フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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アンリ・モルガンの最後の来日

2014年01月05日 | パリ9区

まだ残暑の残る9月の初めに、5回目の来日をしたのがアンリ・モルガンだ。 

今回の目的の一つは、神戸牛を食べることだった。

前年は、病後(胃がん治療後)でやつれた感じがしたが、今回は治療や薬が効いていたのか、いつものように京都駅で迎えたとき、元気そうに見えた。

彼のお気に入りの東洋亭でランチの後、京都観光は三十三間堂を選んだ。 

翌日の神戸で、彼のスカイプでの日本語の先生に会うこと、これも彼の願いだった。

フランス人、特に彼のような高齢の方はなかなか厳しい目を持っているが、彼が選んだ先生は、若くてかわいく(これ大事、笑)、とても感じが良くて、しっかりした先生で、彼女のフィアンセもまた同様の好青年であった。 

彼女が予約してくれたお店で、念願の神戸牛ステーキを、本当においしそうに食べていたのが思い出される。

ワインはその前年から、水を足して飲む。病気のせいであるが、それでもワインは欠かせない。もちろん赤だ。

「素晴らしい、なんてやわらかくて美味しいんだ。」と喜び、彼はこの時のランチを皆にご馳走してくれたのだった。 

そして、あまり歩けないので、バスを使ってメリケン波止場に行った。

帰りは神戸のデパートで、仕事仲間が大好きだという泡盛をお土産に買って奈良に戻った。 

明くる日、京都まで送りに行き、京都タワーのレストランで、ランチをしたが、彼はとても嬉しそうだった。

まさか、これが最後の来日になるとは、私はもちろん、彼もまた思いもしなかったことだろう。 

今でも京都へ行き、東洋亭や京都タワーを見ると、この時のことが思い出されるのである。 

しかし、彼が作ってくれた縁はしっかりとつながっていて、彼の東京での定宿であったKさん夫婦宅を訪ねてお世話になり、また昨秋は拙宅への訪問も実現した。

若い日本語の先生ともメールで近況を知らせ合っている。

ボルドーに住む彼の姪からは、名物のカヌレが毎年届き、彼が最後に連れて行ってくれたボルドーでの数日間の滞在を、事あるごとに思い出すのである。


優しい微笑みを残し、彼は旅立った。

2012年07月14日 | パリ9区

この一文もシャンソニエ、ラバン・アジルの名ピアニスト、アンリ・モルガンさんへの追悼の続きである。

 

彼に最初に出会ったのは2005年春の宵のことであった。

場所はラバン・アジル、彼が演奏するすぐ横に座っていた私は、彼の演奏に聴きほれ見惚れた。

彼は私の前で、右方向に向かいピアノを弾いていた。

彫りの深い横顔は、音楽の情操の深さを象徴しているかのようだった。

あごのひげを綺麗に整えていたし、来ているベストが良く似合っていた。

 

長い指が鍵盤の上を滑らかに泳ぎ、ゆったりと体は揺れ、肩は腕とともに波打った。

彼はじっと見入る私に気付いたのか、顔をこちらに向け目と目が合った。

 

 

2007年春、再びラバン・アジルを訪れた時、未だ開演前であったので、楽屋がちらと見えた。

そこに懐かしい彼がいた。

 

吸い寄せられるように彼に近づき、二年前に来たけれど彼のことを覚えていると話しかけた。

この時のことは以前ブログに書いた。

 

あれ以来、私達は親しくなり、彼は私の家に毎年来た。

通算5回、宿泊した友人の中で回数としては彼が最高である。

 

一昨年、胃がんの治療中に来た彼は相当弱っていた。

しかし昨年はかなり元気になり、神戸のステーキが食べたいと言うので、神戸に居るスカイプを通じての彼の日本語の先生である若い女性とその彼と一緒に神戸牛を食べた。

 

しかし今年、再発したのである。

 

今年彼の望むボルドーへ行くことをためらったが、一方で今行かないと後悔すると言う無意識の焦りもあった。

 

もう一つ彼はブルターニュの知人宅へ私を連れて行きたがっていた。

その知人はベトナムで知り合ったフランス人のお医者さんであった

 

独身で家族のいない彼は、この知人と家族的な付き合いをしており、この5月にも行ってきたそうだ。

 

ここにはついに行けなかった。

結果的に彼はそこにもお別れに行って来たのだ。

 

いまボルドーへだけでも、よく一緒に行っておいたものだと思う。

彼は私が行くのを気力で待っていてくれたのだ。

 

しんどかったろう。

そんな時でも、カメラを向けると何とも言えない微笑を浮かべる。

 

今その時のどの写真を見ても、彼は微笑んでいる。

あと1か月も無い命をその時彼は知らなかった。

こんなに早く別れが来るとはもちろん私も、ボルドーに居る彼の姪御さん(女医さん)も予想しなかった。

 

日本に帰ってから彼から来た「これから3か月治療を受け良くなるから」というメールの言葉を信じた。

 

私以外にも多くの日本人がラバン・アジルの彼に感動した。

それは、あちこちのブログに書かれている。

 

私の知る彼の日本人の多くの友人が、彼の訃報に泣いた。

 

ピアニストが彼の天職だった。

死の直前まで、ラバン・アジルで演奏していた。

 

彼は日本が好きだった。

日本人が好きだった。

そして日本語も毎年上手になっていた。

 

若い頃は東南アジアを、音楽を仕事に渡り歩き、恋の遍歴もあったらしい。

麻薬を断ち切ろうとして苦しみ、それを乗り切った話も聞いた。

 

長い変化に富んだ人生で味わったいろいろなことが、彼の風貌に表れていた。

優しい微笑みを残し、彼は旅立った。

有難う。アンリ


ムッシュ・モルガンとの突然のお別れ

2012年07月10日 | パリ9区

今日の午後、訃報が届き、まだ信じられない気持ちですが、

彼のことを、思い出しながら記すことで、少しでも今までの感謝の気持ちを表したいと思います。

 

こんなに早くお別れがこようとは、6月8日にボルドー駅で別れた時は、思いもよりませんでした。

18日に私が帰国した時に来たメールには「無事帰国していると思う。私の体調が悪く、ボルドーでは観光も一緒についていけなくてごめんなさい。

でもボルドー滞在は良かったであろうと信じている。そして私の姪の家族もあなたに会えて本当によかったと思っている。

また私は新しい治療を受けるが、それを三カ月受けたらきっと良くなると思う。

あの後、トゥールーズはどうだった?また連絡を楽しみにしている。」

これが最後のメールでした。

 

私はと言えば、取り急ぎ無事帰国の報告とお礼のメールをし、「また改めてゆっくりメールをするから。」と言ったまま次のメールは果たせませんでした。

27日には写真だけを送ったけれど、見てくれていただろうか。

 

ボルドーから帰った後も仕事をすると言っていて、彼のプロ意識を見た思いがしました。

それくらいパリで会った時もボルドー滞在中も体調が悪かったけれど、モンマルトルのシャンソニエ「ラパン・アジル」でピアノに向かうと違ったようです。

 

優しい人で、いつも帰国後お礼の花束を送ってくれていました。

そして色気のある人でもありました。

初めて来たときは、長年の恋人の話、そしてボルドー滞在中には若かりし頃の写真、当時の恋人の写真も見せてくれました。

今思うと、まるで自分の人生を私に示していたかのようにも思えます。

 

もう今年の九月、彼がうちに来ることはありません。

部屋ではいつも浴衣を着ていました。

朝早く起きてパソコンに向かって、日本語のレッスンの宿題をしていました。

 

でも彼は大切なものを残してくれました。

彼は生涯独身だったけれど、日本には彼のことを家族のように思っている友人がいます。

彼が日本でお世話になった友達は、真っ先にその知らせを私に伝えてくれました。スカイプを通じてレッスンをしていた昨年神戸で会った先生は「まだ月曜になると電話があるような気がする。」と受話器の向こうで泣かれました。

 

彼がいなくなっても私は彼が作ってくれた彼らとの縁を大事にしたいと思います。

 

この日本で今日、少なくとも何人かのあなたの友が訃報に涙し、突然のお別れを悲しんでいます。

 

アデュー、私の親愛なる友、どうか安らかにお眠りください。

http://www.youtube.com/watch?v=In9WKzAFQTY

 


再会はボルドー?

2012年02月09日 | パリ9区

二泊した後、東京へ戻る日だ。

 

約束通り近鉄特急で京都へ向かう。「これこれ、ほら、この電車いいだろう?」とマリオンに言う。

 

京都は連休と言うこともあり、コインロッカーは全部使用中で、スーツケースを預ける荷物預かり所にも列をなしていた。

 

 

京都ではマリオンのため、禅の庭を見せたいということで、昼食にてんぷらを食べた後、バスを避けて、地下鉄東山駅から南禅寺へ向かった。

しかしやはり歩くのが辛いらしい。

 

金地院で休憩しながら南禅寺へ到着したが、ピアニストさんは山門はもちろん本坊自体へも入らず座って休んでいると言う。

仕方がないのでマリオンは私とともに山門に上がり、本坊の禅の庭を見て、京都の良さを感じてもらえたようなのでほっとした。

 

 

そしてまた京都駅へ戻り、ここまで順調だった二人だが、ここで思わぬアクシデントが起こった。。

 

何と!!ピアニストさんは、せっかく安く買えた新幹線のチケットを上着のベストのポケットに入れておいたら、落としてしまったらしく見つからないというのだ。

マリオンのも?と心配になって尋ねると、彼女は「私のはここに」と、彼女は自分で管理していた。

この時のマリオンは「あーあ」と言う気持ちだったのだろうが、とても淡々としていた。

一緒に探すこともせず、ただ狼狽するピアニストを横にどちらかというと「私は知らないわ」と言う感じに見えた。

結局、買い直すことになった。

「自己責任」とは言っても、気の毒でつい可哀想に思う私たちにとっては、少し「冷たく」も感じた。

だからと言って彼女は「まったくもう、だから高齢の人は」なんてことは微塵もなかった。

さまざまな経験をしたことを彼女は、この親日家のおじさんにとても感謝しながら東京に戻り、その後も、またたくさんの思い出を作り、帰国したのであった。

 

 

帰国後日本滞在の話を聞いたボルドー在住の両親はと大変喜び、東京の知人にはもちろんのこと、私にも「ボルドーに来たらぜひうちに来てほしい」と嬉しい申し出があった。

 

ピアニストさんはその後また二年続けてやってきたが、マリオンはそう何度も来ることができないので

会えるとしたら彼女の住むボルドーだ。

 

東京の知人は昨年お世話になったそうで、次は私の番だとばかりに「いつ来る?」とピアニストもマリオンの両親も待っていてくれる。

 

実現したらピアニストさんと一緒にボルドーへの小旅行になりそうだ。

もしかして今年?

 

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着物姿に感無量

2012年02月06日 | パリ9区

京都の次は、奈良観光である。

 

観光の前に東京へ戻るときの切符を買いたいというので、それならと近くのチケットショップに案内し、割安な切符を買えたと、喜んだ。

 

タクシー移動で東大寺へ。残念ながら彼は長く歩けない。

東大寺を歩きながらも何度か休憩を取らないといけない。

マリオンのペースとは明らかに違う。しかしマリオンは根気よく合わせている。

 

 

 

鹿せんべいをやり、大仏殿を見学した後は本来案内する二月堂を諦め、能楽堂ホールを訪れ昼食をとった。ここでは洋食、と言っても日本のカレーなのだが、彼らにとっては日本オリジナルカレーといったところで結構評判がいい。

そして春日大社へ向かった。ここで運よく結婚式の模様を写真に収めることが出来て、また「運がいい」と二人は大喜びだ。

タクシーで興福寺、猿沢池を周った後、駅の近くで「楽譜を買いたい」と言うことなので、探しに行く。

シャンソニエには日本人観光客も多いので、日本の唱歌を演奏するためのものだ。

「花」や「ふるさと」は特に喜ばれるそうだ。「荒城の月」などもレパートリーに加わっているのではないだろうか。

 

夜はピアニストさんがたっての希望でフランス料理をご馳走したいというので、前年も訪れたピアノのあるレストランを希望された。

マリオンに日本で演奏したと話していたらしく、またそれも彼の自慢の一つだったのであろう。

 

 

その前にマリオンに着物を着せることにした。

マリオンはもちろん、ピアニストも今までで一番と言うくらい喜んだ。ただこの時「汚してしまうのではないか」と気にする彼女のため、濃い色の紬にしたが

本来なら、友禅のようなはんなり系もよく似合ったことだろう。

 

 

 

この後、汚れても気遣いいらないように、リサイクルや骨董市で探したものをお客さん用に何枚か用意しようと、この経験で気づかせてもらえた。

 

レストランでも着物姿のマリオンは「可愛い」と声かけられ、嬉しそうだった。

食事をし、最後にマリオンの前で演奏も披露し、レストランのマダムとの連弾もあり、楽しい夕べは過ぎて行った。 

 

明日はいよいよ最終日、再び京都である

 

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