祥泉暦

日常の出来事の記録

母のおもひで

2015-05-13 09:21:05 | 日記
14年前の5月13日の夕方母は交通事故に遭い、病院に運ばれましたが、
数時間で亡くなりました。母の日の翌日でした。
事故直後、直ぐ実家に帰るようにと連絡が入ったものの、
最終の新幹線には間に合わず、一人家で訃報を受け、床に伏して号泣していました。
嫁いで20年も過ぎていたし、成長した子供の母親でしたし、
すでに父親を見送っていたのですが、精神的なショックは大きく、
心ここに在らず状態がしばらく続きました。

しかし時間の経過とともに
病気になって亡くなる方、母の様に事故に遭って突然亡くなる方、
どちらも不本意な事であって、悲しみは同じであると思えるようになりました。

母との突然の別れによって
「心と身体が健康であれば、
人はどんな辛いことがあっても乗り越えられる」
「人は一人では生きていけない」
「どんなに辛いことでも、時間の経過とともに自然治癒力が出てくる」
ということを悟ることができました。
子供達に対してもそれがわかったので、静かに見守る母親でいられます。

母はいつもいつも美味しいものを作ってくれました。
子供の頃のお弁当は豪華すぎで、かえって恥ずかしく、
でもそれを母に言えず困りました。
どんなに忙しくても、季節の美味しいものを作る時間を楽しんでいました。
家族や親戚、友達を慰める方法は、手作りの食べ物をご馳走することでした。

私達がまだ30代後半のころ姑が病で亡くなり、
心身ともに疲れて実家に立ち寄った時、
母は松茸ご飯を作って待っていてくれました。
あの時の器が素敵だったのが印象的でした。

母の急死で翌朝駆けつけた時、
うど、わらび、たけのこ、身欠きニシンを大鍋に煮付けてあったと、
母の最後の煮物を食べました。
事故にあった日の朝、お友達に頼まれて作り、
ついでに大量に作ったのだと。。。

おしゃれも大好きで、
朝起きたら先ずはお化粧し、お肌も綺麗でした。
お肌は先ずは体内からだと栄養に気をつけて、お手入れも欠かさない。
そうそうある時セルライトの悩みを打ち明けられた時は、
意識高すぎとビックリしました。
ダウンのコートがではじめた頃、
まだ若い人向けのデザインしかなかった頃だったのに、
自分も着たいと相談され困りました。
今なら沢山あるのにと、冬になると思い出します。

それからいつも耳ダコもので言われた言葉
「女性は、ハイ、ニコ、ポンだよ! 」
人に名前を呼ばれたら、
先ず「ハイ!」と返事して、ニコっと笑顔になり、ポンと立ち上がりなさい、と。
現代ではいろいろ突っ込みどころありですが、確かに好印象かもです。

母は月刊誌「婦人画報」「栄養と料理」を何十年も愛読し、
辻嘉一の懐石料理本をよく見ていました。
いつか辻留の料理をいただきたいと言っていました。
来客の多い家だったので、その度に心を込めて献立を考え、
器を吟味しておもてなしを楽しんでいました。

母はきっとやり残した事がいっぱいあって他界する事は無念だったと思います。
しかし先に他界した父は母を側においておきたかったのでしょう。
最近よく母を思い出すのですが、
それは我が家に慶び事が続いているからでしょう。
この嬉しさを母にこそいち早く報告したいのに…

母がよく作ってくれた料理を作る時、机に向かって筆を取る時、
母が残してくれた着物に袖を通すとき、
今の幸せは母にもらったとしみじみ思います。


毎年やって来る5月13日、「お母さんありがとう。」