後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

土器も無い石器時代の日本人の日々の暮らし

2017年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に人が住み始めたのは何時頃でしょうか?誰も分かりません。答えの無い問題です。
しかし4万年から3万5千年前の石器は日本の各地で見つかっています。仮に4万年前から日本に人が住み始めたとしますと、土器の無い石器時代(旧石器時代)が24000年続き、その後縄文時代が12000年続いたということになります。そして弥生時代になってから日本の歴史は急展開し始めるのです。
24000年間とはとてつも長い、永い年月だとお思いになりませんか?
今日はこの日本の旧石器時代の人々の日常の生活を考えてみたいと思います。
この問題を考える場合、現在分かっている範囲で、当時の気候や生活条件をまず書いて置くべきでしょう。
遺跡から出て来る植物の種子から当時の日本は寒冷期で北海道から樺太の気候とほぼ同じだったのです。
従ってクヌギやカシやナラのような広葉樹では無くカラマツやモミなどの針葉樹の森が広がっていたのです。
土器の製法が知られていなくて石器と焚火だけが日常の生活を支えていました。
住居は、旧石器次時代の終り頃までまったく無くて、人々は岩陰や大きな樹木の下で焚火をしながら寒い冬の夜を過ごしたのです。
食べ物は食用になる山栗やクルミなどの木の実と柔らかい草類や魚介類と仕留めた野生動物でした。狩りの対象はヘラジカ、ヤギュウ、ナウマンゾウ、オオツノシカ、ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなどと多種多様でした。
この旧石器時代の研究は「日本旧石器時代学会」が中心になって推進しています。その研究成果の一部は末尾の参考資料にありますのでご覧ください。
さてそれでは写真に従って旧石器時代の暮らしぶりを見てみましょう。

1番目の写真は20000年前の仙台市富沢遺跡の紹介記事にあった想像図です。出典は、http://palaeolithic.jp/sites/tomizawa/ です。この遺跡の特徴は当時の森林の木々が湿地のために腐らずに出てきたことです。 復元された湿地林から高木の主体が常緑性のトウヒ属と落葉性のカラマツ属(グイマツ)と判明しました。現在のサハリン南部から北海道北部の湿地林と類似しており、各種分析・同定を通して、当時の自然環境は、年平均気温で7~8度低い亜寒帯性の気候が推定されたのです。
画像では3人の男が獲物を仕留める槍を準備している様子を示しています。背景には広葉樹がありません。

2番目の写真は神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」に横にある『田名向原展示館』で私が撮った写真です。旧石器時代の女性が食用になる柔らかい木の葉を採っている画像です。

3番目の写真は3人の男がオオツノシカを仕留めようとしている絵画です。これも『田名向原展示館』で撮った写真です。背後の川は富士山の山中湖から流れてくる相模川です。富士山の噴火と相模川が運ぶ火山灰から約20000年前の遺跡と推定されています。勿論、炭素の同位体分析結果とも合致しています。

4番目の写真は当時の狩人の想像図です。出土した石器の尖頭器の大きさからかなり太くて長い槍を用いていたと推定されています。石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から後期旧石器時代のものと証明されているのです。

5番目の写真は「田名向原遺跡」から見つかった旧石器時代後期の住居跡です。
この写真では平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見えます。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧石器時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。
これは重大な発見です。旧石器時代には竪穴式の住居が存在していなかったという従来の認識を覆す発見だったのです。
近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があります。

ここで冒頭の以下の記述に返ります。
「住居は、旧石器時代の終り頃までまったく無くて、人々は岩陰や大きな樹木の下で焚火をしながら寒い冬の夜を過ごしたのです。」

どうもこの記述は間違っている可能性があるのです。旧石器時代の後期、すなはち20000年頃前には粗末ながらも竪穴式の住居があったと推定されるのです。その壁や屋根の材料は野のススキやカヤと部分的に獣の皮を用いていたと推定されています。

それにしても当時の生活は厳しく、特に食料の少ない寒い冬を生きながらえるのは容易でなかった筈です。
当時の日本全体の人口は多くても2万人以下、多分数千人と私は勝手に推定しています。
その人口は温暖化する縄文時代になると急に増加し、最大30万人に達したのです。

こんな日本列島の悠久の歴史を考えていると、この夏の暑さも忘れるから不思議です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
(1)「日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?」2015年12月03日 掲載記事
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/e/65735d0e9c987fc64a55148e59e1f263

(2)日本旧石器学会による日本列島の旧石器時代遺跡
http://palaeolithic.jp/index.htm から数例を以下に示します。
岩宿遺跡
矢出川遺跡
翠鳥園遺跡
白滝遺跡群
原田遺跡
山田遺跡
米ヶ森遺跡
荒屋遺跡
後野遺跡
恩原遺跡
鈴木遺跡
日向林B遺跡
清河寺前原遺跡
武蔵台遺跡
富沢遺跡
冠遺跡
豊成叶林遺跡

以上の中から私の住んでいる小金井市の北隣の小平市鈴木町の遺跡の詳細をご紹介します。
鈴木遺跡;
後期旧石器時代 前半~後半 35,000年前~15,000年前
1 位置  
 武蔵野台地のほぼ中央、東京都小平市の東部、石神井川源流谷頭部を馬蹄形に囲んで形成された後期旧石器時代の遺跡。東京都指定史跡。総面積約22万㎡と、都内では最大級の面積を有する。標高約73~75mの武蔵野段丘上に位置し、約2km南には野川流域の遺跡群が展開する。JR中央線武蔵小金井駅、国分寺駅、西武新宿線花小金井駅、小平駅等からバスでアクセスできる。
2 発見の経過
 1967年に発見され、回田遺跡と名付けられていたが、1974年6月末、現在の鈴木小学校の校地造成工事に伴って江戸時代の水車小屋に伴う水路や暗渠が発見されたことを契機に試掘調査が行われ、正式にその存在が確認された。その後、鈴木小学校の西を南北に走る都道2・1・3号線地点、御幸第I地点をはじめ、50以上の調査地点で範囲確認調査を含む発掘調査が行われている。

3 石器群の概要
D地点IV層の礫群
B地点V層の炉穴
 各調査地点では立川ロームⅢ~Ⅹ層の間に都合12枚の文化層が確認され、多数の礫群や配石、石器集中部のほか、炉穴等の遺構も検出されている。石器、剥片類はナイフ形石器を中心に多量かつ多種で、その数約3万7000点に上る。とくにⅨ~X層を中心に検出された局部磨製を含む20点以上の打製石器は特徴的である。中には刃部再生剥片と本体とが接合し、最終的に刃部が約一センチ後退したことを示す資料や、局部磨製石斧1点と打製石斧3点とが埋納遺構のようにまとまって検出された例もある。また石材として黒曜石の比率が高いことも特徴で、武蔵野台地における石材獲得の拠点的な位置を占めていたとする見方もある。

鈴木遺跡の石器
 石器群の変遷を層位別にみると、局部磨製石斧・ナイフ形石器に代表されるX~Ⅶ層、石刃技法によるナイフ形石器の卓越するⅥ層、各形態のナイフ形石器の盛行するV~Ⅳ層、尖頭器・細石刃中心のⅢ層となる。また居住領域の時期的なあり方をみると、X層期に開始された居住は、Ⅸ・Ⅶ層期に広い分布を示すが、姶良丹沢(AT)火山灰降灰前後(Ⅵ・V層期)にいったん縮小し、Ⅳ層期に再び広範囲の分布を示すようになる。遺跡は旧石器時代最末期になると衰微の傾向を示す。

 遺跡の一角には鈴木遺跡資料館があり、各種の剥ぎ取り標本や出土遺物の保存、公開を行っている(12月27日から1月5日の年末年始を除く、水・土・日曜日、祝休日が開館日)。

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