フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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ピエル・フォン城はいい姿をしていた。

2013年02月21日 | パリ15区

このままパリへ帰るのも惜しいので、コンピエーニュの街に別れを告げたあと、

エリックの運転でピエル・フォン城へと向かった。 

ものの本によれば、もともと12世紀にはここに城塞があったと言う。それから色々城主が入れ換わったが、荒廃し、廃墟(はいきょ)となって放置されていたところを、1813年にナポレオン1世が買い取り、ナポレオン3世が当時の高名な建築家ヴィオレ・ル・デュックに再建を依頼、84年に完成したとのこと。

修復前の荒れたピエル・フォン城

現在のピエル・フォン城

城の内側の庭

ナポレオン3世

 

なお、ヴィオレ・ル・デュックはフランス南部のカルカッソンヌ城も修復したと聞いている。

この人がヴィオレ・ル・デュックさん

 

外観は、ほぼ往時の正確な修復とのことだが、小高い丘の上に立つ城を見上げると実にきれいだ。あのカルカッソンヌの豪快な城とはまた違う姿だった、 

お城の売店に中世の騎士の兜のお土産品があった。エリックはそれを私に被らせた。堅い仕事(エンジニア)で真面目そうなのに、こんなユーモアもある。売り物なので普通はいけないことなのに、店の人は大目に見てくれたみたいだ。エリックの人徳のおかげらしい。

 

 

お城を出てから、近くのカフェでお茶をして休憩した。このお城は、コンピエーニュからのバスの便が少ないらしい。彼等のおかげで時間を気にすることなく見物出来た。 

パリに帰ってから彼等の心づくしの夕食となった。

イカ飯

ズッキーニの詰め物

一応ご飯

おいしいパン

アイスクリーム

夕食後、持参した羊羹をお菓子に、抹茶をたてた。

エリックとイザベルは神妙に、飲んでいたし、お茶碗の拝見の作法なども、エリックはちょっとユーモラスではあったが素直にやっていた。

お茶を立てるイザベル

 

指で清めるエリック

拝見するエリック(実はカフェオレボール)

彼等は山登りが好きであるが、エリックは野外の料理のライセンスも持っていると、その免許を見せてくれた。

野外料理のライセンスを得意そうに持つ

野外料理のライセンス

エリックは料理が好きなのだ。

アパルトマンに置くことが出来る小さいワインの冷蔵庫も見せてくれた。

こうして楽しい夜は過ぎて行った。

翌朝、私は荷物をこの家に置かせてもらって、ソフィアン君とジョルジュに会いに行くことになる。

 

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「老後は京都に住みたい」と言って両親を驚かせた彼

2013年02月09日 | プロヴァンス

ちょうど奈良では「おんまつり(春日大社若宮の祭礼)」があったので、一緒に出掛けた。

時代行列を見て、たくさん写真を撮っていた。 

大阪へはフグを食べてみたいということで、クリスチャンと一緒に行ったお店を教えたがシーズンで「高かったので、ひれ酒と白子だけ食べたが、絶品だった」と言っていた。

白子なんてフランスでは食べるのだろうか? 

彼はとにかく食べるものは軍隊で鍛えられているので、なんでもトライする。

帰ってくるなり「最高においしかった」と、嬉しそうに言った。

最後の日に京都へ出かける前、「京都はそんなにいいところ?」と聞いてきた。

「長く都があったので、日本文化が集約されている」と答えた。

金閣寺、銀閣寺、南禅寺を見て帰ってきた彼の感想は「京都は素晴らしい」だった。 

実はつい最近のメールでは、両親と将来のことなどを話し、「老後は京都に住みたい」と言って両親を驚かせたそうだ。

彼はすっかり日本のとりこである。

 

こんな彼の二度目の滞在は、スムーズに見えた。

しかしやっぱり最後に一つの出来事があったのだ。 

実は彼のクレジットカードが使えなくなって、九州で滞在費を払うとき、その家の外国人の奥さんがフランスの銀行に電話を掛けて、口座間移動のような形の手続きをしてくれたので、払うことが出来たということだった。

キャッシングも出来なくて途方に暮れていた彼を信用して、少しの日本円を貸すことにした。 

「帰ったら必ず送る」という彼の言葉に嘘はないと思ったが、フランス人は「帰ったらプレゼントを贈る」と言っても送られてこないことが多い。悪気がなくても忘れることもあるから一抹の不安はあったものの、信用した。 

実際は帰国してから、すぐに送ってくれたのだが、このことについて彼だけでなく、ご両親が「自分の息子を信用してくれてありがとう。言葉が見つからないほど感謝しています」と言ってくれたのだった。

このことで私とジュリアンだけでなく、ご両親との絆も出来、リタイアしたら二人で日本に来たいと言ってくれている。

そして彼が両親の家に帰るたびに、私のことが話題になるそうで、嬉しい限りである。

 

三度目の来日はこれから半年もたたない、翌年の四月だった。

それは東日本震災後、多くのフランス人も来日をキャンセルしたなか、彼はやってきてくれたのであった。

この彼の気持ちは、日本へのエールに思え本当にうれしく、心からおもてなしをさせていただくことになる。

 

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元貴族の館は「マンション」だった。

2013年02月02日 | パリ15区

すぐにイザベルが「自分の(食べる料理)を撮っているだけよ。」と反論してくれた。そうするとそのおじさんはもう何も言ってこなかった。

「いいよ。撮っても」とエリックも言うので、私はそのあとも写真を撮り続けたのだった。こういう場合、マダムの発言は大きいものがある。 

エリックやイザベルにとって私は彼等の「お客さん」である。その彼等のお客さんが他人からとがめられたのであるから、それはとりもなおさず、彼等がとがめられたことになる。

だからこれにはエリックもイザベルも、ちょっと怒ったのだ。だが相手が沈黙したので、彼等も気分を切り替えもう相手にせず元の状態に戻った。

別にフラッシュを焚いて撮っていたわけでもないし、わいわいがやがや騒いでいたわけでもない。お店の人も私が写真を撮っていることは知っていたが、何も言わなかった。むしろニコニコしてサービスしてくれていた。 

それにしてもあのおじさんはどういう考えでああいうことを言ったのだろう、どうして私が私の料理の写真を撮ることが気に障ったのだろうとの疑問は当然残った。 

このレストランはそんなに堅苦しいところではない。これまでもっと高級なレストランやカフェにいったことがあるが、写真撮影で注意されたことは無かった。(ちょっとどうかなと思う時は、同行のフランス人に撮っていいかと聞くことにしている。)店の人がシャッターを押してくれることさえある。 

そうすると原因は一つしか思い当たらない。コンピエーニュでは日本人は見かけなかった。つまり田舎なのだ。保守的で黄色人種に対する偏見があったのだろう。あのおじさんは、きっと私が東洋人だとは思っただろうが、日本人か中国人かも判らなかったのではないだろうか。要するに黄色人種が嫌いなのだろう。 

料理は美味しく、店の人も親切だったし、よい雰囲気の店だった。エリック達と一緒でいたおかげで、それ以上どうと言うことは無かったが、やはり気分が少し壊された。 

イザベルは日本に来て川崎市で数年仕事をしたことがある。その時彼女は日本人が礼儀正しく親切な人種であることを身を持って体験したに違いない。

彼等が親日的なのは、日本人がどういう人間かよく知っているからであり、単なる異文化へのあこがれや物珍しさ等からではない。そうして有り難いことに、彼等が持っている日本人のイメージに、私は叶っているのであろう。 

それから私達はこのコンピエーニュで、広い敷地の元貴族の家がいくつもある辺りを散歩した。

元貴族のこれらの大邸宅を、フランスでは「マンション」と言うらしい。

日本のマンションとは全然意味が違うようだ。

 

これは日本料理を標榜した?レストラン 中国人かベトナム人の経営か?

この看板の鳥居の形が変なので怪しいわけ

日本の「本」と言う字もあまり使わない字だ。

この後私たちは、ピエール・フォン城へと向かった。

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