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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ライン河での船上パーティの思い出」

2025年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ライン河の思い出に船上のワインパーティの楽しかったことがあります。
まずライン河の風景を見ましょう。
1番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。
2番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。
列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。
3番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船にご注目ください。

1978年前後の頃でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が出席して「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。
4番目の写真はその民族衣装を着た娘さんの写真です。

彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのようにワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

2番目と3番目と4番目の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「仙石線の終点、石巻の写真、そして私の思い出」

2025年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
仙石線は仙台から石巻までの鉄道です。終点の石巻 市のほぼ中央を北上川が南北に縦断して流れています。
市街地は主に北上川河口に広がっており、北上川の中州である中瀬地区から石巻駅にかけての地域が中心市街地です。
石巻は漁業や石巻湾内での養殖業などが盛んです。石巻漁港の2019年の水揚げ量は約10万トンで日本国内第5位です。石巻の沖には金華山があります。
石巻は懐かしい町です。
写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。
1番目の写真は北上川の河口に広がる石巻市の航空写真です。右下が石巻湾に繋がります。24歳で仙台を離れるまで何度か石巻へ遊びに行った曾遊の地です。
2番目の写真は石巻の中心街です。左上に石巻駅があります。仙台から石巻までは仙石線の電車があり2時間弱で行けます。
3番目の写真は石巻を見下ろす日和山です。石巻に行ったらこの日和山に登ろり眺望を楽しんだものです。
4番目の写真は金華山です。石巻の近くから船で渡ります。数匹の鹿がのんびり歩いていました。
志賀直哉は1883年(明治16年)に宮城県の石巻で生まれました。父・志賀直温と母・銀の次男として生まれました。父の直温は当時第一銀行石巻支店に勤務していて、上京後は明治期の財界で重きをなした人物でした。

石巻は遊びに行った曾遊の地です。懐かしい町です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ヘッセの『車輪の下』の思い出」

2025年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
さきの戦争の時、ドイツは日本の同盟国でした。そんなこともあってドイツのヘルマン・ヘッセやトーマス・マンの文学作品は日本人によく読まれました。私も読みました。
今日はヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の思い出を書いてみたいと思います。
ヘルマン・ヘッセはシトー修道士達が作った神学校の生徒でした。
このシトー修道士達は別名「白い修道士」とも呼ばれ染料を用いない白い修道服を身に着け、厳しい戒律の中で労働と学習を最も重んじていました。写真でこのシトー修道士達の修道院とマウルブロン村の風景を示します。

このマウルブロンの修道院は堀と塀で外界から隔離され、修道院内には農舎から家畜小屋そして立派な水利システムまであります。マウルブロンの修道士達は自給自足をしていました。そんな建築物がまとめて1993年に世界遺産として登録されたのです。保存状態の良いマウルブロン修道院は、宗教改革の波で破壊されず近代には修道院から神学校へと姿を変えています。
この神学校にヘルマン・ヘッセも通っていたのです。この神学校の生活をモデルに書かれたのが『車輪の下』です。『車輪の下』は1905年に発表されました。私も高校時代に読んで深く感動しました。その感動をもう一度思い出すためにその「あらすじ」と「背景」を示します。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8A%E8%BC%AA%E3%81%AE%E4%B8%8B#%E8%83%8C%E6%99%AF )
あらすじ、
ハンスという少年は、文学に天才的な才能を持ち、エリート養成学校である神学校に2位の成績で合格する。町中の人々から将来を嘱望されるものの、神学校の仲間と触れ合ううちに、勉学一筋に生きてきた自らの生き方に疑問を感じる。そして、周囲の期待に応えるために、自らの欲望を押し殺し、その果てに、ハンスの細い心身は疲弊していく。勉強に対するやる気を失い、ついに神学校を退学する。
その後、機械工となり出直そうするが、挫折感と、昔ともに学んだ同級生への劣等感から自暴自棄となり、慣れない酒に酔って川に落ち死ぬ。溺死したようにも受け取れるが、真相は語られてはいない。

背景
ヘッセは、少年時代の神学校在学時に、「詩人になれないのなら、何にもなりたくない」と悩み、不眠症とノイローゼを患うようになった。その結果、神学校を退学、精神療養を経て、一般の高校に転校する。その後も、どうすれば詩人になれるのかを悩み続け、再び高校を退学、本屋の見習いとなった。しかし、三日でその店をやめて、消息を絶ってしまった。この物語の主人公であるハンスには、周りに誰も支えてくれる人がいない。それに対して、ヘッセには、母親がいた。そして、母親の存在があったおかげで、ヘッセは立ち直ることができた。ハンスとヘッセとの大きな違いである。
長くなるのでこれで止めます。

今日はドイツのヘッセゆかりのマウルブロン修道院をご紹介しました。そしてヘッセの『車輪の下』をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「昔の仙山線の懐かしい思い出」

2025年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
仙山線の懐かしい思い出を書きたいと思います。茫々65年前の大学生の頃、山形蔵王のスキー場に何度も通ったものです。その時仙台から仙山線によく乗ったのです。
山形蔵王は当時は高湯と言ってました。私は仙台に住んでいたので仙山線で山形まで行き、そこからはバスで高湯まで上ったのです。そしてドッコ沼の小屋に泊まったものです。
仙山線は東北本線の支線です。何か粗末な車両でした。それに根気よく乗って山形まで行きました。山形には親しい友人が住んでいました。
山形駅からはバスで1時間ほどで高湯という温泉に上がれました。
現在、高湯は山形蔵王と呼ばれスキー場は昔のままの風景です。
蔵王山は樹氷が美しい有名な所です。その風景と樹氷の写真をお送り致します。写真はインタートからお借りしました。


「昔の東北本線、東海道本線の旅の思い出」

2025年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦前後をまたいで私は小学生でした。
今日は仙台から兵庫の祖父のお寺への汽車の旅の思い出を書きます。東北本線の蒸気機関車の旅と東海道本線の特急つばめ号の旅です。
当時は車が現在のように普及していませんでした。ですから旅はもっぱら汽車の旅でした。蒸気機関車や電気機関車に引っ張られた列車に乗って旅をするのです。写真を示します。
1番目の写真は当時よく客車を牽引していたC57という蒸気機関車です。
夏に仙台から兵庫の祖父のお寺へ行くとき東北本線で何度も乗った汽車です。とにかく煤煙が酷いのです。夏なので客車の窓は全て開けてあります。冷房装置など一切無い時代でした。仙台から上野に着く頃は顔やシャツが煤煙で真っ黒になるのです。トンネルに近づくと一斉に窓ガラスを下ろします。
2番目の写真はD51という機関車に牽引された汽車です。
当時、東北本線で何度か乗ったのです。C57とD51は同じように見えますが設計が違うのです。C57には日本で最大の直径を持っていた動輪が3つ着いています。D51には小さめの動輪が4つ着いているのです。
小学生だった私は汽車の先頭の機関車を興味深く観察しました。現在の子供には興味の無いことかも分かりませんが、忘れられない思い出です。
あれは昭和17年の夏の事だったと思います。東京駅の中央通路に白いタイル貼りの円形水槽がありました。百匹くらいの小魚が群れをなして円周に沿って一斉に泳いでいるのです。連戦連勝で日本中が湧いていた頃です。
泳いでいた小魚の群れは鰯だったのか、ハヤなどの淡水魚だったのか分かりませんが、89歳の現在でも鮮明に思い出しています。
翌年、昭和18年夏、魚の群泳を楽しみにして東京駅中央通路へ行くと、無いのです。魚が一匹も居なく、空の白いタイルの水槽があるだけです。戦争が負け始めたので、魚の水槽どころではなくなって来たです。
3番目の写真は東海道本線で乗った特急つばめ号です。
EF55という電気機関車が牽引していました。当時は昼行特急は「つばめ」が1往復しかない貴重な列車でした。切符の入手が非常に難しく時々しか乗れませんでした。普通は急行でした。ですから幸運にも特急「つばめ」に乗れた時は有頂天になるほど楽しかったのです。

4番目の写真は特急つばめ号の最後尾についている展望車です。展望車は特別で上流階級の社交場のような雰囲気だったそうです。私は入ったことがありません。当時は日本にも階級制度があったのです。今日からはとても想像がつきませんが。

今日は仙台から兵庫の祖父のお寺への汽車の旅の思い出を書きました。東北線の蒸気機関車の旅と東海道線の特急つばめ号の旅です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)