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◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

光風荘のこと(5) 牧野峯子訊問調書から(その2)

2009年02月09日 | 今泉章利
。。。

参りましたが、雨戸を打ち叩けば却って侵入者に主人の所在を知らせることになると考え、少し○考えて居ります中、○○○断崖下を見ますと兵隊さんが居るのを目撃致しまして、兵隊さんが救援に来て呉れたと直感致しました。

之と前後して玄関の方向に○つて発煙を認めましたので、最早猶予すべきでないと思い、廊下の雨戸を森さん森さんと叩き、急を告げました。○○○ は、森さんは既に此の事を察知致しておりまして非難準備整いており、XXXXX

この際、和子及女中二名も出て参りまして六名一緒となり下方断崖に面した戸外に立って進退に窮して居ります際、XXXX
崖下道路に抜刀した兵隊さんが居るのを認めました。

私は始めて兵隊さんが助けに来たのでなく、其の兵隊さんが襲撃者であることを察知いたしました。

この間、和子は非難口を求めて湯殿に通ずる方向に参りましたるに、XXXXXX
と申し、主人は六畳間の地上に座して仕舞いました。

すると和子は、下方に居る兵隊さんに対し「助けて」と叫びましたら、降りて来いと申しましたそうです。

私は主人を励まし、行ける処まで行きましょうと湯殿裏に参りました際、上の方から降りて来た人々に助けられて柵を越え避難した次第であります。それで、この間、看護婦の森さんが六畳の外に居ります際、下方から射たれて負傷したようであります。
然し、半ば夢中で居りましたから其の間に多少の相違があるかも存じませんから、此の点を為念申し上げて置きます。

続く

注:○とかXについては、小生が読みきれなかったものです。この調書は、珍しく、ペン書きの草書体でかつ、消したり、改定した部分がたくさんあり、毛筆とは違った難しさがありました。

(今泉章利)
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光風荘のこと(4 ) 牧野峯子訊問調書から(その1)

2009年02月08日 | 今泉章利
一部ですが、牧野伯爵のご令室の峯子さま(当時69歳)の調書からご報告します。なお、これを掲載するに当たり、ある著名な歴史家のかたのご意見を伺いました。資料には歴史的な意味がありそのまま引用することが大切であるとのことで、そのまま引用させていただきます。これは、2月27日陸軍司法警察官陸軍憲兵小林嘉人氏が聴取したものです。(今)

証人訊問調書

陸軍航空兵河野寿外七名に対する反乱被告事件に付昭和十一年二月二十七日神奈川県足柄下郡湯河原町宮上四八八番地伊藤屋旅館伊藤清方に於いて右証人に対し訊問すること左の如し

問)氏名、年齢、職業および住所如何
答)氏名は牧野峯子 年齢は當六十七年 職業はなし
住所は神奈川県鎌倉郡鎌倉町二階堂でありますが、最近は東京市芝区二本榎西町 大久保侯爵の別宅に居りましたが、本年二月三日より 静養の為
神奈川県足柄下郡湯河原町宮上宮上橋伊藤別荘へ来、仝二十六日迄滞在致して居りました。

陸軍軍法会議法第二〇六条第一項の規定に該当する者なるや否や調査したるに、之に該当せざる旨申し立つるに依り証人として訊問する旨を告ぐ
(注:意味わからず、再調査予定。「該当するから訊問する」という意味を書き違えたのか不明。)

問)昭和十一年二月二十六日其の許 滞在宅に軍人の一隊が襲撃したる当時の状況を詳細に申し述べよ。

答)二月二十六日事件当時の在宅者は、主人牧野伸顕、及、孫吉田和子(二二)、女中松村梅子(二二)、西田久野(一九)、看護婦森すず江(三一)、護衛係巡査皆川義孝(三二)、都合七名でありました。
居室別は、玄関八畳に主人、その廊下に看護婦、仝玄関三畳に皆川巡査、六畳に女中二名、奥八畳に私と和子でありました。

私は前夜、睡眠剤を用い、就寝しましたので判然とした記憶はありませんが、概ね午前五時三十分頃と思います。突然、廊下のバタバタと云う大声に驚き目醒めました様でありますが、同時にパチパチと云う音が致しました様に思います。
私は滞在宅の上に鮮人が働いて居るのを見て居りましたから、該鮮人が襲ったのでないかと云う様○○意致しました。
私は主人が大事と思いまして中廊下から主人の許に参ろうと思いましたが、其の方にパチパチとやっておりますので、洋室の六畳間を廻って仝部屋の縁側から寝衣一枚で外伝いに主人の部屋の廊下の下に参りましたが、。。

続きます。(今泉章利記)

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日本の近代史研究

2009年02月08日 | 今泉章利
日本の近代史研究は、時代が近いがゆえに扱いが難しい。歴史の一部として人々の頭の中に定着してゆく過程であるからかもしれない。この事件について、研究家はどのように研究・評価しているのか、事件の関係者のひとりとして、気にならないといえばうそになる。近代史をやっておられるある著名な先生から、ひとつの指標として紹介を受けた本がある。あくまでも参考としてであるが、ご紹介したい。 

日本近代史研究事典 東京堂出版

この本には、それぞれのテーマに分けて、これまでの注目すべき論文、出版物などが簡単に解説され、紹介されているほか、今後の検すべき課題について提案を行っている。二・二六事件の場合は、東京地検などの一次資料の発掘が緊要であると書かれていた。
なお、写真の論文は、昭和44年に書かれた竹山護夫氏という方のもので、たまたま小生が持っていたもの。同氏は、竹山道夫氏のご子息で若くしてなくなられた。

(追記)以前、池田さんや柳下さんたちがご存命のとき、われわれ次の世代との小さな交流会が行われたことがあるが、そこで、香田さんの甥の方(元オマーン国大使、赴任前)が、先輩たちがおられなくなったら、事件の検証を行うことができなくなるという危機感を発言されたのを思い出している。

(今泉章利)

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日本の謎 東潮社判決原本の付録(関係資料)について

2009年02月06日 | 今泉章利
御無沙汰しております。出張続きで今朝ほどジャカルタより帰りましたが、また土曜日からベルギーに出張ということになっていて、能力・体力、、不相応な生活をしております。

昭和29年に東潮社が判決原本を出版されました。これは、当時としては画期的なもので小生も神田で求め読みました。そのすぐあと東潮社はさらに「日本の謎」という文庫版を出版しています。。。いずれの本にも付録があるのですが、そしてこの付録に関係当局公式発表というのがあります。

初めが「政府公式発表」で内閣、陸軍省、東京警備司令部など、、次に「戒厳司令部公式発表」が、、最後に陸軍内部の文書が「軍事機密文書」として、時系列に並んで出ています。「政府公式発表」が、17件、「戒厳司令部公式発表」が30件、、最後に「軍事機密文書」は14件出ています。

いずれも時系列に並べて書かれています。例の26日午後3時30分の陸軍大臣告示は東京警備司令部よりの「政府公式発表」となっております。

いろいろな発表が、いろいろな本の中で飛び交うので、うまく整理しきれないのですが、私のように頭が整理しきれない方にお勧めです。それほど高くなくネットでもまだ買えると思います。勉強する上で参考になります。なお、文庫本にはないのですが、ハード本には、極東軍事裁判の時の木戸幸一の宣誓供述書がついております。それには昭和10年9月30日に陛下が陸軍大臣に青年将校たちを取り締まれと御訓戒されたということが記述さております。。。。

今年も事件の日が近づいてきております。。日常の繁雑に押し流されておりますが、事件がますます分からなくなってゆきます。。
(今泉章利)

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平成5年3月に頂いた末松敏子様のお手紙

2009年01月13日 | 今泉章利
末松先生が亡くなられて16年目、17回忌を迎えようとしております。本日、平成5年3月に小生宛に頂いた奥様のお手紙を再読させていただき、感慨を新たにいたしました。奥様には誠に失礼とは思いながらも、枉げて掲載をお許しいただき、末松先生のご霊前にささげたいとと思います。

拝啓 いろいろと有難うございました。今日こそは悪筆万々承知で御礼の御挨拶を・・・と思い乍ら、末松の遺影の前に座りますと私の心はみだれ複雑な思いが脳裏を去来して、又々一日をむなしく過ごしてしまいます。
とうとう四十九日も迫ってまいりました。早く己にかえりますよう努力致します。
何彼につけ有難うございました。私は末松をあまりにも知りませんでした。私からきこうとは絶対に致しませんでしたし、末松も家庭の中の話題には致しませんでした。ただくり返しくり返しざっと六十年間の話の中に〇〇様〇〇様・・・たくさんのお名前は耳に入りました。末松が二・二六の一人であった事は現実に私が体験?致しました事で、あの時の青森だけの空気は知っております。(あたりまえ)東京部隊のおかたがたとも友好のありますかたであるともきかされておりました。
末松の死後 週刊誌に書かれました文
あまりの恐ろしさに・・・私自身己を乱すまいの。心のつっぱりにつとめました。急性心不全、救急車で行きました病院で頂きました死亡診断の名。つねづねお世話になっておりました開業医に事の次第をお話申し上げ 長い間の御診察の御礼の言葉の時「なぜこのような」とおきき致しましたら、糖尿病の恐ろしさですとお返事を頂きました。
結婚前の末松の事、私が知る筈もございません。末松が千葉の歩兵学校に二度も学生将校として来ていたとも、あとの話題。何の縁か、お互い言葉も交す事なく結婚となりました。千葉市はいわゆる軍隊町でいろいろな砲兵。工兵。気球隊。高射砲。等。軍人兵隊さんの姿を見馴れておりますし、私の学校友達も何人も将校夫人となられておりました時代でございます。人それぞれの精神考えがあります事はあたりまえ、でも週刊誌に書かれました事。更に短期間によくもまとめたことよと思はれます長男の綴りました「父末松太平」の足跡を読み、ほんとうにほんとうに自制心を失いまして、何の涙かわからぬ涙を 子供の前でみせてしまいました。すべて死により過去となりました。今からは私の生活としてあちらのくにに行った末松と生きてまいります。
賢崇寺にもおまいりさせて頂く気になりまして、はじめてお伺いいたしまして、あのような、お手あつい扱いを頂き、また、お立派な仏事に参加させて頂き勿体なく厚く御礼申し上げます。更に昨日河野様はじめお世話人御一同様よりのお挨拶状頂戴いたしました。恐れ入りました。
末松通夜に、又告別式に御夫妻の御参列御焼香を頂きまして有難うございました。
大変御礼申し上げる事が遅くなりました。深くお詫び申し上げます。
 三月五日(平成五年)                   末松敏子
今泉様

葬式終了後、何日か経て眼科にまいりました。ちょっと雑用に追はれて御診察頂きに伺えませんで、、、と自己弁解。「コレデショウ」と週刊新潮を見せられました。看護婦さんも「知りましたヨ」という顔をされました。    

(今泉章利)

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松本清張氏の事件関連 著作・資料

2009年01月11日 | 今泉章利
渋川さんに触発されて、手持ちの松本清張氏の著作、資料を並べてみた。勿論、事件に関係したものしかないのだが。

昭和史発掘は、インターネットで調べると「1964年(昭和39年)7月6日号から1971年(昭和46年)4月12日号まで文藝春秋の週刊誌「週刊文春」に連載された。」とあった。そういえば、筆者が、中学から高校に行くころ、父の所に松本清張の秘書の方というかアルバイトの方が来ていたことを思い出す。当時ごろから、事件に対する研究が始まっていったのだと思う。河野司先生の「二・二六事件」は昭和36年、末松太平先生の「私の昭和史」は昭和38年に出版された。みすず書房の「現代史資料」や高橋正衛氏の二・二六事件が出たのは昭和40年であった。

昭和史発掘は、13巻であり、田中義一大将をめぐる陸軍機密費疑惑から始まり、取締りの石田検事の怪死から、五一五事件、特高による左翼弾圧、士官学校事件をへて、7巻から13巻までが二・二六事件関係である。正確には、相澤事件、軍閥の暗躍、相澤事件の公判、北・西田と青年将校運動、さらには安藤・山口の関係をのべて二・二六事件につなげてゆく。二・二六事件では、①2月25日、②襲撃、③諸子の行動、④占拠と戒厳、⑤奉勅命令、⑥崩壊、⑦特設軍法会議、⑧秘密審理、⑨判決、そして⑩終章として清張自身の解析を試みている。将校のみならず兵卒にも焦点を当てようとしているのは、いかにも御苦労された清張氏らしい。

昭和史発掘のうち、6巻の終わりから13巻まで、つまり次木さんの士官学校事件から終章までを「二・二六事件」として三巻にして別途刊行し、さらに、研究資料を三巻出されている。第一巻は松本清張編であるが、第二巻目からは、松本清張・藤井康栄編となっている。資料は、(1)安井藤治中将・戒厳司令部参謀長の手記、(2)間野俊夫、中尾金也判事の手記、(3)憲兵隊司令部山中平三資料(4)林銑十郎大将メモ、(5)歩一、機関銃隊、近衛師団資料 などである。

こうしてみると改めて北九州にあるという松本清張記念館を訪問したい気がしてくる。出版された資料は、ごく一部と思われるからである。(今)
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ベトナム・チャンパ王国

2009年01月11日 | 今泉章利
正月早々、仕事でベトナムに行ってきた。途中、ベトナム南中部のファンランいうところを訪れる機会を得たが、ここは17世紀の頃「チャンパ王国」であり、いわゆる南のベトナムである。徳川家康が、チャンパ王に「香木」をぜひ送ってほしいと書信を送ったといわれているが、今でも多くのチャム族が、自分たちの伝統を守りながら住んでいる。写真は現存するチャム族の王を祭る塔である。ベトナムの歴史は長い戦いの歴史でもあり、日本が終戦で「仏領インドシナ」から撤退してからも、40年近く戦争が行われた。即ち、フランス、米国と闘い、さらに11年ものカンボジアの進駐を行い、短期間とはいえ中国との戦争をへて今日に至っている。澄み切った青空に赤いレンガ作られたチャム塔を見ていると、平和なこの瞬間を何よりも大切にしなければならないと感じた。(今)
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渋川明雄さんとの勉強会

2009年01月11日 | 今泉章利
1月4日に渋川明雄さんと勉強会を行う。お互いの資料の調査方法や問題意識を交換した。渋川さんは、丹念に一般の雑誌類までの関連掲載分のリストを作成され、それを休日の土曜日に国会図書館でコピーをされる。お話によれば、研究を始めてわずか一年だそうで、これらの資料を、また、勉強方法としてそれらを筆記されて原稿用紙に埋めるというやり方である。小生の持っている資料でまだ気がつかなかった部分など勉強させていただいた。生来、怠惰な私には、このようなやり方はきわめて有意義である。

水上さんと渋川善助さんは重なっていることが多い。しかし、中身が分からない。これをどこかに探し当てなくてはならない。それには、昭和8年11月の埼玉挺身隊事件とそれに先立つ9月の所謂「不穏計画」にカギがあるのでは、という渋川さんの話を聞きながら、今までよく勉強していなかった資料を引っ張り出すとともに、まず、いろいろな意味から松本清張から読み返そうと思ったのであった。(今)

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「その後の二・二六」 湯河原の方たち

2009年01月04日 | 今泉章利
「その後の二・二六」を久しぶりに拝読して驚いた。池田さんと同じ事件で小菅に下獄されていた方たちは15名、うち湯河原関係は6名であった。亡くなられた2名を除き湯河の全員がこの刑務所におられた。宇治野、黒沢、宮田、中島、黒田、綿引の方々である。みな重刑であったのだ。宇治野さん以外の5名の方が、本文中にわずかではあるが登場してくる。水上さんの手掛かりを探していた私に、池田さんがこれを読みなさいと導いてくださったような気がした。(今)
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塀の向こう

2009年01月03日 | 今泉章利
綾瀬川の水を引いた掘割に何組もの鴨が泳いでいた。桜の木々はすっかり葉を落としていたが、春になればさぞ美しい風景になるのだろう。ここは東京都葛飾区小菅1丁目35番地。 塀の向こうは東京拘置所である。戦前は小菅刑務所という名前であった。(今)
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慰霊像 年納めの清掃 

2008年12月28日 | 今泉章利
26日、安田様と毎年恒例の慰霊像正月飾りを行った。寒い風は容赦なく吹き荒れていたが、松、水仙、千両を小さな花入れに飾り、お餅をお供えした。そのあと、私たちは、狐塚に沿って坂を下り、井の頭通りを右に折れて、NHKの西門の前の酔香楼(スイコウロウ)という中華料理屋さんに向かった。ここでささやかな忘年会を兼ねた昼食をとりながら一年を振り返った。なお、狐塚というのは、慰霊像の前の大きなパラボラアンテナのあたりの少し小高くなった所で、東京陸軍軍法会議が設置した急造の法廷を警備すべく、機関銃が南を向いて据え付けられていたという。  (今)
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渋川明雄様より教えていただいたこと

2008年12月23日 | 今泉章利
以前からこのブログで、いろいろと水上源一さん関連のヒントを下さった渋川明雄様と面談することができた。お宅にお伺いし、資料を見せていただいたが、小生のためにわざわざきちんとリストを用意してくださっていた。リストには、

事件に関するお手持ちの資料 150点
論文集14点(堀真清氏関連)
各資料・雑誌のコピー17点 
挺身隊関係 資料のコピー 10点

などの資料名が、克明に記され、大変に感銘を受けた次第である。渋川さんは、氏の祖父 渋川知成さま(小学校校長、青梅在住、明治30年ごろ生まれ)が直心道場に出入りされていたことなどから、事件後、知成さまが大変にご苦労され、それを知られた渋川さんは、事件に興味を持たれ、研究を続けておられる方である。

今回、氏は、埼玉挺身隊事件をよく調べれば、渋川さんと水上さんの関係、考え方が見えてくるのではないかと示唆された。

また、直心道場もポイントで、数少ない資料の中で大森曹玄(一声)氏の貴重な資料を国会図書館で探し当てておられた。

小生は、水上さんの東京の10年間(うち8年は日大)の歴史を、今度は渋川さん、埼玉挺身隊というキーワードでも調べてゆくことになった。資料をまとめてよく考えてゆきたいと思っている。

また、渋川善助さんの「御前講演」「非国難非非常時」「感想録」なども見せていただいたが、直筆のものは、小生が東京地検で拝見したものと全く同じ筆致で、堂々とゆるぎなく力強いものであった。写真の渋川善助さんは明治38年生まれ。

(今)
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北島弘さまのご葬儀

2008年12月23日 | 今泉章利
北島弘さまのご葬儀、行ってまいりました。式はご実家の武蔵御嶽神社さまが行われました。生前のお人柄をしのばせるものでした。帰りに慰霊像に行き、思いを込めて清掃をしてまいりました。北島様、本当にありがとうございました。安らかにお眠り下さいませ。 (今)
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北島弘さま(慰霊像護持の会世話人)ご逝去

2008年12月18日 | 今泉章利
二・二六事件に参加された歩兵三連隊の下士官(当時19歳)で、戦後は二・二六事件慰霊像護持の会の世話人であられた北島弘さまが、東京町田市の病院で12月14日に亡くなられました。92歳でした。ここに慎んでお知らせ申し上げます。
お通夜は19日(金)18:00より、告別式は20日(土)11:00より、相模原市の東(あづま)典礼(042-797-1320)にて行われます。喪主はご令室ヒデさま。  (今)
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歴史について 波多江タマ様のお手紙

2008年12月16日 | 今泉章利
歴史とは難しいものである。自分自身のことでさえ表現したり記録することは難しいのに、他人の、しかも時代や場所の異なることを本当の意味でどれだけ理解できるのだろう。
私にできることは、せいぜい、なるべく一次資料に近いものを集めて整理すること。これが精一杯であると思う。その一次資料を見て、様々な人がそれを解釈してゆけばいいのだと思う。それにはとんでもない解釈をされる人もいるかもしれないが、それは仕方のないことであろうと思う。
一次資料の存在がそのような誤解や曲解をいつか年月とともにあるべき姿にしてくれるのだと希望しながらも、私は十年近く悩んでいた。そんなとき、私は、94歳の對馬さんの妹、波多江タマ様から最近お手紙を頂いた。それにははっきりと「貴方達にはわからないと思います。昭和の初期のこと、価値観、貧困さ、国を思う気持ちなど全然わからないと思います。でも自分は逆に、今の世代の人たちの考えが理解できません。」と書かれてあった。
「自分は、昔から新聞を見ても、何を見ても、まず真っ先に、この国のことを考える。この国がどうなるかを考える。それなのに、今の総理大臣はこの国を放り出してしまう。私には理解できない。蹶起した人たちで子供がおられた方に対し、ひどいではないか、子どもや奥さんのことをなんだと思っているのかという人たちがいるけれど、当時は、子どもを作って育てることが、この国のためになることであり、国のためならば自分たちの犠牲は厭わなかった。でもこんなことは、いまの人には、まったく理解できないのだと思う。」と言われた。
私はこのお手紙を拝読しながら、心が少し楽になっていったのを感じた。私のようなもののできることは、せめて、自分の接した方々のことや調べたことを、少しでも多く残してゆくことなのだなと思ったのである。

写真は、処刑を控えた昭和11年7月8日ごろの、衛戍刑務所での、親切にしていただいた刑務官に対する寄せ書きである。一番右のものが当時21歳の父のものであり「我思ひいか尓(に)言ふとも術なしやただつつましふ黙し行かるる」とある。(今)
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