きのう、H市の美術館へ行ってきた。
日本画の展示を見ていくと、好きな画家である上村松園の絵があった。
女流画家である松園の絵は、気品ある峰麗しい女性、日本の奥ゆかしさ称えた美、
香るほどのみずみずしさあふれ、私は見惚れてしまった。
その横には、鏑木清方の絵が並んでいた。
これまた美人画の大家であり、細やかに映ろう女性美を詩情に包み描いている。
共に明治の美人画でどちらも好きである。
それが今回、あることを思い至ったのであった。
先に上村松園を見てから、鏑木清方を見たからなのか、だぶんそうであろう。
清方の描いた女性に、男が見えてきて仕様がなかった。
私は思った。男性には女性を完璧なほどに描き切るのは不可能ではないか、と。
どこかに、やはり男が出てしまう、消せないのではないかと思った。
でも、ラファエロとかは超越した女性美、いや、神格された美そのものを表している。
天才は別と言えばそれまでだが、つまるところ不可能に近いのではないか。
もちろん例外は数多くいるだろうが、やはりそれは例外ではないか、と思った。
心の綺麗な女性、内面の美あっての本当の美だと思う。
日本画の展示を見ていくと、好きな画家である上村松園の絵があった。
女流画家である松園の絵は、気品ある峰麗しい女性、日本の奥ゆかしさ称えた美、
香るほどのみずみずしさあふれ、私は見惚れてしまった。
その横には、鏑木清方の絵が並んでいた。
これまた美人画の大家であり、細やかに映ろう女性美を詩情に包み描いている。
共に明治の美人画でどちらも好きである。
それが今回、あることを思い至ったのであった。
先に上村松園を見てから、鏑木清方を見たからなのか、だぶんそうであろう。
清方の描いた女性に、男が見えてきて仕様がなかった。
私は思った。男性には女性を完璧なほどに描き切るのは不可能ではないか、と。
どこかに、やはり男が出てしまう、消せないのではないかと思った。
でも、ラファエロとかは超越した女性美、いや、神格された美そのものを表している。
天才は別と言えばそれまでだが、つまるところ不可能に近いのではないか。
もちろん例外は数多くいるだろうが、やはりそれは例外ではないか、と思った。
心の綺麗な女性、内面の美あっての本当の美だと思う。