ゆったりと生きたい

私も若くないし~~~
しんどい時もあるけどゆっくり生きようと思う。
日記代わりのブログです。

断捨離進行中

2015-09-27 | 独り言

2階の上のロフトには家を新築した頃に整理して捨てられない物を保管してある。

あれから27年が過ぎた。

あの時の判断で保管した物の中にも存在価値が無くなってきた物が沢山ある。

いつかいつか・・・・そう思いつつも『思い出』という呪縛にかかり整理が出来ないでいた。

子供の頃からの写真、手紙、日記、本、工作品、布、タオル、服、食器、花瓶、人形・・・・・ありすぎて悩む。

連休に少しずつ片づけようとオットット様と交代で3階に上がった。

ふと手にすると子供たちが作った工作や絵。見ていると懐かしくその頃の事が思い出す。

 

考えれば皆、懐かしく捨てがたいのだが20年以上もロフトの中で存在の忘れられていた物だからなくても生活に困らない。

捨てよう。いつかはゴミとなって廃棄されることは明白なのだから、せめて私の手で。

 


胡蝶蘭

2015-09-20 | 花 野菜つくり

オットット様が胡蝶蘭をもらって来た。

というより会社で世話する人がいない花の終わった胡蝶蘭を引き取ったのだ。

我が家で胡蝶蘭が毎年咲くのを知った人が世話を放棄して我が家に託したのだ。

ミズゴケはカサカサに乾燥して人間で言えば脱水症を患っている。このまま連休を会社で過ごしていたら・・・・・ダメになったと思う。現に2株は根も葉もどうしようもない状態なので私も捨てた。

葉にハリがなくなってクニャッとしているのが多い。元気なのは手前左の2株だけ。

上の鉢の3個は根もしっかりしていない。茎がクラクラと動く。どこまで回復できるか分からない。被っていたミズゴケを取り除き、涸れた根を切りとり、鉢の中もきれいに洗ってあげた。

我が家で様子を見て、元気になるのを見届けたら寒くなる前にニィニィの部屋に運ぶつもり。あそこは胡蝶蘭にはとても過ごしやすい環境みたいだから。

 


尊厳死

2015-09-19 | 独り言

8月に近くの互助会の催しのセミナーに出席してみた。

葬儀の執り行い方などのセミナーと思いきや、終活(エンディング)の在り方であって自分にも関係する内容で興味深かった。終末に備えるエンディングノートを残す必要があることなど改めて知った。

このときは遺産を誰に残すか自分の葬儀をどのように執り行うか、誰に出席してもらうか・・・・エンディングノートに残すようにとのこと。

9月になって招待状が届き別の会場でのセミナーがあるのを知った。

今回は『尊厳死』がテーマだった。

日本尊厳死協会の副理事であもあり、メディカルセンターの会長の

鈴木氏による講演で、今回も興味深い内容だった。

日本人の平均寿命は更に延びて男女ともに世界一になっているそうだが、これは健康寿命とは違っている。

現在、寿命が来ても死ねない.......医療が死なせてくれないのだ。それで尊厳死協会では尊厳死を法律化する活動をしているとか

❶ 不治の病で終末期となったら単なる延命措置はしない。

❷ 苦痛を和らげる治療を中心に行う。

この結果、口から食べられなくなった時が尊厳死を主張する時。

 

そう言えば、わんこのひかるが終末期になったと思われる時、大好きな肉も受けつけなくなって約1週間、私の腕の中で安らかに亡くなった。リンパ腫とい重篤な病だったが最期まで粗相もなくきれいに亡くなった。

最愛の娘も同様だった。医師達は当初、彼女の終末期には気管挿管や胃ろうなども手段として考えているようだった。

病が治るなら・・・・私もそうしたいと思ったが単なる延命は彼女の苦痛を伸ばすだけでもあり選択したくなかった。

20年前の事だから尊厳死のような終末期に対する情報が余りなかった。が、気管挿管や胃ろうで彼女の無垢な体を傷つけたくなかった。治療方針を医師に要求をすることは出来ないものと思っていたし、医師は最高の治療をするものだと思っていた。

ひたすらに神様に祈った。治らない病なら、彼女に苦痛を与える延命措置は避けたいと。私の祈りが神様に受け入れられて彼女も私の腕の中で安らかに息を引き取った。

あの時は、私の祈りが神様に届けられたのだと思ったが、今は医師が母親である私の気持ちを察して延命しない措置を選んだのだのかもしれないとも思うようにもなってきた。

彼女は本当に安らかな顔をしていた。死に対する恐怖がないのなら、誰も死ぬことを恐れる必要がないように思われたくらいだった。

 

今回のセミナーで日本尊厳死協会という組織があって過剰な加療を拒否できる権利もあることを知った。

この組織、毎年5~6千人の入会があるけれど人数が余り増えないそうだ。ということは新規加入者と同数くらいの死者があると言う意味らしい。

ハハ様もいつも不要な医療は受けないと言っていたけれど、文書などで残してはくれていないと思う。 

2回のセミナーに出席して、終末期に備えてエンディングノートを残す必要性をつくづく感じた。そして私も不治の病に侵された時、終末期を迎える前に尊厳死協会に入会するのも必要なのかしらと思った。

2回とも重いテーマでもあるが、文書で残してくれたら・・・・・人間は必ず死ぬのだから、残されるであろう家族にとっては心の迷いや選択の迷いがなくなるかもしれない。遺産相続も問題を残さないで済むのかもしれない。

今回も出席者にはそのノートが配布された。

 

 

 


女子会

2015-09-19 | その他

若い頃に一緒に働いていた友達と銀座で会った。

『大志満』加賀料理の懐石料理。

この頃、和の料理が好きになってきた。新幹線開通で人気沸騰している加賀料理は祖父の故郷の料理で楽しみに出かけた。

おしゃべりに夢中で肝心な名物『治部煮』の写真を忘れた。

石川県の古くから伝わる民間料理で野菜の煮物だ。若い頃、無関心だった料理だが、手間のかかりそうな料理だと思った。

ランチとはいえ、銀座の懐石料理に飲み物付きで3000円は超お安い!!、K子さんの計らいでネット予約をしてくれたおかげだった。通常だと4000円以上だから

        

私たちの世代、女子会の話題は、

健康の事、年金の事・・・やっぱり、こういう話題が中心。

いつも思うのだが皆、健康にとても気をつけている様子。そう言えばメタボな人はいない。

 

2次会は、すぐ近くの喫茶店。まぁ~たまにはいいかぁ~ってケーキも付けた。

銀座のど真ん中でコーヒーが山岳なみに750円と高いが、ケーキは420円とお安く感じてしまう。メニューの全てのケーキを写してみた。

私のケーキはあまずっばくさっぱりとしたケーキだった。

     

また、元気でお会いできるのを楽しみにしています。

 

 

 


燕山荘のお土産

2015-09-17 | その他

台風一過の11日(金)オットット様は仲間と燕岳(つばくろだけ)へ行った。

天気に恵まれて楽しい登山が出来たと珍しくおしゃべりなオットット様だった。

私のお土産に山で出会ったライチョウの絵の付いたTシャツ。

燕岳の山頂近くにある燕山荘という山小屋で見つけたそうだ。

 

『燕山荘』は山好きガールの一番人気の山小屋だそうだ。

私も一度行ってみたい。

山頂からの風景は360度の展望で素晴らしいものだったそう。

やっぱり、彼はオットット~~~カメラを持って行くのを忘れた。

本当に残念!!

 

山小屋の事、ライチョウの事、山からの景色の事など聞くとますます気持ちが高まる。

私の夢が又、一つ増えた。

是非、このTシャツを着て燕岳の山歩きがした~~~い!!

 

 

 


涸沢カール

2015-09-08 | 山歩き

『涸沢カールの景色を見てみたい。』

いつからか私の夢の一つになっていた。

 

出かけたのは8月28日 

上高地に到着した時は晴天で暑いくらいだったのに・・・・翌日から2日間も雨降り。晴れ女は何処へ? 

 

徳澤園に宿泊して早朝、涸れ沢カールに向けて出発した。

墨絵の世界が続いた。

 

 

初級Bの山歩きは、40分ごとに休憩をとり、ゆっくりと歩く。

それでも雨具を着ているので歩きにくい。背中のリュックも重い。

やっと涸沢ヒュッテに到着したという感じだった。夢の実現の時だった。

雨にも関わらずカールにはテントの花が咲いていた。残雪もあった。

 

憧れの涸沢カールから望む山々は墨絵の世界。

あの山に、挑戦できる日もあるだろうか。

 

 

 


登山後期

気象予報が晴れから雨に変わった。天気が悪いと涸沢カールでは寒いかもしれない。雨に濡れるだろうから着替えも十分に用意しなければ・・・・ザックの中身が増えて重くなってしまった。雨の中の登山は慣れないので苦労した。ツアーの歩き方は休憩も多くゆっくりだったけどかなり頑張った感じがした。

山小屋も慣れていないので不安だった。涸沢ヒュッテでは混雑する時期は一つの布団に2~3人寝ることもあると聞いていた。そんな状態で私は眠れないと思う。

天気が悪かったせいか、徳澤園でもヒュッテでもゆったりと出来た。宿泊所では乾燥室があって濡れた衣類をすぐに乾燥できた。衣類を沢山持って来たのはちょっと無駄になった。

雨具の一つスパッツの付け方も、今までの方法は間違っていることを添乗員のKさんから教えてもらった。ガイドをしてくれたTさんも雨の日のウエアーの着る時のコツなど教えてくれた。雨に慣れていない私たちにはとても良い経験だった。ツアーの仲間達とも親しみを感じ、新宿で別れる時は又、一緒に山歩きがしたいという気持ちになった。

それまでは眺めるだけだった山々の奥に歩いて行き涸沢カールに立てたのは嬉しかった。又、オットット様と行くことが『夢』になった。

 

 

 


リハビリ室で

2015-09-08 | 家族

療法士さんの打つ風船を打ち返そうと一生懸命。

ハハ様の顔つきも生き生きしているように感じる。

手が届かない時は、足まで使うことがあるから笑っちゃう。

ベッドの上のハハ様と違って、リハビリ室では生き生きしている。

 

動画

MVI 7608

 

 

 

左半身に麻痺があるので、支えなしでは大変だろうが、入院当時より長く座れるようになった。

麻痺している左手は何もしなくても痛いらしい。腫れて熱も持っている。

車椅子からベッドの乗り降りをしてもらう度に腕が痛むらしく悲鳴を上げるハハ様。

これがなければ・・・・・・家に連れて帰れるかもしれないけど・・・・やっぱり自身がない。

 


隠れ家

2015-09-08 | その他

久々に行った蕎麦処。

ちょっと目立たない場所にあるから隠れ家みたいな場所と思っている。

雨に打たれた庭は一段ときれいに見えた。

聞けば、法務大臣がやって来たそうだ。いろいろと準備も大変だったと想像する。庭師を入れたばかりだそうだ。

何だか今日のコーヒーは一段と美味しく頂いた。


迷う気持ち

2015-09-04 | 家族

脳梗塞で入院中のハハ様の様子を見に出来るだけ見舞いに行っている。

骨折で入院した時と違い認知症も進まないいみたい。顔つきもしっかりしている。日赤に入院していた頃は顔もすっかり認知症の顔になってしまった。ケアの仕方で老人の認知度も変わるのを実感した。

私の手を取って、

『あんたばかりに苦労を掛けている……。』どれだけわかっているかは疑問だけど涙声になって言う。

『家のどの部屋でもいいから私を置いてくれ。連れて行って……。』

 

ここの病院の担当医はハハ様の飲んでいた薬を全て中止した。

今まで、症状を告げるたびに増えて行く薬に疑問を持っていたけど、先生には言えずにいた。精神に作用する薬なども複数飲んでいたからその副作用がどのように出るのか心配だった。

 

全て中止して1週間から10日経たころ、血圧が上がり降圧剤が出た。その後、発熱があったりしたときは症状に合わせて投薬されて、治まると薬はなくなった。

 

入院して約1か月半、妹も感じているけれど・・・・・・

 

ハハ様の精神状態が安定しているような気がする。もちろん時に、泣いたりするけれど以前のように看護師や先生に暴言を吐いたり乱暴をしたりはない。

以前は4種類くらいの人格がかわるがわるに現れて、私たちも戸惑うことが多かった。オットット様と今日は、A子さんだ。アレッ!!B子さんも現れたと言って笑っていた。急にC子さんになって男口調でしゃべりだしたりするから驚いた。D子さんになったら大変。被害妄想や幻視なども出たりして気持ち悪いこともあった。

今は、2種類くらいかな。よくしゃべるB子さん、大人しいA子さんでいる時が多い。まぁ~ベッドの上にいるだけの病院生活だから精神状態だって悪くなるから、ふさぎ込んだD子さんも出てきて、

『毒薬を盛って欲しい・・・・。』なんて周囲に言うこともあるらしいけど、私の面会の時は落ち着いている。

 

そんなハハ様を自宅に戻そうか、それとも施設に頼もうか・・・・今、迷っている。骨折後と違って半身麻痺があるハハ様の介護は更に大変だと想像する。

オットット様はじめ家族は何も言わない。

私の母親だから介護の中心は私。私が決めなければならないのかもしれない。ハハ様の認知症が判らなかった頃、何かと忠告や批判の多かった妹も口をつぐむ。

どうしたら良いのか迷っています。