ゆったりと生きたい

私も若くないし~~~
しんどい時もあるけどゆっくり生きようと思う。
日記代わりのブログです。

ショートステイ

2011-03-29 | 家族
最近のハハさまは落ち着いてる。
徘徊もなく、財布や通帳、お金がないと騒がなくなってきている。

ただ・・・・ディの施設やショートステイを好まない。
家にいるのが好きなのだ。

外食も好きでない。

何しろ、我が家で私の世話を受けて暮らしていたいのだ。
(本人は世話をされている意識はないけど)


ハハ様いわく、
『人さまの世話にはなりたくない。』
これが口癖なのだ。

ただ、私の介護にも限界があるし、
ハハ様のおつむのためには他の人との関わりも大切と思うのだが・・・・・・


昨日もディに行きたくないと言う。
私も、ハハ様のご機嫌をとりながらディに送り出すのも嫌気がさしたので、
『それなら、休みましょう』と私も簡単に受け入れた。


私たちの本音は、ハハ様に何とかショートステイの施設を使ってもらいたいのだ。
そうすれば、私と夫もたまにはゆっくりと旅行も可能なのだけど。

それで、ディとショートステイの出来る施設を見学に歩いた。
もちろん、ハハさまも同行。

第一候補
あるマンション関係の会社が運営する施設。
設備が整っていて居住環境も良いと私は思ったが、
ハハさまは、私にはもったいない。何もよそ様のお世話を受けたくない。
私、一人でも家にいられるからここには遠いし一人で来られない。
わけのわからないことを言いながら、
全く説明を聞こうとしないし家に一刻も早く帰りたい雰囲気だった。

第二候補
一般の家を施設にしたもので我が家と同じような環境と設備。
私、ここは家族的な雰囲気が味わえるしハハ様にむくかも。
案内の責任者の話にもにも黙って聞いている様子だった。
家に帰って本音を聞くと、
あそこのお風呂はせまいよ。家のお風呂のがよほどいい。
あそこの台所で作った食事を食べたいと思わない。

またもや、自分の家のが良いことを主張している。
こんな感じでやはりショートステイを拒否している。

友達にもショートステイを受けられるようにしておいた方がとのアドバイスを受けるのだが、
一向にその話は進まない。」






災害ボランティア

2011-03-24 | その他
友達の無事が確認できたので、
私にも何か出来ることは・・・・

近くのアリーナに出かけました。
休日ともありボランティア登録の方の長蛇の列でした。

日本人の助け合いの精神は捨てたものじゃないと感じました。


1時間ほど並んで登録の順番が回って来ました。
住所、氏名、電話番号を書いて自分に出来るボランティアとか資格を書くように言われました。
私、ボランティアで何が出来る?資格も必要?
『英会話』くらいしかない。パソコンの資格?少しだけ
それから、今、社協で働いているご老人のお世話は、役立つだろうか?

ここは日本だ。外人さんは原発事故で国外退去しているし・・・・役立つはずがないかも。(^^ゞ
それでも私の腕に、ボランティア Engishtと布テープにマジックで書いた腕章を張り付けてくれた。

登録の済んだ後、すぐ仕事が回ってくるかと思いきや順番待ち長蛇の列。

隣に並んだ同年齢の男性が呟きました。
『みんなはどんなボランティアが出来るのだろう?』

それで私も同じ質問を彼にしました。
『マッサージの資格がある。こういった場所に避難を余儀なくされている方たちは体中がこっているから。』
それは本当だ。こういう人は引っ張りだこだろう。
私だって、彼の一時的な指導で真似しながらマッサージしてあげられる。
一刻も早く彼のような人を内部に入れて一人一人の避難されている人を癒してあげられたら良いのに。
周囲の人たちとの会話で盛り上がりながら1時間くらい立っていたでしょうか。
北風の吹きぬける日陰のこの場所は立っているのが辛い寒い日でした。


結局、順番は回って来そうもなく受付の人に言って帰って来ました。
ボランティアに来るたびに登録、順番待ちの作業をするそうなので、
『ボランティアの受け付けで、活動できる日と時間なども各人に聞いたらどうですか?』
無駄な時間待ちを省略できると思ったからです。

それに、何のボランティアが出来るのかと尋ねるのでなく、こういったボランティアが必要なのですと、
登録の際に書いてくれていたら・・・・出来るボランティアを選べました。
後で、私、気付いたのですが、
赤ちゃんとそのお母さんを家に呼んでお風呂と休憩所の提供も出来ました。
お年寄りを預かって夜、休ませてあげたり
私の家のひと部屋を開放しても良いとそういう気持ちでボランティアに出かけたのですが、
登録の際の記入用紙は余りに事務的でそう言った内容を書く余裕がありませんでした。


その夜、花粉症の症状が重くなり、翌日は発熱。

ボランティアするには健康でなくてはなりませんネ。
私、つくづく思いました。







仙台

2011-03-20 | 独り言

私がかつて住んでいた東北の地。
緑が多く、杜の都と言われる土地です。

東北関東大震災は、東北の海岸線を総なめにして甚大な被害を及ぼしました。
仙台も津波の影響を受けている場所があると報道されている。
私の友達は?隣人は?町内会の人たちは?
連絡の取れないもどかしさでした。

ちょうど2週間たった日、私の携帯に着信マークがありました。
仙台の友達からでした。
『ワッ!! やっとつながった』

我が家と彼女の住まいは同じ団地の中にありした。
35年くらい前の宮城沖地震の時の住んでいたアパート周辺で一番、地震の被害の少なく思えた団地で下から。
あの時は、ブロック塀が倒壊して沢山の人がその下敷きになって亡くなった。
そして造成したばかりの団地の家が庭と一緒に崩れ落ち崩壊したりもした。
地震の怖さを体験して安心できる土地に住みたいと思いました。
やっぱり長命が丘団地は無事だったとホッと胸を撫でる気持ちでした。

彼女の経営している国分町の店の中の瓶はことごとく落ちて割れしまい、
当分の間休業するそうです。
被災した従業員を家族ごと受け入れ、自分の家で集団生活をしているとのことでした。

世話好きでいつも明るく彼女らしいなぁ~と私は友達をとても頼もしく思いました。

『我が家はね、娘夫婦もやって来て、若い人がたくさんいるから機動力あるわょ。』
『断水しているけど、娘夫婦の家が水出るからそこから汲んで生活できるし。』
いつもより弾んだ彼女の声に私の方が励まされる気分でした。

『家に買い置きしてあった乾めんをゆでて食事しているの。』
『一部屋に集まっているのよ。小さな昔のストーブ捨てないで良かった。』

でも話をよく聞いてみると、
停電もしているのでエアコンも、オイルヒーターも使えないのだ。
ガスもストップしているからもちろん煮炊きは自由に出来ないのだ。
ガソリンが入らず、車を思うように出せない。もちろん灯油も買えない。
食料も店頭から消えて手に入らず、気温がマイナス近くになることもある今の時期だから
想像もつかない環境の中で彼女たちは、寄り添い生活している。

テレビの放映で感じる東北の被災者の方々はとても我慢強い。
そしてとても前向き。
『命があったから・・・・本当に良かった』
そう言って涙ぐむ姿に私もウルウルとなっている。

彼女もその東北の一市民。しっかりとその性格を感じる。

そして・・・・私がおそるおそる尋ねたご主人の石巻の家のこと。

『あそことはまだ全然連絡付かない。津波の被害が大きかったし・・・何人かいる友達とも全然。』
こんなにも気がかりなことを抱えているのに健気に頑張っている彼女。

私と同年齢の彼女、ちょっと無理をすると体中、ガチガチになってマッサージにすぐかかる人だった。
今、彼女は人生で一番の難関に向かっているのかもしれない。

『頑張ってネ。又、電話するよ。』



今、私の出来ることは・・・・真剣に考えています。








地震の日

2011-03-16 | 独り言
地震発生は3月11日の午後2時45分頃。

夫と馬車道を出て、ニィニィのマンションまで歩こうと店を出たとき、
何故か北東の方向の空が異様に黒かった。
『雨でも降ってくるかな・・・・』そう言う夫に、『西の空は青空だから雨は降らないわ』と私は言った。

カ~~ン、カ~~~ンと金属を打ち鳴らす異常な音が聞こえて来た。
その後、グラグラと来た。
渡ろうとした歩道橋の鉄筋が鳴る音だったようだ。
電線が大きく揺れて家の壁をたたいている音も聞こえる。
空にはカラスが2~3羽、鳴きながら飛んで行った。
15階建てくらいのビルが大きく揺れているのが見えた。
何故だか10~15階建てのマンションは30階建て以上の高層マンションよりも大きく揺れているような気がした。

とても長い間揺れているようで私は心の中で早く揺れが収まるように祈った。
こういう経験は二度目だ。
35年くらい前に起きた宮城県沖地震に遭遇した時、私は幼い二人の子供を抱えながら同じように激震の中、しきりに祈ったことがある。



私はニィニィのマンションに直行した。
エレベーターは止まっているから階段を登った。
日頃、少し山登りをしているのが役立った。
7階のニィニィの玄関から見える居間の床にはランプが転がっていた。
そして植木鉢も転がっている、花瓶も落ちて・・・・・。

幸いなことに落ちたそれらのものは壊れていない。不思議だ。
土と水が一緒に落ちて床はひどいことになっていた。
洗面所や流し台の下部の引き出しが全て飛び出していた。
高い所にある戸棚や棚の中の食器などは全て無事だった。不思議だ。
壊れたものが何もないから、本当にラッキーだった。

余震が怖い、時々、揺れ始める。大きな建物が揺れるって不気味だった。
飾ってある風鈴が鳴り始めなんだか怖い気持ちが噴出してくる。
さっと水だけを拭いて中途半端に片付けて外に出た。

結婚したばかりのまだ、若い女性が、ご主人が出張だと言って、心細がって涙ぐんでいる。
1時間くらい彼女を励ましながら一緒にいた。
大きなテレビが落ちたと言っていた。怖くて壊れたかどうか確認も出来ないとか。
部屋にいた人たちは部屋が大揺れして怖かったのだろう。
私は外にいたから案外と平気だったみたい。

それにしても、又、私は大地震の中で何かに守られているのを感じた。



夫と一緒だったせいからか恐怖心もなかった。
以前の仙台での大地震の後、私たちは身近で地震に一番強いと思われたニュータウンに引っ越した。
その古家も変な借家人に一時は乗っ取られ、その後、そのためか売却した方が良いような気分になってしまった。
夫と売却後の確定申告を済ませた後の出来事だった。

仙台に家を持つ気になったのは大地震を経験したからで、
売却を決意したのはあくどい借家人に家を凌辱されたような気分になったため。
売却後の確定申告も済ませごねぎらいを兼ねて夫と食事をした後のことだった。
地震とともに仙台の家を作り、処分した直後に又、この大地震。
何か因縁めいたものを感じ不思議を感じる私でした。