フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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貫禄ボディのグルメ夫妻

2011年07月29日 | ブルターニュ

レンヌのグルメなカップルにお世話になってモン・サン・ミッシェルへ行く途中の話の続きである。

 

サンマロの見学を終え、モン・サン・ミッシェルへ行く途中、カンカールという牡蠣の養殖場で有名なところも寄った。ここには東京にも出店しているというクレープの店もあったが、時間の都合上割愛した。

 

車で走りに走り、やがてモン・サン・ミッシェルが遠望できるところまでに来てその姿の美しさに感動した。

やはり、ここにきて良かった。

         

 

          

モン・サン・ミッシェルの登り始めは土産品やオムレツの店などが両脇にぎっしり並んでいるが、やがて寺院の領域に入ると店は無くなり、これはかなり高さのある大きな寺院と言うことが判る。

                

牢獄に使われたこともあるらしい。

四方を海に囲まれたこの寺院は監獄にうってつけだ。

「岩窟王」の話を思い出した。

 

上に上り、下を見下ろすと、私達が来た方とは違う方向から海の浅瀬を歩いてこの寺院に来ようと

する一団が見えた。

 

同行したマダムは、「今度はあの人たちのように海を歩いてこの教会に来よう。」と言った。私も今度来るときはそうしたいなと思った。

 

しかしある事情によって、このマダムのこの言葉は今も胸に仕舞ったままだ。

現在、これが実現される可能性は、ほとんどなくなってしまった。

このことについては、2009年の再訪問の時に述べなくてはならない。

 

名物のオムレツは食べなかった(高すぎるし、それほどの価値を感じない。)が、ガレットやクレープを食べた。クレープが小麦粉で出来ているのに対し、ガレットはそば粉で出来ているというわけだ。

 

                これがクレープ

 

              これがガレット

 

店に入りガレットを食べ終わり、出ようとした時、別の日本人夫妻がやってきたが、店はもう店じまいだと、その客を追い払ってしまった。

「信じられない。」と私に同行したマダムは店の対応に怒っていた。

じっとしていても客はやって来る観光地とはこのようなものだ。

観光地なら、日本でもありうる話である。

 

さて私はモン・サン・ミッシェルの日没を見たかったので、ホテルを島の対岸側に予約していた。

 

ここで夕食をお礼にお返ししようと思ったが、遠いので早く帰らないといけないからという夫妻に、無理強いするわけもいかず、そこで二人の帰る車を見送った。もちろん再会を約束した。

 

モン・サン・ミッシェルの向こうに沈む夕日は綺麗だったし、夕食にうさぎ料理を食べた。

          

富士山と同じように、どうやらモン・サン・ミッシェルも遠くから眺めるのがいいようだ。その遠望は神秘的で、世界遺産なのも納得である。

 

モン・サン・ミッシェルは、日本語に訳せば「聖ミッシェル(大天使ミカエル)の山」というところか。

 

TGVでパリのモンパルナスの駅に帰ってきたとき、「大人の人間のミッシェル」さんが迎えに来てくれていたことは、先に書いたとおりである。

 

 


アルザスのほっこり夫婦訪問

2011年07月28日 | アルザス

プロヴァンスのシャンブルドットで出会ってから二年後の春、彼らの家を訪問する機会を得た。 

 

その間の交流でアルザス在住とは知っていたが、果たしてアルザスのどこなのか、住所はヴォージュ山脈のある県?だが、最寄駅は一体どこなんだろう? 

事前のメールで確認したところ、ナンシー(シャンパーニュ地方)まで車で迎えにいてくれるとのことであった。 

希望の座席が取れなくて、東駅を午後出発の列車に乗った。

 

                               

パリの6つの駅の中で、この東駅は東部(アルザスやシャンパーニュ地方)に向けての列車が発着する駅だ。 

 

車窓を楽しんで約一時間半でナンシー着だった。 

ホームでは夫妻が待ってくれていた。その様子を見て嬉しさのあまり、帽子を車内に忘れて降りてしまった。

彼らに言うと、係のところへ行ってくれた。

 

しかし、その部屋は誰もいなくて空っぽだった。

何度も「だれかいない?」と呼んでくれていたが、誰もいなかった。

「家に帰ったら問い合わせてみてあげよう」と言ってくれたが、もちろん帰るころにはそんなことは覚えていない。仕方がないと諦めた。日本のような忘れ物センターなどないのだろう。

 

ナンシーの観光をする。彼らもあまり慣れてないらしく、観光案内所でもらってくれていた地図を頼りに歩く。

 

                                  

 

                                

 

                                

スタラニス広場に着いた。門扉が美しい立派な広場である。

観光名所と言えばこれくらいだろうか。その後はゆっくり散歩をしながら、公園を抜けて動物園に行った。フランスの動物園は初めてである。

気のせいか動物たちも自由にのびのびしているように見えた。

 

                              

 

                              

 

                              

 

それから車で彼らの家に向かう。

一時間半ほどかかるらしい。

そこでいろいろ話をした。彼らはパリに長く住んでいたようであった。

二人の息子はパリで生まれたが、このご主人はアルザシアン、「リトル・ベニス」と呼ばれるコルマールの生れであった。

奥さんはプロバンスの生まれだが、彼女はパリのIBMで仕事をしていたそうだ。

今は専業主婦で、ご主人はエンジニアとして今はこのアルザスで仕事をしているそうだ。

 

 

ずいぶん走ったが、フランスの道路は、高速道路並みの道でも無料というので、驚くことがある。(もちろん別に有料の高速道路もある)

また「ロンポワン」という大変便利なローターリーがある。これでかなり交通事故が減るのではないかと思われる。

このシステムは英国に倣ったものだそうだ。

 

そして彼等の家に着いた。その続きは次に譲るとする。

 

 


おいしかったサン・マロの海の幸

2011年07月27日 | ブルターニュ

今回は 以前日本にやってきたレンヌのカップルの話である。 

 

ムッシュがフランスで日本の某有名電機メーカーに勤めている事は前に述べたとおりである。 

 

自分のヨットに桂離宮から取った「KATSURA」と名付け、飼い犬に別府から取って「BEPPU」と名付けた人である。 

 

2007年私は世界遺産モン・サン・ミッシェルを見たくてレンヌのこのカップルにお世話になることにした。 

 

その前にプロバンスにいた私は、マルセイユからマイレージを使ってレンヌの空港まで飛んできた。

鉄道でパリからプロヴァンスに移動した後、レンヌへの移動は、一時は諦めかけていた。パリに戻るには時間のロスがあり過ぎる。

 

空路と決めてからも午前出発のマルセイユ空港からのフライトは値段が上がるからだ。その時、ふと思いついた!!

日本からはANAで往復した今回のフランス旅行だが、以前エールフランスを利用したときのマイルがあるのでは?と考えたのだ。

 

ちょうどこの分だけをカバーするマイレージが貯まっていた。これでモン・サン・ミシェルへ行ける!!とすぐに予約を入れたのだった。 

 

             

この飛行機はわずか50人乗りの小さな飛行機であった。

 

 

空港で、二人は待っていてくれた。

レンヌの自宅に泊まるように誘われていたが、日程上無理でそれは今度に必ずお世話になるからと勘弁してもらい、この一日、車での案内をお願いしていたのだった。

 

すぐにサン・マロと言う第二次世界大戦の激戦地であったノルマンディーの海岸に連れて行ってくれた。

 

海岸の小高い所にドイツ軍が造った分厚い鋼鉄製のすごいトーチカ(砲台)が残っていた。連合軍の艦砲射撃弾が命中し、ベコベコになったまま残してあった。当時のすごさを想像して余りあるものだ。

 

              

 

しかし最近私は少し気になることがある。

このベコベコは本当に艦砲射撃によるものだろうか?という疑問である。

その根拠は穴が海側だけでなく、陸側にも開いているからなのだ。 

この疑問はまだ未解決のままだ。

 

             

 

とにかく映画「ザ・ロンゲストデイ」を思い出さずにはおれない。

 

美味しい魚貝類の料理の昼食を御馳走になった。これはおいしかった。

         

  

         

そのあとサン・マロの城塞町に行き、城壁の上を歩いた。第二次世界大戦の時、この城にドイツ軍が立てこもったので、連合軍が爆撃し、ほぼ灰燼に帰していたそうだ。

今は立派に復元されている。

相当大きい城壁に囲まれた町であった。

 

             

 

中世には、フランス国王の公認の元、この町からバイキングが出撃したという話も聞いた。国王公認の海賊とはびっくりした。

 

続きはまた。


このパリの夫妻はこうして「私を甘やか」せた。 

2011年07月26日 | パリ19区

モン・サン・ミシェルから帰ってきたこの日も、疲れも忘れるほど動き、やっとミッシェルさんの家で夕食をとることになった。 

 

彼らが出してくれたのは、ミッシェルさん特製のケーク・サレ(甘くない食事用のケーキ)、と黒ブーダン(豚の血入りソーセージ)である。

 

                                   

                                 

                                  

フォアグラを始め、レバーも苦手な私は、丁重に断ったが、「まあ食べてご覧」と言われ、散々お世話になっていることもあり、意を決していただいた。

見た目よりはまずくはなかったが、やっぱりこれは勘弁願いたい物のひとつである。

煮るより焼いた方が美味しいという声も聞くが、それはまだ知らない。

この二年後、白ブーダンも頂いたが、これはまったく別物で、大変美味しかった。

 

奥さんが「これ日本のお菓子かなと思って買ったのよ。あなたが喜ぶかなと」と言ってキャンディの袋を差し出した。

実はそれは漢字で書かれていたが、可愛いパンダのイラストのついた中国のものだった。しかしそんな無粋なことは言わず、「ありがとう。嬉しい」と、いただいた。何よりもその心遣いが嬉しかった。

 

翌日は15区(その翌日の二泊目は17区)に住む友人宅に宿泊だったので、また彼に15区まで送ってもらう。

 

二泊したあとお昼に戻ってきて、午後は二軒の友人宅でお茶の招待が待っていた。

まず12区の家族のところに送ってもらう。そこで忘れものに気付き電話をして、届けてもらうことになった。これも申し訳なかった。

 

続いて11区の友人宅へと移動。これは12区の友人が徒歩で送ってくれた。

 

夕方、オペラ・バスチーユで待ち合わせには11区の友人が徒歩で送ってくれた。そこでミッシェルさん夫妻、マルチーヌその友人と合流し、緑の小道(la coulee verte)を歩き、その友人のところへと行き、夕食を御馳走になったのであった。

 

                                

 

                                 

 

この日は、何と三組の家を訪問したのだ。大臣並の?帰国前の駆け込み訪問スケジュールとなった。

 

そして翌日は、いよいよ旅行最終日、20時発のフライトまでの時間も無駄に出来ない。

ミッシェルさんとペールラシェーズの墓地へ行き、散策し、お昼を一緒にした。

実はこの日、ジョルジュとランチの約束があったのだが、それではあまりにミッシェルさんに申し訳ないということで、心苦しくもジョルジュの方をお断りし、ミッシェルさんと過ごすことを優先したのである。

 

                           

 

                           

 

                           

 

彼は60代前半であるが、ステーキをぺろりと平らげた。

実は私の胃袋は連日の重い料理で、もう限界であった。

正直、もうこれでこの料理を食べなくてもいいのだと思い、珍しく日本へ帰りたい気持ちになっていたのだ。

 

このあとお土産を見るため、今回初めて同行なしでメトロに乗った。

大急ぎでお土産を買って帰った。

 

しかし、アパルトマンに戻るとやはり寂しさも込み上げてきた。

お礼に折り鶴(金紙と銀紙で折ったつがい)とメッセージを添えることにした。

 

                             

空港までミッシェルさんとマルチーヌが見送りに来てくれた。

「ほんとうにお世話になって感謝の言葉をどれだけ言っても足りないくらい。まるで私のプライベート運転手のようだった」と言うと

「それなら、チップをもらってないね」と彼は笑った。

 

                                

 本当に嫌な顔一つせずよくしてくれた。

                         

 

これほどまで、世話をしてくれる人がいるだろうか?日本人でもなかなかできないことではないだろうか

 

それなのに帰国後のメールには「あなたがいなくなった部屋はとても寂しい。Jクロードはあなたの置き土産(金銀の折り鶴のこと)に感動して言葉がないよ。フランス訪問の時はあなたの部屋はいつでも待っていると言うことを忘れないで」と、どこまでもそれこそ、わたしを「甘やかす」夫妻なのである。

 

そして、二年後その言葉に甘えて、再び滞在させてもらうことになるが、それはまた後のお楽しみに。

 

 


ジョルジュは本当に足をくじいたか?

2011年07月25日 | パリ16区

29回目の来日を果たした日本おたくのジョルジュの続きなのだが、ここで整理すると、初めて彼と会ったのが2003年の春だった。

 

 ブローニュの森に行くつもりの道すがら、疲れて少し休もうと入った小さなカフェで、偶然出会ったことは最初に書いた。

 

 2005年今度は私がフランスに行き、モンマルトルの小さいホテルに泊まっていた時、事前に彼に連絡しておいたから、彼からホテルにFAXが来た。

 「迎えに行こうと思うが、階段から落ちて足をくじいて行けない。家に来てくれ。」と書いてあり、アパルトマンのセキュリティのボタンの番号も書かれてあった。そこでタクシーで彼の家にたどり着き、指示通りアパルトマンの5階(日本の6階)でエレベーターを降りた。

 

 

彼の部屋のドアは少し開いていて、そこから聞こえてきたのは、琴の演奏である。ドアには平仮名で「おこしやす。」と書かれた紙がぶら下がっていた。

 

 

 その後の彼の部屋でのコレクションや、レバノン料理をごちそうになったことはすでに最初に書いたとおりである。

 

        

                

 

 ただ最初の時に書かなかったのだが、この時のことを振り返って考えてみると少し変なことがある。それはFAXには「足をくじいた。」と書いてあったことから始まる。だから車を運転して迎えに行けないという意味のはずだ。ところが彼は足に何もおかしな様子はない。

 

それどころか彼は、立派な高級車(BMのオープンカー)を運転してレバノン料理の店に連れて行ってくれた。(高級な店で、玄関に乗り付けドア近くにいる店の人に彼が鍵を渡すと、店の人は車を運転してどこか駐車場に止めに行った。帰りも玄関で待っていると、店の人がどこからか玄関まで車を運転してきたのを覚えている。)

 

 要するに彼は、足などくじいていないのだ。

じゃなぜ彼はうそを言ったのか。

 

ここからは私の想像である。

 

パリはやはり地域によって住んでいる人の階級が違う。所によっては高級住宅地であるが、その反対もある。

彼は警戒心が強いに違いない。と言っても別に私の泊まっていたホテルは上品なマダムとムッシュが経営する落ち着いたホテルだったし、その近辺の治安は悪くはなかった。

だが一歩離れると、よろしくないところもある。かれは自分の行動範囲を決めているに違いない。(いろんな人が乗るメトロなどは利用しないに違いない。)

 

フランス人でも外出時は自然と警戒の心を引き締める。それでもスリに遭ったりするくらいである。

だがここに彼のもう一つの事情がある。やがて私はそれに気づく。それはいずれ明らかになって来る。

 

 そしてその2005年の秋、彼が日本にやってきた時のことを、京都奈良での様子に分けて書いた。

 

 その次は2007年のパリでの再会であるが、これを次に書くことにする。

 

 


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