フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

カテゴリーの説明

カテゴリーは居住地によって分けています

生まれたまんまの「ワイルド・ミッシェル」

2011年06月14日 | ローヌ・アルプ

この人とは偶然リヨンの街で出会った。

 

前日までお世話になっていたヴィエンヌのムッシュに、リヨンで食事するならどこがいいかと聞いたら、あるレストランを教えてくれた。

そのレストランを探してどうやら近くまで来たのだが、もう一歩と言うところでよくわからない。

そこで偶然、通りかかった年のころなら40歳前後の彼に聞いたのである。

すぐそこに目指すレストランがあることは判った。

 

そのまま少し立ち話になった。

 

私に向かって「日本人?」・・・日本人だなとは思っていたらしい。

 

「中国には仕事で行ったが、日本はまだだ」

「ところで、南京大虐殺って本当にあったのかい?」

いきなり南京大虐殺の質問には驚いた。

「・・・うーん、真実は判らないけど、残念ながら戦争中のことだし、あったかもしれないと言われている

 

「そうかい。ところでそのレストランよりもっと眺めがよくておいしいレストランを知っているよ。私のオフィスの近くだから行くなら乗っていくといいよ」

「有難う。でも昨日友達からこのレストランがいいと聞いたから、こっちにするよ」

というようなことで名刺を交換して別れた。

 

正直行きずりの初対面だったし、人の良さそうな感じだったけど、そのまま彼の車に乗る勇気がなかった。

 

予定通りのレストランに行きランチしたが、おいしかった。

隣の席にかわいい4歳くらいの女の子とその家族がいたので、折り紙を上げたりして、楽しかった。

 

しかし先ほどのムッシュの言ったレストランも気になり、聞いた住所を頼りに探しに行った。

かなり離れていたし、坂道を登らないといけないようなところであったが、なんとか見つけた。

中をうかがうと、客層も良さそうだし、表示してある価格も高くないようだ。

あのムッシュの言った通りの良いレストランだった。でも時間の都合で中には入らなかった。

彼は「ミッシェル」というごくポピュラーな名前の人だった。

帰国してからメールでやり取りするうち、だんだん彼のことが分かってきた。

 

独身だということ。

環境に関係する会社に勤めている事。

そして何より彼は「自然派人間」であることだった。

 

休暇にはかなり僻地に行くようだ。

サバイバルのように河を一人でボートで上って行った写真などを送って来る。

 

どうもその写真をよく見ると、時には身に何もつけず、生まれたまんまの姿でいることもあるらしい。

周りに誰もおらず、彼一人だけだから問題はないわけだ。

 

このことにより、私は他のミッシェルさん達と区別するため、彼に「ワイルド・ミッシェル」というニックネームを贈呈した。

 

こちらがアドレスを変えてから、メールが途絶えているが、きっと元気にしていることだろう。

一度またメールを出してみよう。


先斗町での出会いからフランスの15世紀の農家の家へ

2011年06月05日 | ローヌ・アルプ

この家族との出会いは、京都は先斗町であった。

夏の終わり、京都に出かけ、先斗町に急ぐ舞妓さんを見かけ、カメラに収めようと路地を入ったところに、ある外国人の家族もまた同じようにシャッターチャンスを狙っていた

最近は舞妓に変身と言うものもあり、私はだいたい本物かどうかわかるが、外国人には難しいときもあるようだ。
一つ、見分ける方法として、本物は「足早」に歩くということである。
「おこぼ」に慣れない変身舞妓には容易ではない。

と言うことで、この時も逃げるように歩く舞妓の後ろ姿を何とか収められ、お父さんは満足げに笑っていた。
横には小学生の低学年くらいの姉妹とお母さんがいた。

聞けば、二年の赴任を終えてニューカレドニアから帰国する前に日本に寄ったと言うことだった。
日本からは直行便があるが、フランスとニューカレドニア間は、どこかを経由することになる。
そんな機会に日本に立ち寄るフランス人も少なくなく、
私の知り合いも数人このような経路を取っている。
そしてその多くは教師として赴任していて、このお父さんもそうであった。

帰国後はTGV地中海線で、パリからちょうどアヴィニョンの少し手前で停車する駅「Valence」から、さらに車で20分くらい走ったところの古い農家を改装しながら住み、その改装の途中経過をメールで報告してもらいつつ、交流を続けた。



この出会いから二年後の渡仏の際、例によって、「よかったらうちに泊まって。」との申し出があった。
かなり田舎であることが想像されたので、日程に余裕がなく、「リヨンとアヴィニョンに行くけど、今回は会えそうにない」と返事をすると
「それならリヨンかアヴィニョンまで会いに行きましょう。でも15世紀の農家の家に興味があれば、いつでも歓迎するわ」と言われた。

二回も申し出があるのは社交辞令でないことはわかるし、わざわざリヨンやアヴィニョンに会いに来てくれるという気持ちが有難い。
何より、15世紀の農家の家に興味を持った。
「一泊になるけど、行かせてもらう」と伝え、楽しい滞在をすることになる。

リヨン観光を終え、Valenceの駅に迎えに来てもらう。
ここでまた一抹の不安は先斗町で会った時、お母さんと娘二人の写真は撮ったが、お父さんの写真はなく、顔を忘れてしまっていたことだ。
ホームでは覚えのあるお母さんと二女、お父さんの三人が迎えてくれた。
「そうそう、こんなお父さんだった」

二女は車の後部座席のベルトの仕方を教えてくれた。
ちょっと緊張もしているようだが、ガムをくれたり、人懐っこそうな女の子だ。



長女はこの時、学校からキャンプに行っていて、その日の夕方帰ってきた。
ちょっと恥ずかしがりやでシャイな印象を受けた。

この姉妹、短い滞在中しょっちゅう喧嘩をして泣いたりもするのだが、何ともほほえましい。
お母さんと一緒の時には姉妹のようにも思える母娘であった。

驚いたことに、このお母さんは、フランスでは珍しい(しかも若い世代で)専業主婦であった。
にもかかわらず、家事は一切しない。
ご主人がすべて担当だ。家の改装も、料理も、掃除もだ。



では、お母さんは何をしているのか?
それはこの家を見学して分かった。
アトリエのような部屋があり、そこは彼女の好きな絵を描く部屋だった。
もちろんプロではない。
素晴らしい絵に思えたので「売れるのではないか」と言うと「売ってくれと言われたことがあるけど、売らないの」
アメリカ人の父親との米仏ハーフで、おおらかで明るくて少女のような彼女の別の一面を垣間見た気がした。
「お金のために絵は描くことは彼女の本意ではない」のであろう。
大げさだが、「真の芸術家」のように思えた。

お父さんは「先生を教える先生」と言うことで、地理が専門で、部屋の至る所にたくさんの国に旅行して集めた珍しいものが見られた。

この半年後また彼らはニューカレドニアに赴き、今年のお正月にはぐっと大人びた姉妹の写真を送ってくれ、自然を満喫している彼らの様子がうかがえた。
もう女の子と言うよりは「小さなマドモアゼル」であった。

さて、この家族に次に会えるのはいつだろう?


ヴィエンヌの3人家族

2011年05月27日 | ローヌ・アルプ

グラブソンを発つ朝、あいにくの風(ミストラル)で屋外での朝食は出来なかった。

アルザスの3人組も前日に去ったが、建物の中で食卓に着くと新しい親子連れと一緒になった。
若い夫婦とかわいい6歳の男の子の3人だった。

折り紙をあげるとすぐに仲良しになり、メールアドレスを交換した。
男の子の写真も撮った。
かつて繊維の街、そしても今も食の都として知られるリヨンから少し南に下ったヴィエンヌという駅の近郊に住んでいるという。

時間にして30分ほどあったかどうかの出会いだった。


帰国してからもメールの交換やカードの交換もした。むこうからヴィエンヌを中心としたローヌアルプ地方の写真集も送ってきた。
是非次回フランスに来たら家に来てほしいということだった。
お返しに男の子へ浴衣を送ったりした。


翌々年、いよいよ旅の途中この招待を受けることにした。
待ち合わせはリヨンの駅(Lyon Part-Dieu)の売店前と言うことだった。

ここに一つの問題があった。
実はシャンブルドットで会った際、男の子の写真は撮っていたが両親の写真は撮っていなかった。
つまり両親の顔は、忘れてしまったのである。

迎えには奥さんが来てくれるという。
まあいいか、日本人はおそらく私だけだから、向こうが先に気が付いてくれるだろうと思った。

実際その通りで、にこやかに彼女は寄ってきてくれた。会っても「こんなマダムだったのか」と、まるで覚えてなかったのだ。
やれやれである。

ヴィエンヌの駅からもかなり離れたところではあったが3階建の広い家だったし、周りは農地で環境は良かった。

男の子は浴衣を着て待っていてくれたが、成長が早くもう短くなってしまっていた。
ヴィエンヌの小学校に通っていて、登校時は奥さんが出勤時に送っていき、下校時は人を雇って家まで送ってもらっていた。
奥さんも公務員で忙しい身なのだ。

ここで「アペリティフ」というものに初めて気がついた。
正式の食事前のおつまみみたいなもので、シャンパンもでる。

考えてみれば、それまでもこの「アペリティフ」はあったなと気がついたが、同じ部屋でテーブルを移動しただけだったので、そう気に止まらなかったのだ。
ここでは食事のテーブルとは別の場所でこの「アペリティフ」をし、その後正式の食事のテーブルのある部屋に移動したから、移動後にはっきりと「おや?さっきのは?」となったのだ。

あまり「アペリティフ」で食べ過ぎると、せっかくのおいしい本番で困ることもわかった。「アペリティフ」で沢山つまみのようなものが出るけれど、それは少しだけにするのがよいようだと学習したのである。


奥さんも勤めているから私の面倒をみるのも大変だっただろうが、休暇を取ってリヨンより少し北東のペルージュに連れて行ってくれた。

そこは中世の香りがする小さい村だった。何でもクリントン大統領も来たそうで彼らが食事したというレストランもあった。
私たちは、昼食にガレットを食べた。ブルターニュのガレット(そば粉で作ったクレープ)とは違い、少しケーキ状(パイ?)のガレットである。


またヴィエンヌの夫婦は、学校の休日にスイスとの国境の街アヌシーへピクニックに連れて行ってくれた。
湖があり、高級避暑地でもある。

その湖畔で、シートを広げアヌシ―の街で買ってくれたパンやソーセージ、チーズ等を食べた。
男の子は習っている空手の型を見せてくれた。
フランス風ピクニックも、これが初めての体験で、素晴らしい思い出である。

ご主人は、フランス人としては背が高いので、出身を尋ねると、やはりベルギーとの国境近くの生まれであった。静かで穏やかな人であるが、エレキギターが趣味だという一面も見せてくれた。
またフランス人にしてはハードに仕事をしており、責任あるポストということもあり、なかなか休みも取れないようすであった。

最終日、リヨンを見物に行く私を奥さんは出勤途上リヨン駅まで車で送ってくれた。
駅に上るエスカレーターの前でお別れした。
エスカレーターに乗りながら、そして降りてからも駅の上から振りかえっても、彼女はさっさと車のほうに歩いてゆくのが見えるだけだった。

ここでもフランス人は振り返らないことを改めて思った。
それにしても3泊4日の私を、忙しい中よく面倒見てくれた奥さんだった。
全力で歓迎してくれ、やるべきことを果たした彼女は、今ひたすら前を向いて帰っていく。
いつかこの家族が日本に来たら、この時の恩返しを精一杯したいものである。


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