後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の悲劇(7)広島と長崎への原子爆弾投下」

2024年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
原爆投下に最初に選ばれた標的は広島市だった。それまで空襲を受けていなかった広島は、原爆の影響を観察するのに適していた。加えて、広島は軍都でもあった。 
1945年8月6日午前8時15分原爆が爆発した。爆発によって、4.5平方キロ圏内の温度は摂氏4000度を超えた。 原爆投下のその日の内に、5万人から10万人が亡くなったと考えられている。爆心地から10平方キロの圏内は壊滅した。爆発は60キロ以上離れた場所でも、体感された。市内の建物の3分の2に当たる、約6万棟が瓦礫と化した。猛烈な熱線のためあちこちで火災が発生し、爆心地から7キロの距離の場所が3日にわたり燃え続けた。
1番目の写真は原爆投下後の広島の全景です。
2番目の写真は原爆投下後の広島の拡大写真です。
一方、長崎には1945年8月9日に原爆が落とされました。
3番目の写真は爆心から9.6キロメートル離れた香焼町の写真です。アメリカの大型戦略爆撃機B29が原爆を落としたのです。午前11時をちょうど回ったときでした。
原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。
4番目の写真は原爆の投下後の長崎の惨状です。
長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減された。周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。 
現地では、薬品や器材が不足する中、生き残った永井隆を初めとする医師や看護婦たちによって救護活動が開始されたが、原爆は医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。・・・・

さて広島と長崎への原爆投下から79年たちました。広島と長崎は美しく復興したのです。現在の写真を示します。

5番目の写真は現在の広島です。

6番目の写真は現在の長崎です。

7番目の写真は長崎の天主堂です。長崎市伊王島町にある大天使聖ミカエル天主堂です。

今日は「日本の悲劇」の(7)として広島と長崎への原爆投下について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

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