フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

カテゴリーの説明

カテゴリーは居住地によって分けています

最初私は彼をフランス人だと思っていた。

2013年03月31日 | パリ16区

ジョルジュはフランスで外交官として仕事をしてきたそうだが、フランス語もさることながら英語が得意なこと、一番最初にレバノン料理の店に連れて行ったくれたこと、中東の金持ちがたくさん住んでいると言われる16区の高級アパルトマンに住んでいること、などの全てが「レバノン人」と符合した。 

彼は弟さんより色が白く、私には「白人」にしか見えず、外見からはフランス人と見分けがつかなかった。フランス人から見れば、中東の人間であることが解るのかもしれない。彼の苗字に当たる「スカフ」もフランス人には無いのだろう。 

弟さんとフーケで別れ、ジョルジュの招待でランチに行くことになった。彼が言うには「フーケは有名で昔は料理も美味しかったが、今はそれほど美味しくない。」と言った。

私がフーケでの食事を期待しているのかと思っての発言だろうが、日本人のブログでそういうことを書いているのを読んだことがあるので、別に異論は無かった。 

それから彼について行った。高級ホテルのジョルジュ・サンクの前を通って目的のレストランに入った。ここに彼は良く来るらしい。室内の装飾はアール・ヌーヴォー調で統一されており、なかなか高級感のある落ち着いた雰囲気だった。彼が「遠慮なく写真を撮ってもいいよ。」と言うので、室内の装飾や料理を撮らせてもらった。

アール・ヌーヴォー調の室内装飾

料理が来る間に、彼はポケットから折り紙を取り出し、鶴を折った。店の人もそこで私達に注目したようだ。ハートの折り紙も折り、心臓の鼓動のように動かして見せてくれた。

折り紙をするジョルジュ

ジョルジュの折った折り紙(孔雀)

ジョルジュの折った折り紙(ハート)

これまでにも書いたように、折り紙は彼の趣味の一つである。 

メインはサーモンのタルタルで、パンも綺麗な皿の上に乗って出てきて、食欲を誘った。

サーモンのタルタルなど

綺麗なお皿に乗ったパン

デザートはこの店の評判のスフレを注文してくれた。彼は何時もそうだが、コース料理を頼まない主義だ。それが「通」の方法らしい。常にアラカルトであり、彼がこれまで美味しかったものの中から推薦し注文してくれる。このスフレも「ここのスフレは美味しいから是非食べるように」とのことで、本当に絶品だった。

美味しかったスフレ

 

御馳走になり、そのレストランを出てからすぐ、再会を約して彼と別れた。彼はもう自身では日本に来ないようだ。独身で道中の面倒を見てくれる伴侶もいないし、高齢で体力的に慎重になっているからだ。私がまたフランスに来ることを強く望んでいた。 

ジョルジュとのこれまでの8年ほどの付き合いでも「彼女」の気配は全く感じない。そのことはフランス人と大違いだ。彼は一人でさみしいに違いない。日本の物の収集趣味もマニアックで、一人自分の中で完結している。日本の有名人も幾人か彼のアパルトマンに来たことがあるようだけれど、その後交流が続いているようでも無い。 

ところでこれまでの付き合いで解ってきたことの一つに、彼は少し「我儘」なところがある。また平和ボケしている私と違って、中東出身人として厳しい環境の中で生き抜いてきたのだから当然なのかもしれないが、「疑い深い」ということもちらっと感じている。 それに最初気がつかなかったが、偶に「見え透いた小さい嘘」をつくことも解ってきた。

そのような彼であり年齢も経済力もかなり私と差があるが、とにかく私はこれまで彼の心の中から排除されず、まだ一定の位置を占めているようだ。彼は私がフランスに行くたびに歓迎してくれ、食事に誘ってくれ、楽しそうに話してくれる。彼は日本と日本人、日本の文化が大好きなのである。しかしその理由の一つに日本人が彼を中東人として差別しない(外見上区別できないことも含む意味で)ことがあるのかもしれない。

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シャンゼリゼのフーケでの待ち合わせ

2013年03月21日 | パリ16区

翌日、エリックの家を出てバスに乗ってオペラ座まで行った。こうして毎日友人を訪ね、時々友人にお任せの観光をすることの欠点は、自分の自由な時間が無くなることである。 

これはある意味贅沢な悩みだが、今日はその埋め合わせにオペラ座からジョルジュと約束したフーケまで散策することにした。

オペラ・ガルニエ

 

オペラ座からヴァンドーム広場に抜ける通りの両側には、高級ブティックが並び、ショーウインドウも垢ぬけしている。

センスが光るショーウインドウ

 

ヴァンドーム広場は、リッツ、法務省、シャネル等の高級店も並び、豪華な広場である。中央にはナポレオンがプロシアの大砲を潰して建てたという柱が建っている。勿論天辺にはナポレオンがイタリアの方を向いて立っている。彼はどうやらかつてのローマ帝国にあこがれていたらしい。つまりローマ帝国の皇帝のようになりたかったわけだ。 

ちなみに、このフランス史上の英雄に対する現代のフランス人の評価は、聞いてみると必ずしも良くない。いや、肯定的な評価の人に未だ出会ったことがない。

理由は「彼は戦争をあちこちでして、多くの人命を奪ったから。」と言うのがおよその意見である。

「もし彼が現れなかったら、フランスはどうなっていただろうか?」と考える人はいないのかな? 

大体ほとんどの人から良い評価を聞けるのはドゴールなのだが、今名誉回復中なのは多分ジャンヌ・ダルクだろうと思う。 

右はホテル「リッツ」その向こうはは法務省

旧海軍省

さてヴァンドーム広場を抜けて西を向いて歩き、マドレーヌ教会の前に出て、そこから今度は再び南向いて歩き、コンコルド広場に出た。ここはシャンゼリゼ通りの東の端になる。

マドレーヌ教会

コンコルド広場(昔マリーアントワネットが処刑されたところ)

そしてシャンゼリゼ通りを凱旋門の方へ左側の歩道を歩いた。 

かなり歩いてようやく約束のフーケに着くと、丁度ジョルジュもやってきたところだった。

ジョルジュはそこで彼の弟のミッシェルさんとも会う予定だったようで、既にそのミッシェルさんはフーケの屋外のテーブルで待っていた。 

ミッシェルさんはレバノンのベイルートに住んでいて、ビルの経営をしていたが今は引退しているようだった。「お国の様子はどうですか?」と聞いたところ、(ベイルートの政治経済状況について)ズバリ一言「安定している。」とのことであった。私の知らない中近東の国の置かれている複雑、困難な環境をこの一言で感じ取った。

弟のミッシェルさん(左)とジョルジュ(右)

そのことよりも、この時兼ねてからジョルジュがフランス人でなく「レバノン人」では無いかと思っていたことが決定づけられた。 

弟のミッシェルさんが、「兄はねえ。あなたのことをとても好きなんだよ。」と言っていた。

フーケの入り口とジョルジュ

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ムッシュは「拗(す)ねた」

2012年03月04日 | パリ16区

パリ到着の翌日、凱旋門近くのアパルトマンから、16区の高齢のムッシュに会いに行った。

 

前年訪ねた時は会えなかった。アパルトマンの下まで行ったがインターホンに応答がなかった。管理人の女性に彼の様子を聞いたが、病気とかではないと言う話だった。

 

日本から電話をしても留守番電話のみで通じない。FAXしても返事が来ない。手紙では少し心の病気だと言うことだったが、こう言っちゃ何だがどうも怪しい。

 

その前の時パリに来た時に会って、帰るまでにもう一度会う約束をした。ところが旅程の後半になると、日程的に厳しくなり、「今回は会えなくなった。御免」と電話した。

 

私が考えるに、ムッシュはこのキャンセルを怒っているのではないか。ムッシュとしては「折角後半に会えると楽しみにしていたのに、他の人たちと会うので日が無くなったとはけしからん。」と言うわけだ。

 

つまり「拗(す)ねた」のだ。

 

さて当日アパルトマンに着いてみると管理人の女性が玄関のかぎを開けてくれて、部屋まで通してくれた。

そこで久しぶりにムッシュに会ったが、彼はまだ日本の浴衣を着たままだった。

 

彼は照れくさいのか、午前中は体調が良くないと言って早々に私を追い出したが、私のパリ滞在中の後半でまた会おうと言う約束になった。シャンゼリゼのカフェ「フーケ」で会うことになったが、彼の指定する待ち合わせ場所は何時もここだ。

今度すっぽかしたらもう絶交の可能性があるなと思った。

 

帰りにマルモッタン美術館に寄った。印象派のマネやモネなどの絵があった。

 

 

 

美術館を出て、パン屋さんでサンドイッチを買い、公園のベンチで食べたが美味しかった。

今夜のディナーは御呼ばれが決まっているので、昼はこれくらいが適当なのだ。

 

招待先は、その前年日本旅行の際に我が家の夕食に招いた時、しゃぶしゃぶを「美味しい。美味しい。」ともう一人のムッシュが呆れるくらい食べてくれたその「食いしん坊の・・・」という形容詞を贈呈したムッシュの家に行くことになっているのだ。

 

このムッシュは食いしん坊だけど、それだけに料理の方も相当の腕だと聞いているのだ。

 

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ジョルジュは本当に足をくじいたか?

2011年07月25日 | パリ16区

29回目の来日を果たした日本おたくのジョルジュの続きなのだが、ここで整理すると、初めて彼と会ったのが2003年の春だった。

 

 ブローニュの森に行くつもりの道すがら、疲れて少し休もうと入った小さなカフェで、偶然出会ったことは最初に書いた。

 

 2005年今度は私がフランスに行き、モンマルトルの小さいホテルに泊まっていた時、事前に彼に連絡しておいたから、彼からホテルにFAXが来た。

 「迎えに行こうと思うが、階段から落ちて足をくじいて行けない。家に来てくれ。」と書いてあり、アパルトマンのセキュリティのボタンの番号も書かれてあった。そこでタクシーで彼の家にたどり着き、指示通りアパルトマンの5階(日本の6階)でエレベーターを降りた。

 

 

彼の部屋のドアは少し開いていて、そこから聞こえてきたのは、琴の演奏である。ドアには平仮名で「おこしやす。」と書かれた紙がぶら下がっていた。

 

 

 その後の彼の部屋でのコレクションや、レバノン料理をごちそうになったことはすでに最初に書いたとおりである。

 

        

                

 

 ただ最初の時に書かなかったのだが、この時のことを振り返って考えてみると少し変なことがある。それはFAXには「足をくじいた。」と書いてあったことから始まる。だから車を運転して迎えに行けないという意味のはずだ。ところが彼は足に何もおかしな様子はない。

 

それどころか彼は、立派な高級車(BMのオープンカー)を運転してレバノン料理の店に連れて行ってくれた。(高級な店で、玄関に乗り付けドア近くにいる店の人に彼が鍵を渡すと、店の人は車を運転してどこか駐車場に止めに行った。帰りも玄関で待っていると、店の人がどこからか玄関まで車を運転してきたのを覚えている。)

 

 要するに彼は、足などくじいていないのだ。

じゃなぜ彼はうそを言ったのか。

 

ここからは私の想像である。

 

パリはやはり地域によって住んでいる人の階級が違う。所によっては高級住宅地であるが、その反対もある。

彼は警戒心が強いに違いない。と言っても別に私の泊まっていたホテルは上品なマダムとムッシュが経営する落ち着いたホテルだったし、その近辺の治安は悪くはなかった。

だが一歩離れると、よろしくないところもある。かれは自分の行動範囲を決めているに違いない。(いろんな人が乗るメトロなどは利用しないに違いない。)

 

フランス人でも外出時は自然と警戒の心を引き締める。それでもスリに遭ったりするくらいである。

だがここに彼のもう一つの事情がある。やがて私はそれに気づく。それはいずれ明らかになって来る。

 

 そしてその2005年の秋、彼が日本にやってきた時のことを、京都奈良での様子に分けて書いた。

 

 その次は2007年のパリでの再会であるが、これを次に書くことにする。

 

 


「わがままジョルジュ」の奈良訪問

2011年07月23日 | パリ16区

さて「日本おたくのジョルジュ」の奈良訪問である。 

 

彼を11時に近鉄奈良駅で待っていると打ち合わせていた。

ところが11時になっても現れない。

彼は携帯電話を持っていないから、こちらからの連絡の取りようがない。

 

しばらくすると、私の携帯電話にJR奈良駅の観光案内所からS・ジョルジュと言う人が待っていると電話があった。

 

あわててJR奈良駅に迎えに行った。

日本通の彼も近鉄とJRの奈良駅が別の所にあると知らなかったみたいだ。昼ごはんは蕎麦屋さんに入った。京都では「権兵衛」に行っていると聞いていたからである。

彼はてんぷら蕎麦と、ご飯を注文した。ところがその店にご飯は無かった。

どうやら「権兵衛」でもそういう取り合わせで食べているみたいだった。

 

天ぷらもなく、野菜の揚げ浸しとおそばを頼んだ。

健康に気をつけている彼は野菜を取るよう心がけていて、この野菜浸しだけが気に入り、お代わりしたいと言った。本来はこれだけのお代わりは無いのだが特別に作っていただいて、ご満悦であった。

 

                                       

 

食後、一刀彫の作家の所へ案内しようとした。

事前に作家さんにお願いしておいたのだ。

ところが彼は「NotInteresting」と言う。

京都で一刀彫の話をしたし、案内すると言っておいたはずなのに「興味が無い」と言う。

 

これには参った。

すぐにその作家さんに御断りの電話を入れ陳謝した。

工芸品好きの彼に奈良の伝統工芸を見せたかったが、取りやめになった。

私はこのことで少々気分を害したが、無理に連れて行くこともできない。

それ以来、彼に秘かに「わがままジョルジュ」と言うニックネームを贈呈した。

 

まず正倉院展を見に行った。

日本の和紙の収集など、伝統工芸品に興味ある彼は正倉院の宝物を熱心に見ていた。

ただ経典にはあまり興味がないようだった。

 

1300年もの間、素晴らしい保存状態で残っている和紙に書かれているのだし、漢字にも興味を持っている彼にしては不思議な気がした。

まあ「わがまま」なのだ。

博物館を出たところで、天平時代の女性の衣装を着た若い女性がいたので、記念に彼とツーショットの写真を撮ってあげた。

 

                                     

 

意外と彼はシャイで、後で写真を見ると真面目な顔で緊張している風にさえ見えた。

フランス人ならもっと喜びを表現し、リラックスするだろう。

(フランス人らしくない行動だ。これは後で述べる。)

 

この後大仏殿に行った。

ひと通り大仏殿を見て中門の所にまで帰ってきて、彼は「やっぱり美しい。もう一度しっかり見ておこう」と言いながら、大仏殿を目に焼き付けるように振り返り、じっと見ていた。

 

                   

 それから、奈良ホテルに連れて行った。

日本の皇室に興味がある彼に、このホテルは皇室の方が来られたら必ず泊まられる格式の高いホテルだと説明した。

 

彼は気に入ったらしく、今度日本に来た時は泊ってみたいと言った。

そして夕食を一緒にしたが、仲居さんが愛想がよく、気に入ったようだ。

独身の彼にとっては、一つの楽しみのようである。

                                      

健康のため三条通りを歩いて帰るからと、足早にJR奈良駅に向かって一人で帰って行った彼はその時元気だった。

 

しかし彼からやがて「日本に行きたいのだが健康の問題で行けない」「こちらに来てほしい」という手紙やFAXが来るようになった。

 

この「わがままジョルジュ」が再び大仏殿を訪れ、奈良ホテルに泊まる日が来るのかどうか今のところ全く見通しが立たない。

 

                

それだからこそ無意識のうちに、彼は大仏殿を大切に目に焼き付けたに違いない。

 


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