人類の歴史は、自由、民主主義を理想として、追い求めて来たのでしょうか。
絶対的な真理の様に見えます、私もそう思います。でも、違う意見もあるのです。
この自由、民主主義の先に、もし、まだ何かあるとすると、何でしょうか。
こう考えたらどうでしょうか。自由過ぎたら人はどうなるのか。
民主主義を謳歌し過ぎたら、人はどうなるのか。これらは、人とは何かに行き着きます。
様々な難問を解く鍵は、歴史にあると言います。
人類の草創期は、類人猿から枝分かれしたのち、言葉と言う宝物を得ました。
自然界での生存競争を生き抜くために、言葉によって団結し戦っていったのでしょう。
やがて野生との戦いに勝利していくと、今度は人同志の争いとなるのではないですか。
人類は出アフリカから始まり、山越え谷越え川越えと大陸大移動をしました。
それはもう、何派に分かれてのごちゃ混ぜの、行きつ戻りつだったでしょう。
言葉は小集団ごとに、あるいは山ごとに、谷ごとに、無茶苦茶にありました。
お互いの言葉が通じなければ敵、その敵とは戦う、生き抜くためにです。
戦いに勝った方は、自分達に組み入れて、自分達の言葉を使わせるのでは。
そうして徐々に大きな集団となっていき、村の形成となっていったのでしょう。
まづ、言葉なのです。その言葉のやりとりが、民主主義の始まりなのでは。
自由について考えます。
人類は自由から始まっているとも言える、と思うのです。
まだ、その観念はなかったにせよ、お互いに寄り添って生きていたのでは。
野性との食うか食われるかの日々であればこそ、まとまっていたのでは。
獲ってきた獲物を火で燻しながら、みんなで分け与えて、その日を過ごした。
そんな中、言葉は生まれていき、絆は深く結ばれていくようになったと思う。
だがである、これは必然であるが、人は欲というものに動かされるようになる。
たくさん獲物をとりたい、たくさん食べたい、子供がたくさんほしい、と。
そんな欲が欲を生み、隣の集落の土地が欲しい、自分達に組み入れたい。
欲は力となり、力は欲となりで、ぐるぐる回って行き出し、その土地の主が出来る。
主から豪族、そして小領主、統一王朝、古代国家と続く道のりに入る。
ますます力の世になっていった。そう、ますます個人の自由は失われたのでは。
ほんの一握りの支配階級が多数の民の上に立つ、民の自由はどうなる。
人類は欲を憶え、欲は力となり、力は力となりで、そして自由を失ったのでは。
続く長い封建社会で民は凄惨を舐めた、自由とは一部の階級のみだった。
これらの時代は、無理がある限り永遠に続く訳ではない、次の時代が来た。
民のマグマは世界各地で爆発していった。フランス革命、ロシア革命、明治維新へと。
やがて各国は近代戦争の渦に飲まれる、力と力はぶつかる、激しく領土を争う。
第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て人類は、ようやく思い知った。
力対力では解決しない。人類共倒れとなる。武器を置こう、話し合いだ、と。
こうして、ようやくにして民主主義に至ったのではないですか。
この民主主義と自由とは、切っても切れないのではないでしょうか。
人類の大昔に生みだした、「言葉」から民主主義が始まり、長く埋もれていても。
戦後、「言葉」による民主主義に、また戻る事が出来た、とそう思うのです。
私の結論、自由、民主主義の先にあるのは、自由、民主主義だと。
昨今、この永遠の真理が揺らいでいるのでは・・・・
絶対的な真理の様に見えます、私もそう思います。でも、違う意見もあるのです。
この自由、民主主義の先に、もし、まだ何かあるとすると、何でしょうか。
こう考えたらどうでしょうか。自由過ぎたら人はどうなるのか。
民主主義を謳歌し過ぎたら、人はどうなるのか。これらは、人とは何かに行き着きます。
様々な難問を解く鍵は、歴史にあると言います。
人類の草創期は、類人猿から枝分かれしたのち、言葉と言う宝物を得ました。
自然界での生存競争を生き抜くために、言葉によって団結し戦っていったのでしょう。
やがて野生との戦いに勝利していくと、今度は人同志の争いとなるのではないですか。
人類は出アフリカから始まり、山越え谷越え川越えと大陸大移動をしました。
それはもう、何派に分かれてのごちゃ混ぜの、行きつ戻りつだったでしょう。
言葉は小集団ごとに、あるいは山ごとに、谷ごとに、無茶苦茶にありました。
お互いの言葉が通じなければ敵、その敵とは戦う、生き抜くためにです。
戦いに勝った方は、自分達に組み入れて、自分達の言葉を使わせるのでは。
そうして徐々に大きな集団となっていき、村の形成となっていったのでしょう。
まづ、言葉なのです。その言葉のやりとりが、民主主義の始まりなのでは。
自由について考えます。
人類は自由から始まっているとも言える、と思うのです。
まだ、その観念はなかったにせよ、お互いに寄り添って生きていたのでは。
野性との食うか食われるかの日々であればこそ、まとまっていたのでは。
獲ってきた獲物を火で燻しながら、みんなで分け与えて、その日を過ごした。
そんな中、言葉は生まれていき、絆は深く結ばれていくようになったと思う。
だがである、これは必然であるが、人は欲というものに動かされるようになる。
たくさん獲物をとりたい、たくさん食べたい、子供がたくさんほしい、と。
そんな欲が欲を生み、隣の集落の土地が欲しい、自分達に組み入れたい。
欲は力となり、力は欲となりで、ぐるぐる回って行き出し、その土地の主が出来る。
主から豪族、そして小領主、統一王朝、古代国家と続く道のりに入る。
ますます力の世になっていった。そう、ますます個人の自由は失われたのでは。
ほんの一握りの支配階級が多数の民の上に立つ、民の自由はどうなる。
人類は欲を憶え、欲は力となり、力は力となりで、そして自由を失ったのでは。
続く長い封建社会で民は凄惨を舐めた、自由とは一部の階級のみだった。
これらの時代は、無理がある限り永遠に続く訳ではない、次の時代が来た。
民のマグマは世界各地で爆発していった。フランス革命、ロシア革命、明治維新へと。
やがて各国は近代戦争の渦に飲まれる、力と力はぶつかる、激しく領土を争う。
第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て人類は、ようやく思い知った。
力対力では解決しない。人類共倒れとなる。武器を置こう、話し合いだ、と。
こうして、ようやくにして民主主義に至ったのではないですか。
この民主主義と自由とは、切っても切れないのではないでしょうか。
人類の大昔に生みだした、「言葉」から民主主義が始まり、長く埋もれていても。
戦後、「言葉」による民主主義に、また戻る事が出来た、とそう思うのです。
私の結論、自由、民主主義の先にあるのは、自由、民主主義だと。
昨今、この永遠の真理が揺らいでいるのでは・・・・