春にはアンリの奥さんのアニエスの紹介で、この二人がやってきた。
シンディは、アニエスが勤める中学校で体育の教師をしている。
左がエレーヌ、右がシンディ
友人のエレーヌは、数学の教師だ。と言っても同じ学校ではなく、特定の学校、いわば塾や家庭教師のような先生だという。
彼女たちを駅に迎えに行くと、大きなスーツケースを持っているので、「タクシーで行こうか」と言ったが、「大丈夫」という。
そして大きな荷物があると20分近く歩いてかかる我が家までが、遠く感じる。
その荷物をずっと運んだのは、シンディだ。エレーヌはまるで自分の分担ではないというように、手を貸そうともしない。
シンディは体育会系だが、やはり荷物は重そうだった。
シンディはハキハキとしている。エレーヌはニコニコ笑っているばかりだ。
彼女たちは、お昼前に奈良に着いたので、昼食を済ませてから奈良の街へ出かけて行った。歩いて東大寺へ行くという。
9日間の奈良滞在のスタートだった。
彼女たちは30歳前後なのだが、食事については日本食だからというのではなく、かなり好き嫌いがあった。
シンディは子供の様に、ピーマン、ナス、ホウレンソウ、ネギなど食べないし、エレーヌは甘いものがダメだった。
日本食は生魚もOkだし、おからや豆腐料理は好物だった。餡も好物で、わらびもちも食べていた。
翌日は、もう一日レンタサイクルで奈良へ。ランチには豆腐料理を食べたそうだ。
明るい彼女たちと夕食時間に一日の出来事を聞くのは本当に楽しかった。
着物を着てご機嫌の二人
大阪に行き、大阪城付近で「アイラブユー」と抱きつかれたとか。
その日本人の男の子は知らなかったのだ。シンディは空手の有段者(フランスでも黒帯)だと言うことを。
近所の空手道場へ見学に行きたいという彼女について行った話は、また次に。
そうそう、この来日は、当時彼らの13歳の孫、マテオも一緒だった。
彼らは三度目の日本だが、マテオはもちろん初めてだった。
一年前に不慮の事故で長男、つまり孫の父親を亡くし、今は母親と住んでいるということだが、その孫の寂しさを慰めるための旅行でもあった。
カトリーヌはさまざまな問題を抱える子供の教育をしていて、今は退職、Jフランソワは会社員だが、フランスのフォスターペアレンツ(養子縁組)の協会の会長をしていることもあり、長男については聞いたことがないが、二男のソフィアンは養子縁組で引き取られ、彼らの深い愛情で育てられていることがよく解る。
今回、東京で5種類くらいのアルバイトをして、生計を立てているという話や、「お父さんが本を読みなさい。」というので、最近読み始めたという村上春樹の本を持っていた。見た目はいまどき風の若者であるが、両親を尊敬していて、素直にその言葉に従っているようだ。
もちろん「思春期は難しいこともあった。」と、母親のカトリーヌが言っていたこともある。
彼らと奈良を一緒に歩き、冬季に興味を持っているJフランソワは、とりわけ備前焼がお気に入りだという。
記念に奈良の小さな店で見つけた備前の徳利を持って帰って行った。
彼は日本酒それも熱燗が好みだそうで、家にはたくさんの日本酒の空き瓶もあり、瓶の形がいいので捨てられず、それに水を入れて冷蔵庫に保存されているとつい先日一人でやってきたソフィアンが言っていた。
Jフランソワがおそらく日本が好きで、その影響をソフィアンが受けたのではないかと想像される。
Jフランソワは日本語の勉強もしていたが、最近のメールによると何とカトリーヌも勉強を始めたという。
今はフランクフルトの日本企業で働くソフィアンは、初来日の2008年から先日の再会でも成長の跡が感じられ、両親もまた喜んでいることであろう。
まだパリの郊外に住む彼らの家を訪ねたことはないが、近々実現しそうで、楽しみにしている。
2011年の年末・年始にやってきたのは、この親子だった。
手狭な我が家ということで、息子だけうちで泊まり、両親はすでに奈良の宿を予約しているとの連絡があった。
「この宿はどうだ?」と、もう予約の済んだ後に連絡があった。
確かに良さそうな宿ではあったが、かなり不便なところなのでそう言ったが、、「静かなところがいいので問題ない」ということだった。
息子は東京在住だったので、一緒に奈良に来るのかと思いきや、両親は新幹線、息子はリーズナブルなバスで別々にやってくるという。
両親が到着、そしてすぐにSOSの電話があった。
「ここはあまりにも離れすぎている。宿を変えたいのだが、宿のオーナーと話をしてもらえないか?そしていい宿を知っていたら教えてほしい。」だった!!!
だから言ったではないか。とは言わなかったが、「そうでしょ。わかった。電話を代わって」と、彼らの代わりに話を聞くことになった。
オーナーはいい方で、「キャンセルは受けます。」と言ってくれた。
料金の支払いはどうなっているのか、再び彼らに聞いてみたところ、パリの旅行社にすでに支払い済みだが、それは彼らが帰国後交渉するということだった。
別の宿探しをすることになったが、年末ということもあり、彼らの希望する日本らしい宿でかつリーズナブルなところで、しかも便利がいいところは、満室。
JR奈良駅前のビジネスホテルで辛抱してもらうしかなかったが、これはやむを得なかった。
私も彼らを迎えに行くには、遠すぎたので、とにかく奈良駅で会おうということにした。
普通なら当日のキャンセルは違約金が発生する。
帰国後うまく交渉できたか、聞いてみたがそれについては返事がなかったので、どうなったかはわからない。
自分の目で確かめてもらうしかないほど、今の私にはフランス人を説得する語学力のまだないことが、今回のことでもわかった。
それらがやっと落ち着いた頃、息子が奈良に到着。一緒に夕食になったのであった。
11月になって、食いしん坊のクリスチャンの奥さん(ジョエル)の友人が、世界を旅するということで、紹介されやってきた。セリーヌと言う女性だ。
彼女は、「コーチ・サーフィン」という制度を利用して、各国を旅していた。基本的にそういう登録者のところでは、無料で宿泊が提供されるそうだ。
日本ではあまり知られていないので、登録者は少ないと言っていたが、私も初めて聞くシステムだった。
彼女が京都から奈良にやってきたとき、その「コーチサーフィン」で知り合ったドイツ人も一緒に泊めてもらえるか?という。北海道にいたとき、彼がカードでお金を引き出せないので貸すことにしたのが、JRパスを持っているから、それを乗り継いで来るから、ここへの到着が夜中になるという。
こういう時、フランスではなんというのだろう。「Quelle aventure!!」(なんという冒険)とでもいうのだろうか、来る方も、またそれを受け入れようとする私も?
ジェエルの友人なので、彼女を信頼してOKした。
私が眠っているうちにやってきた客人は、朝遅く起きてきた。顔を見ると、安心できた。
彼らは英仏チャンポンで、会話をする。どうやら、ドイツ人はフランスの悪口を言っているらしい。
私は黙って聞いていたが、最後に言ってやった。「でもあなたの顔はフランス人みたいね」と。(笑)すると彼は「そうなんだ。それが僕の欠点だ」と、大笑い。
このドイツ人は、どうやら、国連に勤めていたらしいのだが、どういうわけか、今は世界をさすらっているようだった。
彼は、原発事故やその食べ物への影響などにも関心があり、私に質問をしてきた。分かる範囲で答えたが、彼はそのことで、「なんて、正直なんだ。今までそういう答えを日本人から聞いたことがなかった。」と言った。
そういう彼は、菜食主義者で、食べるものも制限される。
セりーヌをJR奈良駅に初めて迎えに行ったとき、「サブウェイはないか?」と聞かれたのが始めは分からなくて、「奈良には地下鉄はない。」と答えていたのだった。
良く聞くと、「サブウェイ」というファーストフードのお店のことだった。そこではヴェジタリアンの人も食べられるマヨネーズぬき、野菜だけというアレンジができるのだそうだ。
その彼のために夕食は野菜だけのお鍋を用意したことで、彼はたいそう喜んでくれたのだった。
その後、アジアを旅して彼だけ日本に戻ってきたとき、「また泊めてほしい」と言われたのだが、あいにく先客があり、それは断ることになった。
しかし昨年春、セリーヌが叔父さんを連れて日本にやってきて、我が家に滞在した。その叔父さんとは、また楽しいエピソードがあるのだが、それはまた別の機会にしたい。
まだ残暑の残る9月の初めに、5回目の来日をしたのがアンリ・モルガンだ。
今回の目的の一つは、神戸牛を食べることだった。
前年は、病後(胃がん治療後)でやつれた感じがしたが、今回は治療や薬が効いていたのか、いつものように京都駅で迎えたとき、元気そうに見えた。
彼のお気に入りの東洋亭でランチの後、京都観光は三十三間堂を選んだ。
翌日の神戸で、彼のスカイプでの日本語の先生に会うこと、これも彼の願いだった。
フランス人、特に彼のような高齢の方はなかなか厳しい目を持っているが、彼が選んだ先生は、若くてかわいく(これ大事、笑)、とても感じが良くて、しっかりした先生で、彼女のフィアンセもまた同様の好青年であった。
彼女が予約してくれたお店で、念願の神戸牛ステーキを、本当においしそうに食べていたのが思い出される。
ワインはその前年から、水を足して飲む。病気のせいであるが、それでもワインは欠かせない。もちろん赤だ。
「素晴らしい、なんてやわらかくて美味しいんだ。」と喜び、彼はこの時のランチを皆にご馳走してくれたのだった。
そして、あまり歩けないので、バスを使ってメリケン波止場に行った。
帰りは神戸のデパートで、仕事仲間が大好きだという泡盛をお土産に買って奈良に戻った。
明くる日、京都まで送りに行き、京都タワーのレストランで、ランチをしたが、彼はとても嬉しそうだった。
まさか、これが最後の来日になるとは、私はもちろん、彼もまた思いもしなかったことだろう。
今でも京都へ行き、東洋亭や京都タワーを見ると、この時のことが思い出されるのである。
しかし、彼が作ってくれた縁はしっかりとつながっていて、彼の東京での定宿であったKさん夫婦宅を訪ねてお世話になり、また昨秋は拙宅への訪問も実現した。
若い日本語の先生ともメールで近況を知らせ合っている。
ボルドーに住む彼の姪からは、名物のカヌレが毎年届き、彼が最後に連れて行ってくれたボルドーでの数日間の滞在を、事あるごとに思い出すのである。