賢治は法華経の真面目な信者でした。ですからこそ国柱会に入会したのです。
この法華経の教義の一つに次のようなものがあります。
・・・「菩薩」といわれる人がいます。法華経を信じて、たくさんの人にお釈迦さまの智慧を広める。人の苦しみを自分の苦しみとして受け止める。困っている人を助ける。世の中の役に立ちたいと願い、それを実行する。こんな生き方ができる人は皆、一人ひとりが菩薩なのです。人のために尽くし、相手の身になって考え行動する――、そんな菩薩のような生き方を、私たち一人ひとりが心がけたいものです。・・・
この考えに従って、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのです。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
さて国柱会とはどんな団体なのでそうか?
国柱会は、法華経の純正日蓮主義を信奉する田中智学によって明治17年(1884)に創められました。
その教義の三番目に次のようなことが書かれています。
・・・国柱会は、日蓮主義の理想が一天四海皆帰妙法である。ことに日本国は『法華経』本縁の国であり、日蓮聖人応誕の地であり、古来一貫して天皇を中心に仰ぐ道の国であり、この日本国体を開顕した〈法国冥合論〉を主張し、日本の真性命の覚醒をうながすことを大きな使命としています。・・・
この教義が「八紘一宇」という思想になり、昭和のアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったのです。
宮沢賢治は1921年に上京し、国柱会の街頭布教にも参加します。それ以来、1933年、37歳で亡くなるまで熱心な会員でした。
すなわち日本帝国主義の軍部のアジア侵略の前に賢治は死んでいます。
ですから国柱会がアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったこととは一切関知していません。
しかし賢治の戒名は国柱会からおくられ、遺骨の一部も会の聖廟に眠っているのです。
この間の詳しい事情は私が書いた「宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?」(2012年05月08日掲載記事)に説明してあります。
宮沢賢治は、紀元1世紀ごろインドで出来、鳩摩羅什によって漢文に翻訳された法華経が、日本軍の中国やアジア諸国の侵略に利用されるとは想像も出来なかったのでしょう。
ここに宗教の恐ろしさがあるのです。
この経緯は大航海時代にキリスト教の布教を旗印にしてスぺインの軍隊が残虐に南米のインカ帝国を滅ぼしたことと類似のことなのです。
国柱会は法華経こそ釈迦の正しい教えなのでアジア全域に布教しようとしたのです。
昭和時代になって、その布教方法に軍事侵略も辞さなかったのです。法華経信者の石原莞爾は勝手に満州国を作ってしまったのです。
宗教の怖さは現世の欲に利用されると悪魔の力に変わることにあるのです。
この危険性は何度繰り返し書いても避けることが出来ません。人間の業なのでしょうか?
今日の挿し絵代わりの写真は昨日行った東京の西端の陣馬高原にある昔の恩方村の風景写真です。恩方村は現在、八王子市に合併されています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





この法華経の教義の一つに次のようなものがあります。
・・・「菩薩」といわれる人がいます。法華経を信じて、たくさんの人にお釈迦さまの智慧を広める。人の苦しみを自分の苦しみとして受け止める。困っている人を助ける。世の中の役に立ちたいと願い、それを実行する。こんな生き方ができる人は皆、一人ひとりが菩薩なのです。人のために尽くし、相手の身になって考え行動する――、そんな菩薩のような生き方を、私たち一人ひとりが心がけたいものです。・・・
この考えに従って、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのです。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
さて国柱会とはどんな団体なのでそうか?
国柱会は、法華経の純正日蓮主義を信奉する田中智学によって明治17年(1884)に創められました。
その教義の三番目に次のようなことが書かれています。
・・・国柱会は、日蓮主義の理想が一天四海皆帰妙法である。ことに日本国は『法華経』本縁の国であり、日蓮聖人応誕の地であり、古来一貫して天皇を中心に仰ぐ道の国であり、この日本国体を開顕した〈法国冥合論〉を主張し、日本の真性命の覚醒をうながすことを大きな使命としています。・・・
この教義が「八紘一宇」という思想になり、昭和のアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったのです。
宮沢賢治は1921年に上京し、国柱会の街頭布教にも参加します。それ以来、1933年、37歳で亡くなるまで熱心な会員でした。
すなわち日本帝国主義の軍部のアジア侵略の前に賢治は死んでいます。
ですから国柱会がアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったこととは一切関知していません。
しかし賢治の戒名は国柱会からおくられ、遺骨の一部も会の聖廟に眠っているのです。
この間の詳しい事情は私が書いた「宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?」(2012年05月08日掲載記事)に説明してあります。
宮沢賢治は、紀元1世紀ごろインドで出来、鳩摩羅什によって漢文に翻訳された法華経が、日本軍の中国やアジア諸国の侵略に利用されるとは想像も出来なかったのでしょう。
ここに宗教の恐ろしさがあるのです。
この経緯は大航海時代にキリスト教の布教を旗印にしてスぺインの軍隊が残虐に南米のインカ帝国を滅ぼしたことと類似のことなのです。
国柱会は法華経こそ釈迦の正しい教えなのでアジア全域に布教しようとしたのです。
昭和時代になって、その布教方法に軍事侵略も辞さなかったのです。法華経信者の石原莞爾は勝手に満州国を作ってしまったのです。
宗教の怖さは現世の欲に利用されると悪魔の力に変わることにあるのです。
この危険性は何度繰り返し書いても避けることが出来ません。人間の業なのでしょうか?
今日の挿し絵代わりの写真は昨日行った東京の西端の陣馬高原にある昔の恩方村の風景写真です。恩方村は現在、八王子市に合併されています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




