フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

カテゴリーの説明

カテゴリーは居住地によって分けています

エトルタの海岸は全部石ころだった。

2012年08月26日 | ノルマンディー

エトルタに何故行くようになったかというと、これはアヴィニョンに居るイザベルとの縁続きだった。

ヴィルジニはパリの学校の先生をしていたことがあり、同じ先生だったイザベルと友達だったようだ。

ヴィルジニは現在、エトルタの役場の嘱託をしている。エトルタはゾウの鼻のような奇岩の海岸で有名だ。そのエトルタが世界の奇岩をもつ村などと提携し、観光客誘致に勤めようとした。

そこで日本では北海道の奥尻島の釣鐘岩に着目し、ヴィルジニからイザベル、イザベルから私にその橋渡しを依頼してきた。 

奥尻島役場に連絡したが、結局姉妹都市などと大げさにとらえられたのか、財政の苦しい中とてもと言うわけで役場に断られた。

エトルタの提案はそんな大げさなことでなく、奇岩の写真を交換する程度のものだったのだが、奥「尻」島は文字通り「尻」込みしてしまった。 

それはともかくそんな縁で私はエトルタのことを知り、アルセーヌ・ルパンの「奇巌城」所縁の地でもあり、子供のころ大好きだったことを思い出したりすると行きたくなり、ヴィルジニのシャンブルドットに泊まることにした。 

夕方エトルタに着いたがまだあたりは明るく、まだ海につかる人もいたし、海岸沿いのカフェにも客があり、海岸からは西にゾウの鼻が見えた。

西の崖

東の崖

まだ海につかる人

砂浜でなく小石で埋尽くされている

だから履物を履かないと歩けない。

海岸通り沿いのカフェ

このあたりも印象派の画家たちの描いた風景が多いようだ。 

この小さな町の海岸近くに、カジノがあったのには驚いたが、周りは決して歓楽街ではなく、夏のリゾート地と言う感じであった。

TGVは勿論、SNCF(フランス国鉄)等の駅も無く、車でないと来れないところだ。

8月にはもう少し人が増えるそうだが、私の行った7月には、観光客もそんなに多くはない。とにかく日本のように「芋を洗うような」海水浴と言うようなことではない。 

海岸は砂ではなく、白い小石で埋め尽くされている。

散歩したのち、小さな村の中のレストランで食事をした。

古い木組みの家があった。

魚料理、右はご飯を固めてある。

クレープ

シャーベット

 

クレープなど結構おいしかった。 

明日は西と東の崖に登ることになる。

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フランス人歴史教師として広島に学ぶ

2012年08月25日 | リール・アミアン

歴史を中学校で教える彼にとって、日本の歴史も大変興味深い。

それは必ずしも良い歴史ばかりではなく、悲しい歴史もある。

彼が広島へ行くことを決め、早朝出かけ、まず広島、そして宮島と言う計画を日帰りでこなすことになった。 

 

広島では原爆資料館でものすごいショックを受けたようだ。

 

しかし帰ってきた彼は「残酷な史実を前に言いようのない悲しみを覚えた。しかしもし近くであれば私の生徒たちにも見せたいと思った。これは一度は見ておかないといけないと思う。平和の尊さを知るためにも」と言うことであった。 

大きなショックの後訪れた宮島は、美しい自然と荘厳な厳島神社と鳥居に心が安らいだという。 

 

奈良での滞在中は、前述の高野山とこの広島・宮島への旅行は大変思い出深いものになったようだが、彼は京都でも日本人の友人に会い、大山崎でお茶会を体験したり、鞍馬温泉にもその友人と出かけるなど、初来日としてはなかなか充実した滞在であったようだ。 

合計10日余りの長期滞在、それは私にとっても初めてのことだった。暑い時期の食事の用意を考えるとき、彼のように朝食も含め、日本食をなんでも食べてくれることは、長期滞在ではありがたいことだとも分かった。

すっかり日本に魅了された彼はこの半年後の二月、またやってくることになる。

 

この夏で彼の我が家への滞在回数は、ピアニストの5回に次いで、このクリスチャンと並ぶ4回になり、滞在のべ日数では断トツの多さになるとは、この時は思いもしなかった。

 

彼を紹介してくれたアンリから「最近、彼の両親に会ったが、『あなたの友人を息子に紹介してくれて本当に感謝している』と言っていた」と、届いたメールは私を喜ばせた。

 

いつかアミアンを訪ねる時には、近くのヴァランシエンヌに住むこのご両親にも会えるかもしれない。

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オンフルールで「TOKYO]に出会った。

2012年08月23日 | ノルマンディー

サンラザール駅から地方へ行くのは初めてだ。以前ヴェルサイユに行くときに、1回だけ利用したことがある。

駅員さん(右の帽子の人たち)

始発駅はどこも大体こういう感じ

これも駅員さん 手前は女性の駅員さん

 一等車は乗り心地も良く、行きたいと思っているジベルニーやルーアンを通過し、ル・アーヴルについた。

車内の様子 通路を挟んで2列と1列 これが二等ならどちらも2列

ルーアン駅 通過

ル・アーヴルは第二次世界大戦で町のほとんどが破壊され、その後の復興が見事になされたことから世界遺産になったところだが、おかげで古い建物はほとんどなく、見るべきものはなかった。

 

駅の男性トイレは、閉鎖されていたし、駅の雰囲気もいまいち良くなかった。というのは駅にいる人達の中に変な人を見かけるからだ。

 

それにコインロッカーも荷物預り所もない。仕方ないので持ち運んだ。 

ここからバスに乗ってオンフルールへ行くことにしていたので、駅のカフェで時間をつぶした。 

メニューを見るとコーラやワイン、エスプレッソがありエスプレッソが一番安かった。水よりワインの方が安いのには流石フランスだと思った。

ワインは1.9ユーロ

水は2.3ユーロ

エスプレッソは1.3ユーロ

 

バスでセーヌ川を渡り、遠く工業地帯を眺めながら、やがて古い港町に着いた。

バスから見えるセーヌ川と工業地帯

オンフルールの旧港

ところが観光案内所はあっても、ここにもコインロッカーも荷物預り所もない。仕方ないので持ち運ぶしかなかった

 

一番先に目に着いたのはサント・カトリーヌ教会の鐘楼で、その向かいに教会があった。

サント・カトリーヌ教会の鐘楼(木造)

鐘楼の向かいの教会(木造)

教会の全体像

教会内部

 

何でも15世紀に、このあたりの船大工たちが建てた教会で、木造だった。このような教会は他では見たことが無い。 

教会内にいると、突然一団の日本人客がやってきた。そしてガイドが何か話したなと思うと、あっという間に出て言った。私は呆気にとられた。「えっ?あれでお終いかい?」 

しばらくすると先ほどの日本人の内、数人がばらばらで再びやってきた。どうやら自由散策になったらしい。 

それから私は外に出て緩い石畳の坂道を上がり、町には入って行った。「ブータン」と言う印象派絵画の土台を築いた人の美術館があった。

「ブータン」と言う印象派絵画の土台を築いた人の美術館

モネをスケッチに誘っては光の描写の大切さを教えたそうな。でもこの美術館はパスした。 

岡から降りてくると今度は天才作曲家「サティ」の生まれた家があった。家の外観写真だけは撮らせてもらい、ここもパスした。

天才作曲家「サティ」の生まれた家 

 

上の写真の反対側の道からの「サティ」の生まれた家の入り口(右手)

やがて旧港に戻り、海岸を歩いているとある店の前に潜水服の頭部が飾ってあった。

よく見ると「TOKYO]と刻印してある。

ここで突然「日本」に出会ってびっくりした。

右下の部分にTOKYOと刻印があった。

海岸沿いのカフェで休憩した。

昔港の長官のいた砦のようなものもあった。

昔港の長官のいた砦のようなもの

海岸沿いのカフェ

大道芸人が操り人形に、器用にチェロを弾かせていた。

 

ここは小さい素朴な田舎の港町と言った、安心感のある町との印象が残った。

古い木組みの家

 

またバスでル・アーヴル駅に戻り、エトルタから迎えに来てくれるヴィルジニを待った。

バスで帰るときのセーヌ川を渡る橋

 

駅の待合室は、つい警戒感を持ってしまう雰囲気だった。

やがてヴィルジニと初めて会った。

「ごめんなさいね。遅れて」と明るい笑顔に、正直ほっとした。

彼女の車でそこからエトルタまで1時間ほどかけて走った。

 

エトルタの話は此の次に譲る。

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宿は節約、でもお礼に蘭の花

2012年08月19日 | リール・アミアン

実はしばらくブログを休んでいたのは、四回目の来日で長く我が家に滞在していた人が、数日前に帰国したばかりだからだ。

その彼の初めての来日はちょうど二年前の夏、同じ時期だった。

ある友人からの紹介で、アミアンの近くのボーヴェと言うところで、地理・歴史を中学で教えていると言うこの若者が、東京に一週間滞在した後にやってきた。 

東京の宿に電話をした時や、昼過ぎにJR奈良に迎えに行った時、その日の午後ずっと夕方までフランスの歴史の話を聞いた間も、小さな声で話す子だなと思った。

翌日奈良案内をしようと出かけた時、別のフランス人旅行者と出会ったが、挨拶もしなかったのを見て、フランス人同志の方が警戒しあうのかなと感じた。 

しかし二週間近く滞在するうち、段々変わってきた。まず声が違う。大きな声になった。そして笑顔や冗談も多くなってきた。

一人でやってきた彼は30歳になっているけれども、緊張感があったに違いない。 

彼のいいところは、一人で出かけて行って帰って来たらまず感動を伝えてくれ、生き生きと話してくれることだ。そして食べ物も何でも「おいしい」と食べてくれ、朝は日本食をリクエストする。 

JRパスを有効に使うよう、アドバイスもした。

関西滞在中は奈良以外には、京都へ何日か、大阪へ一日出かけただけだったのでそれではあまりにもったいないと思ったからだ。

そして、広島・宮島、もしくは高野山へ宿泊も含めてどうかと提案した。

 

彼は「二泊するには予算がない。どちらかを、日帰りにしたい。」と言った。

こんな時、もちろん私なら高野山へは日帰り、宮島へは一泊と思うのだが、彼の下した決断は「宮島へは日帰り、高野山は宿坊体験をしたいので泊った方がいいと思う。」だった。

彼の予算に合うよう、1万円以下で2食付きの宿坊を探し、広島・宮島へは朝早い出発でのルートを検索して行き方を教えた。

 

まず、高野山へ出かけた。

質素な宿だったが、大きな部屋をあてがわれ、お坊さんが案内、食事の支度をしてくれるのを見て、ものすごい異文化を体験できたと、帰ってきてから興奮気味に話した。

その感動は、帰宅したときランの小さな鉢植えをお礼にと持ってきたことでもわかる。

ここで、ちょっとしたことに気づく。彼は宿代に予算は1万以内ということだった。宿代は節約するが、お礼のしるしの花は別なのである。

この心使いが嬉しい。これがあれば、宮島でも泊れるかもしれないと言うのに、やはり私たちとはお金の使い方が違うのかもしれない。 

「精進料理はとてもおいしかった。」と言うフランス人は若い人に多い。彼もまたそうだった。梅干し以外はすべておいしかったという。

(彼を紹介してくれた夫妻は、この精進料理に泣かされたのであったが)

さて、広島・宮島の旅の話は次に譲る。

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☆残念ながら、この夏の写真は、パソコンの不具合が生じたときに、消滅してしまい、紹介できない。

 


「間に合ってます。」と言ったそうな

2012年08月18日 | パリ17区

シャンパーニュから帰った後、お腹に優しい簡単な夕食を済ませ、シャンゼリゼでお茶を飲むことになった。

軽い夕食

翌日私はノルマンディーのエトルタに行くことになっていたし、カトリーヌたちもボルドーのカトリーヌの長女の所へ行くと言うので明日は別れになるからだった。 

ずいぶんお世話になったので、少しでもお返しのつもりで私が招待することにさせてもらった。本来は夕食のはずだったが、私のお腹の調子が不良のため、軽くお茶をということになった。

カトリーヌ と リシャール(二人は小柄で日本人並み)

アパルトマンから凱旋門迄はすぐそこだし、シャンゼリゼのカフェは凱旋門から5分くらいの所で、「ル・ドーヴィル」というカフェだった。

「フーケ」や「ラデュレ」ほどのクラスでないけれど、ご主人のリシャールが近くの銀行に勤めていた時、良く来てランチを食べたそうだ。

「ル・ドーヴィル」の店内の様子

歩道に突き出た部分

歩道の車道側にも店がある。

 

またリシャールは「カトリーヌの前の勤めも、前妻の勤めもこの近くだったので、最初は迎えに行くのによく間違えたんだよ。」と笑っていた。もちろんカトリーヌもいる前でこんなことを平気で言うのだ。

リシャールが勤めていた銀行

近くにあるルイヴィトンの店

私が「ラデュレ」に行ったことがあると言うと、ご主人のリシャールは驚いていた。日本人の旅行者なら、折角パリに来たのだからと行ってみて不思議はないところだけれど、元銀行マンとして別荘まで持っている中流以上の生活水準の彼にしても、行ったことが無いらしい。

フランスは階級社会だと言うけれど、こうまではっきり生活スタイルを区分しているとは驚きだった。

そして、フーケとなると、「サルコジのカフェだね。」と言い、つまり「私の行く所じゃない。」と言うわけだ。サルコジが大統領に当選したとき、ここで記者会見をしたのは聞いているが、サルコジのお気に入りの店らしい。

そのあとの帰りにシャンゼリゼを横断する時、私とリシャールは信号が赤だから青くなるのを待っていたけれど、カトリーヌは車が途切れた間を縫ってさっさと渡り始め、中央分離帯でも反対車線の車の途切れるのを少し待ってから、渡りきってしまった。

赤信号のシャンゼリゼを渡ったカトリーヌ

「自分の身は自分で守る。信号があるのも自分を守るためにあるのだから、車が来なくて安全なら、信号が赤でも渡ったって構わない。」とまぁおよそこういう考えによるものだろう。イタリヤ人もそうだと聞いたことがあるから、ラテン的な考え方のようである。 

ドイツ人は「信号が赤なら例え車が来なくても、規則なのだから信号が赤くなるまで待たないといけない。」と言うわけだ。

ついでに、信号に関して日本人はどちらかと言うとドイツ的だ。

余談ながら「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」と言う言葉があるとおり、日本人は何事にも「みんな」に合わす傾向が強いと言われるが、かなり当たっている。 

そのあと、ばらばらに歩いていると物陰に女性が立っていた。私はピンと来てさっさと通り過ぎたが、リシャールが何か話しかけられているのが見えた。

あとで「何だった?」と聞いたらやはりプロの女性だったそうで、勿論「間に合ってます。」と言うことで済ませたそうな。 

こうしてカトリーヌ、リシャール夫妻の温かい歓迎の日々は過ぎ、翌日カトリーヌの車でサンラザール駅まで送ってもらい、ノルマンディーへ出発したのだった。

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