フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

カテゴリーの説明

カテゴリーは居住地によって分けています

クリスチャンの「家交換」

2011年05月31日 | プロヴァンス

法王宮殿に勤める友人の紹介で、ある夏に一人でやってきた彼が、その後三年で四回も来るようになるとは思いもしなかった。

彼の名前はクリスチャンと言うのだが、フランス人には多い名前で、私の知り合いだけでも4人いる。その元祖「クリスチャン」の話である。当時彼は40代半ば過ぎだった。

実は来日の前に、彼はある相談をしてきた。
「子供交換」は前述したが、何と日本を旅行するのにあたり、「家交換」をする人がいればと、彼のアルルの家の部屋の写真を添付してきたのだった。

アルルの祭りなどで宿の予約が難しい時、借りることも可能。(昨年ハンガリーのカメラマンに貸し今年も予約済み)

つまり彼が日本に来ている間、空き家になっているその家を貸すから代わりに日本の家(部屋)をその期間交換してくれる人がいればと言うことであった。車も使ってくれたらいいとのことだった。

初めて聞いたこのシステム。欧米では結構あるということを後に何人かによって知ることになる
が、この時は「そんなことは不可能」と思った。

日本人は日本人同士でも家の中を知られることに抵抗がある。
まして見ず知らずの外国人に「自分のいない間、どうぞ」と言う人がいるとは思えなかった。(それにカギの受け渡しなどどうするのであろう?)

丁重に「日本にはそういう習慣がないので、無理だと思う」と言うと、よく理解してくれて、「高くない宿を紹介してほしい」と言われ、東京と京都の宿を紹介したのだった。

そうして彼はやってきた。


京都で半日だけ時間の都合がついたので、彼の泊まるバックパッカー宿に迎えに行くと約束をした。もちろんいつものように顔はわからない。
どんな人だろう?

その宿のロビーとも言える小さな部屋で、外国人がパソコンに向かっていた。スペイン人かと思うような大きな目鼻立ちで、それがクリスチャンなのか、自信がなく様子を伺っていると、向こうからこちらの名前をおそるおそる?尋ねてきた。

そして清水寺に行こうと歩き始めた。
彼はフランス人にしては意外ないでたちであった。



私がフランス人を見分けるのにはいくつかの決め手があるのだが、そのひとつは、半ズボンの男性はほとんどいないということである。
彼は膝丈(ひざ下ではない)のジーンズ、おまけにこれはもっと見かけないのだが、ビーチサンダルのような履物を履いていた。
8月初めの京都、もちろんその恰好はむしろ暑さ対策としては適当かもしれない。

フランスは割合服装で人が判断されることがあると聞く。
そのせいか、海辺でのバカンスやホームウェアとして、サンダルに半ズボン、ハイキングではスニーカーはもちろん、キャップと言われる帽子をかぶる人もいるが日本に旅行に来るフランス人には、そういった服装はほとんど見かけない。
例えばスニーカーでも黒っぽかったり、濃い色の革製のものを履いていたりする。

少なくとも私が知り合ったフランス人の中で、半ズボンにサンダルで来たのは彼だけである。

職業は中学校の音楽の先生で、クラリネットを演奏すると話していた。
清水寺から三年坂を経て祇園、先斗町へとゆっくり歩いてきたころには、ちょうどお昼時であった。

1000円程度ですき焼きをランチに限って食べられるお店があった。(残念ながら現在はそんなお得なメニューはなくなった)
小さな個室に案内される。目を丸々して仲居さんの説明を聞き、部屋のなかを眺めていた。
古い店であるが、彼はそのしつらえを大層気に入り、「一人ではこんなお店を知ることはなかった。あなたのお陰だ」と何度もお礼を言った。



その時、私は、日本の繊細な文化が理解できる人だと、感じたのであるが、それは間違っていなかったと何度も気づかせてくれるのである。
人は服装で判断されるものではないことも、彼が教えてくれた。

髪型も変な?髪型だった。
一人旅で好奇心旺盛の彼は、日本で散髪をしてもらったらしい。

髪質が違うからか、ぼさぼさしていた。(その後フランスで会った時は、見違えるほど、すかっとしていた)
逆に日本人が海外で美容院に行っても、日本人の髪質はよほど扱いなれないと難しいそうだ。海外に住むほとんどの日本人の髪型が一律なのも理解できる。

くらま温泉は緑の自然が満喫できたと露天風呂も気に入ったと話していた。
(初めての京都でくらま温泉まで訪ねる外国人も珍しい)

数日後奈良で会った時は、ずいぶん緊張も溶け、とりわけ鹿せんべいをやって大喜びであった。
そう
フランス人の多くは、奈良公園の鹿が大好きで、鹿せんべいをやると、童心に帰ったようなはしゃぎようなのだ。
私は奈良に鹿がいてくれてよかったと、案内をするたびに思う
のである。



そんな彼の二度目の来日は、ガールフレンドと一緒だったが、仔細は次回に譲ることにする。


華より光るリーダーシップ

2011年05月30日 | パリ12区

彼女ら6人とは奈良の商店街で出会った。
日本在住のフランス人の男の子を案内役に雇っていたから、彼を加えると7人だった。

彼女らとふとしたきっかけで、夕方繁華街のレストランで一緒に食事をした。
簡単な和食である。

リーダーの女性は独身で、銀行に勤めているようだったが、詳しい職務内容はよくわからなかった。

フランスでは仕事がかなり専門的に細分化されていて、該当する日本の仕事が判らないことが多い。
例えば警察官だって、国家警察もあれば、市町村が雇っている警察官もいるし、軍の警察官もあって、制服もまちまちだ。

彼女らは、大体パリもしくはその近郊からきたようで、中の一人は日本人と結婚していた。

日本人の女性とフランス人の男性とのカップルは多いが、その反対は少ない。これはその少ない例で、彼女のご主人はもともと東京の人らしい。

美貌から言えば、メンバーの中の一人が金髪で華のあるマダムだったが、リーダーの女性に皆良く従っていた。それはリーダーの性格によるものだろう。

言いにくいが要するにリーダーは、フランス人にしては珍しい垢ぬけしないマダムだったのである。

彼女らが帰国したのち、結局メールのやり取りが続いたのは、このリーダーのマダムだけだった。
そして、彼女を通じ、
前述のある独身のマダムが日本にやってきて、京都・奈良を案内したし、そのまたマダムを通じて、別の大学教授夫妻が、日本にやってきて同じく京都・奈良を案内した。

次の機会の渡仏の時、その独身マダムと大学教授夫妻と私とでリーダーマダムの家に食事に招待された。

そこはパリの中心から少し東に行ったところの、落ち着いたアパルトマンだった。

その日はちょうどフランス大統領の選挙の開票日だった。
大学教授夫妻はサルコジ支持、リーダーマダムはロワイヤル支持だった。同行した独身マダムはどちらの支持でもないと言っていた。

食事の最中にラジオから歓声が聞こえた。
サルコジが勝ったのだ。
数日前に行われたテレビ討論で、サルコジは落ち着いて受け答えしたのに対し、ロワイヤルは焦ってしくじったらしい。
このテレビ討論でそれまでロワイヤル支持だった人の一部や、考え迷っていた人はサルコジに流れたらしい。

選挙の結論が出たのに、食事のテーブルは俄然政治議論の場になってしまった。
白熱した議論ではないが、政治好きの人たちだからなかなか妥協しない。最後は、客人がホスト(ホステス?)でもあるリーダーマダムに遠慮した形だったが、
せっかくの食事がおいしさ半減になりかねなかった。
少なくとも私はそう思ったが、話の途中に何度か私に眼で合図を送った同行した中立のマダムは「あれは面白かったわね」と後で笑っていた。

リーダーマダムの手料理、手作りのお菓子は見た目も、味も、食器の趣味も、お世辞にもセンスが良いとは言えないものであった。
普通、料理が苦手なら、簡単に出来るものを使ったり、家に招かずに外で食べることもある。
しかし、彼女は手料理でもてなしてくれたのである。
一生懸命、料理やお菓子を、私達のために作ってくれた彼女の心は十分に伝わった。
帰りに残ったお菓子も、是非にと持たせてくれた。

服装や髪型にも無頓着で、フランス人らしからぬと言っては失礼なのだが、真面目で自然のままの彼女は、私の知人の中では珍しいタイプでもある。その独身の友人も言うように「ハートがいい」、つまり人柄の良さが魅力なのである。

この日勝利したサルコジ派は、コンコルド広場で集会を開き、サルコジが演説をした。
その後、シャンゼリゼの「フーケ」で記者会見をしたと聞いている。

ヴォージュ広場で見かけたポスター

昼間私が待ち合わせに場所に使ったバスチーユ広場は、その時平穏だったが、夜になるとロワイヤル支持だった人の一部が暴徒化し、車が焼かれたと聞いた。

日本ではここまで暴走しない。
多くの移民を受け入れている事などを含め、フランスの困難な事情が根底にあるようだ。


エレガントな彼女とその家族

2011年05月29日 | パリ11区

京都大学での一年間の仕事のために滞在していた経済学者である友人から、「パリから友人が来るのだけど、奈良で会ってもらえるかしら?」とメールが届いた。

「もちろん」と答えた。

その来日する人は当時小学生の娘さんと一緒にやってきた。
また別の京都大学でその経済学者と友達になった男のフランス人とその母親の組と、合わせて四人で奈良にやってきた。

しかし、この待ち合わせがいい加減なものであった。
日だけは決まっていたが、時間はまた電話をするとのことで、待機状態だった。
「どこからかけてくるのだろう?奈良駅からかな?京都駅からかな?」 
待ち合わせについては、結構こんなことが多いのだ。
もちろんきちんと約束をして時間通りということもあるのだが、アバウトな彼らゆえ、私も彼らの意のままに対応して時々、予想外のことに慌てることになる。


そして15時くらいだったろうか、電話があった。
「今どこ?」と聞いたら、もう奈良観光の途中であった。
「たぶん、神社じゃないかしら?」なんて感じなのだ。
春日大社を目指して出発したのはいいが、果たして広い境内、長い参道、うまく見つかるかどうか賭けみたいなものだ。
相手はこちらの連絡先を知っているのだが、私はむこうのそれを知らない。
もちろん、顔もわからない。
一か八か、とにかく探す。
しかし、およその予想をつけて歩いていき「二の鳥居」くらいで、四人組を見て、「彼らだ!!」と、意外と簡単に見つかった。
こんな調子だから私も懲りず、どんな待ち合わせにも結果オーライである。


東大寺はもう見学したと言うので、春日大社を一緒にお参りした。
神社での拝礼の作法を教えると、すぐその通りにし、娘にも「はい、あなたもやってごらんなさい」と、素直な人柄に好感を持った。
明るく、素直でなかなかの美人である。
ただ娘さんを見ると、ご主人が黒人であることを想像できた。

そのあと、お茶を飲み、いろいろ話していると、彼女は音楽が好きで、琴のCDを探していた。
CDを見つけられなかったという彼女ために帰国後それを送ったことで、彼女は大層喜び、急速に距離が近くなった。

そして彼女の夫は、いわゆるフランスの「海外県」である、グアドループというカリブ海の島の出身であることを知った。
「私の夫は黒人で、あなたはどう思うかわからないけれど、フランスでは『猿』と言う人もいる。でも私は夫や子供たち、家族を誇りに思っている」と私に言った。
「私は人を肌の色では判断しない。だからあなたの家族に対しても、私も友愛の気持ちは変わらない」と答えたが、これは偽りない気持ちである。

翌年、彼女の家を訪問した時、ミュージシャンである夫は家事もすべてこなし、彼お手製のお菓子もご馳走になり、日本に来ていた二女は中学生になっていてハープの演奏を披露してくれた。

きっと彼女は結婚に至るまでも、それからも想像以上に困難なこともたくさん経験しているだろう。
それを微塵も感じさせず、いつも家族のこと、そして私のことも親身になって考えてくれることがわかる温かいメールをくれるのである。

彼女の紹介で我が家にやってきた別の若いカップルも、素朴で温かいカップルだった。

昨年、身内のことで忙しくしていた彼女と会うことはできないと諦めて、私はその若いカップルのお店に夕食に行った。
そこに、彼女が待っていてくれたことは、ほんとうに予期せぬ喜びだった。
しかも彼女は時間がなくて夕食も一緒にできないのに、30分以上も遅刻した私を美しくまぶしい笑顔で迎えてくれたのだった。

そういう彼女と家族の幸せをいつも願っている


ニームのマダムともう一人の同居者

2011年05月28日 | ラングドック・ルシオン


このマダムとはネットで知り合った。メールでやり取りしているうちに、かなりの日本通だと判ってきた。

なにしろ彼女は日本の弓道を習っていた。
それで大会のため日本に来たこともあるようだった。
ニームの自宅に弓道の練習場があるというから驚きだ。

その内ぜひ自宅に来てほしい、カンヌにも連れて行くからということになった。

そこでアヴィニョンに行く時、ニームにも寄ることにした。
ニームにはアヴィニョンでフランス語を習った先生が住んでおられ、その先生にもお会いできるよい機会だった。

さてそのマダムの家は確かに広く、敷地の中には昔羊飼いが使っていた石積みの小さい小屋などが残っていた。
ただ彼女の持ちものではなく借りているのだった。またもう一人のマダムと二人で同居していた。

確かに弓道の練習場があり、使っていないがプールもあった。


このマダムの特徴は、他人に対する警戒感が強いことであった。
例えば、連れて行ってもらった骨董市の開場前に並んでいたときのことだった。
前の女性が私にどこから来たのとか、めずらしい東洋人に話しかけてきた。

私も日本から来たとか、この骨董市はどうなのかとか少し話した。
その内ふと気がつくと、一緒にいるマダムが少しもこの会話に加わらず、無視している事に気がついた。

次に見本市の中で珍しく日本人の女性と、そのご主人に出会った。
彼女の夫はフランス人で今英国に住んでいるとのことだった。
なかなか感じのいいカップルで、話していると、マダムが呼びに来て次のところへ行こうという。
どうやら私が、日本人とは言え初対面の人と親しく話しこんでいるのが、気に召さなかったようだった。

更に昼のレストランでのことだった。
軽い食事を済ませた時、店の子らしい可愛い女の子が遊んでいたので、折り紙をあげた。
女の子はお父さんに言われたのか、ほっぺにお礼の「チュ」をしに来てくれた。
この間マダムは精算にいき、帰ってきて、おおよその経過は知っていたはずだが、「何してるの?」という感じだった。

このように他人に対する警戒感は、多かれ少なかれフランス人は共通して持っているものであるが、このマダムは顕著な感じであった。さらに、気になるのはこの裏に隠された「階級意識」である。日本より封建的な面を感じざるを得ない。

このマダムのようにあちこち案内してもらえるのは大変効率がよく、安全で楽であるが、反面自分だけの行動はとりにくく、新しい知り合いができるチャンスもなくなるという欠点がある。



別の話になるがこのマダムとシェアをして一緒に住んでいるもう一人の小柄なマダムがいた。
日曜日、隣の敷地のご主人が草を刈っているような、かなり大きな音がした。
彼女はやかましいと隣に苦情を言い、ついには何かを隣の家に投げ込んで怒っていた。

この根底には、休日は静かに休息して過ごすもので、休日に働くことは良くないことであり、ましてや休日に騒音を出して隣に迷惑をかけるなんてことは論外と言う考えがある。

彼女は抹茶の飲み方の作法を聞いて、これはかなわないと目をまん丸にし両目を寄せて見せた。茶筅の動かし方は真剣だったけれど、なかなか上手だった。さらに飲んで「苦―い」とすごい顔をして見せたひょうきんな彼女ではあったが、この騒音騒ぎには真剣に怒っていた。


彼女は黒澤作品なども好きで日本には興味はあるが、フライトが長いので日本に来ることはないと言っていた。
マダムの車でこの家を去る時、送りに出た彼女が手を振り、最後にうつむいたさびしそうな様子は忘れられない。
今も元気だろうか?


ヴィエンヌの3人家族

2011年05月27日 | ローヌ・アルプ

グラブソンを発つ朝、あいにくの風(ミストラル)で屋外での朝食は出来なかった。

アルザスの3人組も前日に去ったが、建物の中で食卓に着くと新しい親子連れと一緒になった。
若い夫婦とかわいい6歳の男の子の3人だった。

折り紙をあげるとすぐに仲良しになり、メールアドレスを交換した。
男の子の写真も撮った。
かつて繊維の街、そしても今も食の都として知られるリヨンから少し南に下ったヴィエンヌという駅の近郊に住んでいるという。

時間にして30分ほどあったかどうかの出会いだった。


帰国してからもメールの交換やカードの交換もした。むこうからヴィエンヌを中心としたローヌアルプ地方の写真集も送ってきた。
是非次回フランスに来たら家に来てほしいということだった。
お返しに男の子へ浴衣を送ったりした。


翌々年、いよいよ旅の途中この招待を受けることにした。
待ち合わせはリヨンの駅(Lyon Part-Dieu)の売店前と言うことだった。

ここに一つの問題があった。
実はシャンブルドットで会った際、男の子の写真は撮っていたが両親の写真は撮っていなかった。
つまり両親の顔は、忘れてしまったのである。

迎えには奥さんが来てくれるという。
まあいいか、日本人はおそらく私だけだから、向こうが先に気が付いてくれるだろうと思った。

実際その通りで、にこやかに彼女は寄ってきてくれた。会っても「こんなマダムだったのか」と、まるで覚えてなかったのだ。
やれやれである。

ヴィエンヌの駅からもかなり離れたところではあったが3階建の広い家だったし、周りは農地で環境は良かった。

男の子は浴衣を着て待っていてくれたが、成長が早くもう短くなってしまっていた。
ヴィエンヌの小学校に通っていて、登校時は奥さんが出勤時に送っていき、下校時は人を雇って家まで送ってもらっていた。
奥さんも公務員で忙しい身なのだ。

ここで「アペリティフ」というものに初めて気がついた。
正式の食事前のおつまみみたいなもので、シャンパンもでる。

考えてみれば、それまでもこの「アペリティフ」はあったなと気がついたが、同じ部屋でテーブルを移動しただけだったので、そう気に止まらなかったのだ。
ここでは食事のテーブルとは別の場所でこの「アペリティフ」をし、その後正式の食事のテーブルのある部屋に移動したから、移動後にはっきりと「おや?さっきのは?」となったのだ。

あまり「アペリティフ」で食べ過ぎると、せっかくのおいしい本番で困ることもわかった。「アペリティフ」で沢山つまみのようなものが出るけれど、それは少しだけにするのがよいようだと学習したのである。


奥さんも勤めているから私の面倒をみるのも大変だっただろうが、休暇を取ってリヨンより少し北東のペルージュに連れて行ってくれた。

そこは中世の香りがする小さい村だった。何でもクリントン大統領も来たそうで彼らが食事したというレストランもあった。
私たちは、昼食にガレットを食べた。ブルターニュのガレット(そば粉で作ったクレープ)とは違い、少しケーキ状(パイ?)のガレットである。


またヴィエンヌの夫婦は、学校の休日にスイスとの国境の街アヌシーへピクニックに連れて行ってくれた。
湖があり、高級避暑地でもある。

その湖畔で、シートを広げアヌシ―の街で買ってくれたパンやソーセージ、チーズ等を食べた。
男の子は習っている空手の型を見せてくれた。
フランス風ピクニックも、これが初めての体験で、素晴らしい思い出である。

ご主人は、フランス人としては背が高いので、出身を尋ねると、やはりベルギーとの国境近くの生まれであった。静かで穏やかな人であるが、エレキギターが趣味だという一面も見せてくれた。
またフランス人にしてはハードに仕事をしており、責任あるポストということもあり、なかなか休みも取れないようすであった。

最終日、リヨンを見物に行く私を奥さんは出勤途上リヨン駅まで車で送ってくれた。
駅に上るエスカレーターの前でお別れした。
エスカレーターに乗りながら、そして降りてからも駅の上から振りかえっても、彼女はさっさと車のほうに歩いてゆくのが見えるだけだった。

ここでもフランス人は振り返らないことを改めて思った。
それにしても3泊4日の私を、忙しい中よく面倒見てくれた奥さんだった。
全力で歓迎してくれ、やるべきことを果たした彼女は、今ひたすら前を向いて帰っていく。
いつかこの家族が日本に来たら、この時の恩返しを精一杯したいものである。


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