フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

カテゴリーの説明

カテゴリーは居住地によって分けています

ちょっとした擦れ違いの結果?

2012年07月31日 | パリ11区

さて、またベルニの紹介でやってきたカップルだ。

これが、ベルニ東京滞在中、最後の紹介になった。

パリに住む彼らは、おしゃれなパリジェンヌとパリジャンのイメージだが

彼女、ドミニックはリヨン生まれ、夫ポールはアルザス生まれだった。

 

小顔で笑顔がとってもキュートなドミニクに、乾杯するときいつも大きな目玉を見開くようにするポールだった。

三泊し、習字や着物を特に喜んだ。

 

法隆寺に行くときに、玉虫の厨子を見るように、懐中電灯を貸したところ、「失くしてしまったから」と

買ってきてくれた。100円ショップで買った懐中電灯だったので、申し訳ないくらいであったが

おかげでよく見られたと言っていた。

カトリーヌとは昔からの友人であったそうだ。

過去形になっているのは、今はほとんど音信がないそうで、

カトリーヌ曰く、「彼女とは若い時からの友人だったのに、仕事に成功し忙しくなってから

変わってしまったのよ。残念に思うわ」

カトリーヌの家に行った時別荘に行った時も、若かりし日の二人の写真が飾られていて

もちろん別荘でも一緒だった。

何があったのかは定かではないが、どちらもいい人であることは、共通の友人である

ベルニとの関係でわかる。

そんなこともあり、カトリーヌの家に泊めてもらったとき、ドミニックには言えずにパリを訪れたのだった。

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つい買ってしまった骨董市

2012年07月29日 | パリ17区

さてシャンパーニュの3泊4日の休暇も最終日となった。 

この日近くの村で骨董市があると言うので、カトリーヌに連れて行ってもらった。

カトリーヌはこういうものが好きのようだった。

骨董市で買ったらしい別荘で使っている陶磁器で割れたのも、接着剤で繋ぎ大事にしていた。

 

カトリーヌは、出かける前に段ボールの切れ端に「どうぞご自由にお持ち帰りください」と書き、不要になったものを別荘の門の前においていた。

骨董市に行き帰りの人が門の前を通り、自由に持って行けるようにしたのだった。

 

こんな田舎でも相当の店が出ており、近隣の村から沢山の人が車で来ていた。

私とカトリーヌは別々に好きなものを探すことになった。 

本当に畑の真ん中の村で、骨董の店のすぐ後ろはひまわり畑と言うような具合だった。

パリの骨董市とさほど内容は変わらない。 

見て回るとやはり欲しいものが目に付き、帰国時の荷物のことを強引に頭の片隅に追いやり、ピッチャーや花瓶を買った。

さらにリモージュの紅茶器セットが目に付いた。惜しいことにカップが一つ割れている。どうやらこの市に来て割れたらしい。店主は売れないとみて、台の下の方に押し込んでいた。 

カトリーヌを探して一緒に来てもらい、一つ割れているからということで交渉してもらったら安くなり、また嵩張るのに目を瞑って買ってしまった。

(この割れたカップも大事に日本へ持って帰り、下手な自己流に金継ぎして持っている。これもカトリーヌの影響だろう。)

 

昼にカモ料理を頂き、

午後シャンパーニュの別荘を出発しパリに帰ることになった。ご主人のリシャールは高速をどんどん飛ばし、メーターは時速136キロを示していた。

 

 

パリに入ると、凱旋門近くの現在のアパルトマンに移る前に住んでいた、イタリー広場の近くのアパルトマンを見ながら帰ってきた。やはり彼等も懐かしいらしい。

特にご主人はこの地区を気に入っていて、子育てをしながら長く住んでいたこともあり、馴染みのカフェやパン屋さんなどもあったようで、離れたくなかったそうだ。

だが、カトリーヌが凱旋門の近くに引っ越しをすると言ったら、従うしか選択肢はなかったようなのである。

 

しかし実は、この時お昼に食べたカモが私のお腹を暴れまわり、そんな回り道しないで早くアパルトマンに帰りたい一心だった。

アパルトマンに帰るやいなや真っ先にこの問題の解決を図り、ほっとしたのだった。

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大人の国では、こういう関係もあり

2012年07月26日 | パリ11区

フランスは愛の国で、その関係もいろいろあることは何度も述べているが、また特例として紹介したい。 

イザベルと一緒に来てしゃぶしゃぶを気に入った食いしん坊のクリスチャン、その奥さんのジョエルからメールが来た。

「私の前の夫が来日するので、またそちらで泊めてもらいたい」ということだった。 

そして「私たちは別れてからもいい関係を続けているのよ。びっくりしたかもしれないけど」と付け加えられていた。

東京ではベルニのところにやはりジョエルからお願いをしたようで、ベルニからもよろしくと連絡があった。 

そして新しい?妻?(彼女?)とともにその「前の夫」が我が家へやってきた

前夫ティエリは現夫クリスチャンと職場の同僚で映画関係の仕事をしていることもわかった。

皆とてもいい関係なんだそうだ。 

ティエリの今の妻、この人もまたイザベルと言うのだが、このイザベルも映画関係の仕事の仲間である。

 

 

一泊だけ、しかも夕方着いて翌朝には出発したので、彼らは奈良観光をせずに帰って行ったのだった。

つまり、私に会いに来てくれたようなものだった。

短い時間ではあったが、一緒に習字を楽しんだり、ベルニからの要望ですき焼きを夕食に用意したのだが、彼らにとって思い出に残る夕べになっただろうか。 

 

この二カ月後、私がパリのクリスチャン宅に行った時、私たちの訪問を知らせるべく、ジョエルが現夫の前でティエリに電話をした時もあったが、まあ皆平和でいい関係と言うことなのだろう。

 

大統領に愛人がいても政治さえきちんとやっていれば、国民は私生活についてあれこれ言わない大人の国、愛の国だと改めて感じた次第である。

 

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この人は書道の先生です!!

2012年07月22日 | パリ17区

シャンパンカーブの帰る途中、綺麗なお城を見学した話の続きだが、お城は綺麗な外観をしていて遠くから見ると姿がとても素晴らしい。

内部の見学もしたが、お城の保管物の中に中国製とみられる筆置きがあった。

案内人が「これは何でしょうか?」と見学者一同に聞いたが、誰も知らなかった。「櫛?」と言う人もいた。そこで私は「これは筆置きです」と答えた。もちろん正解だがカトリーヌが横から「この人は書道の先生ですから。」と付け加えたのには驚いた。 

カトリーヌが我が家に来て「書道ごっこ」をした時、漢字を横向きに器用に書いた時も腰を抜かしたが、このときもびっくりした。

慌てて否定したが「何言ってんのよ。あなたは先生よ」と駄目押しを押されてしまった。 

この城にはもう一つ第二次世界大戦時のレジスタンスの小さい博物館もあった。

ナチスドイツ軍の当時のピストルとか、レジスタンスの旗とかが展示してあった。この地方は開戦後あっという間にドイツ軍に占領された歴史を、重く持っているのが解った。

 

お城からの帰りの途中の村で、変わったにぎやかな一団に出くわした。カメラに収めたが、聞いてみるとダンケルクと言う街からやってきたケルトの人達であった。 

勿論フランス人だが、先祖はバイキングだったかもしれない。何故海に近い彼らが、フランスのあちこちこんなパレードをしているのかは判らなかったが、女装をした男性もいて、とにかく面白い集団だった。

 

 

帰ったあと花を生けてみようと思いカトリーヌに相談したが、カトリーヌは「花は切ると死んでしまう」と言う。

これは「活け花」の根本問題である。 

だが日本の華道の理論で彼女を説得するのは不可能に近いし、彼女の言うことも真実であり、ここで花を切ることはしてはならない。 

そこで、リシャールが昼に剪定したリンゴの木の枝の切れ端や、草花を取ってきて活けてみた。これは喜んでくれたが、彼女の花をそのままに観賞する姿勢も心に残った。 

今夜の夕食は牛肉のステーキとなった。いつもの通りの屋外の炉でリシャールが焼いてくれた。

 

夕食後一段落してから、暖炉の前でルーレットの遊びをした。初めての体験だったが、教えられるままにやってみた。 

最初私は少し運が良く、お金の代わりのプラスチックのコインが増えたりした。するとカトリーヌのご機嫌が優れない。リシャールもその辺は百も承知で、全然勝とうなどと言う気は無いらしい。

やがて私は負け出して、リシャールも負け出した。カトリーヌの一人勝ちである。そうするとご機嫌が良い。ここに来たその日に、庭のブランコに乗った時の彼女と同じで、子供心がそのままである。

 

こうしてこの別荘の最後の楽しい夕べは過ぎて言ったのだった。

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優しい微笑みを残し、彼は旅立った。

2012年07月14日 | パリ9区

この一文もシャンソニエ、ラバン・アジルの名ピアニスト、アンリ・モルガンさんへの追悼の続きである。

 

彼に最初に出会ったのは2005年春の宵のことであった。

場所はラバン・アジル、彼が演奏するすぐ横に座っていた私は、彼の演奏に聴きほれ見惚れた。

彼は私の前で、右方向に向かいピアノを弾いていた。

彫りの深い横顔は、音楽の情操の深さを象徴しているかのようだった。

あごのひげを綺麗に整えていたし、来ているベストが良く似合っていた。

 

長い指が鍵盤の上を滑らかに泳ぎ、ゆったりと体は揺れ、肩は腕とともに波打った。

彼はじっと見入る私に気付いたのか、顔をこちらに向け目と目が合った。

 

 

2007年春、再びラバン・アジルを訪れた時、未だ開演前であったので、楽屋がちらと見えた。

そこに懐かしい彼がいた。

 

吸い寄せられるように彼に近づき、二年前に来たけれど彼のことを覚えていると話しかけた。

この時のことは以前ブログに書いた。

 

あれ以来、私達は親しくなり、彼は私の家に毎年来た。

通算5回、宿泊した友人の中で回数としては彼が最高である。

 

一昨年、胃がんの治療中に来た彼は相当弱っていた。

しかし昨年はかなり元気になり、神戸のステーキが食べたいと言うので、神戸に居るスカイプを通じての彼の日本語の先生である若い女性とその彼と一緒に神戸牛を食べた。

 

しかし今年、再発したのである。

 

今年彼の望むボルドーへ行くことをためらったが、一方で今行かないと後悔すると言う無意識の焦りもあった。

 

もう一つ彼はブルターニュの知人宅へ私を連れて行きたがっていた。

その知人はベトナムで知り合ったフランス人のお医者さんであった

 

独身で家族のいない彼は、この知人と家族的な付き合いをしており、この5月にも行ってきたそうだ。

 

ここにはついに行けなかった。

結果的に彼はそこにもお別れに行って来たのだ。

 

いまボルドーへだけでも、よく一緒に行っておいたものだと思う。

彼は私が行くのを気力で待っていてくれたのだ。

 

しんどかったろう。

そんな時でも、カメラを向けると何とも言えない微笑を浮かべる。

 

今その時のどの写真を見ても、彼は微笑んでいる。

あと1か月も無い命をその時彼は知らなかった。

こんなに早く別れが来るとはもちろん私も、ボルドーに居る彼の姪御さん(女医さん)も予想しなかった。

 

日本に帰ってから彼から来た「これから3か月治療を受け良くなるから」というメールの言葉を信じた。

 

私以外にも多くの日本人がラバン・アジルの彼に感動した。

それは、あちこちのブログに書かれている。

 

私の知る彼の日本人の多くの友人が、彼の訃報に泣いた。

 

ピアニストが彼の天職だった。

死の直前まで、ラバン・アジルで演奏していた。

 

彼は日本が好きだった。

日本人が好きだった。

そして日本語も毎年上手になっていた。

 

若い頃は東南アジアを、音楽を仕事に渡り歩き、恋の遍歴もあったらしい。

麻薬を断ち切ろうとして苦しみ、それを乗り切った話も聞いた。

 

長い変化に富んだ人生で味わったいろいろなことが、彼の風貌に表れていた。

優しい微笑みを残し、彼は旅立った。

有難う。アンリ


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