城と言えば熊本城、姫路城、岡山城、大阪城、彦根城、岐阜城、犬山城、掛川城、松本城、会津城などを見たことがある。いずれも広い堀、見事な石垣、白壁の建物群、宙に聳える天守閣などが美しく調和していて文化の香りが高い。そんなイメージを持って見に行った南部師行(なんぶもろゆき)、1334年築造の根城には強い衝撃を受けてしまった。文化の香りでなく戦いの臭いが強烈に残っている。城の構造と武器製造工房が300年間の臨戦態勢を見事に再現さしている。(青森県八戸市立、根城公園内にある。)
白壁の建物など皆無で城壁は荒々しい木の柵である。太い木の柵が敵を威圧するように、陸奥の暗い空の下に蜿蜒と連なっている。
南部師行は現在の山梨県南部市身延町付近出身の武将である。1334年に陸奥の国代とし赴任し、現在の八戸市西郊の馬淵川を望む高台に根城を築いた。その後、南部師行は南朝側の北畠顕家の部下として足利尊氏を討つため京都・大阪方面へ2度も遠征した。しかし2度目には足利軍に負け、1338年泉州石津(現在の堺市)で死ぬ。一方、根城と八戸南部領(岩手北部、青森東部)は初代、師行の子孫がよく守った。
しかし江戸幕府確立後の1627年に八戸南部氏は遠野へ領地替えになり、盛岡南部氏の家臣になった。その間の293年、根城は岩手北部、青森東部、秋田の東部山岳地帯を擁する広い領地を治める武力政権として存続した。
地方地方の武力政権という考え方で日本の歴史をみれば、縄文時代から明治維新までは全てが同じように地方ごとの武力集団による領民の統治という図式になる。武力政権は殺伐とした雰囲気を何処かに必ず有している。そんな考え方の真実性をヒシヒシと感じさせるのが根城の再現建物群である。
大きな写真と下列の写真数枚で暗い空の下、ながながと続く砦の木柵を示す。下列左端は現在の山梨県から行って根城を作った南部師行の騎馬像。終わりの方の4枚の写真は主殿の外観と質素な木床の部屋の様子を示す。等身大の人形のある席はお正月の祝いの席であるが、臨戦態勢の鎧兜の年男が酒を注いで回っている。お膳の食べ物の質素さにご注目頂きたい。
続編では城内にある武器製造工房や竪穴式貯蔵庫群の写真を示す。
根城の再現施設を見て回ると、緊張した300年の雰囲気が切々と伝わってきて、背筋が寒くなる。武力政権の宿命である。そんなことを実感させるように再現した八戸市の担当者の慧眼・見識に敬意を感じざるを得ない。(続く)