フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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なぜか直島がフランス人に人気

2013年09月08日 | ノルマンディー

クレールとセバスチャンの後にやってきたのは、三度目の来日のヴァンサンである。

彼は震災直前の二月にも来ていて、震災以降、日本に一層心を寄せてくれている。

今回は三週間の滞在で、ほとんどが我が家での滞在、最初の数日は時差ボケもあるので、奈良近郊を散策していた。 

そして数日後から日本語のレッスンも受けたいとのことで、京都にあるボランティアレッスンにも少し参加した。午前中レッスンを受け、午後観光である。 

京都では彼の友人と会ったり、また我が家で、私の日本人の友達とも交流をということで、何回かそういう機会もあった。 

三週間のうち、もちろん遠出の旅行もした。今回は直島と山中湖であった。 

まずは、直島  この島は本当にフランス人に人気がある。

以前クリスチャンが泊まった民宿は、とても気さくなご夫婦で料理もおいしいと聞いていたので、そこを予約した。

直島に行く前に、倉敷・岡山へも立ち寄るプランを考えた。 

民宿のご夫婦は日本語しか話せない。彼は少し心配していたが、彼がその民宿に着いたときを見計らって民宿へ電話をすると

「彼が片言の日本語を話してくれるし、とても感じのいい子だということがよくわかる。」と喜んでもらえ、ほっとした。 

ヴァンサンも帰ってから、「この民宿へお礼の絵葉書を出したいので、日本語を教えて」と言ってきた。

簡単なひらがなで書かれた絵葉書は、このご夫婦を喜ばせたに違いない。 

 

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怪盗ルパンのふるさと、エトルタにモナリザ?

2012年09月30日 | ノルマンディー

エトルタの東の崖から降りてくると、未だ明るく、海岸では海水浴客が大勢いた。

海岸近くに綺麗なエトルタの市役所もあった。フランスの市役所はどこでもアンティークで美しい。

それから私達はヴィルジニの案内で、この地に住んで海の絵を描いていた画家の展覧会へ行った。

これもエトルタ市の主催事業であった。

実際に書いた人は亡くなっていたが、その息子さんが来ていた。

 

それから私はヴィルジニと別れ、近くの「ルパンの館」へ行った。怪盗アルセーヌ・ルパンを生んだ作家のモーリス・ルブランの家である。

 

これによく似たのは昔ロンドンへ行った時、「シャーロックホームズの家」へ行ったことがあるが、あれと同じだが、こちらは大層立派な広い庭付きの邸宅であった。

観光客向けで様々なしつらえがしてあり楽しめたが、とりわけユーモアとして印象に残っているのはあの「モナリザ」があったことだ。

エトルタのこの「ルパンの家」にある「モナリザ」は、ルパンがルーヴル美術館から盗んできた本物で、現在ルーヴル美術館にあるのが「偽物」と言うわけである。

ルパンは日本にもやってきたことになっていた。 

ヴィルジニの家に戻ってから、午前中に登った西の崖の上にあるゴルフ場の付属レストランへ夕食にヴィルジニの車で出かけた。 

ここは先にも書いたが、ヴィルジニの友人のアヴィニヨンにいるイザべルとご主人が来た時も、一緒に食事したところだそうで、なかなか眺めもよく、食事も海の幸を中心として美味しかった。

夕日が沈みかけてとても美しかった。

かくしてエトルタをほぼ満喫した長い一日は、終わったのであった。 

翌日はル・アーブルまでもと来た道をヴィルジニに車で送ってもらい、パリへの帰途に就いた。思えばまる2日、2泊3日のエトルタ訪問だったがほとんどずっとヴィルジニにお世話になった。 

彼女は大の日本好きだが、まだ日本に来たことはない。その後もメールのやり取りはしているが、独身の彼女に彼が出来たと言う知らせもまだだ。

しかし何時かきっと、彼氏と一緒に日本へそして奈良へやって来るに違いない。

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役に立っていた翻訳

2012年09月19日 | ノルマンディー

午後に東の崖に登ることになったがその前に海岸でランチすることになった。ヴェルジニのアパルトマンの一階にパン屋さんがあって、そこでサンドイッチを買った。 

パンに挟むものもトッピング出来た。そのサンドイッチに掛けるソースも選べるのだが、そのソースの一つに「SAMOURAI」というのがあった。もちろんそれにしたが、ややスパイスのきいた辛目のソースだった。

フランスでの日本人気は、こんなところにも現れている。 

海岸の石の浜にヴィルジニガ持ってきたバスタオルを敷き、その上に座った。バスタオルが海岸の石ころと同じ模様なので、てっきりこの辺りのお土産屋さんで売っていると思ったが、聞いてみると意外にもヴィルジニがパリで買ったのだそうだ。それにしてもぴったりだった。

食事後、彼女はそこで器用に服を脱ぎ、海で泳いだ。水泳の用意はしてこなかった私は、波打ち際で足をつけた程度だったが、実に気持ちよかった。

朝から晩まで一日中海に入っている女性がこの町に居て、「人魚」と呼ばれているということだった。妙齢のマダムなのであるが、海ではなく街を歩いているところを見かけた。 

その後いよいよ東の崖の上に登って行った。

途中静かな住宅街もあった。

かなり上ったところに、養護老人ホームのような施設もあった。

登りきると予想に反し、西の丘とは違って平らな広い丘であることに気がついた。左右が広い放牧場だったり、一面の麦畑だったりして、その中の真っ直ぐな一本道をずっと東に歩いた。向こうから大きな農業用の車が来たりした。

 

かなり歩いてから左折し、海岸の崖の上まで出た。そこからまた海岸の崖に沿って西に向かった。 

やがて西の崖の上にまで戻り、そこにある記念碑を見た。

ナンジェリーとコリーと言う人のもので、彼等はリンドバーグの大西洋横断に先立つこと数ヶ月前に、パリからニューヨークへ飛び立ち、その時この海岸の上からアメリカに向かった。そして消息を絶ったそうだ。

彼等の勇気をたたえてここのモニュメントがあり、彼等に名がついた博物館もあった。

 

当日その博物館では、エトルタ市の主催でこの海岸の美しい景色を映した写真展が開かれていた。実は日本にいるときにヴィルジニから、この写真展を解説したパンフレットの日本語訳を頼まれていて、原文は芸術に関することなので、結構いわゆる文学的表現が多く、訳すのに苦労した。

 

知り合いの日本語のできるフランス人(ケバちゃん)や、日本語を勉強中のフランス人にメールで原文と私の訳をを送り添削を求めたところ、それぞれ丁寧に手を入れて返してくれた。

 

ケバちゃんは、私の訳した日本語を理解したうえで訂正してくれ、その説明も添えられていて彼女の日本語能力の高さを改めて確認したのだった。

日本語がほぼ完璧な、今や来日50回を超えるこの人にも頼んだが、彼は「日本語に訳するのはあなたの守備範囲でしょ」と一蹴されたのだった。

 

今は亡き、パリのシャンソニエ「ラバン・アジール」の名ピアニスト、アンリ・モルガンもその一人だった。彼は日本語を習っていた先生にまで確認してくれていたので、訳としては完ぺきだった。が、ここはやはりフランス人による訂正を選択させてもらうことにしたのである。

 

彼等の協力のおかげで何とか訳して送っておいたのだが、この日その写真展に行ってみると多くの外国語のパンフレットの中に、ちゃんと日本語のパンフレットが印刷されて置かれていた。お役に立てて嬉しかったし、懐かしい感じがした。

近くには小さな教会もあった。

登る時見た老人ホームの人達が車椅子で来て、横に並んで日向ぼっこをしながら、海岸を見下ろしていた。

東の崖の上から海岸を見る。

この後は崖を下り、これもエトルタ市が主催している絵画展にも行くのだが、次の時に書くことにする。

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エトルタで「一茶」に出会った。

2012年09月04日 | ノルマンディー

エトルタでの翌日、朝の食事はヴィルジニが用意してくれた。

 

美味しいクロワッサン、大きなハム、バゲット、いろんなジャムそして鉄ビンで入れる紅茶、皆美味しかった。

でももっと私を驚かせたのは、食事をしている部屋のすぐ近くのドアにペンキでこう書いてあったことだ。

「此のやうな 末世に桜 だらけかな 」そして下に小さく「ISSA」とあった。

ヴィルジニが書いたのだ。

旧かなづかいだが、本から見よう見まねで書いたらしい。

「そう言えば一茶には、こういう俳句もあったかな」程度にしか知らない私には、もうびっくりだ。

 

私の寝室のある本棚に、日本についてのいろんなことを書いた本が沢山あった。

彼女は日本が大好きで、何時か日本へ行きたいと言っていた。

 

この朝、もうひとつ事件があった。

トイレの給水の所が故障していて、ヴィルジニが自分で応急処置していたのだ。

「ここをこうして、ここは触らないでね」と注意を受けていたが、うっかり失敗した。

そうすると給水の所から噴水が立ちあがり、そこら中水浸しになってしまった。

私の悲鳴を聞き駆けつけたヴィルジニがなんとか水を止めてくれたが、その間に頭から水を被ったのだった。

私は「大丈夫」と一応言ったところ、すまなさそうに「大丈夫じゃないわ」と彼女は言った。

これをきっかけにしてついに彼女は修理屋さんに電話して、本格的に修理してもらうことになってこの件は落着した。

 

朝食後、ヴィルジニの案内で、西の崖に登ることになった。

 

石ころの海岸の西の端にはドイツ軍の要塞跡があった。

ここはノルマンディーなのだから、それがあっても不思議はないが、ここから連合軍は上陸しなかったのではないかと思う。

つまり連合軍の艦砲射撃が無かったのではないか。

だからこの要塞も破壊されずに残っているし、西に二つ、東に一つあるゾウの鼻をした奇岩も無傷で残っているのではないかと思う。

 

西のゾウの鼻の崖の上から東を見ると、遠くに東のゾウの鼻が見えた。その間にある石ころの海岸が、綺麗なカーブを描いている

一番西のゾウの鼻の崖の上まで歩き、戻ってきた。

三つ見た内の一番西のゾウの鼻

一番西のゾウの鼻の上から、真ん中のゾウの鼻を見る

西のこの崖の台地にはゴルフ場があった。そのゴルフ場付属のレストランで今夜食事することになった。

以前アヴィニョンのイザベル夫妻がここに来た時も、このレストランで食事したと言う。

 

最初の西の崖の近くに洞窟があった。ヴィルジニは他に用事があるらしく別れて、潮が引いていたのでその洞窟まで行った。

そのあと潮が満ちるまでに無事戻り、ヴィルジニの家まで帰った。

 

午後の話は次に続ける。

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エトルタの海岸は全部石ころだった。

2012年08月26日 | ノルマンディー

エトルタに何故行くようになったかというと、これはアヴィニョンに居るイザベルとの縁続きだった。

ヴィルジニはパリの学校の先生をしていたことがあり、同じ先生だったイザベルと友達だったようだ。

ヴィルジニは現在、エトルタの役場の嘱託をしている。エトルタはゾウの鼻のような奇岩の海岸で有名だ。そのエトルタが世界の奇岩をもつ村などと提携し、観光客誘致に勤めようとした。

そこで日本では北海道の奥尻島の釣鐘岩に着目し、ヴィルジニからイザベル、イザベルから私にその橋渡しを依頼してきた。 

奥尻島役場に連絡したが、結局姉妹都市などと大げさにとらえられたのか、財政の苦しい中とてもと言うわけで役場に断られた。

エトルタの提案はそんな大げさなことでなく、奇岩の写真を交換する程度のものだったのだが、奥「尻」島は文字通り「尻」込みしてしまった。 

それはともかくそんな縁で私はエトルタのことを知り、アルセーヌ・ルパンの「奇巌城」所縁の地でもあり、子供のころ大好きだったことを思い出したりすると行きたくなり、ヴィルジニのシャンブルドットに泊まることにした。 

夕方エトルタに着いたがまだあたりは明るく、まだ海につかる人もいたし、海岸沿いのカフェにも客があり、海岸からは西にゾウの鼻が見えた。

西の崖

東の崖

まだ海につかる人

砂浜でなく小石で埋尽くされている

だから履物を履かないと歩けない。

海岸通り沿いのカフェ

このあたりも印象派の画家たちの描いた風景が多いようだ。 

この小さな町の海岸近くに、カジノがあったのには驚いたが、周りは決して歓楽街ではなく、夏のリゾート地と言う感じであった。

TGVは勿論、SNCF(フランス国鉄)等の駅も無く、車でないと来れないところだ。

8月にはもう少し人が増えるそうだが、私の行った7月には、観光客もそんなに多くはない。とにかく日本のように「芋を洗うような」海水浴と言うようなことではない。 

海岸は砂ではなく、白い小石で埋め尽くされている。

散歩したのち、小さな村の中のレストランで食事をした。

古い木組みの家があった。

魚料理、右はご飯を固めてある。

クレープ

シャーベット

 

クレープなど結構おいしかった。 

明日は西と東の崖に登ることになる。

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