フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

カテゴリーの説明

カテゴリーは居住地によって分けています

諸行無常の浴衣を着た彼

2011年06月30日 | パリ郊外

(前回の続き)と京都に行ったとき、銀閣寺から哲学の道、清水寺を案内した。

その時清水寺で「胎内めぐり」をしたのだが、これは「仏さまの胎内を感じることだ」と説明すると、とても喜んだ。

この胎内めぐりは、結構私の他の友人に教えても興味を持つ。

 

ちょうどお盆の時期で、本堂のなかも公開されていた。

願い事や自分の思いを書くといいと言われて、彼に促すと、さらりと書いた。

「○ ○ ○ (私の名前)、ありがとう。親切に感謝しています」と。

これも前年来た男の子の置手紙同様、とても心に残っている。

普通「また来日できますように」とか書くのではないだろうか。多くの旅行者がそう書いているように。

こんな当たり前のことが言えないし書けないのだ、少なくとも私には。

また若者から教えられた。

 

彼が6日間の滞在の後、日本語学校に入るため東京に戻る日の朝が来た。

すっかり打ち解けいい笑顔で冗談も言えるようになっていた彼が、また少し寂しそうな顔をしていった。

「最後の朝になった」と。

彼は毎晩、二年前に両親が来日した時のお土産にもらったと言う浴衣を着ていた。

その浴衣には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と書かれていたので、その説明をした。

 

一期一会の話も含めて、今と言うときは二度と来ない。

同じ流れに見える水も決して同じ水ではない。

今を大切にするのだ。

花見はその一瞬の美しさ、消えゆく儚さを愛でるのが日本の哲学なのだと話した。

 

一般にフランス人は哲学を好み、バカロレア(大学受験資格試験)になっている。

 

実は彼は今の両親に里子として育てられているということも話してくれた。

「お父さんには日本に来るにあたって、たくさんお金を借りている。だからしっかり日本語を勉強して、働くようになったら恩返しをしたい」

 

私も日本の親になったような気分で彼の今を見守っている。

 

その彼は、それからまた一度来日して一年東京で住み、今また震災や原発の影響を心配する母親を説得し、三度目の来日をした。

日本への永住すらもあり得そうな彼なのである。


日本語がかなりうまくなってきたイケメンの彼

2011年06月29日 | パリ郊外

「子供交換の依頼」から二年後の夏、彼はやってきた。 

何人かの友人と日本に来て、東京での滞在は彼らと一緒で、その後、一人で奈良へやってきたのだった。 

 

京都駅に迎えに行くとき、少し遅れてしまった。 

彼はプラットホームに心細さからかうつむいて黙って立っていた。

  

                             

 

その同じ新幹線に彼の日本語を習っている学校に通っていたと言う女の子と偶然一緒だったことに、階段を降りかけた時に気付いた。

せっかくなので一緒にお茶を飲み、彼女が奈良に来るというので再会を約束した。 

 

彼は隣人が日本人家族と言うこともあり、日本に興味を覚え、日本語も習っていた。

当時19歳くらいだったろうか。

 

会話は片言の日本語だったが、読み書きの方が得意であった。

毎日日本語を勉強しているとのことで、テキストやノートも持参だった。

 

日本食も好きで、家でも作っていると言っていた。炊飯器も持っているのだそうだ。

我が家では冷しゃぶが気に入っていた。

 

アイロンがけも自分でいつもしているからと自分でした。座ってアイロンがけをすることにびっくりしながら。(フランスでは立ったままアイロンがけをするためアイロン台もその高さである)

 

最初の緊張感は次第に溶けて、いろんな話をするようになった。

新宿では客引きに声をかけられ「僕はガールフレンドがいます」と断ったとか、東京で夕食を取っていると日本人の女の子のグループと知り合ったが

「プレイボーイみたい」と言われ、「僕はプレイボーイじゃない」と言ったとか。

日本人から見れば、オーランドブルームに似たイケメンの彼は、プレイボーイに見えたとしても不思議はない。

 

                          

 

彼の両親(里親・このことについては後述に)とは祇園の練舞場で初めて会った。桜の咲く季節だった。

あのきっかけが、こうして彼と結びつこうとは予想すらしなかった。

 

彼の成長をさらに助けたいという思いから、彼の今の両親は私に彼を託した。

 

無力な私だが、彼が進む道を見守っていきたい。

 

続く

 


牛乳瓶の底のメガネのムッシュ

2011年06月28日 | パリ11区

彼とは京都のポルタ(地下街)で出会った。 

 

ある日、そのポルタのイベント広場でイタリアの人達が、大きな旗を振り回し、放り上げたりするイタリアン・フラッグショーをしていた。

何だか地方の貴族の騎士道に関係するような古い伝統的なもので、私もそれを見物していた。

 

横に小柄な彼がいた。

聞くとフランス人だった。

ショーが終わり、私はその珍しさに満足して、なかなかよかったと思った。

 

                             

 

 

ところが彼に感想を聞くと「大したことはない。うまく揃っていなかった」となかなか辛い評だった。

ここにフランス人のプライドを垣間見た気がした。

その時はそれで別れたが、彼の帰国後からその時の写真を送ったり、手紙のやり取りをしていた。

 

半年後の春に京都に滞在していると連絡が有った。奈良に来ると言うので

待ち合わせの時間や場所を確認するためだった。

途中から奥さんが、出てこられた。

なかなか流暢な日本語なので、「大変日本語がお上手ですね」と言った。

そうしたら「あら、主人は言ってませんでしたの?私日本人です」

 

びっくり!!!大笑い!!!である。

こちらはてっきりフランス人と思い込んでいたので、まさか日仏カップルとは思いもしなかった。数少ないうちの日仏カップルの友人である。

 

奥さんは関東の出身の方で、彼は公務員、奥さんは航空会社に勤めていてともに既にリタイアされていた。

60歳でリタイアし、年金生活である。

奥さんに聞くと、このご主人は定年を待ちかねたように一人でさっさとリタイアを決め、その後一切働く気など無かったそうである。

 

これが普通のフランス人のサラリーマンである。

(これからは日本と同じく年金の支給開始年齢が引き上げの動きが有り、将来はそうはいかないだろうけれど。)

 

彼は日本が大好きで、京都に毎年春と秋に滞在する。

このため、初め小さいワンルームマンションを買った。

やがて今度は週末に遊びに行くために持っていたパリ郊外の別荘を売り、京都で友人を呼ぶために、もっと大きいマンションに買い換えたのである。

 

私の見るところ彼等は、とびきりのお金持ちでもない。

共働きして定年まで働き一男一女を育てリタイアし、年金とそれまでの貯金でやっている。

 

だから決して贅沢や、無駄なお金は使わない。ここと言うところには使う。

こだわりには使うのである。ここがフランス人らしい。

週末を過ごす郊外のセカンドハウスも堅実な彼等が、こだわって購入したのだった。

 

例えば彼は、京都ではほとんどお金を持たず自転車であちこち見物に行く。

小づかいは、奥さんにコントロールされている気がするが、彼の衣服や持ち物にはこだわりがみられ、ある程度自由な部分もあるらしい。

 

その自転車はフランスからわざわざ毎回日本に持ってくるのである。

機内持ち込み料だけで、十分日本で新しい自転車は買えるが、そこはこだわるのである。

 

フランスにいる時、京都のマンションはあいている。

その間誰かに貸せば借り手が有るかもしれないと奥さんは言うが、彼は絶対に貸さない。

大事な日本の自分の家を貸すのは嫌だそうだ。

 

この牛乳の底のようなメガネをかけたムッシュは、実にいい人なのである。

賢い日本人の奥さんとのカップルであるが、どちらがどちらを尻に引いているのか、まだ判断がつかない。

 

 

 

 

 


城塞都市カルカッソンヌで出会った「プール付き」カップル

2011年06月27日 | ミディ・ピレネー

フランス南部のカルカッソンヌは、城塞都市と知られている。

ラングドック=ルシヨン地域のオード県の県庁所在地である。

「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」の名で、1997年にユネスコの世界遺産に登録された。

城塞は19世紀に建築家により修復されたということで、全くのオリジナルではないらしい。

駅から、てくてく歩いて大きな川を渡る時この偉大な城が見えてくる 。

                     

この時、この城は実戦的な砦としての印象が、ガガーンと迫って来る。ベルサイユのような宮殿とは全く違うものだ。装飾的なものはなく、城壁がそびえていた。

さて町まで来てハタと困った。今夜泊まるシャンブルドット(民宿)の名前は覚えているが、それがどこにあるのかわからない。住所をメモしてくるのを忘れたのだ。

このところ友人宅ばかり泊まり歩いて、シャンブルドットに泊まる心構えができていなかったと反省してみても始まらない。

そこでパリに住む友人に携帯電話でSOSを出した。

彼はパソコンでシャンブルドットの名前から住所を検索してくれた。

でも特に数字である番地の聞き取りが難しかった。ようやくそれらしき情報を得て、町に入っていき宿を見つけることができた。

部屋は予約通りベランダ付きで、そこから城を一望できた。  

                                

                

               

その日と翌日に訪れた城は広大で、城の中にちょっとした街が有った。

昔この城で激しい攻防戦があったらしいが、なかなか攻め落すことはむつかしかったのではないか。

翌日出発する前にシャンブルドットで朝食をとっていたところ、隣のテーブルにマダムとムッシュのカップルが来た。

同じく今日発つらしい。めずらしい東洋人が横にいるものだから自然と話しし、折り紙をプレゼントした。

日本人だとわかると、ムッシュの仕事は三菱電機のエアコンを販売していると言う。

この辺から急速にフレンドリーになってきた。聞けばトゥールーズの北のアルビの近くの小さな町(村?)に住んでいるとのこと良かったらこれから彼等の家に来ないかと言う。

さすがにこちらも旅程が有り、「有難う。次の機会にぜひそうする。」と断った。そんなにたやすく信用するのかと驚いたが、有難いことに日本人だからと信用されることが多いことに何度か気づかされる。

 

帰国してからのメールのやり取りで、彼らの住まいの写真を送ってきた。大きな敷地の素敵な家のようだ。

とくに目を引いたのは、庭にプールがあることだった。

早速私は彼らのニックネームを「プール付き」と命名した。

別にこのプールに魅せられたわけでもないが、トゥールーズはボルドー等と共に、次にフランスに行く時の候補地としてかなり上位の順位にある。     

             

            

 


まだ届かないボルドーのフォアグラ

2011年06月26日 | パリ20区

 これはまた続きの話である

 

「ところで広島のユースホステルはどうだった?」

 

「それがねぇ、また大変で」と彼女は続けた。

 

「誰も宿泊客がいなかったの。私は一人でその部屋(和室)を使うことになったのだけど、オーナーは男性」

つまりユースホステルにはその晩彼女とその男性のオーナーだけだったと言う。

 

「鍵は掛けられるが、合いカギもあるだろうし、怖くてほとんど眠れなかった」と言うではないか。

 

まさか夜這いなどしはしないだろうが、美しく若い彼女としては、こんなことは世界どこでも経験しなかったことで、音がするたび、震えたとしても無理はない。

 

しかし一人しか客がいないなんて。

学生時代ユースに私も泊まったことはあるが、そんなユースはなかった。

今は若者のニーズも変わり、特にシーズンオフ(と言っても11月末であったと思う)にはこんなこともあるのだろうか?

 

外国人は自分を常に守る術が少なくとも日本人よりは身に付いてはいるが、これは怖がりとかそういう問題ではなく、危険から身を守る意識なのだろう。

 

それにしてもフランス人にして背が高く、元気いっぱいの彼女ではあるが、コインロッカー事件で泣いたことなど、やはりまだ20歳そこそこの可愛い一面を見た思いであった。

 

 

帰るとき、「フランスにはいつ来る?私はパリだけど、両親はボルドーの近くに住んでいるから、大歓迎よ」

「それにうちのお父さんは、フォアグラの缶詰め工場を経営しているの。小さい会社なんだけどね」「ほぉ、フォアグラの缶詰・・」

「フランスに帰ったら、おいしいフォアグラを送るから楽しみにしていてね!!」

 

ずっと待って、もうそろそろ6年目になるけど、まだ到着しないフォアグラである。

 

 


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