後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ニューギニアの現在、東半分は独立、西半分はインドネシアに編入」

2024年09月09日 | 国際・政治
現在、ニューギニアの東半分は独立国で、西半分はインドネシアに編入されています。

 ニューギニア島は、グリーンランドに次ぐ世界第2位の面積を持つ島です。
1828年にニューギニア島の西半分をオランダが併合し、1884年にはドイツがニューギニア島の北東部を、イギリスが南東部を保護領としました。
その後ニューギニアは、国際連盟によりオーストラリアの委任統治領となりました。
1963年に西半分はインドネシアに編入され、東半分は1975年に独立しました。
国土の大部分は熱帯気候で、ニューギニア島南部のパプア湾に面したガルフ州では年間降水量が8000mmに到達します。
一方、そこから海岸沿いを南東に進んだ首都ポートモレスビーでは、年間降水量が1000mm程度と少なくなります。
内陸部は高山地帯で、標高4500mに達するウィルヘルム山を有するビスマーク山脈が東西に走ります。
英語などが公用語ですが、800以上の民族言語があるとされています。
バニラビーンズ、タロイモ、ココナッツ、パーム油の生産量が多く、天然ガスや石油、金鉱、銅鉱といった地下資源を産出します。
旧宗主国オーストラリアが輸出入額ともトップの貿易相手です。
オーストラリアとの対等関係、国境を接するインドネシアとの友好関係、PIF(太平洋諸島フォーラム)での中心的な立場が外交の機軸です。

写真はニューギニアの東半分は独立国の首都、ポートモレスビーとその他の風景写真です。

「夏の名残りの花々の写真」

2024年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
この夏は連日の猛暑で大変でした。数日前から少し涼しくなりました。
季節の変わり目です。立秋はとっくに過ぎましたが、最近やっと本当に秋がやって来るという感じが致します。
そこで今朝は「秋立つ」という季語を用いた俳句を読んでみました。
下に私が気に入った幾つかの俳句をご紹介いたしま

秋立つや雨後の夕ベは樹も匂ふ    田口泡水

秋立つや軽井沢にて購ふ髪飾り    柴田蓉子

秋立つや残り風鈴鳴りやまず     永野秀峰

身ほとりに物を少なく秋立ちぬ    田中藤穂

川波の縹渺として秋立てり     斎藤道子

灯台の白さに風の秋立ちぬ     須藤常央

秋立つや山に小さな美術館      前田達江

熊笹の鯖街道に秋立ちぬ      大島翠木

秋立つや蝉声はたと止むあした 久保晴子

以上は季語、「秋立つ」の句集(http://www.haisi.com/saijiki/akitatu.htm)より。

「秋たちぬ」とは美しい言葉です。秋風が吹き清涼の季節が始まるという情感が込められた言葉です。
そこで以下に過ぎ去った夏の花々の写真をお送りします。
はじめの2枚は自宅の庭で撮ったものです。残りの3枚は三鷹市緑と花の広場で撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の悲劇(6)ニューギニア島での悲惨な戦闘」

2024年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
東部ニューギニア戦線に動員された日本軍(第18軍、第4航空軍、海軍部隊)はおよそ15万名、うち、約12万8千名が戦没したとされていますが、その多くは飢餓やマラリアなどの病、さらに長距離にわたる敗走のさなかに密林や山岳地帯において斃れたとされています。
ニューギニアへの進出はブナ・ゴナ地区での戦闘から始まりました。
1942年3月8日、日本軍は連合国軍の拠点ポートモレスビーの攻略を視野に入れて飛行場を確保するため、南海支隊の一部をサラモアに、海軍陸戦隊をラエに上陸させます。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われました。
しかし3月10日、空母「ヨークタウン」「レキシントン」を基幹とするアメリカ軍空母機動部隊が日本軍を空襲します。
この攻撃で付近にいた日本の艦船が4隻が沈没、9隻が損傷します。
その後の終戦までのニューギニアでは混戦が続きます。
そして安達軍司令官は降伏したのです。
1944年6月、ウェワクには第18軍の残存兵力が集結していた。東部ニューギニアに投入された総計16万名の兵力は、このとき5万4,000名にまで減少していた。残存部隊も、それまでの戦闘と補給途絶による飢餓と病気で、消耗した状態だったのです。
安達軍司令官は最後の決戦としてアイタペ奪還を命じます。
1944年の7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入りました。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害されます。
1944年の8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗しました。安達軍司令官は攻撃停止を指令し、日本軍は撤退したのです。
この作戦での日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名でした。
ニューギニア島での悲惨な戦闘に関連する写真をお送り致します。

1番目の写真はニューギニア島の原住民です。

2番目の写真は連合軍のニューギニア島のホーランジアへの上陸のためのアメリカの艦船です。

3番目の写真は連合軍のニューギニア島のニューブリテン島への上陸です。

4番目の写真はニューギニア島の歓喜嶺での山岳戦

5番目の写真はニューギニア島のビアク島で戦う連合軍です。

6番目の写真は安達軍司令官のニューギニア島の降伏です。

今日は「日本の悲劇」の(6)として、ニューギニア島での悲惨な戦闘の様子をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)