写真は羽村の堰に建つ玉川兄弟の像である。この兄弟は身分があまりにも違う松平信綱へは会ったことはないであろう。別にそれでも良い。

ローカルな視点から歴史を見ると興味が尽きない。これからそんな視点でブログの記事を書いて行きたいと思う。撮影日時:4月19日午前10時頃から午後2時頃。撮影場所:埼玉県新座市野火止地区(終わり)


平林寺散策の紙上体験しませんか?

2008年04月19日 | 写真

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新座市の市役所の向かい側に平林寺がある。南北朝の時代1375年に大田備中守によって岩槻に創建され,1663年に松平伊豆守信綱の遺児、輝綱によって現在地へ移築された。平林寺は禅の修業で有名だ。またその裏の雑木林が広大で散策に良い。今日は家を9時30分に車で出て、新小金井街道を北上。清瀬市に入ったところで野火止用水を渡り、道なりに東進する。道は野火止用水に沿って走っている。上の大きな写真のような平林寺を囲む雑木林が遠くに見えると間もなく正門前の有料駐車場に着く。1時間弱の快適はドライブ。(駐車料500円)総門左の入り口で入場料300円を払う。山門、仏殿、本堂を色々な角度から見て楽しむ。最後は靴を脱いで本堂の縁側へあがり、座り込んでしばし庭や新緑の梢を見やって静かな時をすごす。読経の声が何処からとも無く流れて来て、薫風が吹いている。時が大きな清流のように緩やかに過ぎていく。本堂の縁側で休んだら庭へ降り本堂の左方向へ順路という表示に従って歩く。

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最初に通るのが本堂の左にある座禅・修業堂の門の前。そこを更に進めば大きな池に出る。池の水面に新緑の木々が映り、緋鯉や真鯉が悠然と泳いでいる。道は雑木林の中を更に奥へ、奥へと続く。若葉の色で体中が染まるようだ。野火止用水平林寺堀の橋を渡ると松平一族の墓石群が重々しく立ち並んでいる。見てまわると松平氏の当主だけでなく、妻女、子供など家族の墓も混じりなにか家庭的な雰囲気がある墓所である。

そこを通り過ぎると道は一段と深い雑木林の中へ分け入っている。大きく白いはなびらの大島櫻が咲いている。

木々の下の雑草を刈って綺麗にしてあるので、林が見通せクヌギ、コナラ、シデ、カシワ、ホウなどの雑木が一層美しく見える。カエデも沢山植えられている。

樹木を見ると何故、幸せな感じになるのであろう?樹木が人間へ何か語りかけるのであろうか?そんな他愛も無いことを考えながら新緑に酔ったように歩く。疲れを忘れて。

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奥の奥まで歩いて少し疲れたころ、突然、林が開けて野火止塚の前に出る。業平塚もある。格好のベンチがあるので10分ほど休憩する。座って木々を見るのもまた感じが違って趣がある。

二つの塚ともに不思議な説明板がある。野火止塚の目的に諸説があり不明。そして業平が平安時代にここに来たという確たる証拠も無いようだ。そんな事を暗示している。読んでからしばらく考える。考えたって解答が出るわけではないが。

そこからダラダラ下る坂道をゆっくり歩くと出口へ繋がっている。最後は正門(総門)の料金所の脇を出る。駐車している車に戻って一休み。12時近い。1時間30分ほどの散策の終わりである。お疲れ様! 昼食については次回の記事「平林寺周辺のグルメ情報」でご案内する。

撮影日時:4月19日午前10時30分から12:00時、場所は埼玉県新座市市役所向かいの平林寺。アクセス情報は平林寺を検索すると良い。


Quality Of Life というキザな言葉をご存知ですか?

2008年04月18日 | 旅行記

@クオリティー・オブ・ライフとう言葉の響き

1990年頃アメリカ在住の間によく聞いた言葉である。クオリティー・オブ・ライフを訳せば人生の豊かさの質である。しかし翻訳してしまうと、鳥の楽しげな鳴き声のような響きが伝わらなくなる。日本語にも外国語へ翻訳すると言葉に込もった感情や背景が伝わらない言葉がよくある。

アメリカ人がQuality Of Lifeで連想することは;生活に十分な収入、田園地帯にある自宅、近所の美術館、子供のための良質な学校、よい神父のいる教会、5年ごとの転職、アラスカからマイアミまで好きな地方に居住できるような職場、自家用飛行機やヨットのような趣味―などなど限りがない。全て人生の質、人生の豊かさの内容に深く関係している。楽しく、キラキラ輝いているような人生を送る。それがアメリカ人の夢。家の周囲の景観や職場の楽しさと、美術、音楽、宗教など精神的な楽しみをバランス良く保つコツが重要。

ブログをしながら時々考える。ブログを読んでくださる方々のQuality

Of Life はきっと高いのではないか? 負けないように自分の生活を考えながら楽しくしよう。そんな思いからこの一文をお送りすることにした。

アメリカ人とビールを飲みながら人生のあれこれを話していると時々アーミッシュの人々が話題になる。

アーミッシュとは、ペンシルバニア州、オハオ州などの中西部に散在しているキリスト教の一派。禁欲的な質素な生活を守り、職業は農牧業のみ。電気・ガス・水道、自動車、耕運機、電信電話など近代文明の産物は一切使用しない。義務教育はないし税金もない。

あるのは合衆国の徴兵のみ。それも看護などの後方勤務に限る。アメリカの市民権は認められ、白人ではあるが、異質の文化を守り、孤立した村として散在している。車で二時間の所にあるという。すぐに行ってアーミッシュ村の民宿に泊まってみた。まったく想像を絶する原始キリスト教のような生活をしている。近代文明を享受しているアメリカ人が人生の質を議論したり、考えるときに連想する人々である。アメリカ人の「深い内面」の面白さの一つではなかろうか?(詳しくは、「外国体験のいろいろ(12)」2007年11月24日掲載記事、へ続く)


雨天なので気が晴れる写真を1枚お送りします

2008年04月18日 | 写真

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武蔵野は昨夜から強い雨足で今朝は風まで加わり、通勤の方のご苦労がしのばれます。

気分が晴れるように晴天の日の写真を1枚お送りします。係留している港を意味もなく低速で行ったり来たりして楽しんでいます。皆様も晴天の下、船に乗っているおつもりで、しばし今日の暗い雨空を忘れましょう。


外国体験のいろいろ(41)アメリカの個性教育とその問題点

2008年04月17日 | 旅行記

@アメリカの学校における個性教育

日本の学校で個性教育の重要性が叫ばれて久しい。しかし個性教育の具体的内容の議論が無く、抽象的な理想論だけがまかり通っている。個性教育の具体的な方法を考えると、そのそのマイナス面や危険性がおのずと明らかになる。

日本と同様にアメリカの学校でも集団で生徒を教育している点は同じである。

日本の学校では総平均点のみが重要視されすぎている。また暗記力を重視し知識の多さだけをもって成績を決がちである。知識の暗記は個人の独創性を殺す。

一方アメリカの学校では総平均点の他に、科目毎の優等賞、絵画コンテスト、ボランテア賞、スポーツ部活でのマネージャー賞などなど色々な賞を与え、個性の優れているところを引き出そうとする。したがって生徒間の競争が多種多様になる。

多様な自由競争こそが重要視される。これは一見良いように見えるが知識の暗記のみを重視する日本人には受け入れられない。

意外に日本ではあまり知られていないが、アメリカの大学には入学試験が無い。その代わり高校の時の総平均点(GPAと呼ぶ)で大学入学の可否を決めている。書類選考だけである。取得科目数が多くて総平均点が高ければどこの有名大学へも入学できる。このように総平均点で選ぶので結局は日本と同じように見えるが入学試験が無い事実は大きな違いになる。入試向け専門の暗記勉強や予備校・塾の類が無い。普段の高校の勉強を熱心にして成績を上げていれば自然に希望の大学へ入学できる。

また大学入学の場合総平均点が低くても、数学や物理のみが優秀であれば有名大学の数学科や物理学科へ入学出来る。生物系の学科が特に優秀であれば医学部への入学も可能である。従って高校以下の学校では好きな学科目だけ勉強しても良いことになる。個性の輝きを尊重して入学を認める。

これが個性教育の実態である。そうすると社会的常識の欠如した人間が出来てしまう可能性がある。また日本では学校の優劣を全生徒の総平均点でランクづけをする。従ってアメリカ式教育をすると、その学校の順位が下がってしまう。学校の順位が下がれば優秀な生徒が集まらない。それでは困ることになると考える人が多い。

知識の記憶を強要しないので常識的な知識も有さない大学生が出来てしまう。

日本的に言えば玉石混交の大学生が出来てしまう。これが個性教育の危険性である。

日本人はこのような学校教育を期待しているのであろうか?

「個性教育」の危険性を具体的に検討しないで重要性のみを叫ぶ。教育評論家はもっともらしい論理を展開する。個性教育は綺麗事だけでは無い。そのマイナス面も多いと考えられる

 @アメリカの大学には何故入学試験がないか?

日本では毎年一回だけの筆記試験で入学者を決めている。アメリカでは個々人の異なる才能を1回の入学試験で決めるのは不可能であり、不公平と考える。その代わり大学の1年生から2年生へ進級するとき成績の悪い2割くらいの学生を強制退学させる。以下2年から3年、3年から4年への進級の折に、更に卒業の時にと毎回成績の悪い1割くらいの学生を強制退学させている。この強制退学の制度は一回の入学試験を4回に分けて行うのと同じである。学生の勉強の成果に従って大学の卒業者を選んで行く。個人の成果を尊重した選別方法である。

この強制退学制度は大学内の教育効果を決定的に向上させている。大学は勉強しないと卒業できない。この当たり前の考え方を一番有効に実現する方法である。

日本の大学ではこれが実行できない。もし毎年2割もの強制退学者を作れば社会的に大問題になる。アメリカでは当然のこととして社会からも広く歓迎されている。

アメリカの大学は2学期制と4学期制があるが2学期制では120単位を取得すると卒業できる。4年に分けると1学年30単位であり、それを取れば1年ずつ進級する。

しかし120単位を3年で取得すればその時点で卒業出来る。このような飛び級の制度が一般である。しかし5、6年かけて卒業する人も居る。一流大学で取得した単位はどこの大学へ転校してもその大学の取得単位として認められる。転校が自由である。日本の例で言えば、北海道大学の経済学部の2年後期を終了した学生が東京大学の経済学部の3年生として転校出来るような制度である。筆者は東北大学の工学部の修士課程で取得した28単位をオハイオ州立大学の工学部の大学院の取得単位として認定された。到着直後にいきなり博士課程へ受け入れてくれた。これがアメリカの自由主義の一端である。

しかしアメリカの自由主義と個性教育を具体的に日本に導入する場合には社会全体がアメリカ型に変革している必要がある。社会の変革なしに個性教育を具体的に導入すればギクシャクしてその弊害ばかりが拡大される。どんな場合も変革の内容を具体的に議論することが肝要ではなかろうか?(続く)


櫻吹雪と八重桜

2008年04月17日 | 写真

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東京都立、小金井公園の西端には櫻の園がありソメイヨシノが散った後にゆっくり咲き出す山桜、薄墨櫻や濃いピンクの八重桜系統の櫻が440本あります。ウスズミ櫻を見に行きましたが、まだ蕾が開いていません。桜吹雪のしたを散策しながら色々な八重桜を見ました。花見客の集まりる季節は過ぎて、公園に静かさが帰ってきました。撮影日時:4月14日午後3時頃。


都心から一番近い本格的な滝ー払沢の滝

2008年04月16日 | 写真

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JR五日市駅下車、西東京バスにて20分程度で秋川上流の払沢の滝につく。写真でご紹介しますが、これが都心から一番近い滝らしい滝ではないでしょうか?高尾山の蛇滝はもっと近いですが、小さすぎて迫力がなく、「滝!」という感じではないと思います。

尚、払沢の滝の向かい側、2000m先に天狗滝があり、望遠鏡で見えます。最後の写真を拡大すると、中心に小さな縦の白い棒が見えます。それが、天狗滝です。

若くて元気なころに車で山裾へ乗り入れ、雑木林を掻き分けながらこの滝の下へ行きました。確かに垂直に多量の水が落ちていました。しかし滝壺がありません。落ちた水が下の砂利質の林の地面に吸い込まれて谷川も有りません。つまり滝らしく見えないのです。「ドードーと垂直に落ちる水」。「深い大きな滝つぼ」、「その下に続く清い谷川」。この3点セットがないと感動しません。それで天狗滝は望遠鏡で見るだけが花なのです。行ってはいけません。そんな滝もあるのですね。   撮影日時:4月12日午後2時30分頃。


紙上ヨット体験しませんか?(1)主帆だけで帆走しよう!

2008年04月16日 | 写真

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今日は陽春の光の下で紙上ヨット体験を一緒にしませんか?

初心者向きに一枚の主帆だけでブラリと走ってみます。まずエンジンをかけて、港の外の広いところに出ます。下の左端の写真の中央に丸いウインチの車軸が見えますね。その右下に接して太い綱があります。これを引っ張ると、主帆が少しずつあがります。2枚目の写真は帆が半分上がった状態です。かなり疲れるので、ここで一休みして、ゆっくり上げるのがコツです。3枚目の写真は風を左前方から受けて走り出したときの帆の上半分です。(この走り方をクローズホールドと言います)。4枚目の写真はこのクロ-ズホールドで走っているときの主帆の下半分の様子です。

ここからクドイ話になりますが、是非丁寧にお読み下さい。すると本当のヨット紙上体験になります。

2枚目の写真の、マストの天辺を注意深くご覧下さい。帆走で一番重要な指針になる風見がついています。上に風の方向を矢印で示す、クルクル回る風見が着いています。風見の後側は少し細い三角形になっています。

その下に約50度の角度で開いた2本の棒があります。そして2本の棒の先には小さな四角形の金属板が着いています。

この2本の棒はマストに固定してあり、動きません。

3枚目の写真のように、クローズホールドで走るときは風見の後ろの細い3角形が、下の小さな四角形の板のすぐ外側になるように、舵で船の方向を調整しながら帆走します。風上に対して登りすぎれば帆に裏風が入って船が止まります。風下側へ向け過ぎると風上へ登らなくなります。

風見の使い方を説明すると、全く初めてのお客さんでもクローズホールドで走ることが出来るものです。上手下手はありますが例外なく、すぐに舵の調整ができます。主帆が上がったら、お客さんへ風見を説明してすぐに舵を任せます。これがお客さんを喜ばせるコツです。

兎に角、何時もマスト天辺の風見を見上げながら船の方向を風上45度に調整して走ると次第にスピードが出てきて、5枚目の写真が示すように、右舷に波が砕けザワザワという心地良い音がたちます。

速度計を見ると4ノット(時速7.2km)くらい出ています。暖かい春風が頬をなでて行きます。

船の進む方向は東南で、南の方向の湖面の小さな風波が一面にキラキラ輝いています。

時速こそ7.2kmと遅いですが、船が傾き、向かい風なので速いスピードで快走している気分になります。風が強くなる。船の傾きが大きくなる。スピードが上がる。それで怖くなる。キャビンの中で机や椅子がガタンガタンと倒れる音がする。怖さが一層大きくなる。

でも怖さを辛抱して走る。また風が少し弱くなる。まあ、そんな繰り返しで70分、港から6kmくらい沖に出た。

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この5枚の写真は、向かい風の帆走と波ゆれで疲れた体を癒すためのものです。沖に碇を下ろして、ボートの後甲板に若者が3人車座になりカンビールで昼食を食べていました。挨拶すると楽しそうに手を振っていました。3、4、5枚の写真は、それぞれ大きな排気塔(右端)、白い大型ポンブ棟建物、8階建てのビルです。ここで何時も迷います。引き返そうか?もっと沖へ行くか迷います。今日は早めに引き返えすことにしましょう。

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左端の写真は船頭を港の方向へ返したときの帆の上半分で、風見の矢先が2枚の四角板の少し外側になっています。内側へいれると裏風がはいり帆が凄い勢いで回転しますので危険この上有りません。表紙の大きな写真もランニング中の帆の上半分です。

ランニングに入ると、急に追い風が強く吹き出して、船体が怖いくらいに揺れ、走り出す。

速度計が6ノット(10.8km)近くになっている。風の音がビュービューいい出し、後から来る波の波頭がザーザーと大きな音をたてて崩れる。波の荒い運河を水流に乗って流れ下っているような感じになる。

追い風で走るランニングのときは神経を使い裏風を入れないようにします。ランニングの時はカンの悪い初めてのお客さんへは舵を完全に任せないで、手を添えています。

3枚目の写真は、港近くで出てきたモーターボートの写真です。

港内に船が居ない時は帆を降ろさないで、そのまま岸壁の前を帆走します。帆船の風景が休んでいる人々の癒しになるようです。人々の表情でそんな気するだけですが。親子連れや、若いアベックが手を振ります。こちらも振ります。

港内で主帆をゆっくり降ろし、畳んで、青いカバーを掛けて、春の陽光の下でのセイリングを終わりにします。お疲れ様でした。出港が午前12時で帰港が午後2時30分の2時間30分のセイリングです。

最後の写真は岸にゆったりと係留されているヨットの様子です。沖で右へ左と船体を傾け、大きな縦揺もしたことを忘れて静かに眠っているようです。(続く)


奥多摩観光案内(7)南朝の落人部落「数馬の里」

2008年04月14日 | 写真

奥多摩の秋川上流には東京都西多摩郡檜原村があり、その山地奥深く「数馬の里」がある。

屋根が異様に大きい兜造りの家々があり、いかにも古い歴史のあるの雰囲気である。

南北朝時代の1336年ころ、南朝方の武士、中村数馬が落ちて土着したので「数馬の里」と言う。

豊臣秀吉が天正18年(1590年)、小田原城を落とし、甲斐の武田一家も滅んだ。武田の落ち武者も「数馬の里」に住み着いたと言う。江戸時代になって甲斐から兜造りが入ってきた。

数馬の里は武蔵平野や甲斐盆地から隔絶された孤島のような山郷で、独特な方言や地域文化を維持してきたという。現在も地名の読み方が不思議だ。人里と書いて、へんぼり、と読む。笛吹は、うずひき。神戸は、かのと。事貫は、ことずら。日向平は、ひなたびら。

こんな歴史のエピソードを知った上で下の写真6枚をお楽しみ下さい。尚、下の大きな写真は「蛇の湯」と言い、日帰り入浴歓迎。傷ついた大蛇が傷をいやしたと言い伝えられている。いつもコメントを下さる高山さんによると、この事は江戸時代寛政年間の林述斎の「新編武蔵野風土記稿」に載っているそうです。

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撮影日時:4月12日午後2時頃。


奥多摩観光案内(6)2ケ所の日帰り大型温泉

2008年04月14日 | 写真

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上の写真の左から3枚までが奥多摩温泉もえぎの湯の様子であり右の2枚は檜原温泉数馬の湯の写真です。いずれも大型浴槽、露天風呂を備えた日帰り天然温泉で、もえぎの湯はフッ素温泉、数馬の湯はアルカリ単純泉です。入浴料金は750円と800円。

もえぎの湯はJR奥多摩駅から歩いて10分と便利です。数馬の湯のほうはJR五日市駅から西東京バスで50分かかります。車で行くのが便利です。どちらも無料駐車場があります。

入浴料金が750~800円とリーゾナブルで、建物内や浴槽が清潔な感じがしますので神経質な人でも入浴が楽しめそうです。詳しくは、http://www.okutamas.co.jphttp://www.kazumanoyu.com/ をご参照下さい。撮影日時;4月12日午前11時から午後2時


奥多摩観光案内(4)奥多摩周遊道路と都民の森

2008年04月13日 | 写真

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オートバイや4輪車でのツーリングが好きな人は意外に多い。奥多摩周遊道路はそのアップ・ダウン、連続するヘアピンカーブの設計が絶妙で、ドライブする人々を楽しくさせる。奥多摩観光の重要なポイントであろう。

さらに途中にある「都民の森」は三頭山の斜面の森林を楽しむために、深く考えて設計された遊歩道が四通八達している。是非ご自分の足で1、2時間散策して頂きたい。三頭山の登山路あり、ブナ林の道や探鳥の道、スポーツ歩道などさまざまな散策ルートがある。また森林館にあるレストラン「とちの実」では本格的な蕎麦を出す。

4輪車のドライブを楽しむコツは後ろから追いつく2輪車との楽しい人間関係をつくることである。

2輪車はスピードがあってすぐに追いついて来る。来たら自分の車を少しだけ左右に振って、「分かったよ、安全な処で道を開けてやるからね!」と意思表示する。

見通しが良い地点に来たら大げさに道を譲る。2輪車が右側をスーッと追い抜きながら、左手をハンドルから離して、斜め下へ皮手袋の指を揃えて出す、「ありがとう!」。粋な出し方である。こちらへも2輪車のライダーの楽しさが伝わり、周囲の景色も一層美しく見える。

何故か2輪車は道を譲るととても嬉しそうにする。

月夜見第一駐車場には必ず車を止め、眼下に広がる奥多摩湖を見やる。そして眼を上げれば残雪の鷹の巣山や御岳の大岳の山稜が広がっている。西側の三頭山の稜線や鞘口峠はその昔、武田軍と後北条氏軍の境界であった。丹波川上流の金山を守るため武田軍が守備を堅くしていたという。現在もそこが東京都と山梨県の境界になっている。

写真を撮った順に説明する。奥多摩湖から周遊道路に入るには、下段左端の陣屋という食堂の先を左に入り大きな橋を渡る。ヘアピンカーブを何度も折り返しながら登ると最初に有るのが月夜見第一駐車場(2番目の写真)であり、下段の左から3枚目と4枚目が奥多摩湖、そして、5枚目と6枚目が残雪の鷹の巣山と御岳の大岳などをしめす。

この駐車場を出て少し登ると分水嶺の峠に至る。手前は奥多摩湖へ注ぐ水流になり峠の向こうは桧原村の秋川へ流れる。峠を下ると7枚目の写真に大きく出ているような「都民の森」の看板がある。無料駐車場も広い。駐車場からの入り口の写真が8枚目の写真である。

都民の森は入場無料の広大な山稜、山林公園である。散策すると自然も素晴らしいが、「東京都の予算はかなり潤沢だなあ」という俗物的な感慨も覚える。

しばし散策して周遊道路をくだると9枚目の写真にあるような「夢の滝」を通る。車は少し先の道幅に余裕がある場所に置き、歩いて10枚目の写真にような滝を見に行く。滝の前の車道は凄く危険な車道で決して車は止めなで下さい。

夢の滝の先ですぐに左に下りて、昔風の桧原村、数馬の里へ入る。この里は合掌作りに似た独特の家々があり不思議な雰囲気がある。数馬の里には有名な山家料理の兜屋と三頭山荘があるが詳細は別記事で紹介する予定である。

数馬の里を下ると、中央高速道路の上野原ICへと続く峠越えの道への分岐点のある「人里」という名前のを通り過ぎる。上野原へは出ないで五日市方面への道を取る。

しばらく走って橘交差点を直進するとすぐに払沢の滝(ほっさわのたき)の入り口に出る。左に入り坂を上っていくと広い無料駐車場がある。駐車場から滝までは徒歩15分の森林浴の道が続く。一番上の大きな櫻の写真は駐車場から見下ろした桜木とレストランの屋根である。

奥多摩周遊道路は奥多摩湖の中流の「陣屋」前から払沢の滝の入り口まで、途中見物しなければ車で約60分位である。ただし、あちこち駐車して楽しみながら通ることを是非お勧めしたい。天気の良い日に。 撮影日時:4月12日御前11時40分から午後2時ころの間。