後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何故キリスト教は日本人に受け入れられないか?

2015年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の人口の僅か3%以下がキリスト教徒だと言います。カトリックに至っては0.3%以下とさえ言われています。明治維新以来、西洋文化が堰を切ったように流れ込んで来ましたがその文化の核心的な部分の宗教だけは日本人に受け入れられません。
何故でしょうか?原因はいろいろ考えられますが、今日は一つだけ取り上げてみたいと思います。
カトリックの今年の四旬節は2月18日に始まり、復活祭は4月5日です。この日程はロシア正教や東方教会では異なります。
さてイエス・キリストがローマ総督のピラトによって死刑判決を受け、十字架にかけられ処刑され、死にます。しかし3日後に生き返り、弟子たちと話をして別れ、天に昇って神の右の座につきます。
このイエスが生き返ったことを「復活」と言い、キリスト教徒はみんなこのイエスの生き返りを信じています。
一回死んだ人が生き返るなどというほど不合理な話はありません。合理的に物事を考える日本人にとってはこのような荒唐無稽なことを信仰の中心にすえたキリスト教を信じることなど出来ないのです。
復活祭の前の40日間は四旬節といい、イエスが生き返ったことの意味をいろいろ考えて、復活祭の為の心の準備をします。
この「復活」の意味と、その重要性を考える前に毎年、毎年、四旬節の頃に咲く花の写真をご覧下さい。先日撮った菜の花と白い梅とパンジーの花の写真です。





日本には四季があり、冬になると花々が死に絶えます。しかし2月、3月になり春が近づくと再び咲き出すのです。これは自然が示す生き返りの一つの現象です。
しかし動物は一回死ぬと絶対に生き返りません。
それなのにイエス・キリストだけは生き返ったのです。この約2000年前の出来事を信じる人をキリスト教徒と定義します。私は半信半疑ながらある時間帯は確信します。確信すると心が安らかになるのです。
イエスがこの世の人間を愛するあまり、もう一度生き返って弟子たちと話をしてから天に昇ったのです。そして私たちも死んでも何時かは体がよみがえるのです。肉体が復活するのです。永遠の命です。そうしてイエスキリストがもう一度やって来て最後の審判をするのです。
このような事を信じなさいと言われても無理です。ですから日本人にとってはキリスト教は受け入れられません。受け入れられない一つの理由になっています。
それは当然のことです。長年、合理的な哲学のような仏教という宗教に馴れしたしんだ日本の風土にキリスト教は合いません。そのことも静かな心で受け入るのが良いのです。先日。梅の花の写真を撮りに行った海岸禅寺の山門の脇に住職さんが書いた文章で今日の記事の終わりにいたします。
「いつも明るい心でいなさい。しかしいつも静かな心でいなさい」

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