水を張ったコップに斜めにまっすぐなストローを入れてみる。すると、ストローがちょうど水面のところで折れ曲がったように見える。これは「光の屈折」という良く知られた現象です。
この現象は、「まっすぐなストロー」が「光が屈折して進む」という物理法則により「ストローが曲がって見える」というの本質です。なぜ光が屈折するのか、その原因は空気中と水中では光の進む速さが異なることから説明できます。「光の屈折」という物理法則を知ることで、「ストローが曲がって見える」という現象を説明できます。
なぜこんなことを書いたかというと、現象して見えることや本人の実感だけを「正しい」こととして物事を主張するなら、物事の「本質」を明らかにする科学は必要がなくなるからです。これは、自然科学においても、社会科学においても同様です。
私が言及したいのは、「光市母子殺害事件の差戻控訴審」についてです。この件についてはテレビでも、インターネットでも大量に取り上げられ論評されています。わたしが、愛読している「きっこの日記」にもきっこさんの意見が書き込まれています。私が今読んでいる「きっこの日記R」でも江川紹子さんときっこさんの対談が載っていて、その中でもこの件が取り上げられている。
そうした様々な論評を読んで、私がいつも大きな違和感を覚えるのは、そうした論評が司法に対する基本的知識や社会科学としての法学的知識を欠如させているのではないかという思いを抱かざるを得ないからです。
最初の例で言うと「ストローは曲がっている、曲がって見えている事実がある」ということのみが繰り返し語られ、その現象がすべてとされて「物事の本質」が一切語られなかったのではないかという根本的疑問があるからです。
“法治とは何であるか、刑事裁判の構造的原理は何か、なぜ裁判では犯行事実がわかっているのに、被告の成育歴を調べたり、精神鑑定までするのか、法はどうして成人と少年を区別しているのか、被害者とその家族や遺族の無念の思いは、どうすれば軽減・救済できるだろうか― 司法をめぐるひとつひとつの問いのうしろに、法律によって苦しみ、法律によって救われた人間達の歴史がある。まだ答の見つからない問いの前で、今も苦しんでいる人間がいる。”
BPO【放送倫理・番組向上機構】が発表した
『光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見』から引用した文章です。
私は、この文章に強く共感をおぼえました。
ぜひ全文を読んで欲しいと思います。