午後に『次郎物語』の作者、下村湖人の旧宅の新緑の写真を撮りに行きました。下村湖人の旧宅は小金井市の文化財として保存されています。昔若い頃に『次郎物語』を読んで感動したこと想いながらゆっくり写真を撮りました。写真を示します。

1番目の写真は下村湖人の旧宅の現在の屋敷森っです。

2番目の写真は『次郎物語』を執筆した下村湖人の旧宅です。倒壊しそうな状態です。

3番目の写真は下村湖人の旧宅の庭の樹々は大きく成長して新緑が綺麗です。

4番目の写真は庭の池です。周囲の新緑を静かに映していました。
下村 湖人は1884年(明治17年)10月3日に生まれ、 - 955年(昭和30年)4月20日に亡くなりました。
佐賀県神埼郡崎村出身、東京帝国大学英文科卒、大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任しました。教職辞任後は講演や文筆活動で社会教育に尽力し、青少年に影響を与えた『次郎物語』の著者として有名になりました。
『次郎物語』は長編教養小説です。全五部あり未完です。
あらすじを示します。・・・士族・本田家の次男として生まれた次郎は、幼少時から尋常小学校の校番の妻であるお浜の元に里子に出されていた。「孟母三遷の教え」をまねた、母親・お民の教育的配慮からである。そして次郎は母よりもお浜に懐き、実家を敬遠するようになる。
いやいやながら戻された次郎にとって、格式ばった実家は居心地の悪い場所であった。祖母・おことは次郎を露骨に差別待遇し、兄の恭一や弟ばかり可愛がる。次郎の側でも当てつけに喧嘩やいたずらを繰り返し、お民から説教を浴びせられるのだった。それでも、父親の俊亮、祖父の恭亮、さらにお民の実家である正木家の人々に見守られながら成長していく。
おことの差別待遇は改まらず、次郎は正木家に引き取られる。やがて恭亮が死に、お民は結核に侵され、俊亮も連帯保証人になった相手が破産したため次郎はお民の介護をする事となる。献身的な介護を続けるうち親子のわだかまりは解け、次郎とお民は肉親としての思慕を募らせる。
やがてお民は危篤状態に陥る。ついに迎えた臨終の際、兄弟三人揃って死に水をとり、臨終の宣告の後お浜に肩を抱かれ号泣して親族の涙を誘った・・・
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E9%83%8E%E7%89%A9%E8%AA%9E )
今日の午後はゆっくり新緑の写真を撮りながら「次郎物語」を思い出していました。静かな午後でした。