もう1ヶ月ほど前になりますが、次男と一緒に、映画「アブラクサスの祭り」を観ました。
郡山出身の芥川賞作家で、現役の僧侶でもある玄侑宗久さんの著書『アブラクサスの祭り』を映画化したものです。
「お坊さんだって、悩みはある!」悩めるお坊さんの自分探しのお話。
かつてロックミュージシャンだった浄念は、音楽への狂おしい思いから、ノイズが聞こえるようになり、鬱病患者として入院した過去がある僧侶です。
妻と息子と3人暮らし、福島の小さなお寺に身をおいて、病気を抱えながらも仏の道に精進しようと努めていましたが、なかなか思い通りにならず、落ち込むことも多い日々でした。
ある日、浄念を鬱々とさせるものは、断ち切れないロックへの思いだということに気付き、この小さな町でライブをやりたいと思い始めます。
浄念のよき理解者である寺の住職玄宗とその妻、浄念の健康を案じてライブに反対する彼の妻、「坊主がロックなんて、罰当たり」と怒る檀家たち。
あるがままの自分を受け入れようとする浄念と、その周りの人々の生き方が様々に交差します。
精神の病と向き合い苦悩する中で、“おまえはそのままで正しい”というアブラクサスの啓示を聞きます。
真っ直ぐに自分を見つめようとする浄念の、不器用だけどひたむきな姿には思わずホロリです。
本物のミュージシャンであるスネオヘアーさんが演じる浄念の演奏も素晴らしいです。
無の境地から発する音楽、心のメッセージが観る(聴く)人の心を揺さぶります。
(アブラクサスとは、善と悪、天使と悪魔がひとつになった神の名)
原作者の玄侑宗久さんは、「あるがまま」という禅的な教えをもっと突き詰め、「ないがまま」とも表現しています。
昨日、たまたまテレビで見た「インドのITはなぜ進んでいる?」の中で、数字の「0」の存在を指摘していました。
この奇跡の数字「0」は、インドで生まれたものなのだそうです。
そう言えば、ローマ数字には「0」がありません。「0」という数字は東洋的な考え方から生まれたのだとすれば、「0」=「無」=禅の教えと言うのも納得、ストンと腑に落ちます。
「0」という数字はなんて哲学的なの?!と、ちょっと感動でした(^_^;)
お話は逸れましたが、普通、何も無いということは、とても不安で落ち着かないことだと思います。
けれども、「無」には無限の広がりや可能性もある?と思えるのも確かです。
人が「無」になったとき、そこから何が生まれてくるのか・・・
浄念さんの場合は「ロック」だったのかも知れません。
郡山は先行ロードショーということで、玄侑宗久さんとスネオヘアーさんの舞台挨拶がありました。
初めて見るスネオヘアーさんはとてもシャイで素敵な方でした。
次男の話によれば、ステージパフォーマンスはかなり激しいものだそうですが。
原作者の玄侑宗久さんは、息子たちの高校の先輩であり、映画のタイトルロゴも先輩である「風とロック」の箭内道彦氏、と言うことで何かとご縁を感じる映画でもありました。
12月25日(土)から全国で順次ロードショーが始まります。
おまけ
先日刊行されたばかりの玄侑宗久著『荘子と遊ぶ』
玄侑宗久さんの本は、デビュー作の『水の舳先』から、芥川賞受賞の『中陰の花』『アブラクサスの祭り』『アミターバ 無量光明』『化蝶散華』『禅的生活』と読んできましたが、今回の『荘子と遊ぶ』は、心を開放してもっと楽に生きましょうよ、とポンと肩をたたかれたような哲学のお話がたくさん詰まっている、玄侑宗久流の『荘子』の読み解きの本です。楽しく生きるヒントがギュッと詰まっていそうです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/onpu.gif)
でも判りやすく説いているのでしょうね。
無から有が生まれると教えられました。
無は限りがないのに無限というとどこまでも
続く世界だそうです。
そのまま宇宙にも繋がっているようです。
0(ゼロ)は確かに数学を進歩させました。
この観念がなかったら、数学者は悩んだことと
思います。
アインシュタインの「ベロ」を出している顔が
目に浮かびました。(笑)
なるほど・・と、今、いろいろと考えることが出来ました。
コメント、夏以来久々です。
皆さんのところを拝見するだけでなく、やっとコメントを入れる元気がわいてきました。
ここまで来るのにやたら時間がかかりましたけど、飛ばし過ぎずに(さっそくに息切れしても何ですし(^_^;))前の調子に戻せていけたら・・と思っています^^
こちらのスーパーにもチラシが貼ってありましたよ。
お坊さんがロックのコンサートをするって。
いろんな問題があって、それでもコンサートやっちゃうって話でしたよね。
お坊さんはお坊さんらしくという事から
型破りなお坊さんと、なかなか面白い話だと思ってました。
もう観て来られたのですね。
期待通りの映画だったようで、ますます興味が湧いて来ました。
早速読ませて戴きます。
「0」:無、無限大。哲学的発想なのですね。
宇宙空間に何も無い、または、存在するものが、偏りを持たず、完全に均一な分布を持つ世界、いわゆる混沌の状態が自然なのですが、
現宇宙には、様々な、偏りがあります。
放っておくと、やがて、何時かは、偏りの無い、混沌の状態に達するのですが。
この状態を、エントロピーが無限大と表現しますが、宇宙の全事象は、エントロピーマクシマムに向かっています。
人間の、活動は、これを阻害するもので、人間そのものが、エントロピーを減少させる存在です。
浄念が心の悩みを解決し、無の意味を悟ったのも、宇宙の摂理に帰る道程のひとつだったのですね。
数学はまるで駄目な私ですが、「0」と言う数字の特別さはわかるような気がします(あくまで気ですけど^_^;)
宇宙にまで繋がる数学的な無限と、禅的に考える無限では、人間の中にある宇宙として捉えた時に、比較したり例えたりできるのかなと思います。
長男の部屋のドアを開けると、アインシュタインのアッカンベーの大きな顔がいつも私を迎えます(笑)
(大きなポスターが貼ってあるのです)
「無」の中に無限の可能性があるって、まさに悟りの境地なのでしょうね。
でも、無になるのは本当に難しい・・・
いろんな煩悩に囚われすぎです(^_^;)
少しずつ体調が戻られているようでよかったです。
Caroさんのブログは、お伺いするといつもほっこりするし、お洒落なので楽しみにしています。
ローラさんとの2人3脚も楽しみのひとつです(^^)v
映画の製作段階で息子の知人なども関わっていたせいもあり、関心がありました。
浄念さんは、一見弱々しい頼りないお坊さんですが、自分ととことん向き合える力を持っていました。
この力が、宗教の力というか禅の教えなのかなと思いました。
でも全然お説教ぽくは無いですし、音楽がその支えなっているところが受け入れやすかったです。
エントロピー?、難しいです。
長男が言うには熱量のナントカらしいですが、私にはチンプンカンプンです(^^ゞ
山小屋さんが仰る宇宙への無限の繋がりと関係があるのかしら?
昔、子ども達と読んだ「果てしない物語」で、虚無の世界が広がるのを防ぐ冒険物語を思い出しました。
熱力学(?)の考え方はともかく、物事は放って置けば混沌とするのは分ります。
禅でいう「無」はこの混沌をも無とするのかどうか分りませんが、秩序を変えるものではないと思います。
浄念さんの悩みは多分解決されていないと思うのですが、悩みと向き合って生きる力が、彼の中で育っているのだと思います。
人間、なかなか「無」にはなれませんものね。
シッカリと読まさせていただきました。
「0」「無」
凄い発見?なんですね。
これを論じるには、時間がかかります。
ありがとう、良い内容でした。
禅の「無」と繋がる?と思ったのは私の勝手です(^^ゞ
2000年以上前の教えが現代にも受け継がれていることを思うと、どんなに科学が進歩しても、人というものは悩み迷いながら生きていくのだなぁと思いました。
若いときは攻撃的に生きることがカッコイイと思っていましたが、どんな状況をもしなやかに受け止められることこそ、最強な生き方なのかなと。