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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など

2013年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典は、http://www.tokyo-np.co.jp/tochigi/watarase/1998/11/です。)
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は難しくて自分には分からないと言う人が多いものです。

しかし非常に感動的で、内容の深い、そして美しい作品であることには間違いありません。

そこで何故、難解なのかを考え、自分流に編集しなおして読むと明快になります。すなはち「私の銀河鉄道の夜」にするのです。

優れた文学作品を編集し直すということは不遜過ぎると怒ってはいけません。こんな読み方もあるという単なる一例なのです。天上のお釈迦様のそばにいる賢治様も温かくこんな文章も見て下さっていると私は信じています。

この作品の難解な部分は、

七、北十字とプリオシン海岸、

八、鳥を捕る人、

九、ジョバンニの切符、

と終わりまです。

この部分は筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の、255ページから300ページと45ページもあり長いのです。

一方、その前の部分は六つの章に分かれているのに、231ページから254ページまでの23ページと短いのです。

何故そうなったのでしょうか。

それは軽便鉄道をモデルにした銀河鉄道がこの物語の主題だからです。そして作者はこの銀河鉄道の客車がこの世のものでなく、あの世の列車だと強く描きたかったからです。

そのためには客車に乗っている人々も、車窓から見える景色も超自然的に描かねばなりません。不思議な印象を読者へ与えなければいけません。車窓から見える風景もこの世の常識では理解されないものです。それは夢幻の世界なので脈略がありません。一貫したストーリがあってはいけません。

その上、登場人物も風景も数が多過ぎます。

それは宮沢賢治の脈略の無い心象風景の連続なのです。情熱を込めて書き込んだ部分なのです。

ある人の心象風景を他人が読んで理解出来る筈がありません。その世界にスッと入り込でしまえばよいのですが、それが難しいのです。

私は登場人物や風景を自分好みに省略して、以下のようにしました。

七、北十字と乗客たちのキリストの賛美と信仰

八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話

九、豪華客船沈没で死せる人々

十、友との訣別とジョバン二のこの世への帰還

上の七の始めの部分で、車窓から、青白く後光の射した島の上に白い十字架が見えたと書いてあります。それは北極の方角でした。

客車の全ての乗客は立ち上がって、ハレルヤ、ハレルヤ、と神を賛美し、信仰が篤い様子です。これが北十字の部分です。

法華経の宮沢賢治がキリスト教の信者のことを書いたのです。何故でしょうか?

そもそもこの童話の舞台はキリスト教を信じている西洋のある国と設定されているのです。死んで銀河鉄道に乗ってくる人々は一応キリストの信者なのです。

あの世に行くということはイエス様の足もとに行くことなのです。ですから当然、始めの部分に北の十字が出てきます。そして終わりの部分に出て来る南十字星へと繋がって行くのです。

宮沢賢治は熱心な仏教徒でしたがキリスト教も好きだったのです。

この同じ章にあるプリオシン海岸は飛ばし読みします。

八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話

この部分は6ぺージくらいしかありません。

鳥を捕ってそれを平らな形のお菓子にしてしまいす。それを商売にしている人が乗り込んで来るのです。

その鳥を捕る人は、列車が停車すると、客車の外に出て、空から降りてくる鳥の足を次々につかまえるのです。

つかまえた鳥を大きな袋に入れるのです。

袋の中で鳥たちの目が光っていますが、次第に弱々しくなり、しまいには消えてしまいます。鳥の息が絶えたのです。そうするとその鳥たちは平べったいお菓子に変わるのです。

そして客車に帰ってきた鳥捕り人は、その鳥のお菓子をちぎってジョバンニとカンパネルラへ与えるのです。傍の灯台守も調子よいことを言いながら一緒に食べます。

内容が不思議な上、童話的に面白いので誰でも丁寧に読むと思います。飛ばし読みはしない方が良い部分です。

九、豪華客船沈没で死せる人々

丁度、宮沢賢治がこの童話を書いている頃にタイタニック号が沈没します。

そして、ある豪華客船に乗っていた少女と弟と、その家庭教師がずぶ濡れになって銀河鉄道に乗り込んでくるのです。みんな裸足で、青ざめています。

この部分は268ページから296ページまでの28ページもある長い部分です。

九の豪華客船沈没で死せる人々、と 十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、を纏めて、原本では、一つの章にして、「ジョバンニの切符」という題にしています。

そこで私はそれを二つの章に分けて読みやすくしてみました。

その上、九 豪華客船沈没で死せる人々、を読むときは死んだ少女とカンパネルラやジョバンとの会話を拾い読みすると脈絡がつながって明快になるのです。

そして、十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、の始めの部分の296ページで、カンパネルラが不思議な石炭袋のそばで本当の天上を見つけるのです。そこに、先に死んでしまったカンパネルラの母が見えるのです。(カンパネルラの水死の場面で父親しか描かれていなっか謎が解けるのです。)

カンパネルラはアッというまに母の方へ飛んで行ってしまいます。訣別がこうして起きるのです。

「ジョバン二はまるで鉄砲玉のようにたちあがりました。そして誰にも見えないように窓の外へからだを乗り出して、力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱいなきだしました。」

その後、ジョバンニはこの世に帰ってくるのです。そして母と一緒に住むのです。

この部分は5ページだけです。

この悲しい、美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。(続く)

それはそれれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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(写真の出典は、http://www.voiceblog.jp/ilmuffin/car36.html です。)


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